[四]
外は既に夜の帳が降り始めている。
織田軍が彼の屋敷を取り囲むのに要した時間は、あれから半刻。その間に悠仁采は緊急軍議を開き、以前より立てていた作戦を遂行することとなった。
あの時、橘 左近のままでいたならば、どれほどの戦略家になれたものか。
織田軍などは目でもないだろう。それほどの力だ。
悠仁采が真の力を出せば、織田にも勝てるやも知れない。が、今居る兵の数は数十。月葉が堺に辿り着くまで持つかどうかの戦力である。
八雲軍の戦術は幾らもなかった。
元々が館ゆえ、城のように高い塀もなく、弓隊を配置するのは危うい。又、山中で急な傾斜が多いことから、馬上の戦いも避けなければいけない。
しかし逆を申せば、山道であることを利用して、落とし穴など罠といえる罠は全てに仕掛けてある。が、それも大した妨害にはなるまい。
「悠仁采様っ! 織田軍、まもなく到着とのことです!」
月葉を堺に向かわせる従者とは替わって、以前の諜者が軍議の間に飛び込んできた。月葉は既に館を出ている。隠れている彼女を見つけ出すのにかなり手間取ったが、籠に入れてしまえばこちらのものであった。戦が始まる頃には半里ほど離れているだろう。
「皆は自らの位置に就け。馬が罠にはまって混乱している間に総攻撃をかける!」
果たして家臣一同大きく頷き、部屋を出ていった。
──月葉が堺に着くまで長引かせねばならない──。
ぽつりと独り大部屋の汚点のように残された悠仁采は、腰を降ろしたまま宙を見上げた。この部屋、この館。今まで月葉が居たことが嘘のようでならない。
それほど微笑うおなごではなかったが、それでも時折見せる笑顔は可愛いものだった。
愛しているという訳ではなかった。簡潔に言えば愛であっても、愛しているという言葉では割り切れない何かがあった。彼女は彼の半分であった。
「月葉……」
何気なく、口癖のように呟く。何度となく口にした言葉なのに、その間と言ったら数日でしかない。
彼女を守りたかった。守らなければならなかった。彼女は彼の半分なのだから。
戦は負けるであろう。しかし八雲軍全員戦死するなり、自害なりすれば誰も月葉のことは知らない。知られずに済む。
月葉が残していった書状は、織田信秀に宛てられた嘆願であった。
彼女も水沢との戦、織田家が勝つと悟っていたのだろう。自分は悠仁采に助けられたが名を偽り、この館で女中として働いて身を隠していたと、自分を知らぬこの館には何の非もないのだと、八雲にお咎めが及ばぬよう、粛々と弁明が述べられていた。
が、せめて父親が和睦に落ち着くまでは──過去の悲劇をひとときでも忘れ、悠仁采との時を大事に過ごしたかったのかも知れない。
「悠仁采様、そろそろお支度を替えませぬと……」
未来の瞳炎の父である小姓がおずおずと言った。悠仁采はだるそうに腰を上げ、無言で部屋を退く。
脳裏に浮かぶのは最後に映った月葉の表情。彼女は声でない声で彼の心に叫んでいた。“悠仁采様を私の犠牲になどしたくはないのです!”と。
そしてもう一つ映る情景。
それをただ見つめることしか出来なかった彼。
見つめることしか、出来なかった彼……──。
その頃、月葉はと言うと、気を失ったまま籠の中で揺らされていた。
館を出てからも暴れ、仕方なく失神させられて今に至る。
──小さな琴の音がする……。
と、彼女は意識の奥でそう思った。
──母上様の曲だわ。
遠い遠い想い出。幼き頃ゆりかごの中で聞いた音楽だ。揺られている所為だろう。忘れている筈の記憶が蘇った。
そして、記憶は近くへと戻る。
次に聞こえてきたのは馬の足音だった。
──何て赤い──。
視界は赤というより紅。まるで血液のような真紅と夕日のようなぼやけた朱。
助けられ馬の背に乗り、館へ運ばれた時のことである。
──誰?
背後から現れた黒い影に温かさを感じる。大きな優しい力だった。けれど……何故だろう。どうしても彼に触れることが出来ない。
──誰? どなたなのですか? 私を助けてくれたお方……?
馬の足音が徐々に大きくなって、逆に彼の影は薄らいでいった。彼は笑む。が、それも一瞬のこと。
──私を何処に連れていこうというのですか? 嫌です、私はあなた様のお傍に居たい。一日でも、一刻でも、あなた様のお傍に……!
──悠仁采様──!!
彼女は凄まじいほどの汗を流して目を覚ました。
籠はひたすら走り続けている。このまま行けば、引き返すことも出来なくなるだろう。戦いが始まる前に戻らなければならない。
しかしその時彼女の鋭い耳に聞こえたのは、開始を告げる法螺貝の遠き笛の音であった。
戦が始まった!
月葉は心を決め籠から飛び降りた。見つけられないよう山道を走っていたため急な坂道で、幾らか転がり泥まみれになる。足は従者に草履を預かられ素足であった。
それでも。
悠仁采を助けられるのなら、大した苦労にはならない。
「つ……月葉様!」
突然のことで動転した従者達は坂道に足を取られ、尻餅をついた状態でようやく叫んだ。その間に月葉はもう遠くを走っている。
彼を助けなければならなかった。もう二度と人に振り回される人生を歩ませてはいけなかった。彼は彼女の半分なのだから。
──どうか生きていてください。
織田に追いかけられた時と同様に従者に追いかけられながら、彼女は必死に走る。
ひたすら、ひたすら、死を待つ悠仁采の元へ──。