密事 [二]
「おじじ様──おじじ様! 秋が参りましたっ」
涼やかなその朝も、秋の元気な呼び声と共に始まり、勢い良く開かれた戸口から漂う森の新鮮な空気が辺りを満たしていた。
あれから五日目──。
弟切のお陰か寝たきりではなくなったが、依然右京の小屋とその周辺で一日を過ごす悠仁采は、囲炉裏の端で右京の草鞋を直していた。
「おはようございます、秋殿。今朝はお独りか?」
悠仁采の器用な手先を、好奇心の瞳で覗き込んだ秋に、丁寧な挨拶をしながらも手は黙々と動いている。
「兄様はお城で何やらお話があるのだそうです。ですから独りで来てしまいました。右京様も、もうお出掛けになったのですね……」
と、少々詰まらなそうな表情をしてみる。女御一人では危険な森──と、一つ説教をしたいところではあったが、わざわざそうまでして来てくれた秋を想えば、その言葉を喉元へ押しやらずにはおられなかった。
伊織と秋の両親は既に他界している。水沢家の嫡男は伊織ではあるが、以前は未だ若過ぎると周りが危惧し、二人の母の弟がお目付け役として実質実権を握っていた。が、伊織も既に成人し、自由は利かなくなっている筈だ。いや、二人の年齢からして、今でもこうして山で遊べるのは、相当周囲を欺いているに違いない。
「おじじ様、まもなく煎薬が切れます故、また弟切を摘んで参ります。余り根を詰めず、お休みになっていてくだされませ」
戸口に積まれた籠を覗き込んだ秋は、そう一言声を掛け、返事を待たずに飛び出していってしまった。
ふう、と一息、秋の淹れてくれたお茶を呑んで溜息をつく。元気の良さは誰にも負けぬな、と苦笑し、囲炉裏の炎を見た。だがその元気もいつまで続くのであろう? 悠仁采は伊織の、あの何かに耐える表情を思い出し、微かな胸騒ぎに身を震わせた。
◆ ◆ ◆
秋は少々風の吹く森の中、小川に沿って緩やかに続く均された小道を、下流へと向けて歩いていた。
時々小鳥の声がするくらいで辺りは静かだ。草を踏む足取りも軽やかで、弟切の黄色い花弁を見つけては摘んでいくが、此の日は余り見つからず、いつの間にか城の近くまで山を戻ってしまっていた。
「兄っ……様……?」
森の途切れた先に小さく伊織の背中を見つけ、駆け寄ろうとした足を急いで止める。本能的に太い幹の陰へと身を隠し息を潜めた。伊織の顔を向ける先に、信長の縁者 織田 信近を見た故であった。
──何故に兄様と信近様が……?
伊織は信近に深々と頭を下げるや、館へ向けて歩き出してしまった。引き止めたい気持ちから、危うく身を乗り出すところであったが、信近の陰湿な視線を感じた気がして、慌てて身をすくめる。背を向けた幹の向こうから馬の嘶きが聞こえ、それは徐々に近付いてきた気がした。秋は木々や草の茂みに紛れるよう身を小さくして、小屋へ向け走り出した。
──兄様……一体何を……?
秋は織田家の中で最も信近を嫌っていた。本来なら水沢から出向くべきご機嫌伺いにと、二人の館へ参っては、彼女の全身を舐めるように見回すその瞳は淫靡そのものだった。
そんな信近を秋同様避けてきた筈の伊織が何故?
──とにかく、兄様に確かめなくては……。
馬と人の気配が消え、とぼとぼと小道を戻る秋の胸は、息苦しさを感じるほど穏やかさを失っていた。
──兄様は館に戻られた後、こちらへいらっしゃる筈。まずはそれまでにこの動揺を治めないと……おじじ様に要らぬ心配を掛けないように……。
「秋姫」
けれどそれは激しさを増すばかりであった。秋は胸元に抱いた弟切をぎゅっと握って歩みを止めた。目の前の木立から現れたのは、信近その人であったからだ。
「信近様……」
弟切を握る掌が、心の臓の鼓動を感じて震えた。どちらも速さを増していく。
「このような森の奥深く……姫様独りでは無用心というもの……女房どもはどうなされた」
信近はそう言って秋の元へと寄ったが、同じだけ秋も数歩下がる。遠くで馬の土を蹴る音が聞こえた。秋に気取られぬため、馬を置いて回り道をしたのか。
「……姫、何を怖れているのです。この信近、姫が為ならば、何処でもお役に立ちますぞ」
信近の態度はいつになく強引であった。が、秋も譲らない。
「いえ……此処は幼少より親しき山。時には一人で花も摘みましょう。ご心配には及びませぬ」
と会釈をし、踵を返して立ち去ろうとした。なにぶん既に小屋が近い。織田に二人の存在を知られては困るのだ。しかし背を向けた秋の細い腕を掴み、自分へと引き寄せた信近の口からは、信じ難い言葉が飛び出した。
「では……本日からは私がお供を致しましょう。三日後には、晴れて夫婦となるのですから」
近くでちらちらと光る信近の舌は、獲物を捕らえた獣の牙であった。秋が振り払おうにも緩まない腕。摘んだ弟切がはらはらと散って、信近は気付かず落ちた枝を踏んでいた。
「何を……おっしゃっているのです……?」
「かねてより敏信殿に申し入れていたのです。それがやっと本日お許しを頂けた次第。お館様も喜んでおられます故」
「信長様が……?」
信近は抗う秋を抱いた。首筋に触れる信近の熱い肌が恐怖心を煽り、秋から抵抗する力を吸い取っていく。愕然とした事実と兄への猜疑心が、身体の中心から先端へと向けて麻痺を及ぼしたが、しかし己の身の上を思えば、致し方ないこととは理解出来ていた。しかし、今は──未だ、今は──。
「信近様っ、おやめくださいっ……兄に聞かねば、納得がいきませぬ」
「そのようなこと……私が嘘をつくとでも?」
「それに……三日後ならば、未だ私は、貴方様のものではござりませぬっ」
しかし乱れた衣から、露わにされた腿に信近の手が触れた時、男の本性は剥き出しとなった。
「よもや……そなたの肌に触れた今……何も云うまい」
押し倒された秋の身体に圧し掛かる黒い影は、秋の未来とも云うべく暗黒の闇であった。
執拗に弄る男の手が腰元へと向け、上へ上へと昇り始めた時、秋はいたたまれず叫び声をあげ、動きの取れぬ身体を懸命に揺さぶった。が、信近は秋の髪を乱暴に引き、彼女の力を遮ると、鎖骨の辺りに顔を埋めて勝者の雄叫びをあげた。男の息が彼女の汗を凍らせた。
「大声をあげても、誰も来はせぬ……三日後も今も想いは同じ。この時を長く待ちましたぞ……いや、この時はこれから永遠に続く……の……で……」
秋はもはや観念したように、大地に身体を任せて瞳を閉じ泣いていた。が、信近の傲慢な台詞は後半苦しみを示しながら掻き消え、と同時に力の抜けたその身が秋を圧迫した。余りの重さに視界を開けば、涙で曇ったその先に白い人影が映り、その者は無造作に人塊と化した信近を、秋の上から退かしてやった。
「間に合ったか……」
「おじじ様!」
それが悠仁采その人だと判るや、秋は跳ね起き、彼の胸元へ抱きついた。秋の叫びに急ぎ駆けつけたのであろう、悠仁采の息は荒い。寝着とされていた白い衣は、良く見れば何かで斑に汚れている。はっとして振り向いた秋は、足元に倒れた信近の背中に、右京が使っている草刈の鎌を見た。それは半身が埋め込まれるほど、深く信近の身体を貫いていた──。




