21-4 戸伏 直展
來見が園内スタッフを伴い戻ってきた頃には、既にユールの処置は済んでいたようだった。濡れた地面には吐き出されたカプセルのようなものが見え、直展はユールの口を水で濯がせている。その一方で、ゆるるは來見とスタッフの姿を見ると漸く気が抜けたのか、安堵したように呆けた顔を此方に向けていたのであった。
駆け付けたスタッフが直展から説明を受けながら本部と通信しているのを横目に、來見は子供達に近付いていく。片膝をついて、その表情を窺いながら來見は口を開いていた。
「……2人とも、大丈夫か。何か違和感があったりしないか?」
「ちょっと喉が痛いけど、大丈夫です。あ、飲み物ありがとうございました!それに、お洋服まで……」
「いいよ、そのくらい。気にしないで」
綺麗に畳まれた制服をユールから受け取った來見は、少女の顔をじっと見つめてしまう。ユールはやや疲れたような表情をしていたが笑顔を浮かべる余裕は持っていたようだった。大変な思いをした直後だというのにアレコレと気をまわし始める姿に來見は少しだけ切ない感情を抱いてしまう。
折り目正しいその振る舞いは、恐らく実年齢に則したものではない。周囲を心配させまいとする気丈さは子供らしさとは縁遠く、既に他者の手を借りずに生きる手段を身に付けているような姿にも見える。來見はこういった人にも頼られる人間にならなければいけないなと、心の片隅で思ってしまうのであった。
「ゆるる、お前も……よく頑張ったな。もう大丈夫だ、きっと」
「……あ。う、うん」
來見はどこかぼんやりとしているゆるるの背を叩いて、何とか正気に戻そうとする。今のゆるるは、ユールが持ち直すまで必死に気を張っていた緊張の糸が切れてしまった状態と言えたのだろう。無理もない脱力加減に來見はつい苦笑してしまうのであった。
「あの、できればお客様には着いてきていただきたいのですけど……」
「すみません。俺は他にやることがあるので。それに、あの子達なら自分で説明できるでしょう」
「いえ、そういう訳にも……」
ふと來見の耳に直展とスタッフのやり取りが届く。険悪な雰囲気とは程遠いが、明らかにスタッフは困惑していた。話の内容を聞く限り、直展はユールを救護室に運ぶ際の付き添いを頼まれていたのだろう。しかし断固とした様子で彼は首を縦に振る事はなく、スタッフにすげない対応を取っていたのであった。
「ああ!それなら、そちらのお客様はどうですか?ご一緒に、来ていただけませんか?」
「え?えっと……」
スタッフは來見を見つめて、新たな提案を述べていた。はっきりと目が合っている為に來見は無視も、惚ける事も不可能だっただろう。そしてそれは直展がこの場から――來見の視界から外れるのを良しとするのかどうかという問いでもあった。
とは言え、その答えは考えるまでもない。共に事態を見守っていた來見がすべきなのは、きっと子供達に寄り添う事だった。
來見はスタッフに返事をする為に口を開く。誰に止められる事もないその行動は、しかしゆるるによって阻まれていた。
「付き添いはいらない。ボク達は2人で大丈夫。その代わり……」
一度言葉を切ったゆるるは、スタッフの方へ向けていた視線を動かし直展へと焦点を合わせていく。直展はゆるるの発言に驚く事もなく、静かに子供達へと向き直っていた。そして、ゆるるの口が再び開くよりも先に、深く首肯していたのである。
「さっきの約束、守ってよ」
「ああ、必ず」
「それから。來見は、その見張りだから」
「え?……俺!?見張り?何の!?」
一方的に何かを課されたらしい來見は、直展とゆるるの姿を交互に見ては混乱に陥っていた。説明を求めるように視線を向けても、誰も話し始める事はない。來見は途方に暮れたように立ち尽くしていたのだった。
「ええ……?でも、本人達がそういうのなら良いのかな……?」
「……ほら、早く。今のうちに」
思い悩むスタッフは考え込みすぎて周囲の状況が見えなくなっているようだった。その脳内では現場の責任問題や子供達への今後の対応について、忙しなく議論が行われていたのかもしれない。
ゆるるはそんなスタッフを横目に、來見へ向けて片手で払うような仕草を見せてくる。あとは自分が適当に丸め込むから、その努力を無駄にするなと視線で訴えてくるゆるるに來見は応えるべきなのだろう。ゆるるの隣に座るユールも後押しをするように深く頷き、困り顔をしながらも微笑みを浮かべていた。
「行こう。君には証人になってもらわないといけない」
「は、はぁ……。よく分からないけど、分かりました」
先導するように歩き始めた直展に、來見は曖昧な言葉しか口にする事ができなかった。自分でも支離滅裂な発言を述べていると理解しながらも、來見は子供達に目配せをする。そうして無言の別れの挨拶を互いに交わすと、4人は各々が行くべき場所へと散って行くのであった。
ユールとゆるるに静かに見送られた來見と直展は人気の少ない通りに進み、建物の陰に潜むようにしてその足を止めていた。そうして漸く來見に発言の自由が与えられる。果たして自分は何をすべきなのか、來見は改めて直展に問い掛けていたのである。
「あの。見張りっていうのは、一体……」
「通報の事だ。今から俺が親父を告発するのを……決して止める事がないように、君には監視してもらう」
「え……」
「あの子と約束したからな。俺も、そうすべきだと思う」
直展は初めて笑顔を見せていた。しかしその表情は痛みを伴う苦悩を押し込め、無理矢理に浮かべたようなものであり――見ているこちらが物悲しくなる歪さが存在していた。
來見は目を見開き直展を凝視してしまう。2人は確かに目が合っていた筈なのだが、その視線は直ぐに逸らされてしまっていた。それは気まずさの為だったのか、特に意味はなかったのか、來見には分からない。ただ、何故だかこのまま成り行きに身を委ねるのは違うような気がした來見は、思わず口を開いていたのであった。
「……あの!その前に……少し、聞きたいことが」
「あぁ、何でも答えよう。……知っている事に限るが」
それは來見の、全容を解明せずにはいられない性分から出た言葉であったに違いない。しかし直展はその詮索に嫌な顔をする事もなく、快く応じようとする姿を見せていた。もしかすると彼もまた、自分の気持ちを整理するための時間を欲していたのかもしれない。互いの利害が一致した2人は今しばらくの会話を続ける事にしたのだった。
「それじゃあ、遠慮なく。……まず、あの子達に渡された薬が父親の作ったものだなんて、どうやって気付いたんですか」
「……事の起こりは、俺が偶然……親父の部屋に置かれていた薬を発見したところからだ」
直展は静かに語り始める。その口からは今日このように行動するに至った経緯が、実に詳細な描写と共に紡がれていくのであった。
その日、直展は久し振りの帰省をしていた。夕飯を終え時間の空いた直展は不意に医学書が読みたくなり、書斎から本を拝借しようと父の自室へと足を踏み入れていたのである。
既に脳に刻み付けられた内容であろうと、時折読み返したくなる瞬間が直展には周期的に訪れる事がある。既存の知識と新たに吸収した技術の違いを発見しては擦り合わせを行う為にも、直展は本を探していたのであった。
「……これは?」
無遠慮に探索を行っていた直展は、ふと机の上に置いてあるカルテブックの存在に気付く。父は現在、風呂に入っており室内の主は不在にしていた。大方、眺めていた資料をスタンドに仕舞い忘れて放置したまま父は浴室に向かってしまったのだろう。直展は好奇心からカルテブックの中身を覗いてしまったのであった。
「より適切なアセトアミノフェンの頓用……含有製剤に際した最適な配合比率……親父、枝延の事をまだ気にしてるのか」
記載された内容は、とある病に処方される薬の効果についての研究資料のようだった。直展はカルテブックの他に机の上に存在している少女の遺影に目を向ける。それは過去、病によってこの世を去った直展の妹の写真であり――父は未だ、その死の原因となった病と向き合い続けているのだろう。それは医療に携わる一人の人間として、尊敬すべき姿勢であると直展は感じていた。
「ん?」
直展は更に紙を捲り、資料を読み進めていく。先頭のページから暫くは確かに父が収集したと思われる、根拠の存在する研究結果の数々だった。しかし、その内容は段々と趣を変えていたのである。
「アスピリン……ジクロフェナクナトリウム……?」
列挙されていたのは子供の体に投与するには注意を払わなければならない成分。勿論、判断を誤らなければ使用に問題はないのだが――自身の妹が亡くなった際の病と当時の年齢を考えると、看過できない何かが存在しているような不可解さが直展の中で生じていた。
しかし、その考えは途中で遮られる事になる。直展の耳は遠くから響く物音を捉えており、父が風呂から上がり此方に向かってくるのを予感させていた。直展の胸には、ただ焦る思いが駆け巡っていたのである。
そして直展は、今の自分が父の自室にいる姿を見られてはいけないと直感する。その判断に逆らうことなく直展は咄嗟に書斎から退出し、まるで何事もなかったような顔でリビングへと向かっていたのであった。
「直展くん」
「うん」
キッチンへ飲み物を取りに来たという体で、直展は棚からコップを取り出していた。背中から呼び掛けられた事に一瞬だけ、声が震えなかったかどうか不安に駆られてしまったが直展は努めて必死に、動揺を抑えていた。
直展の懸命な試みが功を奏したのかは定かではなかったが、どうやら父から疑問を持たれる事はなかったらしい。父はいつも通りの、のんびりとした雰囲気で直展に話し掛けていたのである。
「最近はどうなんだい。学校は大変かな」
「……それなりに。でも、苦ではないから」
「そうかい、そうかい。まぁなんだ、折角の休みだろう。好きなだけ、ゆっくりしていきなさい」
「……ああ、そうする」
父の様子は普段と変わりない。直展はほっと胸を撫で下ろす。しかしその内心では未だ複雑な思いが渦巻いていた。
あの優しげに笑う父親が、まさか人道に反するようなことをする筈がない。しかし、あの資料は直展の心に疑問を抱かせるには十分な不穏さを孕んでいた。
直展はコップの中で揺れる水面を見つめる。そこには眉間に皺を寄せ険しい表情を浮かべている自身の姿が映し出されており――直展は現実逃避をするように一気に水を呷るのだった。
「……今日はもう寝る。おやすみ」
「おや、随分早いね。……でも、疲れてるのも無理はないか。お休みなさい」
直展の言葉を受けた父は疑問符を浮かべながらも直ぐに納得したようだった。直展は連日の学業で精根尽き果てているとでも思ったのだろう。最後に就寝の挨拶を交わすと父は自室へと帰っていくのであった。
父はまだ暫く起きているつもりなのだろう。例の資料の検分を進めるのかもしれない。その行動に不信感を持つべきだったのかもしれないが、それよりも直展は今日のところはこれ以上父と顔を合わせずに済む事に安堵してしまっていた。
直展は父への疑念を心の奥底に押し込み、しかし気持ちの収まりが付かないまま自室へと帰る。そして直展は何かを考えるべきだった筈であるのに、結局その日は一時の眠りへと逃げる判断を下してしまったのであった。
翌日、なかなか眠りに就く事のできなかった直展は鈍く痛む頭を抱えつつも朝食を摂りにリビングへと来ていた。ノロノロと支度をする直展を横目に、父は出勤の為に慌ただしく荷物を纏めている。
「それじゃあ、行ってきます」
「あぁ……気を付けて」
直展は何も考えずに、反射的に言葉を口にする。特に何かを手伝ったりする事もなく、直展は父の出立を見送っていたのだった。
咀嚼するという行為とエネルギー補給によって脳が活性化したからだろうか。直展は段々と意識がはっきりしてくるのを感じていた。ふと時計を見ると父が家を出てから既に30分ほど経過している。忘れ物をしていたとしても、もはや諦め戻っては来ないだろう時の流れが、直展が意識しない間に過ぎ去っていた。
そして、直展は。いつの間にか父の自室の前に立っていた。誰に見咎められる事もないだろう空間で、しかし直展は自分の呼吸が浅くなるのを感じていた。無意識に呑んだ息の音が妙に大きく聞こえる中で、直展はゆっくりと歩を進める。一抹の罪悪感を胸に抱きながらも直展は、父の書斎へと足を踏み入れていたのであった。
「……俺の、気のせいであってくれ」
直展の口からこぼれ落ちるのは、悲痛な色が滲む願望でしかない。果たして父は、直展の危惧する暴挙に出ていたのか。その判定は――その裁定を下すための証拠が見つかるのかは直展の肩に掛かっていただろう。直展は動揺と緊張から自身の視点が定まらないでいる事にも気付かず、探索を始めるのであった。
父の愛用しているデスクは、昨日の様子とは違い綺麗に片付けられている。しかしスタンドに並べられたファイル群の中に、見覚えのあるカルテブックが収められているのが分かった。先日は途中で読むことを止めてしまったその資料に、直展は手を伸ばす。
「これは……患者の記録と、治験のデータ?個人情報を持ち帰ってくるなんて、本人の了承は得ているのか……?」
纏められた資料を捲っていくと、様々な薬効に関するデータの他に、特定の病に際して投薬を受けた患者らの情報が記載された診療録までもが直展の眼前に現れていた。恐らくは勝手に病院から持ち出したとされるその情報を、直展は血の気が引く思いで眺める。
「……これは、枝延と同じ病にかかった人達の……」
カルテブックには妹と同じ症例を発した患者について、多くの資料が纏められていた。直展もついその項目に目をやってしまうが、しかしここで着目すべきなのは治験を受けた被験者に関するデータが記載されたページだったのだろう。
その治験とは枝延のかかった病に対するワクチンの効果を確かめるものであり、大人から子供まで幅広い年齢層で試行されていた事が分かる。しかし最早、実験などしなくとも効き目と安全性は担保されており、根源たる病に余程の変異が起こらない限りは既存のワクチンで十分な対処ができている。それが今の、世間での結論である筈だった。
しかし、父の思いと世間の考えは乖離していたのだろう。整然と並んだ文章の枠外には各個人の身体的特徴などから父が独自の判断で算出した、それぞれの被験者に最適な薬の量などが走り書きされており――それはもしも特定の病にかかってしまったら、という仮定の元で割り出されたものであるのにも関わらず、病への執着心が露わになっているような荒々しい筆跡で記されていた。
直展はそこに穏やかな父らしからぬ激情を感じ取ってしまう。そして恐怖を覚えた心を反映したような震えが、体にも表れていたのだった。
「いや、それにしても。これは……」
直展の目は素早く文字列を追っていく。そこには昨日の直展が違和感を持つ切欠となった薬の名前と、その成分や種類に関する研究について反論するような父の見解が記されていた。どの薬も確かに子供の体に負担をかけるが、きちんと調整さえすれば問題ない。その為の薬剤師であり、緊急の場合以外にも投薬を躊躇うべきではないという暴論に近い結論で父の主張は締め括られていたのである。
「親父が研究していたのは病を予防する為のワクチンではなくて……特効薬について、なのか?」
直展はそれなりに医学を嗜んでいるからこそ、父の思想の危険性が分かってしまう。何か例に挙げるのであれば――そう、アスピリンだろうか。この薬を、はしかやインフルエンザにかかった小児に使用するとライ症候群という脳症を誘因する可能性がある。他にはジクロフェナクナトリウムもインフルエンザにかかった小児に投与するには危険な代物であっただろう。しかしそのような、原則として子供への使用を制限されている成分を独自に調合して製剤したかのような形跡までもが、父の筆跡で残されていた。
「まさか……」
直展は思わずカルテブックを机に放り投げ、急き立てられるようにして書斎机に備えられた収納スペースを隅から確認していく。そして危惧したものが、とある引き出しの中に作られたスペースに保管されているのを発見してしまっていた。
細かい仕切りのある巨大なケースと、その上に順に貼られた数字の番号。夥しい種類の粉薬が区分けされた空間の各々に鎮座しており、先程の資料に記されていた配合を示した番号と合致する薬剤が――子供の体に使用するには緊急時以外は推奨できないだろう代物が、他のサンプルと比べて目に見えて減っている事を直展は理解してしまっていたのである。
「ここまで、やってるのか……」
直展はまた一つ、ここに存在してはならない物を見付けてしまう。
個人でも街中にある店舗で購入でき、本来ならオブラートとして使用されるだろう空のカプセル。それがあるのは、まだ理解できる。しかし問題なのは、そのカプセルが既に閉じられフィルムコーティング済という付箋の貼られたケースに保管されている事であった。
それは恐らく薬を飲みやすくする為のものではなく、その成分を変化させない為の加工であった。胃ではなく腸で溶ける事で、より確実な薬効を得るための手段であったとも言えただろう。通常であれば工場で行われるその製造方法を父が個人でできる筈もない。しかし伝さえあれば、それなりの貯金もある父であれば誰かに頼めたのかもしれないと直展は気付いてしまっていた。
「クソ……」
そして、最後に。父の蛮行を決定的に肯定する品が現れる。プラスチック板とアルミのシート。そして恐らくは薬を入れるポケット部分の型取りの為に作られた、大小さまざまなカプセル状の模型群。
まるで病院で処方されるPTPシートを再現する為に用意された素材の集まりが、直展の目には映っていた。
「ここまでして……違法な投薬を強行したのか……!?」
直展は苦悩する。もはや手遅れなのだろうか。父は既に犯罪に手を染めていたのだろうか。いや、未だに逮捕されていないのだから被験者には最悪な事に、父は上手くやっていたのかもしれない。
様々な仮定が脳内を巡る中で、しかし直展は自分がやるべき事を理解しつつあった。それは自分には通報の義務が生じていたという現実であり、被害者が出る前に一刻も早い行動が求められていたという事であった。
「……」
しかし、何故だろう。直展は動けずにいた。何もかも無かった事にして眠りたいという気持ちさえ、浮上してきていたのである。それは人として取るべきではない選択であると頭では分かっていたのだが、それでも直展は両目を閉じてしまっていた。
直展は全身から力が抜けていくのを、何処か遠い意識の中で感じ取っていた。そのまま重力に抗う事なく膝から崩れ落ち床に座り込んでしまった、その瞬間。カルテブックが大きな音を立てながら床に落下していたのだった。
「あ……」
直展が荒々しく放り投げていた為に、きちんと机の上に乗っていなかったのだろう。落下の際に不規則に開いたカルテブックは実に直展の目を引いていた。
直展の指は何かに突き動かされるようにして再びページを捲っていく。そして隅々まで確認する事ができていなかった資料の最後に――本日、治験を受ける予定である2人の子供の情報と、投薬予定の薬の配合が記載されているのを直展は認めていたのであった。
直展は立ち上がる。この子供達は、まだ間に合う。そして父の作製した薬は一刻も早く回収しなければ、きっと大変なことになる。
直展は子供達の後を追い、その危険な薬剤の服用を止める為に駆け出していたのであった。
「……よく、2人の居場所が分かりましたね。病院から遊園地に行くなんて、なかなか想像しづらそうなものなのに」
直展から事のあらましを聞いた來見は、ぽつりと疑問を口にする。これまでの様子を鑑みるに、ユールとゆるるは携帯電話などの連絡手段は持っていなかったようであった。つまりGPSなどで現在位置を割り出すことは難しい。そう考えたからこそ來見は質問を投げ掛けていたのだが、直展はきちんとした答えを持ち合わせていたらしい。彼は一つ頷くと徐にその手段について話し始めていく。
「資料には、あの子達の連絡先も載っていた。病院関係者を装い緊急の連絡だと言えば……親御さん達は直ぐに行き先を教えてくれたよ」
騙す真似をしてしまったのは、申し訳ないことだが。そう呟く直展の表情は、やはり憂鬱さに満ちていた。いくら人命救助の為とは言え、やり方に問題がある事はきちんと理解していたのだろう。直展の心情における分析を行いつつも、來見はある考えを元に再び口を開いていた。
「……一刻を争う状況だったんですから、手段を選べなかったのは無理もないかと思います。あなたも色々と混乱していたでしょうし……」
「治験の情報なんて部外者には知りようが無いことですから、親御さん達が……不信感を抱かなかった事にも非はなかったと思います」
來見は誰も悪くはないのだと主張するように、長々と語ってしまっていた。巻き込まれた人々の全員に、同情すべき点がある。來見はそれを棚上げにして欠点ばかり論ってはいけないと、本心から思っていたのであった。
「……何故、薬を見付けた時に。初めから通報しなかったのか、とは聞かないんだな。そうすれば誰かを騙す必要もなかったのに」
「それは……」
直展は自嘲する。自身への嫌悪感も露わに笑うその姿は、いっそ責めてくれた方が楽だと言わんばかりの痛ましさがあった。
確かに、直展は遠回りな事をしていた。彼が早々に自宅から通報していれば警察は直ぐに職場にいる戸伏 谷塑目の確保に走り、遊園地にいる子供達を保護しに向かったことだろう。
つまり直展が父親による薬の隠蔽を心配する必要はなく、わざわざ自ら子供達の元へ向かう義務や義理が生じる事もなかった。しかし直展の行動の裏に存在する複雑な胸中を、來見は曖昧ながらも理解できるような気がしていたのだった。
「父親の通報なんて、悩まない筈がない事くらいは……俺でも分かりますから。俺はあなたを責める気には、なれないです」
「……だが、確かに俺は。研究の為にやっている事なら問題ないとして、一度は見てみぬ振りをしようとした。今日もあの子供達の様子を見た時に問題を感じられなかったのなら、親父は何もしてはいないのだと……抱いた違和感を消し去っていたと思う」
「……人を疑うのは、辛いことですから。当然の感情でしょう。それよりも何もせずにいたのではなく行動できた自分の事を、あなたは褒めるべきだと思う」
「持ち上げすぎだ。俺は……ただの臆病者でしかなかったんだから」
直展が吐露したのは、もしかすると來見が介入しなかった際に起こる筈の、事の顛末についての話だったのかもしれない。
來見や祝と会話をする事もなかったユールとゆるるは、別れたままに遊園地を彷徨い歩く。何処かで合流し仲直りする事もできたのだろうが、疲れた2人は早々に遊園地を後にしてしまっていたのかもしれない。そして直展は現場に急行したものの子供達に会うことはなく、ユールは人知れずすり替えられた薬を飲み――体に不可逆なダメージを負うことになった。
(でも、この人は結局……様子見だけでは済まさずに子供達を呼び出していた。俺の顔を見ても驚いていなかったのは、ゆるると接触していた場面を見ていたからだと思うし……)
そう考えると、見なかった振りをしていたかもしれないという直展の言は、今回に限っては適用されていなかったのだろう。直展は恐らく來見とゆるるの初対面の瞬間を何処かから観察していた。しかし、その場に出て来れなかったのは――やはり直展の中にある迷いが決断を鈍らせてしまっていたのだろう。それでも彼は彼なりに、倫理に則った行動を取ろうとしていた筈なのであった。
(……それでも、ユールが薬を飲んだタイミングには既にその場を離れてしまっていたから、事情を知ってあんな風に取り乱していたんだろうな。多分、子供達を呼び出すのもかなり悩んでいて……でも最後はアナウンスをする判断を下していた)
実際のところ、直展は言葉に反して子供達の様子見だけでは済ましてはいなかった。その証拠こそ、園内にかけるアナウンスを頼んで子供達をきちんと呼び出していた点であった事だろう。
ユールが薬を服用する瞬間を見ていたら、直展は直ぐさま止めに来ていた筈である。しかし、そうではなかったという事が逆に、直展は考えに考えて、最低限の責任は果たすべきだろうという葛藤の末に行動を取っていたという事情が來見には垣間見えた気がしたのであった。
しかしながら果たして來見の介入が無かった場合も、被害者が出た以上は犯人は逮捕されるだろう事が窺えた。とは言えその事件が残す爪痕は大きく、多くの人々が悪夢のような現実と向き合わなければならなくなったことだろう。そう思うと今の來見が最悪の未来を阻止する事ができているのであれば、それはこの上ない喜びに違いなかったのであった。
勿論、これら全ては來見の妄想に過ぎない。しかし何かが変わったのであれば――関係者に待ち受けるのが避けようのない痛みであったとしても、それが最低限で済むのなら。きっと自分が介入した甲斐はあるのだと、來見は顔を上げるのであった。
「でも。あなたは結局、父親の罪を認めました。認めがたい真実を前に、意固地にならず……考えを改めることができた。それは……称賛に値すると思う」
「君は……お人好しだな。人の良いところばかり見ようとする。そんなんじゃ何時か、手酷い目に合うかもしれないぞ」
「はは。それは、まぁ……慣れてますから」
來見の言葉に直展は苦笑する。そして彼から与えられた忠告に、來見もまた苦笑いを返していた。
これで、おおよその流れを把握し疑問を解消する事ができただろう。來見が居住まいを正して直展に向き直ると、彼はその時が来た事を理解したようだった。直展は目を閉じて大きな深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたように勢いよく瞼を開くと、同時に口を開くのであった。
「……薬は、あの子達に持たせたままにした。父の指紋も残っている可能性があると教えておいたから、きっと警察に渡してくれるだろう」
「……はい」
直展が携帯電話を取り出す姿を來見は静かに見守っていた。その指は順番に、連絡すべき番号を押していただろう。しかし直展の動きは止まる。最後に発信ボタンを押す、その直前で直展は躊躇いを見せていたのであった。
「初めから、薬を回収したら……親父が違法な投薬を試みた証拠が確保できたのなら、俺は直ぐに通報するつもりでいた。覚悟して、ここに来たんだ。だが……」
一度言葉を切った直展の、携帯電話を持つ手は震えていた。空いた手でその手首を掴み、動揺を抑えようとしていたようだがあまり効果は見られない。直展は引きつった笑みを浮かべ、來見に視線を送ってくる。
「はは。情けないこと、この上ないな」
「……俺が、代わりに通報しましょうか。伝える内容が同じであれば、誰がやっても同じことでしょう。……あなたが父親の逮捕という……最後の一押しまで担わなくても、俺は良いと思う」
遅かれ早かれ露見する父親の凶行について、直展は嫌でも説明をする事になるだろう。親族が警察の事情聴取から逃げられる筈もなく、この先の直展に襲い掛かる負荷の大きさを考えると來見は同情を禁じ得なかった。
だからこそ、せめて直展が自身の手で父親を告発するような状況くらいは回避しても許されるだろう。來見は負わなくても済む苦しみを少しでも減らす為に、直展へと提案を申し出ていたのであった。
「そう言ってくれる人間がいるだけ……俺は恵まれているんだろうな。でも大丈夫だ、自分でやる。きっと人に任せた方が後悔するだろうから」
「……分かりました。他ならぬ、あなたがそう言うなら」
來見は迷いながらも、結局は直展の意思を尊重する事にした。当事者である直展本人が下した判断より、自分の意見が優れているとはとても思えない。來見と直展は互いに沈痛な面持ちを晒しながら向き合っていたのであった。
「……親父はずっと、枝延の……俺の妹の死に向き合えていなかったんだ。でも、俺もそれに見てみぬ振りをした。そのツケが回ってきたんだろう。……君が気にする事じゃない」
「……はい」
枝延とは、話の途中に出てきていた直展の妹の名前なのだろう。もしかすると彼女の年齢はユールやゆるると近しいものであったのかもしれない。だからこそ直展はより必死になって子供達を追い掛けてしまい、通報などの他に考えるべき事柄を忘れてしまっていた可能性もあった。
ここまで来ると、もはや自分にできる事はないと來見は理解する。そしてただ相槌を打つ事しかできなくなっていたのであった。
「ただ一つ。改めて、頼みがある」
重苦しさが一層増した雰囲気の中で、直展は口を開く。その瞳には決意を新たにしたような鋭い輝きが灯っており、來見は思わず背筋を伸ばしていた。
「俺がちゃんと、できているか。見届けてくれ」
「子供の前で逃げるなんて、醜態を晒す事はできない。そう思えば、きっと最後までやりきれると思うから」
「……はい、分かりました」
來見は真っ直ぐに直展の目を見つめながら頷く。そのまま、まるで断頭台に登っていく罪人を見届けるような気持ちで。直展自身が苦難の末に選んだ結末を、來見はただ眼前にするのであった。
「……はい、私はウィラリアム遊園地に留まります。……はい。それでは、後程」
直展は携帯電話を切り、腕を脱力させる。そのまま凭れるようにして建物の壁に背を預けると、空を見上げては大きく息を吐いていた。
察するに警察は直展が余計な行動ができないように、その自由を制限したのだろう。移動を封じられた直展は、しかし抵抗する事はなく。素直に指示に従う姿勢を見せていたのであった。
「ちゃんと……できてたよな、俺」
「はい」
「はは……付き合わせて、悪かった」
直展は力のない笑顔を來見に向けていた。それを目の当たりにしている來見の顔も、きっと冴えないものになっていただろう。來見はどう言葉を掛けて良いのか分からず、ありきたりな言葉を口にする事しかできなかった。
「いえ、その……お疲れ様でした」
壁と背が擦れる音を響かせながら、直展はズルズルと座り込む。大きなため息をついた直展の目からは、一筋の涙が伝っていた。
來見は見てはいけないものを目にしてしまったと思い、慌てて視線を逸らしていた。直展の顔を直視する事がないように、來見は静かに体勢を変える。そうして隣り合うようにして並んだ來見に気づいたのかは分からないが、直展は徐に再び語り始めていた。
「この後、親父に……どういう裁きが下るのかは分からない。だが……カウンセリングを受けさせる事にするよ」
直展は自分のやるべき事を見誤ることのないように――まるで記憶に刻み込むようにして決意を口にする。途切れ途切れに紡がれていく展望は悲しくも微かな希望を感じさせるものであり、來見はその正当性を頷く事で認めていた。
「それで、何が変わるかは分からない。それでも多分ずっと前に、本当はそうすべきだったんだろうな……」
ずっと前、とは妹を病によって亡くした過去の時点を指していたのだろうか。今の來見に分かるのは、直展は間違いなく現状に後悔を抱いていたという事だけであった。
來見はこの場における最適な反応を、上手く返す事ができずにいた。直展が父親の蛮行を前に何も感じていない筈がない。それは、その体に確かに道徳心が宿っていたからなのだろう。どれだけ迷おうとも最後には良心に従う選択をした直展の事を、來見は責めたりはしない、というよりも出来なかった。
だからと言って全てが終わった今、直展の所業を褒め称えるのは何か――彼の尊厳を著しく傷付けてしまうような予感を覚えた來見は、ただ愚直にも沈黙を守る事しか選べなかったのであった。
どうにも身の置き所がない來見を横目に、直展は話を続けていくようだった。その口から吐き出されていく懺悔の言葉を、來見は意識を強めて耳をそばだてる。
「薬害が発生すれば……きっと直ぐに親父の違法な投薬は露見していた。しかし、そんな簡単な道理も分からないくらいに今の親父は……正常な判断力を失っていた」
直展は肩を落とし、父親に対する分析内容を語っていく。やはり未来からのメールによって予言された出来事とは、先程のユールに関するものであったのだろう。確たる証拠はないものの、状況がそれを証明している。來見は、もし介入が失敗していた場合に波及する悪影響を思い、身を震わせてしまうのであった。
「それは俺が、ちゃんと親父に向き合えていれば……気付けた異変だっただろう。枝延の事を話題に上げるのを恐れて、何時しか実家からも足が遠退いて。それは間違いなく……俺の弱さに違いなかった」
「……全てがあなたの責任になんて、ならないですよ。不幸が積み重なった側面もあるし、大人の……親の隠し事に気付けないのも無理はなかった……って俺は思います」
あまりにも自罰的な直展の姿は、元来の責任感の強さからくるものだったのだろうか。しかし、それを指摘した所で彼が肯定する事はないのだろう。本当に道理を重んじている人間であったなら、自分の気持ちの整理のために時間を稼ぐような勝手な振る舞いをする筈がない。そんな風に卑下する直展の姿が、來見は簡単に想像する事ができていたのである。
そして、もう一つ思う事があるとするのなら。直展は今になって漸くといった様子でも、その未練と過ちを正面から受け止め認識する事ができていた。であれば、いつか苦しみを乗り越え自分を許せる日が来て欲しいと來見は願ってしまう。そんな分析を最後に、來見は今回の事件に関する気持ちの整理を終えたのであった。
「……ありがとう。迷惑をかけて、すまなかった」
「いいえ……こう言ったら何ですけど。丸く収まるのならそれで、俺は構いませんから」
「そうだな。そうと決まれば君も早くここから離れるんだ。俺の個人的な家庭事情に、これ以上巻き込まれる必要はない」
「……」
直展から別れの挨拶を切り出された來見は、つい口を閉ざしてしまう。直展の言葉には恐らく裏などない、ただの配慮でしかなかったのだろう。
しかし來見は、ゆるるに直展の見張りを頼まれていた。それは要するに、決して直展が逃げることのないように自分が捕まえておかなければならないという事だと來見は解釈しており――直展を過度に疑うつもりはないが、途中で自身の役目を放棄にする気にも來見はなれなかったのである。
「逃げはしない。あの子達とも約束したしな」
「……俺も頼まれました。ゆるるに、見張りをしろって」
「あれは通報についてだけの話だ。……君は学校の旅行か何かで、ここに来ているんじゃないか?友達に迷惑をかける訳にもいかないだろう」
食い下がる來見に向けて、直展は実に的確に心を揺さぶる言葉を投げ掛けてくる。來見の脳裏にはユールとゆるるを探し回る祝と、未だ合流できていない同級生の姿が浮かび上がっていた。
一度は経験した記憶のある卒業旅行であったとしても、前回と今回のものは全く内容が違っていた。確かにこのままでは、來見は一生に一度の体験を失う事になるのだろう。そして自分だけではなく周囲も巻き込みかねない状況は、來見としても避けたいところなのは間違いのない事だった。
「変な気を起こすつもりはない。……いや、そうだな。ここのスタッフにでも俺を捕まえておいてもらおう。君は途中まで同行して、その様子を遠目に見ていれば良い」
來見が思い悩んでいる事に直展も気付いていたのだろう。直展は名案だと言わんばかりに提案を持ち掛け、それを実行するために既に立ち上がっている。
譲歩しているように見えて際限なく自身の行動に制約をかける事を許す直展に、もはや來見が言えることは無かった。來見は根負けしたような複雑な気分になりながらも、首を縦に振ってしまっていたのである。
「……分かりました。そうしましょう」
「ああ。一番近いところは何処かな」
直展は來見よりも軽やかな足取りで先を進んでいく。自暴自棄と形容するには落ち着き過ぎている直展の吹っ切れた姿を、來見は不思議な気持ちで眺めていた。しかし、このまま呆けていても仕方がない。來見は直展に置いていかれないように、慌てて歩を進めるのであった。
直展はスタッフに何やら話し掛け、何処かへと案内されていく。彼の言を信じるのであれば、直展は園内の休憩室などで警察の到着を待つ事になるのだろう。スタッフに誘導されていく直展は振り返ると、來見に視線を送ってくる。ここまで行動に示してくれていたのであれば、もはや疑う必要もないのだろう。來見は一つ頷きを返し、それを見た直展も同じように首を縦に振って無言の会話に応じていた。
來見は建物の中へ入っていく直展の姿を見届ける。そして、とうとう。まるで袂を分かったかのように、來見と直展は別れ――それぞれの道を歩んでいく事になるのであった。
「……祝と合流しないとな」
直展を見送った來見は、別れて暫く経つ祝の姿を探し始める。互いに通じる連絡手段を持っていなかった為に合流は難しく思えるかもしれないが、先程も考えていたようにいざと言う時には香椎あたりに電話をして掛け合ってみるのも一つの手であっただろう。しかし來見は一先ず二手に別れた地点であり、ユールやゆるると会話をしていたベンチの近くまで足を進めていたのであった。
「……あ」
「あ!來見くん!」
來見が祝の姿を認めたと同時に、彼女は走って此方に向かってきてくれていた。息を弾ませる祝を迎えるように自ら距離を詰める來見は、少しだけ感動を覚える。祝は打ち合わせをしていた訳でもないのに來見と同じように考え、ベンチで待ってくれていた。一人で佇んでいるのは不安だっただろうに敢えてその選択をしてくれた祝に、來見は先程までの緊張が緩んでいくのを感じ取っていたのである。
「呼び出されてたのは、やっぱりあの2人だったよ。でも……大丈夫、問題はなかった」
「そっか……良かった……」
來見は祝から子供達を見付けられなかった事を謝罪されそうな雰囲気をいち早く察し、自ら口火を切っていた。祝に落ち度はなく、また事件に関して來見が詳しく説明するのも個人情報の観点から難しいように思う。來見は先んじて祝が心配する必要はないと宣言する事で、少々強引ではあったが話を締め括ろうとしていたのであった。
「……散々、走り回ったんだろ?ありがとうな」
「ううん、私も……心配だったから。あの2人が何ともないなら、それで十分だよ」
「うん、そうだな……」
すっかり安堵した様子で語る祝に、來見は少しだけ罪悪感を覚える。來見は、はっきりと嘘をついた訳ではないが真相を隠してはいる。後日この事件が明るみになれば、祝は何を思うのだろう。來見が言えなかったのも仕方のない事だとして胸に納めるのか、あるいは不信感を覚え祝は自分から距離を取るようになるのかもしれない。
しかし、やはり來見はこれ以上の詳細は何も言えなかった。既に疲労しているだろう祝に更なる精神的な負担を与え、後味の悪い卒業旅行が記憶に残る事を來見は阻止したかったのである。それは祝が後から事件について知れば、即座に無に帰す身勝手な考えでしかなかったのも來見はきちんと理解していた。
それでも來見は祝に失望される恐怖を押し込め、表面上は何ともないような振る舞いを努める。それが今の最適な選択であると信じて疑わず、何とか口先で丸め込もうとしていたのであった。
「……いい加減、合流しないとな」
「みんなには結局、何にも説明してなかったね……來見くんの方には連絡入ってたりしてない?」
「今のところは、特に。……案外、俺たちの事は気にせず勝手にやってるかもな。適宜、自由に行動しようって感じもあったし」
「それなら良いんだけどね……じゃあ、行こっか!」
祝に微笑まれた來見は一つ頷きを返し、予め指定されていた合流場所へと向かうことにする。今の來見と祝の状況は断りもなしに別行動を取っていたと思われてもおかしくはないのだが、何となく香椎辺りが上手く取り成してくれているような気もしていた。
当然、そのせいで妙な疑いを持たれている可能性もなくはない。しかし來見の勝手な行動自体が問題視され、しなくても良い悩みの種になっているよりはマシだった筈である。來見は言い訳という名の説明を考えるために、ユールとゆるるに関する一連の流れを脳内で整理していくのであった。
「……あ!みんないる!」
祝の言葉に來見は反応し、その視線の先を辿っていく。
ジェットコースターへと向かう者と、それ以外の場所へ進むグループが別れた場所。そしてその直ぐ側に鎮座するカフェが十分視界に入る所にまで、來見と祝は帰ってきていたのであった。
休憩を取っているのだろうか。來見の目には香椎を始めとする同級生達が集まって飲食を行っている姿が映る。そしてその集団に突撃するように合流しなければならない現実を、來見は改めて実感していたのだった。
幸いにも何か問題が起きている訳ではなさそうだが、それが却って自分達の間の悪さを強く感じてしまう。來見は友人たちへと声を掛けるのを少しだけ気後れに思うせいか、つい苦笑を浮かべてしまっていたのであった。
「ちょっと気まずいな。いや、だからと言って合流しない訳にもいかないんだけど」
「ふふ。普通に堂々としていれば良いんだよ、きっと。一応……人助け?してきたんだから」
「……それもそうだな。あ、気付かれた」
祝に励まされながら、來見は友人へと手を上げて挨拶する。何やら楽しげな香椎は大きく体を揺らしており、他の同級生達も手招きをして來見と祝の帰還を歓迎してくれていた。
色々と聞かれる事もあるだろうが、もはや仕方のない状況だと受け入れ來見は割り切ることにする。それに大変なことばかりではなく、嬉しい出来事もあった点を來見は決して忘れてはいなかった。案外、その心には平穏が戻っており余裕も残っていたのかもしれない。
「……言い忘れてたんだけどね」
先に足を踏み出した來見の背に、祝はぽつりと語りかける。声に振り向いた來見の目を見つめ、祝は穏やかな表情を浮かべていた。
「私……伊斗路高校に合格、したから。その……その、よろしくね!」
言葉に詰まりながらも、未来について好意的に話す祝に來見は釣られるようにして口許を緩める。当然、來見がその主張を拒絶する筈もなく。來見は一つ頷いて祝に言葉を返すのだった。
「うん。祝と同じクラスになる事、楽しみにしてるよ」
「……そこは、別のクラスでも仲良くしような!って言おうよ」
來見が発した言葉はこの先、辿るであろう未来を知っているからこそ出てきたものであったのだが、祝には少々不満の残る回答であったらしい。拗ねたように揚げ足を取る物言いをする祝であったが、しかしその姿は來見には可愛らしく映っていた。自惚れでなければ祝の文句は來見の反応に期待していなければ出てこないものに思え、來見の胸中には確かに祝への好感が降り積もっていたのである。
「はは、確かにな。……うん、伊斗路高校でもよろしくな。一緒に、学生生活を楽しもう」
「……うん!よろしくね!あと、その。連絡先の交換とか……どうですか」
「あぁ、勿論。喜んで」
祝は來見の口から自分にとって好ましい発言がなされるように自ら働き掛けていたというのに、いざそれが実現すると妙に嬉しそうな素振りを見せる。もしかすると元来、彼女は他者に対してあまり期待していない性格で――言い換えるのであれば、自分に自信が持てない性格だったのかもしれない。
自分の望むように世界や他者は動いてくれない現実を、祝は痛感するような出来事があった。だからこそ、どこかのタイミングで來見が頻繁に自分の期待通りの反応を返す事実に気付き、それからは積極的に関わりを持とうと行動していた。そう考えるとこれまでの祝の振る舞いにも説明がつくような、そんな直感が來見に舞い降りていたのである。
とは言え、これらの考察は來見にとっても都合の良い願望が混じっている為に、確固たる客観的な証拠はない。それでも現状に不満がない來見にとっては、祝に対する態度はこれからも変えなくても良いという指標の一つにはなっており――來見は軽くなった足取りで、同級生の元へと向かっていくのであった。
そこからの出来事に、特筆すべき点はなかっただろう。來見と祝は連絡先を交換し、大きな問題もなく同級生達と楽しい卒業旅行を満喫した。班長は解散の際にはしっかりと担任に連絡を入れ、寄り道することなく各自が帰路に就き――來見は疲労だけではない満足感と共に、その日は就寝したのであった。
ウィラリアム公園でのアレコレが終わってから、数日後。情報を取り溢さないように努めていた行動が功を奏したのか、來見は戸伏 谷塑目が取り調べを受けた旨が公表されるのを目にする事になる。
未だ詳しい内容についての言及はないものの、直展――子息に関する逮捕などの悪評は存在していない。恐らく警察の調査に積極的に協力している直展が、世間的なバッシングを受けるような振る舞いをする事もないだろう。現時点で直展が不当な扱いを受けたり、攻撃されてはいない筈だと來見は思いを巡らせる。
今後、この事件がより大きく取り上げられる事があれば直展の周囲が騒がしくなるのは目に見えている。もしかすると被害者であるユールやゆるるにさえ、厳しい目を向けられてしまう事態に陥ってしまう可能性すらあっただろう。
しかし、今の來見に出来ることはなかった。どうか周囲の人々が、彼らもまた傷付いている一人の人間である事を理解してくれるのを期待するしかない。既に煮え湯を飲まされている彼らに対して、まさか追い討ちを掛けるような所業をなす者などいる筈もないのだが――何を原動力にするかは人それぞれだっただろう。絶対に起こり得ない事象など案外存在しないという事を、來見はもしかすると誰よりも理解させられていた。
そうであるならば來見は、あとは祈るしかない。巻き込まれてしまった人々の心の安寧が保たれるように、一刻も早い日常を彼らが取り戻せるように。來見は遠く離れた場所で、そんな普遍的な平和をただ願うばかりなのであった。
「……ん?」
ぼんやりと自室のベッドに転がり休憩をしていた來見は、ふと何処からか響いていくる振動に気付く。それは雑に放られた携帯電話から伝わってくるものであり、どうやら電話の着信を告げているようだった。
相手は不明で、何を目的にしたものかは分からない。ただ、何故だか來見は悪いようにはならないような予感がして――そんな甘い気持ちで未来からのメールに返信した過去の愚かさも忘れて、來見は携帯電話を耳に当てていたのであった。
「……」
來見は声を出さずにいた。それでも來見が電話に出ていること自体は相手も気付いているに違いない。互いの画面には通話中という表示がされている筈だった。しかし來見はあくまでも相手からの呼び掛けを待ってから応えを返そうと決めていたのである。
もしこのまま無言の状態が続くのであれば、その時こそ通話を切ってしまおうという考えが來見にはあった。しかし意外、と形容すべきなのだろうか。電話口の相手は意地を張る事を止めたように大きく溜め息をつくと、來見よりも先に口火を切っていたのである。
「……ユール」
存外、低い声で響いたその単語は聞き覚えしかない名前であった。しかしそれは通話をしている2人のどちらにも当てはまらない呼称でもあった。そこで來見は一つの可能性に思い当たる。これは所謂、合言葉のようなもので間違い電話を避ける為の合図なのかもしれない。來見はつい口許を緩めながら、その単語を訂正するように喋り始めていたのであった。
「いや、ゆるるだろ?……久し振り」
「あぁ。本当にアンタの連絡先なんだ、コレ。番号拡散されてるから気を付けなよ」
開口一番、ひねくれた態度を取ってくるゆるるの様子に來見は笑い声を溢してしまう。過剰に脅かしてくるような言葉には來見の個人情報の取り扱いに対する呆れと心配が混ざっていたのだろう。來見は愉快な気持ちになりながらも、会話を途切れさせないように言葉を返していく。
「そんな訳ないだろ。察するに……祝からユール、ユールからゆるるの順番で伝言してきたんじゃないのか」
「なんだ、事前に聞いてたの?それなら、さっさと返事しなよ。なんだったの?冒頭のやり取り」
「いやいや、知らなかったから。……もしかしたら祝から連絡来てたのかな、後で確認しないと」
「……独り言は一人でやってくれる?」
來見は何処か気の抜けた状態で、ゆるると言葉を交わしていた。声の感じからして、ゆるるに憔悴した様子はない。であれば先程の來見が想像したような悪い状態には――少なくとも今は、なっていないという安堵が來見の胸に広がっていたのである。
しかし、ゆるるに指摘された通りいつまでも腑抜けた状態で対応を続けるのは失礼にあたっただろう。來見は気を取り直してベットから身を起こし、改めて用件を尋ねる為に口を開くのであった。
「そうだな、悪い。それで、どうした?用があるから電話してきたんだろ?」
「……まぁ、一応。色々と……こっちは大丈夫だっていう、報告はしておこうかなって……ユールが」
來見からの問い掛けに、ゆるるは非常に歯切れが悪い答えを返してくる。最後に取って付けたユールという単語から考えるに、彼女と來見が関係を深めるのを良しとしなかった故の結果が今の状況に繋がっていたのかもしれない。ゆるるはもしかすると強引にユールから電話を取り上げ、代わりに――渋々、來見への伝達係をしていた可能性すらあった。
ゆるるのユールへの独占欲の強さに笑えば良いのか。あるいは、その重たい気持ちを向けられているユールの今後を心配すべきなのか。來見はつい思いを巡らせてしまう。
しかし今はどんな理由であれ、わざわざ來見へと連絡を入れてきてくれた気遣いに心を打たれておくべきなのかもしれない。來見は顔が見えないのを良いことに百面相をしながらも、最終的には謝辞を述べる判断を下していたのだった。
「そうか、わざわざありがとうな。……ゆるるはその後、大丈夫だったか?あの薬は飲んでないって言ってたけど」
「ああ、うん。ボクは特に何もない。ただ……」
「どうした?……ユールの事か?」
言葉を濁したゆるるが悩む事と言えばユールに関するものだろう。それは殆んど決め打ちで行った問い掛けであったのだが、どうやら当たっていたようだった。ゆるるは大きく息をつくと、徐に内情を明らかにしていく。
「……治験やるのが怖くなったって。それにボクの事を巻き込んだって思ってるらしくて、相当……塞ぎ込んでる」
「つまり……ゆるるはユールに何と言えば良いか分からなくて、困ってる?」
「……まあ、そんな感じ」
素直に相談を持ち掛けているという訳ではないが、助言があるなら聞くだけ聞いておこう。ゆるるの態度はそういった類いのものであったのだろうか。相変わらずのひねくれっぷりに來見は笑いそうになりながらも、しかし期待に応える為に頭を働かせていたのであった。
「実際のところはどうなんだ?ゆるるは、ユールに誘われて治験に参加したのか?」
「切っ掛けは、ユールだけど……ちゃんとリスクは承知の上だったよ。……何かあってもユールを責めたりはしないって親とも約束してたし」
ゆるるが治験に参加した動機は、無償の善意というよりはユールと同じ行動を取った際に得られる彼女からの信頼や好意を目当てにしたものであったのかもしれない。つまり恋心に起因する下心ありきのものではあったが、それでもゆるるなりの筋は通した上で実行されていたという事なのだろう。決して無計画に振る舞っていた訳ではないゆるるの姿に、來見は関心を覚えていた。
「それをキチンと伝えてあげればユールの心も軽くなりそうなもんだけど……駄目だったのか、もしかして」
「あんな事があった後だからか、薄っぺらい慰めにしか聞こえてないみたい。はぁ……」
大きく吐かれた溜め息は、ゆるるの抱える落胆を如実に表していただろう。そもそも來見が簡単に思い付く案など、ゆるるが既に取り組んでいても可笑しくはない。そうなってくると、必要とされるのは全く別の手法に違いない。意外性のある解決策を考える為にも、來見はゆるるから情報を引き出す事にしたのであった。
「それなら逆に、ユールの方の切っ掛けはどうだったんだろう。正直、子供が対象になってる治験の存在なんて……知る機会が限られてそうなもんだけど」
「あぁ、それは。ユールの親がそういうのに熱心だから、自然と耳に入ったんじゃないの。何て言うか……意識が高いから。あそこの家」
その割に世間知らずな所もあるから危なっかしいんだけど、とぼやくゆるるはユールの家庭事情に詳しいのだろう。細かな部分は來見には分からないが、部外者から見ても両家は持ちつ持たれつの良い関係性を築いている様子が窺える。それはユールとゆるるの間柄にも似たものであったのかもしれない。
であればこそ、今回の出来事が子供達2人の保護者も含めた人々の間に深い溝を作ることがなければ良いのだが――それは來見が口を出せる事でもないのだろう。來見は胸の内でひっそりと心配するだけに留めるのであった。
ところで來見が考えるべきなのは、ゆるるに教授する為の現状の打開案である。気を取り直した來見は更に話を進めるため口を開くのであった。
「……一応、聞いておくんだけど。ユールは医者とか薬自体に嫌悪感とか、猜疑心が芽生えた訳ではないんだよな?」
「そりゃあ、そうでしょ。あれは一人のイカれた人間が狂った事しただけで、そこら辺の普通の医者は何も悪いことしてないし。作られた薬にも罪はない。……そのくらいの分別はユールにも付く」
馬鹿にしてんの?とでも続きそうなゆるるの言葉に來見は苦笑いを浮かべてしまう。確かに來見の懸念は、下らない杞憂に聞こえていても仕方がない。しかし事件に巻き込まれた以上、当事者には何かしらの影響は出て然るものだろう。來見はその確認のためにも、念を入れておいたのだった。
ともあれ一先ず、ユールの精神状態が手の付けようがない程の極端な悪化をしている兆候は無いらしい。その情報は確かに來見に少しばかりの安堵を抱かせていた。
來見は一つ息をつく。そして電話越しに頷きながら、言い訳を述べるように言葉を返していくのであった。
「そうだな。ユールもゆるるも賢いから、その辺を混同する事もないか。悪い、変なこと言って」
「……べつに、良いけど。それより他に何かないの。その、ユールに関して」
ゆるるは結局、來見にどう思われるのかという体裁よりもユールの平穏を最優先としているのだろう。歯切れが悪そうにしながらも何かしらの助言を求めている様子からも、ゆるるは相当に悩んでいる事が窺えた。
不本意ながらも話が逸れていた事に気付き、來見は反省する。ユールとの関係を進展させたいゆるるにお節介にも揺さぶりを掛けたくなる気持ちはあっても、その他の点で困らせたい訳ではない。來見は改めてゆるるに協力する為に、知恵を絞っていくのであった。
――そう簡単に答えが出る筈もないという点を、來見はすっかり見落としていたのだが。
「……俺もさ、良い解決策を出してやりたいんだけど……難しいかもな。ユールはその、抱え込むタイプだろ?本人が納得できるまでは暫く引きずりそうな感じがある」
「やっぱり、時間が解決するのを待つしかない?」
「んー……でも、ゆるるは何とかしたいよな……」
來見は事実確認の為にも私見を元にしたユールへの分析を述べていたのだが、ゆるるは特に異論を唱える事はなかった。つまり來見の考えは大きく間違っているという訳でもないのだろう。打開策を求めすぎるあまり、ゆるるは結論しか聞こえていなかったという可能性もあるにはあるが、それだけ必死なのだと思えば仕方のない事と言えた。
簡単ではないだろうが、來見としては何とかゆるるの意向を汲んだ良い考えを出してやりたい。來見は頭を回転させて案を捻り出していくのであった。
「……あのさ。一つ、思い付いた事はあるんだ。効果があるかは分からないけど」
「まずは聞いてみないと判断できないから、早く」
「あくまで、一つの案として聞いてくれよ?」
「はいはい、はいはい」
來見は決して勿体振っている訳ではないのだが、ゆるるは待ちきれないのか電話口でしきりに催促するような相槌を打っていた。そのあまりのユール以外への興味の無さに、來見は微笑ましさと同時に心配も覚えてしまう。しかしどちらの感情の比率が大きいのかという答えは、來見の顔にはっきりと出てしまっていた。來見は咳払いをして緩んだ口許を引き締めると、真剣な声色で説明をし始める判断を下したのである。
「……ユールは今、一人の世界に入り込んでいるから、ゆるるの声が聞こえていない。暗い方向にばかり考えが行くから、ゆるるの本心が伝わってない」
「だから?」
結論を急ぐゆるるを宥めるように、來見は穏やかな声色を維持する。しかし、その裏には抑えきれていない悪戯心が潜んでおり――來見は大真面目にふざけた事を口にしていたのであった。
「だから。考え込む暇も無くなっちまうように、ユールの時間と余裕を奪うんだ。俺が具体例を出すとしたら……つまり。ゆるる、お前からユールをデートに誘うとか、そういう事だな」
「はぁ!?」
「いや、でも元から2人で遊園地に行くくらいだから……あんまり驚きはないのか……?」
「おい説明!説明しろって!」
自分から提案しておいて、その欠陥に気付いた來見は再び考え込もうとしていた。しかしそれを許さないのがゆるるであり、來見の耳には荒々しい声が届いていたのである。
「一例だから落ち着けって。とにかく一回、衝撃を与えて……その隙に、別の何かに集中せざるを得ない状況に仕向けるんだ。ユールが嫌な記憶から、少しでも距離を置けるようにな」
「それでデートって……いや、効果ないでしょ。どうせ普通に遊びに行くだけになるし」
「そうとも限らないだろ。例えば……ユールなりのオシャレした姿が見たいとか言えばさ。驚きと喜び、ついでに困惑でユールの頭は一杯になるかもしれない」
「……嫌味?」
「いや?今のが嫌味に聞こえるのは……これまでユールの服装を揶揄してきた、ゆるるの自業自得だろ」
來見が子供達2人の喧嘩未遂の件を思い返しながら提案をしていた事に、ゆるるは気付いたのだろう。不満も露わにゆるるは低い声を発していたが、來見の反論に言い返す言葉は見付からなかったようだった。ゆるるは言いくるめられたように黙り込み、ため息をつくだけに留めていたのである。
「いや、でも。やっぱり無理矢理になるんじゃないの。外に連れ出すとかさ」
「強引な方法が嫌って言うなら、やっぱりユールが自分で折り合いをつけるのを待つしかないと思う。外部から働き掛けるってのは結局……相手の意向をある程度、無視してる訳だからな」
「……」
「でも、そういうのが必要な時もあると思う。だからお前がするべきなのは……ユールにはどういう方法が適しているのか見極める事、なのかもな」
ゆるるとしては一刻も早くユールを復調をさせる為に積極的な介入をしたい所なのだろうが、敢えて静観を選び経過を見守るのもまた間違いではないように思えた。
いずれにせよユールを思って行動している点で、ゆるるの優しさが存在していたのは明らかであっただろう。來見の言葉を受けた後、ゆるるがどのような選択を行ったとしても決して咎めたりはしない。ゆるるの意思を尊重する立場を取ろうと、來見は考えていたのであった。
そして、時を待たずしてゆるるの判断は下される事になる。あるいは來見に相談していた時点で、答えは出ているのも同然であったとも捉えられたかもしれない。そんな來見の予想を証明するように、ゆるるは口を開いていた。
「もっと具体的に。……ユールに、他のものに目を向けさせるとしたら、何が良いと思う?」
「そうだな……それこそ、2人の共通の話題があるだろ?あだ名の由来にもなってる趣味とかさ」
「本、読書……映画でも良いのか」
「ついでに外に連れ出して、日光を浴びたら気分も明るくなるよ。後はお前との楽しい経験で、一時的にでも辛いことを忘れさせてやれば良い。……やり甲斐あるだろ?」
來見は発破を掛けるように、敢えて挑発的な物言いでゆるるに語り掛けていた。人によってはプレッシャーに感じるかもしれない話しぶりに、しかしゆるるは動じてはいないようだった。來見の予想した通り常と変わらない声色で、ゆるるは淡々と返答してくる。
「……まぁね。そうしたら後は……時間が解決してくれるかな」
「俺は医者じゃないから何とも言えない。今までの話も、あくまで俺の考えでしかないから……模範解答とは違ってると思うし」
來見は散々好き勝手に言っておいて、今更ながら予防線を張るような事を宣ってしまう。これではとても、頼り甲斐のある人間にはなれていなかっただろう。それでも來見は誤解される事なく自分の考えを伝えようと、最後まで言葉を続けていたのであった。
「でも、ゆるるは今の時点で誰かに相談するっていう選択肢を取れてるから……心配ないかなって。ユールに対して、自分の手には負えない状況になる前の段階で、お前は周りに助けを求められるだろうから」
「それこそ、医者にね。……なんか褒められたのかどうか、よく分かんないけど。とりあえずアンタの意見は参考にはするよ。効果があるか検証してみる」
「うん、そんな感じで頼むよ」
ゆるるの返事に來見がさっぱりとした相槌を打つと、何故かため息を返されてしまう。ゆるるは毒気のある言葉を吐いたつもりだったのだが、來見には通じていないとでも思ったのだろうか。呆れにも似た感情が伝わってくるものの來見は全く気にしてはいなかった。それよりも、残るもう一つの問題を解決する為に次の話題へと移っていたのである。
「治験についての怖さの方は……どうしたもんかな」
「ボクの方から話題にしておいて何だけど。それはもう授業料と思ってもらうしかないんじゃない?散々、治験に関する危険性は説明されてた訳だしさ」
「ゆるるにそう言われると、俺から言える事は無くなっちゃうな……」
確かにゆるるの言い分は尤もなもので、ユールはある意味、事前に前振りをされていた危険性をその身に刻まれる形で思い知った事になるのかもしれない。全く別の角度から巻き込まれたこと自体は非常に不幸な体験ではあっただろうが保護者共々、了解した上で行われている点を踏まえると治験に関する文句は言える立場ではなかった。勿論、度を越した健康被害が生じた場合には、また話が変わってくるのだろうが――今のところユールやゆるるにその兆候は見られない。
そもそも今回の薬害に関して治験そのものには落ち度は無かった。つまりユールの中ではゆるるを治験に付き合わせた事が先日の事件に繋がっているのだと、誤った関連付けがなされている事になる。だからこそ本来なら抱く筈の無い、筋違いの恐怖心を治験という行為に抱いてしまっていたのだろう。
悲しい擦れ違いとも形容できるその問題は、時間を置いてユールが冷静な考えができる状態に戻れば解消されるものかもしれない。何せユールやゆるるには戸伏 谷塑目の凶行を前にしても、彼と一般的な医者は違うと判別できる賢さがあった。それらを思えば來見ができる事は、もはや限られていただろう。
來見はゆっくりと言葉を選びながら、ゆるるへと話を続けていたのであった。
「ただ、君達がやってきたのは立派な事には違いない。今後、治験に参加するのを止めたとしても……これまでの協力を褒める事はあっても、誰も責めたりはしないよ」
「……そんな大層なこと、してないけどね。ボクからしてみればタダで飲み食いする為に献血へ行くようなもんだった。……まぁ、ボクはまだ献血できないんだけど」
「善意で成り立つものは、比較するもんでもないけどさ……治験に関しては健康被害が出てもおかしくないのに、ちゃんと主旨を理解して参加してたのは偉いよ。本当に」
だからユールもゆるるも、胸を張って良いと思う。來見がそう続けると、ゆるるは暫しの間黙り込んでしまっていた。來見が伝えたのは嘘偽りのない本心であったのだが、少し大袈裟に言い過ぎただろうか。ゆるるからしてみると素直に受け取るには面映ゆい表現であったのかもしれない。來見が更に言葉を選ぶべきだったかと考えを巡らせていると、電話口からは感情の読み取れない声色で返事が返ってきていたのであった。
「アンタさ……そういう、人の良いとこ探しばっかりしてるの疲れない?癖なの?」
「癖、なのかな……それ、直展さんにも同じようなこと言われたよ。2人は気が合うかもな」
來見は最後まで言ってしまってから、それが失言であったと気付く。ゆるるにとっての直展とは、起こってしまった問題が問題なだけに中立な立場では評価できない人間の一人であっただろう。憎らしいとまでは思えないが、だからと言って全面的に好意を示す事も難しい。正直に言えば今はあまり触れないでいて欲しい類いの話題を出された上に、その人間との相性など伝えられてもゆるるは困るだけに違いなかった。
來見は遅れて自身の迂闊さを理解するが、言葉に出してしまった以上無かったことにするのは難しい。來見がどうにか話題を変えようと慌てて思考を巡らせ始めたその時、しかしゆるるが助け船を出すように話を引き継いでいたのであった。
「いや、ボクが間違えてた。アンタは人が良くて懐が深いと言うか……ちょっと距離感おかしい人なんだ。多分」
「……え?初めて言われたな、そんなこと……」
思いもよらない、ゆるるの言葉に來見は先程まで考えていた事も忘れて惚けてしまう。しかし、その反応も織り込み済みだったのだろう。ゆるるは來見を指導するかのように、説明を続けていく。
「今つるんでるのは仲良い人だから気付かないんだろうけど。ついこの間まで知り合いでもなかった人間に対して……遠慮がなくなるのが早すぎる」
「そ、そうか?悪い。馴れ馴れしかったかな」
「……その上で、多分。そういう態度を許してくれる人を選んでそうな所が……良い性格してるね?」
ゆるるの駄目出しに來見は少しだけ胸を抉られる思いを抱く。來見にそのような自覚はなかったのだが、ゆるるの目には自分は遠慮のない図々しい人間として映っていたのだろう。來見は肩を落として――ついでに声色も沈んだ状態で、ゆるるに質問を投げ掛けていた。
「つまり……嫌な人間に見えた?」
「そんな話はしてないでしょ。大体、相手の立場によって態度を変えるなんて当たり前だし。単純に、ボクから見たアンタがそうだったってだけ」
「……なるほど?」
これはゆるるなりの、あまり気にするなという助言だったのだろうか。しかし褒められてはいなさそうな論評を來見が無視できる訳もない。過去の自分の立ち振る舞いを見つめ直すべきだろうかと考え始めていると、それを遮るような声が來見の耳に届いていた。
「あ、反省会とか始めるなら一人でやって。ボクの用件は終わったから」
ゆるるは來見との会話によって、ユールに対して取るべき行動の方針が定まったのだろうか。もはや來見は用済みだとでも思っていそうな振り切りぶりで通話を切ろうとしていた。それに悪感情を抱く事もなく、面白がってしまうからこそ來見はゆるるに対してつい気安い態度を取ってしまうのだろう。しかし自分の振る舞いの原因を相手に求めてしまうのもまた、年長者のする事ではないように思う。來見にはやはり自分を客観視する能力が足りていないのだろう。そんな自己分析をしつつ、來見はゆるるへと言葉を返していたのであった。
「あぁ、うん。……ところで、この番号はゆるる名義で登録しても良いんだよな?」
「……お好きにどうぞ。じゃ、さよなら」
「うん。ユールにも、よろしく伝えといてくれ」
ぶつり、と切られると思っていた電話はしかし未だ繋がったままの状態であった。まさか來見が先に通話を切るのを待つという、目上の者に対する礼儀のようなものがゆるるにもあったのだろうか。來見が驚き固まってしまった為に降りた沈黙は、しかし相手の言葉によって直ぐさま打ち破られていた。
「……そう言えばユールから、アンタに伝言があったの忘れてた」
「……色々と世話焼いてくれてありがとう。あと、薬を吐く時に席を外してくれて良かった。……あまり見られたくない姿だったから。……だって」
ゆるるがぽつりぽつりと語った言葉を、來見は電話越しに頷きながら聞いていた。ユールの体から薬を取り除こうとしていた、あの瞬間。來見はそこまでユールの気持ちを汲んでいた訳ではなかった。ただ常識的に考えて、ユールは然るべき場所で体を休ませるべきだという思いから、來見は園内のスタッフを探しに行っただけである。
しかしそれが回り回って、ユールの精神的な負担を幾分か取り除いていた結果に繋がっていたのは幸いな事に違いなかった。もしかすると來見という部外者が一人増えていた事で、ユールは緊張から上手く薬を吐き戻せなかったという可能性も今更ながらに考えられる。來見は改めて、時と場合によって取る行動は変えるべきなのだなという知見を得ていたのであった。
「そっか。……ユールには気にするなって言っておいてくれ。困っていたら助け合うのは当然の事だし、とにかく無事で良かったって」
「……気が向いたらな!!」
殊更に大きな声を発していたゆるるは、複雑な思いを抱いていたのだろう。ユールに他所の男を近付けさせたくない嫉妬心が、電話越しにもありありと伝わってきていた。
しかし、それでも。ゆるるは最終的に渋々ながらも來見の言葉を伝えるのだろう。それは他ならぬ來見にユールの伝言をきちんと教えてくれていた事実が正しく証明しており――どれだけひねくれた態度を取っていても、やはりゆるるの性根までは腐っていない。それが來見の、ゆるるに対する総評となっていたのであった。
「……あ、切られた」
そして今度こそ、何の躊躇いもなく電話は切られる。來見は何処か愉快な気持ちで、ゆるるの許可が得られた事を免罪符にして新たな電話番号を登録していくのであった。
(やっぱり祝から連絡来てたな。こっちにも返事して……っと)
改めて携帯電話を確認すると、ゆるるとの通話前に祝から連絡が届いていたのが分かる。
祝は遊園地でユールに連絡先を渡しており、その伝を通じて來見の連絡先も教えていた。勝手に教えて申し訳ないが子供達から電話がかかって来るかもしれないので、できれば応えてあげてほしい。凡そそのような内容が書かれたメールに來見は了承を告げる返信をしていく。
それから数分後に送り付けられてきた送信者が不明なメールを開き、來見は笑い声を溢してしまう。それは未来からの予言であったり、今回の事故を未然に防いだ事に対する謝意を告げるものでもなかった。ただ一言、ユールとだけ綴られた内容は送信者が誰なのかを明確に示しており。來見は先程の電話番号とセットで登録する為に、編集を行っていくのであった。
思えば、戸伏 谷塑目の計画は直展の言った通りいつしか露見していた事だっただろう。聞いていた限りでは谷塑目は娘の死因である病への早急な対抗策が欲しかったのであろうが、その手段を探す方法があまりにも杜撰すぎていた。
來見は医学に対する知見が深かった訳ではない。しかし、そもそも特定の病に対する特効薬は同様の病にかかっている生物に対して実験しなければ、作り出せる筈もなかったように思う。
つまり治験の為にワクチンを注射していたという特殊な環境下ではあったものの、現在進行形で病にはかかっていなかった子供達を対象に独自の薬を投与しようとした谷塑目の判断は誤りに違いなく――成果を焦るあまりに、彼は誰も得をしない見当違いな計画を実行してしまっていた。その行動を起こすにあたって、谷塑目の精神の疲弊具合は大いに関係していたことだろう。健全な決断をする事が不可能に近かった谷塑目は、そうして間違いを犯した。
谷塑目には同情できる部分もあっただろうが、人としての規範は守らなければならないものだと來見は思う。谷塑目に限らず一人ひとりがそうする事で世間の平和が保たれるから、というのが大きな理由の一つには違いない。しかしそれだけではなく、谷塑目が逮捕されるのは彼自身にとっても良い事なのではないかとも來見は考えていた。
きっとこれを切欠にして谷塑目と直展はきちんと枝延の死と向き合う事ができる――と信じたい。そして、谷塑目がもし薬剤師であり続ける事ができたのであれば今度こそ手段を間違える事なく、薬の研究に挑んで欲しい。それが巻き込んでしまった人々に対する償いにも繋がる筈だと、來見は一人考えてしまうのであった。
2022年。某所。
薄暗い室内の中で、スーツ姿の男とカジュアルな私服姿の男が向かい合って座っていた。2人の間に横たわるデスクには幾つもの資料が広げられており、そこにはごく個人的な情報ばかりが記載されている。私服姿の男はそれら一つひとつを検査するように目を通していくと、ため息と共に結論を口にしていた。
「間違いありません。これは……俺の親父です。戸伏 谷塑目、その人だ」
戸伏 谷塑目の姿が映った鮮明な映像や写真を入手する事は非常に難しく手間取ったのだが、どうやら成果は見事に現れたらしい。肩を落とし告白する私服姿の男――戸伏 直展に向けて、スーツ姿の男は一度首を縦に振る事で応えていた。
「なるほど。それは……これまでの調査報告書を見た上での結論だと、受け取っても構わない。そういうことですね」
スーツ姿の男は念を押す。間違いがあってはならない。しかし対象者の身元の特定が正しいものであったとなると、これからの自らの立ち回りに大きく関わってくる事になる。そんなスーツ姿の男の祈りにも似た思いに呼応するように、直展は言葉を続けていた。
「分かっています。この写真の人物が整形して親父の顔を使っている可能性について、確認したいという事でしょう」
「……それでも、やはり。この人物は俺の父だと思います。仕草が、特に後ろから見た歩き方があまりにも……昔よく見た親父、そのものだ」
悲痛である筈の直展の告白は、殊の外あっさりと行われていた。直展は確かに認めがたい事実を目の当たりにしている筈であるのに、既に諦めの境地に至っているような達観した様子のままでいる。あるいは現実味がないからこそ、このように落ち着いていられるのかもしれない。スーツ姿の男は形容しがたい直展の姿に面食らったように一時言葉を失うも、自身の職務を全うするために確認を続けていたのであった。
「……この人物は穐生楽組という反社会的集団に属している事が明らかになっています。組織内での呼び名は、シアン。違法薬物の画期的な加工法を発見した事で組織内での序列が上がり、その販路の拡大にも加担したとも言われている人物です」
「シアン……シアン、か。それは凄く……響きが似ている……」
直展は視線を宙に彷徨わせる。その頭の中ではシアンという単語の意味よりも、その発音が亡き妹の名前と似ている事に意識が向いていたのだろう。戸伏 枝延という存在は、戸伏 谷塑目だけではなく兄である直展にとっても大きな存在に違いなかった。
「……あぁ、すみません。話が逸れました。その人物が作り出したのが、一見すると子供用の水薬や飴にしか見えない薬物……でしたね。酷い才能があったものだな、本当に」
直展は気を取り直して本筋に戻ろうとしたようだが、改めてシアンの凶行が記載された資料を読むと感情が高ぶるものがあったのかもしれない。対話をする為というよりは抑えられない苛立ちを吐き出すようにして、直展は言葉を続けていたのであった。
「それだけに飽き足らず、専属の調剤師として個人の体質に合わせた違法薬物を処方するなんて。薬物の危険性を知っている人間のする事ではない……医療に関わる人間の風上にも置けない、最悪の犯罪者だ」
強い口調でシアン――推定、戸伏 谷塑目を詰る直展は一頻り不満を口にした為だろうか、段々と頭が冷えてきたのだろう。大きな深呼吸の後に溜め息をつくと、俄に押し黙るのであった。その隙を見逃さずにスーツ姿の男は口を開く。
「……戸伏 谷塑目は数年前。無許可の医薬品を製造するという薬機法違反を犯した上で、人ひとりを重度の中毒状態に陥らせた疑いがあるとして捜査の対象者になっていました」
「そうですね。俺の所にも警察の聞き込みがありましたから……しかし結局のところ、何故か親父は懲役刑を科される事はなかった。弁護士が言うには情状酌量の余地があったという話だったが……」
仕切り直したスーツ姿の男に合わせて、直展は当時の記憶を思い返していく。ある時を境に疎遠になっていた父の状況はその身柄の拘束後、弁護士から伝え聞くばかりで。直展は何の疑いも持たず受け入れるだけだった。しかし、それは間違いだったのかもしれない。直展は肩を落として、気付けば誰にも言わずにいた内情を吐露していた。
「今、考えると。あの弁護士は俺が……事情を飲み込めていないのを良いことに、耳障りの良い言葉で誤魔化していたように思う。……それも親父からの指示だったのかもしれません」
「……罪が確定した後。罰金を支払った戸伏 谷塑目はその後も病院を転々とし、薬剤師として働き続けていた」
「免許取り消しにも、なりませんでしたからね。……住み慣れた土地を離れてしまえば、親父は誰からも前科者として認識される事はなかった」
「彼が静かに慎ましく暮らしていく分には、何も問題がなかった筈だった。だが……ある日、退職届けを職場に出してからは突如として行方知れずとなってしまっていた」
2人の男は互いが持つ情報の擦り合わせを行うように対話を続けていく。スーツ姿の男は自分の思考に夢中になっている為か、直展に対する最低限の体裁を――敬語の使用をすっかり忘れ始めていたのだが、それを気にする者はこの場には存在していなかった。刺すような目付きで遠くを見つめ上辺だけでも取り繕うのを放棄したスーツ姿の男に気分を害する事もなく、直展は一つの疑問を提起していたのである。
「あんまり、こういう考えはしたくないのですが。……親父の犯罪が明らかになった時に目を付けた反社の人間がいて、その人物が取り成したからこそ親父の罪は……軽くなったって事なんでしょうか」
「……現時点では、何とも。此方としても司法機関に口利きのできる反社会組織の人間が存在するとは、認める訳にはいかない事情もありますが」
「それは……そうですよね」
眉間に深い皺を寄せ渋面を作るスーツ姿の男を見て、直展は思わず苦笑してしまう。確かに、そのような存在を許してしまえば社会は大きな混乱に陥ることになるだろう。直展という一般人の目線からしてみても、それは好ましくない状況であり。現時点で、司法が冒涜されてはいないという事を祈るばかりなのであった。
「しかし少なくとも、刑罰を受けた戸伏 谷塑目に近付く人間がいた事は確かでしょう。だからこそ彼は一度姿を消した後に、こうして……穐生楽の中で活動している」
「逮捕された事で露見した製剤の腕を買われた、と。……何を吹き込まれたのかは大体、予想できます。将来の為に、子供の為に……違法だとしても研究を止めるべきではないとか、そんな甘言に釣られたんでしょう」
それにしても何て馬鹿な道を選んだんだ。そう呟きを残した直展は呆れたように首を左右に振っていた。
直展と谷塑目の交流は長らく途絶えていたという話であったが、曲がりなりにも親子として過ごした時間は間違いなく存在している。その経験こそが直展に、父の心の機微を推察させていたのだろう。父に対する洞察力の高さと直展の抱く深い失望は、まるで比例しているようでもあった。
「此方としても、そのような経緯であったと認識しています。戸伏 谷塑目は病で娘を亡くしており……表面的にはその不幸への折り合いを付けていたが、実情は違っていた」
「枝延と同じ病状の子供を……その後遺症で苦しむ人たちを救いたい気持ちは分かります。でも親父は、決定的にやり方を間違えた」
父が初めに抱いた崇高な理念を、直展は非難するつもりはない。しかし着実な結果を求めていればこそ、父は正式な手順を踏んで研究を進めるべきであった。確かにそれは時に酷く遠い道のりに思え、ままならない現状に焦る気持ちが表出してしまう事もあるだろう。だがそれは誰であれ訪れ得る試練であり、父だけに振り掛かる理不尽な出来事では決してなかったのである。
「義務感にも似た妄念に取り憑かれた結果、自分の行いがより多くの人々へ危害を加えている事に気付いていない。……いや、その現実から目を逸らし続けているのか」
直展は身内だからこそ、厳しい視線を向けなければならないという気持ちで言葉を続けていた。スーツ姿の男はそれを見て押し黙ってしまう。男は複雑そうな表情を浮かべる事を止められず、困った果てに出てきた言葉は無難としか表現できない簡素な一言でしかなかった。
「心中、お察しします」
「……とにかく、この写真の人物は親父に違いありません。俺が保証します。ですから……」
「はい。その確証が得られた今、迅速に次の段階へと計画を進めさせていただきます。……貴方には近日中、此方が提供する場所で戸伏 谷塑目への接触を試みてもらう事になる」
スーツ姿の男の言葉に直展は深く頷く。それは予め直展が打診されていた作戦であり、合意していた取り引きの内容でもあった。直展は自分の認識とスーツ姿の男の間に齟齬がないか確かめる為に、その思考の一つひとつを明確な言葉にしていく。
「ええ。事前に説明していただいた通りに。俺が親父に自ら出頭するよう働きかけ……司法取引を利用した、罪の軽減を持ち掛ける」
「……本当に、よろしいのですね」
スーツ姿の男は気遣わしげに直展へ語り掛ける。何処か厳かな雰囲気で2人の人間が対話していた空間で、しかし直展の笑い声が小さく響き渡っていた。
直展はスーツ姿の男が、どういう意図を持って自分に接触してきたのかを知っている。彼の立場では問答無用で計画を推し進める事こそが最重要であり、そうするべきである筈だと直展自身理解していた。つまるところ、彼の立ち振る舞いは実にちぐはぐな姿として直展の目には映っており――直展に対する配慮を何とか利かせようとする男の態度が滑稽でありながらも、確かに人の良さを感じさせる点が直展に好感を抱かせていたのであった。
「危険がどうとか、そういうのよりも。親父が俺の話を聞いてくれるかが問題になるでしょうね。それでも、もし暴力沙汰にでもなれば現行犯逮捕できますから……悪くない計画だと思います」
「……滞りなく事が進み、対象の逮捕にまで至った場合。情報統制を行ったとしても貴方と戸伏 谷塑目の親子関係は明るみに出る可能性があります。それでも……」
「構いません。世間にどう思われたとしても……俺はどこまでいっても、あの人の息子には違いない」
男の再三の念押しに直展は明確な返答を述べる。確かに自分に関する根も葉もない噂は、あっという間に広がっていくかもしれない。誤解が溶けたとしても、知り合いからは腫れ物に触れるような扱いをされかねないだろう。
しかし最早、他者から疎外される事を直展が恐れることはなかった。何故ならそれは直展に対する間違った評価ではなく、むしろ正しい反応に違いない。直展は既に手遅れになった父親への責任感から、そのように考えていたのであった。
「あの時、俺は……親父への違和感を見逃して相互理解の場を放棄した。……そして親父はそれすらも見越していたように、違法製剤の証拠を隠してしまった。全ては俺の気のせいであったと錯覚させるかのように」
直展は父の書斎で目にした資料と、違法な製剤の痕跡を発見してしまった日の事を思い返す。無我夢中で走って向かった先では投薬を受けた子供を見付けられず、しかし――後日、資料で読んだ人物名と同名の子供が重篤な障害を身体に残した事件が起きていたのを知ってしまった時の、過去の記憶。
偶然にも治験によって投与されていたワクチンに、その重篤な症状に似た副反応を引き起こす可能性があった事から、父は追及の目を逃れていた。そして、直展が再び父の自室を訪れると怪しげな物品は一つ残らず消えていたのを確認してしまったその瞬間。直展は確かに、抱いていた猜疑心を封じ込め見てみぬ振りをしてしまった。それは間違いなく自分の罪だと、直展は自覚していたのである。
「そして、その後……結局、親父は別の人物を害した罪に問われ、刑罰を受けた。それは俺の過ちをも立証していたでしょう。……本来であれば過去に当たっておくべき罰が、今まで待ってくれていただけですから。俺に構わず、進めてください」
「……分かりました。それでは、手筈通りに」
「はい。どうか……親父から得た情報を、平和の為に役立てて下さい。俺が望むのは、それだけです」
「必ず。それが……我々の職務でもありますから」
直展とスーツ姿の男は、そうして会話を終える。スーツ姿の男が鉄色の頭を下げるのを認め、直展も同じように会釈をすると2人は各々の道を別れて進んでいく。
多くの人々が知り得ない中で行われた話し合いは、やがて大きなうねりとなり広がっていく。この日を境に穐生楽組という世間に害しか与えない組織を解体する為の作戦が、確かに動き出していたのであった。




