[一]
◆以降は2014年に連載していた際の前書きです。
こちらの物語は【序】の数年後、影狼が報妙宗の拠点『魔妖城』を壊滅に及ぼし、その劫火の中で滅びようとする八雲 悠仁采の若かりし頃のお話です。
現在では差別用語とされる言葉も(今回の掲載に当たり、1ヶ所のみに減らしました(2023年6月11日))登場致しますが、時代が遠い昔という事で、恐縮ながらそのまま使わせていただきます。(こちらも【序】と同様、高校時代の作品ですので、少々大目に見てください(汗))
あれはいつのことであっただろうか──。
炎に包まれ、崩れ落ちる魔妖城の中、彼は一人夢を見始めた。
これから延々と続く死という夢を追い、明らかに訪れる袋小路を目前にして。
それでも。
彼は今、微笑うことが出来るのだ。
ひとときの夢を……幸せな時を思い出しながら──。
悪に走る者、故なくしてならず、
悠仁采、これの類なり──。
◆ ◆ ◆
「目を……覚ましたか」
蝉の声が夏を急がせていた。
木洩れ陽が池の水面にうっすらと映り、その反射光は室にまで続いている。が、御簾のお陰か、それは淡い空気となって届くだけで暑さを示してはいない。
「近くで倒れていたのだ……心配することはない。頭が痛むだろうが、そのうち治るはずだ」
彼は一息にそう言って笑み、額を冷やすための水を庭先へと放った。
御簾越しから見ただけでも、かなりの庭園と窺える。水塊は陽の光に透けまばゆく輝き、庭石と砂の上に落ち、シュッと音を立てて気と化した。山の夏は短いが、それだけ強いということなのだろう。
「かなり酷い目に遭ったようだな。何処から来たのだ? 名は何と云う?」
桶を片手に、彼は床に伏せていたその者の方を向き、好奇心の目を落とした。細身ではあるが割合しっかりとした様子で、仁王立ちになると広い影がその者を覆った。
「……」
床から半身を起こしても声は発しない。
「何も話さぬのだな。口がきけぬとでもいうのか」
しばし待ってみても返事をする気配がないのに気付いて、彼は少し不機嫌になった。蝉は何処かへ消えたらしく物音一つなく、ひっそりとした山に戻る。その者は緩やかに彼と視線を合わせ、哀しみを含んだ瞳のまま首を縦に振り、俯いて唇を噛みしめた。蒼白な肌が情を映し始めていた。
「……お、し……」
そのまま彼は絶句した。
再び蝉の声がうるさく耳を責める。
「……すまんっ」
無造作に床の側に腰を下ろす。それが彼の流儀なのだろう。垂れてしまった首からは“すまない”という気持ちがありありと表れていて、その者にもそれは十分に伝わっていった。
しばらくそうしたまま時が経って、のそのそと顔を上げてみるや、その者は薄く笑み、かぶりを振った。
「わっ、わしの名は悠仁采っ! 八雲 悠仁采だっ!」
その者に魅せられたように、慌てて名を明かす。悠仁采二十三歳。未だ悪には侵されていない。
ゆうじんさい様……ゆうじんさい様……。
声にならない唇で何度も繰り返す。
悠仁采様……悠仁采様……。
「文は書けるのか? 書けるのなら筆を持たせたいと思うのだが」
はにかんだように小首を傾げ、彼は優しく尋ねた。山は厳かに構え、次第に陽は和らいでくる。もうすぐ日暮れである。空には烏が鳴き、それと共に小さく頷いたその者によって沈黙が薄れた。悠仁采は二度ほど手を鳴らし側近を呼ぶ。
障子の向こうからいそいそとやって来たのは、年十二、三の小姓であった。
短めの髪を頭上で結い、いやに白い肌を持った一見少女のような顔立ちの童である。
後の魔妖五人衆の一人、瞳炎の父であることは、もちろん彼自身知らざることではあるが、その面持ちといい、その少年は瞳炎を思い出させるところがある。
「文の用意をしてくれ。出来るだけ急ぐように」
悠仁采はそれだけを言い、小姓は下がっていった。その者はただ外の方を見詰め、静かに身じろぎもせずにいる。
「哀れな……」
と、聞き取れるかどうかほどの小さな声で彼は呟いた。
──哀れだ。
そして、心の中で呟いてみる。
悠仁采は思い出していた。時は昨日の酉の刻の頃。狩りから戻ろうとした夕闇の中での出来事だった。
その者を見つけたのは、小さく落ち窪んだような谷の下である。泥だらけになって気絶していたのは多分、その崖から落ちた所為だったのだろう。衣は上質の絹であった。所々に刀傷があり、泥と血液で薄汚れてはいたが、その手触りといい、かなりの物であるのは容易に判断出来ることであった。
それから彼はその者を抱き上げ馬に乗り、自分の屋敷へと帰った。
女房(女中の事)に傷の手当てと身体を湯で拭わせた後、悠仁采は何度か様子を見に参ったが、ただ静かに息をするだけで、意識を取り戻すのは翌日の午後であった。
おそらくは、と彼は推し量ってみる。
いや、推測ではないのだ。多くは断定とも云える。それ故に悠仁采は哀れと思った。
「悠仁采様、硯をお持ち致しましたが……」
障子の後ろで小姓の困ったような声がして、彼は我に返った。
どうやら記憶を解している間に、幾度となく声を掛けられたらしい。が、返事がなく不安になったのだろう。
「ん……あ、ああ、すまん。では用意をしてくれ」
それからしばらくして文を書く支度が整った。
「さぁ、好きなことを書くが良い。が、言い憚ること、記すことならぬ」
悠仁采は真剣な表情でそう言った。
内心その者がこうなった理由を聞きたくもあったが、自ら断定まで出来ることを今更耳に入れても哀れと感じるだけだと思ったのだ。
「……」
即時には筆も取らず、憂いを装って悠仁采だけを見詰めていた。
「どうした? 書かぬのか」
沈黙に耐えきれなくなったように、もしくは視線に照れるかのように、その者から目を逸らす。静寂は嫌いな方ではなかった。しかし二人以上の黙室は耐え難いものがある。
その者は気付かれぬように小さく溜息を零して、筆に手を伸ばした。
しばし考えでもするように宙を仰ぎ、それからゆっくりと墨を含んだ。刹那に染まる黒。暗黒の闇。まるで彼らの未来を呪うかのように……それとも?
「……月葉……と申すのか?」
女性らしい繊細な形を持ったその二文字は、十分と言って良いほど整っていた。
悠仁采はそれをすぐさま、その者の名だと悟った。が、それと共に顔色を変えた。
何となれば、その名は偽りであったからだ。彼女がこういう状況に陥った原因を正確に把握するには、月葉という名は余りに不向きである。
「他にはあらぬのか?」
と、悠仁采は偽名のことは責めずに、月葉が言いたいことだけを促した。
ほどなく月葉の表情が強ばり、生唾でも呑み込むように細い首が波打って、次第に高揚感が彼女を襲う。
果たして顔が蒼白に変わり、悠仁采は察した。
「言い憚ること、記すことならぬ」
先刻の約束事を繰り返す。
月葉ははっとして彼の面持ちを見詰めたが、ゆっくりと向き直り、白い表面に黒い滲みを作った。
「言い憚ること、記すことならぬっ!」
とっさに彼は月葉の右手を握った。やや色黒な大きい強い手である。温かな優しい激しい手──月葉の心の凝りが少しずつほどけていくように、彼女の表情も少しずつ崩れていった。
「分かっておるのだ……書かずとも良いのだ……」
そんな言葉を悠仁采は数回繰り返した。
彼女の頬を優しく撫でてやる。熱を保ち、凍ってしまった涙を溶かしてくれるそんな手。
「もう……良いのだ」
──悠仁采様……。
胸の中で包んでもらう。温かな手を持った人の胸はどれほど温かであろうか。
──悠仁采様……。
月葉は涙が涸れるまで泣いた。
声のない、けれど激しい苦しいまでの嗚咽で──。