◆過去 [序]
◆以降は2014年に連載していた際の前書きです。
【壱】の続編となります。こちらは初めの数話が高校時代、残りは十年前に満たない程度の作品です。
葉隠の忍者 影狼達により滅亡を迎える最中、過去に身を浸す悠仁采。その回想(【壱】)を終えた後の彼に訪れたものとは──?
深奥 から鳴り響く風のような轟音と、巻き上がっては落ちていく砂塵と共に、魔妖城は今、紅蓮たる炎の中へ自ら身を沈めようとしていた。
霧の立ち込める薄緑に淀んだ沼の、表面に描かれていく水紋の幾筋。
時々炎を宿したまま水の中へ誘われていく土塊は、じゅっと音を立て、亜麻色の身体を水底に横たえている。
痩せ細った枯れ木を濁った空へと突き刺したその沼には、もはや映し出すものは何もなかった。地響きの終焉と共に訪れる静寂──無──。
砕け散った城の破片を浮かべた緩やかなせせらぎだけが、小川へと通じる出口へ向かって一心に流れてゆく。
西の空を赤黒き血で染め始めた陽は、あたかも城の緋たる火を吸い込んでしまったかのように思われた。
悠仁采は──死を、夢見ていた……。
彼は、死にたがっていた。
刀傷と凄まじい火傷を負い、遥かに続く沼の中を独り漂う悠仁采は、もはや死神に魅了され、大河に身を委ねた一艘の笹舟の如く、あてもない流れの中を彷徨う。
気は疾うに失っていたが、何処か意識の奥で懐かしい想いを感じてはいた。
──何十年という歳月であっただろう……。
信長の首も、天下統一の栄誉も……そんなものは欲しいなどと、一度たりとも思わなかった。ただそうしていれば忘れていることが出来た。──『月葉』を。
『月葉』という安らぎを。
自ら戦火の中に身を投じることで、死による安らぎを求めずにいられることが、彼の最良の人生であったことは云うまでもない。彼自身は仄かに死を畏れていたのだ。
しかし、今は違っていた。時は既に満ち足りていた。というより、彼は少々長く生き過ぎた気がある。
──月……葉……──。
潜在意識さえも短い眠りにつき、視界が漆黒の闇へと移りゆく瞬間。彼が口にした言葉は、彼自身に知らず安らぎを与えていた。
上へ……下へ……。時代が上下するように、身も心も浮き沈みしながら。花を咲かせたように水を紅く染めていく悠仁采は、人一人どうにか通れるほどの小さな川を降りる。沼の薄汚れた水とは違い、多少流れを含んだ透明な水泡は、やがて彼を森の奥へと導いていった。
緩やかな丘陵地に根を下ろしたその森は、小川を中心に縦横に木が生い茂り、遠くを映す景色も、太陽の光さえも見せてはくれない。上空では烏が酉の刻を知らせ、東の紺青の空へと飛んでいったが、地上の木々の間に獣の姿は存在しなかった。
ほどなく日没がやって来る。
森のあらゆる物が影を作るが、それは闇といっても暗黒ではない。時間や場所に変化はあっても、人の心は変わらぬように、悠仁采の心が悪に侵されながらも、月葉への想いは変わらぬように……。
──悠仁采様……。
小さな琴の音と共に、あの懐かしい優しい声が蘇ってきた。
──ゆうじんさいさま……。
これは水の冷ややかさが織り出す幻覚なのかも知れない。川は火傷の肌を時には優しく、時には激しく刺しつつきながら、悠仁采の思考や五感を麻痺させ、そのまま彼を死の淵へと追いやっていた。
──ゆう……じん……さい……さま……。
(ああ……もう一度、あの声を──)
全ては夢。幻。月葉の形をした死の誘惑。
しかし今まさに彼は、その誘惑の虜となろうとしていた。いや、なりたがっていると言っても過言ではない。
「兄様、あれを……」
(月葉の声……?)
その時、悠仁采が遠い意識の何処かで聞いたのは、月葉その人の物であった。
何気なく、ほっとしたように淡い息を吐き、彼は眠りにつく。
死は再び、遠ざかっていたことも知らずに──。
悪に走る者、故なくしてならず、
悠仁采、これの類なり──。