[五]
「行け──! ひるむな──!」
再び悠仁采である。
織田軍は案の定罠に嵌まり、身動きが取れず混乱の渦に陥った。この時、実のところ敵に戦意はなく、例え軍隊を率いてはいても、それは飽くまでも相手に威圧を与えるためで、本来の目的は話し合いだったのだ。
が、もし折衝などしても解決には至らないであろう。その点、悠仁采の作戦はかなり上手く進行していると云える──しかし、
「くそっ、兵の数が多過ぎる。何とかならないのかっ」
と、彼は小さく呟いて舌打ちした。
どんなに混乱を招いても百数十の兵である。何処かに必ず平静を保つ部分が出来て、こちらに攻撃を仕掛けてくる。兵数三分の一である八雲軍には厳しい戦いである。
常に冷静な悠仁采でも、さすがにこの頃の焦燥の加減は、尋常というものを越えようとしていた。なにぶん此処から堺まではひたすら遠い。月葉を逃がすには時間が必要なのだ。とはいえ味方の兵に焦りを移す訳にもいかず、その胸の内は決して表に出してはならない。それ故、心を隠した浅黒い肌は具に血の気が引いたものとなった。
もう既に月は東の空を我が物顔で昇り始めている。
それでもこの時月の欠けは彼らに味方をするかのように三日月で、闇がたち込め、八雲軍にとっては絶好の戦闘日和であった。
そして何より館を取り囲むように咲く白い月見草の群集が、武器を扱うための適した明かりとなり得ていた。
「悠仁采様……あ、れは、一体……?」
しばらく隣で戦況を窺っていた側近が、遠くを望んでふと呟く。呆然と口を開けた男の視線の行く先を、悠仁采も訝しく辿ったが──
彼はその情景を──己の目を、疑ったことだろう。
何となれば。
この戦塵の中、飛び交う矢さえ気にせず、振り上げられる刀剣にも気付かず、こちらへ向かってくる娘がいたからである。
「つっ……月葉!」
彼は叫び立ち上がった。遠くとも判る。彼の心に月葉の念が伝わるかのように、以前響いてきた感情が今、悠仁采の胸に飛び込んできた。
“悠仁采様を私の犠牲になどしたくはないのです!”と。
「悠仁采様! お待ちを……!」
家臣の制止の叫びも耳に入らぬまま、悠仁采は月葉の元へと駆け出していた。
「……!」
月葉は声にならない唇で何かを必死に叫んでいる。表情は今までで最も美しい笑みを湛えていた。悠仁采が生きていたこと──それが彼女の感情を先走らせていた。
既に両軍合わせておよそ二百。月見草のこの地を戦場として、戦乱の真っ只中にあった。
この時未だ火縄銃、もしくは種子島と呼ばれる鉄砲は伝来していないため、流れ弾なる物は飛んでこないが、それでも手元から離れた槍や、織田軍の弓隊による矢などが宙を舞っている。
その中を突き進む二人は、そんなことにはまるで気付かぬように走り続けていた。
目頭が熱い。涙で曇った瞳で月葉の元を目指す悠仁采の心には、喜びと哀しみが入り混じり──否、そんなことよりどうして戻ってきてしまったのか──それを問い質さねばと先を急いていた。
月葉まであと少し……もう少し……しかして真正面に映る彼女の背後に、漆黒の闇から現れた一筋の光線が迫る。それは周りに倒れ朽ちた兵士達の断末魔や、叫びを吸い尽くす死神の如く、あたかも月葉を呑み込もうとしていた。
「月葉っ!」
全ては一瞬でありながら、また同時にとてつもなく長い刻であった。
閃光──現実には、誰が射ったかも分からない、何処からか流れきた矢である。標的は確実に月葉の頭蓋であった。
「月っ──!」
今一度叫ぶ。いや、叫びさえ途中で止めなければならないほどに流れ矢は刻々と彼女に近付き、悠仁采はやっとのことで辿り着いた腕を彼女の頭部に伸ばした。間一髪、月葉の頭上すれすれを通り過ぎた矢は、しかし左へ反れようと身をよじった悠仁采を次の照準に迎える。
走馬灯のように速く、全ての動きが彼には見て取れた。己の顔面を襲う矢の先までも、矢の速度までも、そして矢の力までもが。
「……うぐっ」
彼は呻く。
月葉に伝わったものと云えば、彼の優しさや温かみや愛ではなく、鎧の冷たい感触であった。が、鎧は何も教えてはくれない。代わりに彼女の頬へ彼の状態を示したのは、ほとばしる真っ赤な血液であった。
流れ矢は寸分の狂いもなく、彼の右眼を貫いていた。
「くっ……」
悠仁采は満身の力を込めて矢を引き抜いた。一瞬左眼の視界が紅に染まる。虚空を眺めると明らかに視野が狭まっている。どうやらこの矢は月葉を、もしくは悠仁采に狙いを定めて射られた訳ではなく、遠方から流れてきた故、頭蓋骨に至るまでには達せず右眼だけを突いたのだ。右半身が焼けるように熱い。
「……あ……」
まるで彼は、幻想にでも囚われているような錯覚に陥った。
実際には満足感が彼の全身を覆っている。初めて彼女を守れたという、一種優越感にも似た満足感である。
しかしその時再び、彼を現世へと誘う者がいた──月葉。
目の前で狼狽する彼女に、彼は痛みの戻ったその面で微笑し、「大丈夫だ。大した傷ではない。お前は大事ないか?」と問うた。
悠仁采の気持ちが穏やかな分、月葉は焦っていた。自分の所為で右眼を失ってしまったのだから致し方あるまい。
月葉は今にも泣きそうな表情のまま、詫びるつもりで悠仁采の眼から吹き出る血液を拭ってやった。
その刹那──。
「……ゆ……じ……んさ……さま……」
──悠仁采様。
突如、彼の熱意が伝わったかのように、心の中で何度となく繰り返したその言葉が、月葉の唇から途切れ途切れ現れたのだ。
「……つ……月葉……お前、喋れるのか……?」
彼は半信半疑のまま尋う。彼等は戦場のど真ん中、矢の飛び交う宙を頭上にし、しゃがみ込んで次の句を失っていた。それほどまでに大きな出来事であった。
が、幸福な時は留まることを知らず、試練を与えるのが世の常というのだろうか。
「戦い、やめなされいっ!」
彼等が絶句している間に戦闘を中断させたのは、大きく低い良く通る声であった。それは明らかに八雲側の兵士ではなかった。
戦士両軍皆、刀を交えたままその声の主に眼を向け、時が静止したかの如く沈黙を保つ。
声の先からがたいの良い髭面の、しかし温和な表情をした一軍師が姿を現した。この日の織田軍はこの男に任されているのだろう。
「八雲殿……でござりまするな。隣におられるのは月姫様とお見受け致しまする。この戦い決着は見えてござる。月姫様さえお戻しいただければ、これ以上はもはや何も……」
と、月見草の上に腰を降ろしたままの悠仁采を馬上から見下ろした。言葉は丁寧でも、飽くまでも態度は『上』を占めている。
これほどの反目の騒動に眼をつぶるというのであるから、相当のつわものと見るべきであろう。いや、もしくはこの武士も想うところがあったのかも知れない。同情にも似た……しかしそれも大怪我を負ったこの青年が、遠からずその傷で命を落とすことになると予期するなら、この場はせめてこのまま治めて……そう考えたとも限らないが。
「……ゆうじ……んさ……いさま」
彼女が起き上がるのにつられて、悠仁采も生気を抜き取られたかのように立ち上がった。
いつの間にか手中には月見草一輪握らされている。月葉が摘んだものであった。彼は表情を蒼白にすると、
「月葉、まさか……」
と、震えながら句を継いだ。
「ゆうじんさいさま」
彼女は薄く笑む。そしてにっこりと。背を向け、駆け出す。向かう方向は、もちろん織田軍である。
「月葉っ! ……駄目だっっ、何故、何故行くのだっ! そっちへ行ったら連れていかれるっ。……月葉!!」
悠仁采は狂ったように眼を大きく見開き、叫んだ。家臣に押さえられ、身動きが取れなくなる。
──悠仁采様、あなた様さえ生きていてくださったら、私はそれで良いのです。たとえ命と引き換えになったとしても……全てを無くす愛ならあなたしかなかったのだから──。
月葉を乗せた馬は、織田軍の疲れきった兵共と徐々に遠ざかっていった。闇に取り残されたのは、八雲軍と無数の死体である。
──伝わりますか。今もたどれるものなら、もう一度あなた様のお傍に居たい。
月葉は気取られぬよう、密かに泣いた。
そしてもう一つ、この連なる山々に轟いたのは、悠仁采の無情な叫びである。
「織田よ、見ておるが良い。わしはいつかお前ら全てを破り、天の上に立ってやるわ。わしから『命』を奪った恨み、しかと知るが良い!」
あたかも虎の雄々しき咆哮であった──。
そして二月後。
彼の耳には不治の病で彼女がこの世から去ったこと、死ぬまで悠仁采の名以外言葉にすることがなかったと伝えられた。
翌日、彼は数人の家臣と姿をくらましている。
──月葉よ。今度こそ、天上でわしと結ばれようぞ。
そして、その後。
天下統一することもなく、魔妖城崩壊ののち、彼自身も滅んだのである──。
【継】
◆以降は2014年に連載していた際の後書きです。
最後までお目通しを有難うございました。
こちら【壱】の続編【弐】の連載は、再び二ヶ月ほど先を予定しております。
少し間が空きますが、そちらをご覧いただきますと、【壱】を発端としました『繋がり』など諸々がすっきりすることと思いますので、その節はまた是非お越しくださいませ*