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平成トランスポーター  作者: 夏名
53/54

21-3 ユル

(缶は開けたら飲みきらないといけなくなるから……ペットボトルの方がいいか)


 自販機の前に立つ來見(くるみ)はその多種多様なラインナップを眺めつつも、保存の事を優先的に考えた判断を下していた。紙幣を自販機に飲み込ませた來見は奇をてらわず、無難とされるであろう飲み物を順番に選択していく。しかし最後の購入ボタンを押す直前に、その指は空中でぴたりと動きを止めてしまっていた。


(水と、お茶と……一つくらいはジュースも買っておくか)


 ジュースと言えば炭酸も候補に上がってくるが、当のユールが飲めるとは限らない。そもそも、しゃくり上げていた者の気管支には少々刺激が強すぎる部類のようにも思う。喉が渇いた際の勢いで飲ませてしまうと、噎せるのを誘発する危険性もあっただろう。

 とは言えこれらの懸念は、恐らくは杞憂なのだと來見は理解していた。しかし結局、炭酸飲料は候補から外して來見は飲み物を選び直していたのである。


(好き嫌いの少なさそうな……リンゴジュースで良いか)


 代わりと言ってはなんだが、間違い(問題)の起きにくそうな種類のものを來見は選ぶ事にする。

 行き場を無くしていた人差し指を目的地へと導き、3本目の飲み物を購入した、その瞬間。ペットボトルの落下する音に被せられるようにして放たれた声が、再び來見の動きを引き留めていたのだった。


「ちょっと、いい」


「……?」


 勘違いでなければ、その声は來見に掛けられたものだった。飲み物を取るために屈みかけていた來見は姿勢を正し、音の発生源を探すように周囲へと視線を巡らせる。すると探し人は、存外近くにいたらしい。並び立つ自販機の影に潜むようにして佇む子供は、両腕を組んで來見へと鋭い視線を向けていた。

 先ほどのユールではないが、既視感を覚えるその距離感に來見は僅かに動揺する。しかし声を掛けられた以上、無視するのは礼儀に反することになるだろう。來見は話を進めるために自分から口を開くのであった。


「えっと、君は……」


「さっきまで、あの子と話してたよね」


「ん?あの子?……ユールさんの事?」


「何で……あの子が泣いてるの。事情を知ってるなら話して」


 仁王立ちをしている子供は、來見の背の向こう側――(ほおり)とユールが座っているベンチを顎で指し示していた。少女とも少年とも判別がしづらい容貌を備えた子供は存外に低い声で、畳み掛けるようにして來見へと質問をしていたのである。

 体躯こそ小さいが、その全身からは敵意にも似た気迫が溢れ圧倒的な存在感を放っている。返答が遅れたその瞬間に噛み付いて来そうな佇まいは、來見を威嚇していたと形容しても過言ではなかっただろう。

 來見は情けなくも気圧されそうになる自分を叱咤して背筋を伸ばす。依然としてなぜ自分が厳しい態度を取られているのか、來見には理解できていない。しかし語るべき適切な言葉を返さなければならないという使命感から、來見は必死に頭を回転させ始めていたのであった。


「……もしかして君は、ゆるるさん?」


「呼び捨てで良いよ、べつに」


 來見は状況的にも、目の前の子供が誰であるのかは直ぐに推察することができた。言葉少なだが否定する素振りを見せていないところからも、子供の名はゆるるに相違ないのだろう。意志の強そうなぱっちりとした目は、名を言い当てられた動揺から微かに泳いでいたのだが、ゆるるは怯む事なく再び來見と視線を合わせにきていたのだった。


(……確かに、あの子とはまた違う系統の服装ではあるかもな。この子の方がオシャレかどうかは、よく分からないけど)


 來見はもはや習慣になりつつある癖で、ゆるるの観察を進めていく。切れ上がった眉毛と跳ねる目尻が勝ち気な印象を与えてくる子供は、歳のわりには大人びた装いをしているようであった。

 ボリューム感のあるタートルネックに七分袖のスプリングコートを羽織り、ハイウエストのワイドパンツからは柔らかな印象を引き締めるような無骨なワークブーツが覗いている。ゆるるの服装は全面的に淡く明るい色合いで、ユールの隣に立っていればその軽やかな印象がより引き立つような案配になっていたのだろう。

 ユールとゆるる、2人のどちらがより多くの目を引くのかは場合によるとしか言いようがなかったが――ユールの掲げたオシャレさが、どのような分類のものだったのかは分かったような気がしてくる。來見は先程のユールの言い分に一定の納得を示していたのであった。


「それより、理由は。ユールが泣いてた、理由」


 來見は続けられた声によって気を取り直す。來見が考えを巡らせていたのは僅かな時間であった筈だが、目の前のゆるるは急かすようにして頻りに問い質そうとしていた。

 ゆるるは表面上は取り乱す事なく、冷静さを保っているようにも見える。声を荒らげたりもしていない。しかし定まらない視線は何処か浮き足立っている様子を滲ませており――恐らくその内心は平常であるとは言い難い不穏さを纏っている。そんな予測が來見にはついてしまっていた。


 そもそも、単純にユールを探しに来たのであれば真っ直ぐに友人の元へと向かえば良い筈である。ユールの腰掛けているベンチと來見が現在立っている自販機の前という場所は、それほど離れてはいない。むしろ肉眼で互いの姿を確認するのも難しくはないくらいに、子供達は近しい距離に存在していた。

 しかし、ゆるるは來見の前にその姿を現しつつもベンチからは身を隠すように自販機の影に立っていた。つまりユールの前へは出るに出られない複雑な事情を抱えていることが想像でき――ゆるるは見た目ほど落ち着いてはいられない危機的状況に陥ってしまっていると、來見は推し量っていたのである。


「じゃあ聞くけど。ゆるる、君に心当たりは無いの?」


「……」


 ゆるるは來見の質問に答えない。しかしあからさまに顔を背ける素振りは、身に覚えがあると言っているも同然だっただろう。

 ゆるるには自覚がある。あるいはユールにそっぽを向かれた理由を知っていたとしても尚、それを認めることができていない。ゆるるの妙な態度は自分に落ち度があることから目を逸らそうとしている無意味な足掻きのように、來見には映ったのだった。


「……あの子は最初、俺に付き合って欲しいって言ってきて……」


「ハァ!?」


 來見は一先ず、何があったのか順序立てて説明しようとしただけなのだが、それはゆるるの大きな声で遮られる。全くの予想外な内容に驚きつつも、そこには明白に苛立ちのような色が滲んでいた。來見から見た今のゆるるは、自身のコントロールできない激情に振り回されているようだったのである。


「……それが、随分いきなりの事だったから。確かに俺は彼女から理由を聞き出してたよ」


「そ、それで……ユールは、何て?ボクの事……何か言ってたんでしょ」


(ははぁ、なるほど……)


 ここにきて來見はゆるるの事情を、すっから把握したような気になっていた。

 ゆるるはユールの今の思い(考え)を理解した上でないと、もはや身動きが取れなくなってしまっていたのだろう。それはユールの過失を探して責める為で、自身の行動の正当化を図る証拠が欲しかったからという理由に起因していた可能性もあったのかもしれないが――ゆるるから感じ取れる焦りを考慮すると、独り善がりな振る舞いの為に來見へ説明を要求していた訳ではなかっただろう。きっと実に単純な、これ以上は嫌われたくないという恐怖心がゆるるを突き動かしていた。來見はそのようにゆるるの思いを解釈し、その魂胆を見抜いていたのである。


「その口振りからすると、あの子に意地悪をしてた自覚はあるんだな」


「う……いや、べつに?教えてもいないのにボクの名前を知ってたから、そう思っただけ」


 來見の指摘を受けたゆるるは、尤もらしい言い分で追求を逃れようとする。しかしその誤魔化しも最早、來見には通じていなかった。

 ユールの証言とゆるるを観察して得た情報から、來見はある種の確信を抱いていた。そして、その正しさを確かめる為に一つの質問を口にしていたのである。


「ゆるる。君、あの子のこと好きなんだろ」


「な……何いってんの。そんな訳……あり得ない」


 ユールの話を聞いた限りでは、彼女達の間で起きた諍いは女の子同士のマウント取りの延長線上のようなものかと、來見は勝手に思っていた。しかしそれは実に一方的なもので、ユールには全くそのつもりは無かった筈である。客観的に見てもユールは日頃からゆるるに嫌味を吐かれる――大袈裟に言えば被害者の立場に置かれており、だからこそ不満を爆発させていた筈だった。

 しかし、いっそ性別は関係ない。ゆるるがユールに対して抱いている感情が特別なものであると考えると、その振る舞いの全てに説明がついてしまう事を來見は気付いていたのであった。


「……あの子を只の友達として見てるなら、そこは素直に肯定するところだと思うけど。あり得ないとまで言い切るくらい、君は焦って否定するんだな」


「くっ……」


「そもそも嫌いな人間と2人で遊園地に来る訳ないし……友情に収まらない特別な思いが、君にはあった訳だ」


 残念ながら、ユールには伝わっていないようだったが。そんな風に続く言葉を、來見は咄嗟に飲み込んだ。そこまで断定して、ゆるるの心を折る必要はなかっただろう。

 しかし來見の推理の正しさは十分に証明されていたように思う。何故なら、ゆるるは來見の追求を切り抜ける言葉を今もなお見付けられていない。來見からの底意地の悪い誘導に引っ掛かってしまった悔しさを露わにしながらも、ゆるるは反論する事ができずにいたのであった。


「あの子がオシャレをする度にからかうのは、人目を惹くような……所謂、かわいい格好をして欲しくなかったから。そうだろ?」


「うっ……」


「図星なんだ。なぁ、あの子は……自分には地味な格好をさせる一方で君がオシャレをしてきたのが、ちょっと嫌だったみたいだよ」


 來見に核心を突かれたゆるるは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、ユールの心境を知った事で急速に勢いを失くしていく。しかし正論ばかり述べられた事が、やられっぱなしではいられないという反骨心を煽ったのだろう。ゆるるは泳がせていた視線を來見に戻すと、顔を上げて異議を唱え始めるのだった。


「ほ、本当に嫌だったら今朝……顔を合わせた時にでも言う筈だよ。でもユールは文句なんて言ってなかったし、そもそも結局はボクのコーディネイトを受け入れてた!」


「そうだな。あの子が何を着てくるのかは、あの子自身が決めたことだから……その点については君に落ち度はないと思う」


「なら……!」


「だから。君が後になって矛盾したことさえ言わなかったら、あの子は怒らなかったんだよ。服装を変える切っ掛けとなった君にだけは……浮いてるとか地味だとか、言われたくなかったんだと思う」


 たしかにゆるるの言う通り、遊園地に何を着用してくるのかという選択は最終的にユールの意思で決定された事である。服装に関しては無理強いをされた訳でもないのだから、ゆるるに全面的に非がある事として問題にするべきではないのだろう。

 しかし、配慮が足りていなかった。あるいは、ゆるるとしては自分が着飾っているつもりも無かったのかもしれないが――これも恋は盲目と言う例に当てはまるものなのだろうか。好意を抱く相手と遊ぶにあたって無自覚に気合いの入った格好をしてきてしまった事が、ユールにとっては裏切りのように思えてしまったのだろう。悲しいすれ違いが不和を生んでしまっている現状に、來見はなんとも歯痒い気持ちになっていたのであった。


「君からしてみれば、服装に関して馬鹿にするつもりは無かったんだろうけど……見ての通り、あの子にも不満が無い訳じゃなかった」


 來見が視線をユールの座るベンチへと向けると、ゆるるは言い返す気力もなくしたのか肩を落として俯いてしまう。この様子では、自身の言動が今の状況を作り出す一因となってしまった事を身に染みて理解したのだろう。静かに落ち込むゆるるに対し、來見は更に言葉を続けていく。


「あの子は君と遊園地に来るのを、すごく楽しみにしてたって言ってたよ。……だからこそ、いつもなら許せた君にとっての軽口が……許せなかったんだと思う」


 ユールの自己肯定感を失わせた挙げ句に、自分ならそれを許容できるなどと嘯いて付け入るような悪辣さは、さすがのゆるるも持ち合わせてはいなかっただろう。むしろユールに自分よりも良い相手が出来る筈がないという願望を暗示のように自身に言い聞かせていた弾みで、不必要な言葉を常から口にしてしまっていたのかもしれない。

 好きな人に対して素直になれず意地悪をしてしまうという悪癖を、ゆるるは実践してしまっていた。その結果、ユールのゆゆるに対する心証が日に日に悪くなってしまうところまでは考えが及んでいなかったようだが――それもまた幼さ故の過ちであったのだろう。來見は目の前の子供が今回の失敗をバネに成長してくれる事を願いながら、ゆるるに対する分析を終わらせたのであった。


「ユール……ボクの事、嫌いになったって言ってた?」


「いいや。酷い事を言いそうにはなったけど……そうしたくないと思ったら、君を置いてきてしまったって説明をしてた」


「……やっぱり、イヤになってるじゃん」


「どうすれば良いのか分からなかったんだよ。君と喧嘩をしたくないって思いが強すぎた結果、説明不足(今みたいな状況)にはなってしまったけど……それは嫌いな人間に対して取る態度じゃないだろ?」


 拗ねたように口を曲げるゆるるを慰めるように、來見は客観的な事実を述べていく。それぞれの子供たちの様子からしても、2人が仲直りする事ができない筈はないと來見は直感していた。事情を知り、関わってしまった以上は何とかしてやりたいという思いも沸き上がっている。來見はゆるるに決断する勇気を持たせる為にも、上辺だけではない激励を送る事にしていたのであった。


「……知ったような口を利いてるけどさ。ユールが、はっきりそう言った訳じゃないでしょ?実際どう思ってるのかなんて……誰にも、分かるわけない」


「本当に、心の底からそう思ってるのか?会ったばかりの俺なんかよりも、君の方がずっと……あの子がどういう人間なのかは知ってる筈だろ?」


 來見は何度も、ゆるるに問い掛ける。そうする事で、ゆるるの中にまだ存在している筈である、ユールにとっても価値ある自分という人物像(自尊の心)を來見は思い起こさせようとしていた。

 どうか自信を取り戻して欲しい。ユールにはまだ見放されてはいないのだと、正しく理解して欲しい。この働きかけが果たしてどれほど通用するのかは不明瞭であったが、來見はできる限りの助力を惜しまず与え続けていたのであった。


「君も、あの子を泣かせるつもりは無かったんだろ。だから俺は……何もかも、君が悪かったとは思わない」


「……」


「でも、君の振る舞いであの子が傷付いたのは確かだ。それはもう分かってるんだろ?」


「……だから、ボクから謝れって?泣いた方が勝ちって、ズルくない?」


 あと一押しというところまで来たと思った目論見は、しかし外れていたようだった。殊の外ゆるるは頑なで、悪い表現にはなってしまうがプライドが高い質なのかもしれない。あるいはどうにもならなくなって逃げ出してしまったユールの姿が、まるで自己憐憫に耽っているように見えて反感を抱いてしまった所もあったのだろうか。

 何とかなりそうで、進まない現状。そんな中で來見はつい後頭部に手をやって、悩ましげな声を出してしまう。


「うーん。そう言われると……困っちまうな」


「ちょっと時間を置いたら、どうせ直ぐに元に戻るし。ユール、結構図太いから」


「そう思いながらも君は、ここでずっと足踏みしてる訳だけどな……」


「う、うるさいな……タイミングを待ってるの!ボクは!」


 ああ言えばこう言う、ゆるるの往生際の悪さに來見は段々と楽しくなってきてしまう。からかい甲斐のある人物を見付けてしまった嬉しさに來見は胸を踊らせるが、次の瞬間には慌ててその邪な心を抑え込んでいた。恐らくは年下であろう子供――しかも人間関係に思い悩む若者を茶化すのは、いくらなんでも大人げない。來見はこの場に相応しくない考えは即座に切り捨て、ゆるるとの話を進める為に再び口を開くのであった。


「……なぁ、そうやってユールに我慢ばっかりさせ続けたら。いつか本当に嫌われちまうぞ。君はそれでも良いのか?」


「ユールは……結局、許してくれるし。べつに……」


 來見の指摘に項垂れてしまっているゆるるは、結局のところ不安なのだろう。口では大丈夫だと何も心配する必要はないと吹聴していても、その表情は暗くゆるるの内面を露わにしてしまっていた。先程までよりも小さく見えるその姿に、來見はやはり放ってはおけないという庇護欲に駆られてしまう。

 來見としても、本来であれば口煩い事は言いたくなかった。しかし後の事を考えると、ここはゆるるに折れて貰わなければ収拾がつかないだろうという漠然とした思いもある。今の來見にできることと言えば、ゆるるをなんとか説得するという選択肢しか残っていなかったのであった。


(とは言ってもなぁ……無理に謝らせるのも違うだろうし)


「……どうしよう」


 考えを巡らせるも來見が手詰まりになりかけた、その瞬間。突如として転機が訪れる。辺りに小さくも響き渡ったのは來見のものではなく、ゆるるの声だった。その言葉には自分から何か行動を起こすべきなのかと迷う意志が確かに滲んでいたのである。


「君は、どうしたい?」


「……嫌われたくない」


「そうか。なら、君の思いを……あの子にも分かるように説明しないと、じゃないか?」


 來見は諭すように、ゆるるの背を押す言葉を選んでいく。考えに考えた結果――その途中でどれだけ躊躇していたとしても、最後には自分から歩み寄ろうとする譲歩の姿勢を示したゆるるの勇気は褒めてしかるべきものだっただろう。その根性に応えるように、來見は穏やかな口調で遠回しな提案をしていたのである。

 自分があまりにも具体的な指図を出してしまうと、ゆるるの考える余地が無くなってしまう。それはゆるるの思考能力を奪うのも同義であり、成長を阻害してしまう危険性もまた存在していただろう。だからこそ來見は、ゆるるの真心からくる行動をもってして、ユールと相対して欲しいと思っていたのだが――何故だか、ゆるるは顔を真っ赤に染め上げていた。

 突然の変化に來見が目を白黒させていると、ゆるるは肩を怒らせる程に大きく息を吸っている。來見は次に放たれる言葉がそれはもう大音声になる未来を理解しながらも、耳は塞ぐことはしなかった。自分のせいで起きたであろう異変を逃げずに受け止める為に、唯々諾々として続く言葉を待っていたのである。


「い、言える訳ないだろ!好きとか……どうとかなんて!」


「あ、あぁ……そこまで洗いざらい話せって意味じゃなかったんだけどな……」


 ゆるるが陥った思い違いを來見は即座に把握する。よかれと思って述べた婉曲的な表現が、ゆるるの勘違いを加速させてしまったのだろう。

 憤死でもしそうなゆるるを前に來見は反省する。このままでは真意が伝わっていない。來見はより分かりやすく、しかし直接的過ぎない言い回しをする事で、改めてゆるるに助言を授けようと試行し始めるのであった。


「えっと……つまり。誤解があるなら、それを解いていけば良いんじゃないか。そもそも、何が誤解なのかを君達は話し合わないといけないのかもしれないけど」


「……そうすれば、許してくれるかな」


「どうだろう。でも、君が一生懸命に言葉を尽くしたのなら……きっと伝わるものはあると思う」


 來見の言葉は白々しく聞こえたのだろうか。ゆるるは塞ぎ込むようにして視線を落としてしまう。ゆるるに弾みを付けさせるためであれば、何の根拠もないままにユールは許してくれると断言してしまうという案も、來見の中には存在していた。

 しかし、上手く事が進まなかった場合に多大なダメージを受けるのは他ならぬ、ゆるるである。無責任に焚き付けて、再起不能な衝撃を与える一因にはなるべきではない。來見は子供たちの間を取り持ちたいという願望と、それが叶わなかった場合の確率も考慮しながら立ち回っていたのであった。それは只の、自己保身でしかなかったのかもしれないのだが。


「謝ら、なきゃ」


「……何を謝るんだ?」


「前に喋った内容をすっかり忘れて……真逆の事を言っちゃったこと。……地味って言葉に、そんなに傷付くとは思ってなかったこと」


 ゆるるは言葉を噛み締めるようにして、自分が弁明すべきだと思った落ち度を一つひとつ上げていく。騒動の発端となった出来事をゆるるが理解し過ちを認めたのであれば、きっとユールもその誠意を無下に扱うことはしないだろう。來見は頷いて、ゆるるの選択を尊重する姿勢を見せていた。

 そもそもユールは常日頃から友人に対して甘い態度を取っていた事が窺える。だからこそ、ゆるるが謝りさえすればユールは手酷く拒否することなどはしないだろう。とは言え、ゆるるのこれまでの振る舞いを許すかどうかはまた別の話にはなってくるのだろうが――そう悪い方向には進まないだろうと、來見は予想していたのだった。


 來見はゆるるに、ユールへの謝罪を強要してはいない。確かに歩み寄ることを勧め、ゆるるが譲歩するように誘導してはいたが、結局は全てゆるる自身が決めたことである。これは、ゆるるがユールの服装をコントロールしようとした手口にも似ていたのかもしれないが――少なくとも來見のそれは両者の意思を汲み取った末の采配であり、何かを強く抑制していたり逆に強要する事もしていなかった筈であった。

 とは言え自然に任せていても何時かは解決する問題に対して、來見が余計なお節介を発揮しただけの可能性も当然あるにはあっただろう。だからこそ、どうか自分の行動がゆるるの反発心を宥め2人の和解する時間を早める手助けに繋がっていたように、と來見は願わずにはいられなかったのであった。


「……そうか。許してくれるかはユール次第だけど、それなら直ぐに行かなきゃな」


「うん」


「でも、まだ忘れてることがあるぞ」


「ん?なに?」


 随分と素直な受け答えをするようになったゆるると視線を合わせ、來見はつい破顔する。しかしその表情は見るものが見れば、一点の曇りもない純粋な笑顔ではなかった事に気付かれてしまうようなものだっただろう。

 一通りの対話を終えた來見は肩の荷が降りた解放感から、言わなくても良い一言をゆるるに対して主張していたのであった。


「控えめな服装でも可愛いって思ってるなら、そう言ってあげなよ。あの子、喜ぶと思うし」


「な!……余計なお世話だよ!」


「はは、否定しないんだもんなぁ」


「う、うるさいよ!……ボク、もう行ってくるからね!」


「あぁ、行ってらっしゃい」


 ゆるるは照れ隠しのように声を荒らげながらも、來見を無視することはない。その上、律儀にこの場から去る旨を報告してきていた。やはりゆるるは根本的には悪意がなく、少しだけ素直ではないだけなのだろう。ユールを特別視しているからこそ、彼女に対してその天の邪鬼ぶりが強く表出してしまうだけで、年齢を重ねれば改善していくだろうという想像もできる。來見は穏やかな声で、勇気ある決断をした子供を見送っていたのであった。


「……いや。それにしても、ちょっと……説教臭かったかな」


 駆け出す子供の背を眺めながら、來見は独りごちる。外野が干渉し過ぎるのは時に事態を悪化させかねない。助言というものは必要とされた時に過不足なく行うべきなのだろう。分かってはいても実践するのは難しいその理論を思い浮かべながら、來見は暫し反省する。しかし、あの様子であれば特に心配する必要はないだろう。來見は大きく息をついていた。

 少々意地の悪い考えではあるが、今回の騒動はゆるるが自分から謝る事でユールへの寛容さと大人の余裕を示す絶好の機会にもなり得るだろう。マッチポンプじみてはいるが、ピンチをチャンスに変えるのもある種、腕の見せ所ではある。しかし來見はその事実を、ゆるるに教えるつもりはなかった。

 ゆるるは純粋に誠実な気持ちでユールと相対するべきだろう。それなのに來見が余計な事を吹き込めば、その行動が打算的なものに変わってしまう恐れがある。來見は水を差すような振る舞いを控え、口を閉ざすという賢い(筈であると信じた)選択を取っていたのであった。


「つーか、これだと香椎(かしい)のこと言えねぇよな……自重、分別、自制心……」


 來見は自分に言い聞かせるようにして、課すべき単語を順に羅列していく。傍から見れば怪しげに映っただろう奇行をしながらも、來見は香椎からの影響について考え始めていた。

 以前の自分なら、あのような年下の子供を率先してからかうような事はしなかっただろう。つまり、明らかに香椎あたりから毒されている――気がする。自分がやられて嫌な事はすべきではないのに、來見は恋煩う者を茶化してしまっていた。そして同時に、反応が良い人間に構いたくなる気持ちも理解しつつあったのである。

 今の來見に必要なのは目先の欲望に負けずに、他者との距離を上手に掴む技術という事になるのだろうか。來見は自分が様々な出来事や環境に影響されやすい点に気付き始めていたのであった。


「でも、そうか。そういう意味では、香椎は上手くやってるんだな……」


 來見は今一度、友人の姿を思い浮かべる。散々、香椎は來見をおちょくってはいるものの、それによって本格的に不快な気持ちになった記憶はない。(対象)を選びつつも決して一線を越える事はなく、場合に応じて身を引ける駆け引きの上手さを香椎は持ち合わせていたという事なのだろう。自分にはない香椎の気さくさと明朗っぷりを來見は改めて認識していたのであった。


「……俺も行くか」


 人心地ついた來見は、ゆっくりと歩き始める。関わった以上、ユールとゆるるの顛末を見届けずにはいられない。自身の予測が希望的観測ではなかった事を確かめるためにも、來見は飲み物を抱えて祝の待つベンチへと戻っていく。

 來見の足取りは僅かの迷いもない。來見の意識の全ては視線の先にある3人にしか割かれていなかった。だからこそ――ゆるるとのやり取りを影から見ていた人物がいた事に、來見は一切気付く事ができなかったのであった。




「ゆるるのバカ……」


「うん……ごめん」


「次に同じことしたら、もう……怒るからね!」


「それは嫌だから、うん。気を付ける」


 言い慣れていなさそうなユールの罵倒を、ゆるるは甘んじて受け入れている。祝の手腕によるものだろうか、ユールの目元は赤くなっていたものの既に乾いていたようだった。感情の山場を越えて幾分か落ち着きを取り戻した事が、ゆるるの謝罪を受け入れる余裕にも繋がっていたのだろう。

 この様子では來見の間接的な仲介は成功したと認識しても構わないのだろうか。來見がちらりと視線を向けると、祝は小さく頷きを返していた。


「……大丈夫そうか?」


「うん。仲直りできたみたい」


 來見と祝は子供たちの邪魔をしないように、小さな声で会話をする。ゆるるが全ての弁明を終える程の時間はまだ経っていない。それでも一先ず、ユールの気は済んでいたようだった。あとは2人でゆっくりと話し合えば穏便に収まるのだろう。來見は事態が悪化しなかった事にほっと胸を撫で下ろすのだった。


「……あ!ああ、あの。この度は、ご迷惑をお掛けしました……!」


「いえいえ。仲直りできて良かったね!」


 ユールはふと我に返ったのだろう。來見と祝に向き直ると慌てたように一礼する。とは言え謝られるような事は特にされてはいなかった。來見は気にしていない旨を片手を上げる事で示し、祝は柔和な表情と言葉でユールに応えていたのであった。


「へ、へへ……」


「……ヘラヘラしちゃってさ」


 ユールが浮かべていた笑顔は、ゆるるとの間に生じた衝突が落ち着いた事への安堵によるものが大半を占めていただろう。しかし困ったように眉尻が下がっている点からは別の感情も窺える。そこには恐らく事態の収束に至るまでに來見や祝を巻き込んでしまった事への罪悪感や、第三者に個人的な内実を明かしてしまった恥ずかしさも入り交じっていた。

 その一方で、ゆるるは――ユールの内面を理解していたかはさておき、開口一番にそのだらしなさを叱責するような言葉を発していた。それはユールの揚げ足を取っているのも同然で、はっきり言えば喧嘩をした直後に取って良い態度ではなかっただろう。となると当然ユールは気分を害する事になり。來見の予想した通りに、彼女は眉間に皺を寄せ口を引き結んでしまっていたのであった。


「はいはい。折角仲直りしたんだから、そういうの止めよう。な?」


 このままでは再び淀んだ雰囲気へ逆戻りになると直感した來見は、ゆるるの口を封じるように間に割って入っていく。そして祝もまた、同じように考えていたのだろう。祝は新たな喧嘩の勃発を防ぐ為に、ユールとゆるるの気を逸らすような全く別の話題を口にしていたのだった。


「そういえば!2人の名前ってよく似てるよね。どっちかはあだ名だったりするの?」


「え……」


 ユールは祝の突然の問い掛けに目を瞬かせる。それは思わぬ質問に驚いていた反応だったのだろうが、遅れて内容を理解したらしい。僅かな硬直の後にユールは首を数回縦に振ると、説明を始めていたのである。


「ええ、えーっと。実は両方ともあだ名なんです。でも本名とは全然関係なくて。共通の話題から、取ってきたというか……」


「へーっ。なになに?趣味とか、好きなものかな?」


 ユールは頭に浮かんだ言葉を精査する事なく、次々に発していたのだろう。混沌としながらも補足を交えながら行われる解説は、祝の疑問に答えつつも次に繋がる話題の提供にもなっていた。

 ユール自身が会話を途切れさせないようにしようと努める目的意識を持っていたかは分からない。しかし少なくとも祝はユールの態度に思慮を感じ取り、好印象を受けたのだろう。それを証明するように祝は興味津々な様子で話の続きを促していた。

 妙に楽しげな祝の姿は來見にとって、琴線に振れるものがあった。常からして人当たりの良い祝ではあったが、いま浮かべている笑顔には掛け値なしの眩い輝きがある。それはユールが心を開き、数分前は赤の他人であった自分とも会話を楽しもうとする姿勢を見せてくれる事が何よりも嬉しいのだと――そんな思いを祝は全身で表していたかのように、來見の目には映ったのだった。


「……その説明いる?水溜まりよりも浅い理由しかないんだけど」


「ゆ、ゆるる!失礼な態度取らないの!」


 そこはかとなく良い雰囲気になっていた中で呆れたような声が響く。その出所はユールに指摘された通り、ゆるるその人からであった。

 ゆるるはユールに諌められるも、首を横に振りながら溜め息をついている。その態度からも分かる通り、ゆるる自身はあだ名の由来について特に拘りのようなものは無かったのだろう。あるいは、ゆるるの言う浅い理由を説明する事によって、ユールが來見や祝に飽きられる事態を避けたかったのかもしれない。

 ゆるるは自身のあだ名の付けられた経緯を心底、下らないと思っているのか。もしくは何の脈絡もなく付けられた名だからこそ、詳細など存在しないと言っているのだろうか。ゆるるの真意は今以て全く不明であったのだが――そんな態度を取られると俄然、気になってくるものがある。來見はつい期待するような視線をユールに向けてしまっていたのであった。


「……あ、あだ名は……小説の、登場人物の名前から取ったものなんです。少し前に流行ってた本なんですけど、知ってるかな……」


 來見の無言の圧力に押されたのか、ユールは躊躇いがちではあるものの話を進めていってくれた。そして最後に小さく付け加えられた小説の題名に來見は僅かな驚きを覚える。それは來見も聞き覚えがあるものであり、読破済みの本だったのである。未だシリーズ展開の続くその作品を思い返しながら、來見は口を開いていた。


「今も続編が出てる作品だよな。人気すぎて学校の図書室だと、いつも貸し出し中だったっけ」


「映画にもなったよね!……でも、ユールなんてキャラクターいたかな……ごめんね、私が覚えてないだけかもしれないけど」


 來見が過去の記憶に思いを馳せながら染々と語っている傍らで、祝は首を傾げていた。その事にユールは気を悪くしている様子はない。

 しかし、作品を知っていたのであれば記憶から掘り起こして貰いたいという思いはあったのだろう。具体的な名前を出すことで、ユールは來見と祝の海馬に働きかけようとしていたのであった。


「い、いえ!ご存じなくても、仕方ないと思います。主役ではないし、作中だと名字で呼ばれる事の方が多かったので……ええと、ユル・ユゴニオって言う人なんですけど……」


 そして、その試みは成功する。來見は曖昧ながらも、小説の登場人物を少しずつ思い出し始めていたのである。

 作中の舞台は日本ではない為に固有名詞の殆どがカタカナで表記され、正直に言うと覚えるのに苦労するものがあった。しかし、それは出版する側としても承知していたのだろう。本には登場人物の名前と、その個人を特定しやすくする情報に加え簡単な説明が纏められた表が別紙で添えられていた。小説を読み進める助けとなっていたその資料は、來見も途中で何度も参照していた為に強く印象に残っていたのである。

 最低限、人物の名前くらいは問題なく飲み込めるようになるその助け船に改めて感謝したくなる気分になりながらも、しかし來見は首を捻っていた。疑問に思った事は、本人に聞くしかない。來見はユールに対して、ある質問を投げ掛けていたのであった。


「多分、思い出したんだけど……その、少し意地悪なキャラクター……だったよな?」


 來見は言葉を濁しながらも、自身の記憶に齟齬がないか確かめようとしていた。もしかすると別の人物かもしれないと來見は考えていたのだが――予想は外れ、ユールはたちまち目を輝かせていた。

 恐らくユールは話が通じる事に気付き、喜んでいたのだろう。顔の近くまで上げた拳を握り締めると、堰を切ったように言葉を口にし始める。


「はい!すっごく嫌な感じに主人公たちを邪魔してくる人です!ことごとく失敗するんですけどね!人気も、あんまりないと思います!」


「お、おお……」


 ユールの勢いに來見は思わず仰け反ってしまう。先程までの控えめな様子からは一変してハキハキと明るい声で辛辣な事を言うユールの姿に、來見は動揺を隠せずにいた。

 一方の祝と言えば、來見ほどの驚きは覚えていなかったのだろう。彼女は気の抜けた相槌を打つだけの來見を他所に、ユールとの言葉の応酬を続けていくのであった。


「うーん。でも、そのキャラクターゆかりのあだ名を使ってるってことは……ユールちゃんは好きなんだよね?その、ユゴニオさんのこと」


「そう、そうなんです!何て言うか、鈍くてダメダメなところが良いっていうか。しっかり返り討ちにあう所が憎めないというか!あと絶対、今後の展開のキーマンになると思うんですよね!」


「おお……」


 ユールのあまりの熱量に、祝も終には感動詞しか口に出さなくなっていた。しかし目を白黒させていただけの來見とは違い、そこにはユールの言い分に対する納得や関心を示す意思が滲んでいたようにも思う。ユールは自身の好む小説を祝という他者にもアピールできるような意気込みを、確かに持っていたのであった。


「ユール。引かれてるから、落ち着いて」


「……あ、すす、すいません。あたし、こういう時に、直ぐ早口になっちゃって……」


 來見が様子を窺っている間に、話は終わりを迎えていく。ゆるるからしてみると、突如としたユールの暴走にも似た饒舌ぶりは日常的に見られるものだったのだろう。手綱を握るように慣れた様子で話の腰を折ったゆるるであったが、対するユールもその制止を甘んじて受け入れていたのであった。


「ふふ。その小説と登場人物のこと、すっごく好きなんだね」


「うん、良い読者だよ。時間を割いて作品について色々と考えてくれるんだから、作者冥利に尽きると思う」


 祝の言葉に続いて、來見は本心から思った事を口にしていた。小説の作者も、ここまで夢中になってくれるファンがいるのだと知れば喜ぶに違いない。望もうとも得難い読者の存在は、きっと創作における支えとなっていただろう。

 祝と來見は笑みを浮かべてユールへと優しい眼差しを送っていたのであった。


「お、お恥ずかしい……」


 ユールは顔を赤らめて体を小さく縮こませる。それは我を忘れて熱弁してしまった気恥ずかしさと、その姿勢を褒められた事に対する照れ臭さからくるものであったのだろう。來見たちの間には和やかな雰囲気が訪れ始めていた。

 しかし、ここでまた沈黙を破る声がある。疑問に思う前に把握できるその声の主は小さく溜め息をつくと、どこか投やりな様子で言葉を続けるのであった。


「……ていうか。さっきからボクらのあだ名が似てる説明になってないんだけど、それは良いの?趣旨、見失ってない?」


「あ、うっかりしてた……」


「自分の好きな話になると、本当に止まらなくなるよね」


「う、うう……」


 ゆるるの指摘にユールは言い返せないのだろう。しかし反骨心は残っているのか、ユールは首を竦めながらもゆるるを恨めしげに睨め付けている。

 この2人は放っておくと直ぐにこうなってしまうのか。それとも來見や祝という他人が側にいる事が、喧嘩の火種が生まれやすい状況を作ってしまっていたのだろうか。來見は内心どうしたものかと迷いを抱きながら、自身の気を落ち着かせようとして腕を組んでしまうのであった。


「良いから、良いから!それで、続きは?あだ名が似てる理由も教えてくれる?」


「あ。もも、勿論!」


 子供達のやり取りに思い悩む來見であったが、祝はそれを何でもない些細な戯れでしかないと判断していたのだろう。不穏な空気になりそうな所をさらりと流すと、祝はユールへと水を向けていた。そうなればユールとしても、何時までも沈黙を守っている訳にもいかない。ユールはゆるるへ向けていた鋭い視線を瞬きをする事で引き剥がすと、祝に向き合い口を開いていたのであった。


「そ、その、ユル・ユゴニオって……何となくゆるるに似てるなぁって。小説で読んだ時からそう思ってたんですけど、映像化されたら、これはもう!間違いないなって!」


「……で。ユールがいきなり、今日からボクはユルだって言い始めて……段々言葉が崩れていって、ゆるる呼びになってたって話。……ほんと、薄っぺらい理由!」


 ニコニコと説明をするユールとは裏腹に、ゆるるは素っ気ない様子で言葉を付け足していく。最後に吐き出された感想は誰に向けたものでもなく、思っていた事が溢れ出てしまっていたようだった。それでも、あだ名で呼ばれる事を嫌がる素振りも見せずに受け入れているのは、惚れた弱みというやつなのだろうか。そんな風に來見が分析している間にも、ユールは更に言葉を続けていく。


「でも、ゆるる、って言いやすいし。ゆるふわ感があって、可愛いから……良いあだ名でしょ?」


「はぁ。ユゴニオとボクは全然似てないと思うんだけどね。むしろユールの方が似てるって思った。……鈍感なところが、特に」


 2人で会話をし始めた子供達を眺めていた來見の脳内には、一つの予想が立てられていた。明確な証拠はないが、これまでの情報を整理していくと浮かび上がってくる、その考え。真相に近しいのではないかという自信も持てる解答の真偽を確かめる為に、來見は思わず口を開いていた。


「まさか、それで?ゆるるは当て付けで、ユルってあだ名で呼び返すようになったとか……?」


「まぁ……そんなところ。勝手にあだ名で呼び始めたのはユールなんだから、自分が同じ事されても文句は言えないと思ったし」


 曖昧ながらも來見の指摘を認めるゆるるは、どこか面倒くさそうに肩を竦めていた。それは自分の好意に気付いてくれないユールに対する不満を表しているようでもあり、半ば諦めの色も帯びていたようにも見える。


「ああ、あたしなんか、全然似てないんですけどね、本当に!外見からしてもそうだけど、ユゴニオ役の人みたいなクールさとか、ないですから!」


 そして、やはりと言うべきかユールはゆるるの心の機微を捉えてはいない様子で――ただ自分と、自分の好きなキャラクターは全くの別物であると主張するばかりだったのである。


「でで、でも、お互いを同じあだ名で呼ぶのって……何か良いなあって思って。それで、今に至ってます」


 お互いにユルって原型からは、ちょっと変わっちゃってますけどね。とはにかむユールに、ゆるるは満更でもなさそうな顔をしていた。ユールという呼び方も、ゆるるというあだ名と同様に発声しやすい形に変化していった末の愛称だったのだろう。

 文字で表記すると実にややこしいが発音されると違いが明らかな事も、似通ったあだ名を採用し続けている理由だったのかもしれない。ユールは頭高型で、(こう例えるのも何だが)ビールと同じ発声で呼ばれており、一方のゆるるは平板型で桜などの単語と同じアクセントをしていた。声に出すと混乱が少ないとなれば、敢えて呼称を変える必要性もないと子供達は判断していたのかもしれない。

 何にせよ、ユールとゆるるは方向性は違えども互いを特別視している事には変わりない。独特ではあるが仲の良さが伝わってくるエピソードに、來見は笑みをこぼすのであった。


「そっか……やっぱり2人は仲良しさんだね!遊園地に2人で来るくらいだし、良い関係なんだなぁ」


 パッと顔を明るくさせた祝は、おっとりとした声色の割に立ち入った話をし始めていた。その鋭い指摘に思わず背筋が伸びたのは來見だけではなく、ゆるるも同様だったであろう。果たしてユールはどのように答えるのか、妙な緊張感を覚えながらも來見は続く言葉を待っていた。


「そそ、そうですね。あたし達、昔からよく2人で遊んでましたし……幼馴染みって言うんでしょうか。家がお隣さんとか、そういう訳ではないんですけどね」


「幼馴染みかぁ。良いね、そういうの!同級生ともまた違う友だち関係ってことでしょ?」


「そそ、そう……ですね。今は通ってる中学もお互い違うので……それでも前と変わらず遊びに行く友達は、今のところ、ゆるるだけかもです」


 祝の語り口がユールと相性が良いのもあるのだろうか。祝が露骨に切り込んでいかずとも、ユールは次々に話を引き出されているようだった。祝に誘導しているつもりはなさそうだが、ユールが存外お喋りな性質である事も関係していたのかもしれない。自然な流れでより多くの情報を吐かせているようにも見える祝の手腕に、來見は内心舌を巻く。

 そして改めて分かった事といえば、やはりユールはゆるるの事を一人の友人として好いているようであり。ゆるるにとっては気の毒な事だが、もう一段上の特別な思いは未だ抱いてはいないという点だったのであった。


「……ん?中学?」


 しかしまた、ここで一つ新たに浮上してくる疑問がある。ユールの口振りでは、この2人の子供達は現在進行形で中学生という身分にあたるらしい。そうなってくると、平日である今日という日に遊園地を訪れているのは少々不自然な事のように思え――來見は首を傾げながらユールへと話し掛けていたのである。


「俺達も中学生だけど……春休みって、世間ではまだだよな?」


「あ、確かに。私たちは卒業旅行だから特別に、平日に来れてるけど……2人も学校はお休みだったのかな?」


「はは、はい!その、あたしが通うところは私立なのが関係してるのか……他の中学校よりも、少しだけ春休みに入るのが早いみたいで。まぁ、その分、別のところで帳尻合わせがあるんですけど……」


「へー!初耳!でも、そっかぁ。多分、カリキュラムとか私達とは全然違うんだろうね。そうじゃないと私立と公立を分ける意味がないだろうし」


「ですねー」


 來見としても初めて聞いた私立中学の休暇の仕組みに、祝はすんなりと納得していたようだった。來見はふと、同じく中学受験に合格していた浦部(うらべ)の存在を思い出す。

 來見も通っていた伊斗路(いとみち)高校での長期休暇は、中等部と期間がズレる事はなかった。そして近辺に点在していた他校とも時季が離れているという事もなく、ごく普通の日程で休みへと突入していた筈だと來見は記憶していたのである。

 つまり浦部とユールの2人は似たような経歴を辿りつつも、その教科課程は大きく異なっている事が推察できた。それは私立と公立を比較した時に当たり前に生じる違いであるのは解っていたのだが、あえて別の捉え方をする事も可能だっただろう。例えば、ユールが通う中学校は高等部が存在しない(中高一貫校ではない)可能性が第一に上がってくるだろうか。

 他にも伊斗路高校と比べてみた時に、中高一貫校としての歴史がより長い為に教師陣の経験が十分に蓄積されており。6年という学習期間をどう割り当てていくのかという授業計画の練り直しが抜け目なく完了していたからこそ、ユールの在籍する中学校は他校よりも早い時期に休暇を取る事ができたという予測もできる。

 上記のように色々と思い付くものはあるが、恐らくは深読みに違いない。しかし來見は興味深い事例を前に、つい思考を巡らせてしまっていたのであった。


「……」


「……ん?」


 一先ずの考察を決着させた來見はふと、ゆるるが一言も発していない事に気付く。そう言えばユールとゆるるは在籍している中学が違うという、新しい情報があった。今までの流れを考慮すると、ゆるるは――來見と祝のように公立の中学校に通っているのではないだろうか。

 要するに、ゆるるが平日の昼間から遊園地に来れる可能性は実に低いと予想する事ができる。ゆるるの怪しげな沈黙はもしかすると、この疑惑に関係しているのかもしれない。隠し事を露見させまいと口を閉ざしているようにも思えてくるゆるるに向けて、來見は水を向けていたのであった。


「……ゆるるは?学校、違うんだろ?」


「……ボクのところも休みだったけど?」


「ゆるるの学校は偶然、創立記念日だったんですよ!だから今日は1日、一緒に遊びに行こうって……ね!」


「……そういうこと」


 素知らぬ顔でユールの言葉に頷くゆるるからは、あからさまな焦りは見えてこない。しかし――浦部の件でも予想に上がる事のあった創立記念日だから休校だったという証言に、來見は何故だか素直に受け入れられない違和感を覚えていたのであった。


(なんか、嘘っぽいけどなぁ……)


 確かに、ゆるるはユールに比べると多弁な方ではないのだろう。あるいは來見や祝という馴染みのない人間に警戒しているからこそ、口数が少なくなっている可能性もあった。しかし、それにしても今のゆるるが纏う雰囲気からは、只の寡黙な人間という印象からは遠ざかる気迫のようなものが感じ取れる。だからこそ來見は言葉にはしなくとも、ゆるるを怪訝な目で見つめてしまっていたのであった。


「來見くん、來見くん。顔に出てる」


「あ、あぁ……」


 來見は祝に耳打ちされた事で眉間に皺を寄せていた自分に気付き、慌てて表情を元に戻す。小声で行われたやり取りをユールは聞き逃していたようで、彼女は変わらず愛想の良い笑みを湛えていた。

 その一方で、ゆるるは黙っていろと言わんばかりの視線を來見に対して送っていた。それは先程の考察を肯定しているも同然の態度であったことだろう。


 何も知らないのはユールばかりで、それ以外の者はゆるるの嘘を把握している。そしてその一人でもある祝が何も言及しないのは、どうしてもユールと一緒に遊びに来たかったのだというゆるるの心情を理解してしまったからなのだろう。來見は咄嗟に封じ込めたゆるるへの苦言を、大きく息を吐くことで外に逃がしては掻き消していた。

 恐らくはここで明らかにしても誰も得をしない真相を、來見は胸に秘める事にしたのである。多数決という訳ではないが、ここは祝とゆるるを尊重すべきだと來見の良心が訴えていたのも、その決断を後押ししていたのだろう。來見は場を仕切り直すようにして、軽い咳払いをしては素知らぬ顔をする事にしたのであった。




「ところで、まだ一つ気になってることがあるんだけど……」


「はは、はい!何でしょう」


「どうして付き合うとか、何とかっていう話になってたんだろうなーって。最初は、どういう協力を來見くんに求めてたの?」


 祝の言葉に目を見開いたのは、ゆるるだった。その驚愕の表情は直ぐに隣のユールを凝視する様相へと変化していく。

 一瞬たりとも集中力が途切れる事がないように、そして聞きこぼすことなど起きないように。ゆるるは全ての意識をユールへと向けているようだった。


「そそ、それはその。今って縁結びキャンペーンっていうのを実施してるじゃないですか。だから……地味なあたしでも縁を結ぶ事はできるんだぞって、証明してやるんだって……」


「な、なるほど……?」


 ユールの言葉を受けて、來見はジェットコースターの待機列に並んでいた時に見た光景を思い出す。アトラクションの回転率を上げる為だと思われるその施策を、ユールは額面通りに受け取っていたのだろう。そして、ゆるるとの雰囲気が悪くなった際にこびりついていたその記憶がユールを大胆に行動させていたのかもしれない。どこか腑に落ちない様子の祝とは裏腹に、來見は一定の納得を示すように頷いてしまうのであった。


「けけ、軽率だったって言うのは分かります!でも、どうしても!ゆるるを見返したくて!後で嘘ってバレても良いから、鼻を明かしてやろうって……あの時は思ってて……」


「あー……來見くんをナンパしたのは、そういう……」


 ユールは捲し立てるように話し始めたものの、言葉尻にかけてその勢いは目に見えて萎んでいく。平常心を取り戻した後に思い直してみると、当時の判断は間違っていたのだとユールは認識し、恥じる事すらしていたのかもしれない。焦るユールを前に祝は漸く合点が行ったのだろう。妙な浮つきを感じる声色で、祝は相槌を打っていたのであった。


「すす、すみません!自分本意な考えで!優しそうなカップルの人になら、協力してもらえると思って、先走ってしまいました……!」


「……えっ!?」


「いや、俺達は……その……」


 ユールの衝撃的な発言に祝は声を上げ、來見は動揺から目を泳がせてしまう。自意識過剰な考え方をすれば、まるで祝は喜色を表していたように見えた事も來見に揺さぶりをかけていただろう。

 果たして、ユールの言葉にどう答えるべきなのか。來見の内心は混乱に陥りかけていたのであった。


「さっきも言ったけど、卒業旅行で来てるから……祝とは一緒の班員ってだけで。他は何も」


 ――そのような言葉を來見が口にする事はできなかった。

 自分に対して、どのような印象を持っているのかという祝の本心は來見には分からない。しかし、來見が率先して自分と彼女との間には何も存在していないのだと宣言するのは、非常に難しい事であった。祝との関係性を今ここで断言してしまえば、この先に生じ得る発展性が幻のように掻き消えてしまう。そんな悲観的な考えと恐れが來見の口を重くしていたのである。

 來見は言葉を飲み込み、ただ祝を見つめてしまっていた。その沈黙こそが肯定であると捉えられても構わないという思いが心の片隅にある事を否定しないままに、來見は祝へと判断を委ねていたのである。


 そして、來見も祝も終ぞ核心的な言葉を発する事はなかった。2人は揃って今は曖昧な関係性のままで留めておく事を望み、目を合わせては照れたように笑う事しかできなかったのである。


 ゆるるは白けたような視線を向け、ユールは不思議そうに首を傾げる。場は妙な雰囲気に包まれ、僅かな静寂が訪れたその瞬間。しかし沈黙は直ぐに破られていた。ユールが軽く喉を鳴らしたかと思うと、続けざまに咳き込んでいたのである。

 一斉に周囲の視線が自分に集まったことをユールは気付いたのだろう。彼女は困り眉になりながらも微笑んで、心配しなくとも良いと示すように軽く手を振っていたのだった。


「……ユール」


「うん」


 ゆるるの呼び掛けにユールは素直に応え、目を閉じては空を見上げるように顔を小さく上げていた。ゆるるは何の躊躇いもなくユールの額に手を当てると、その温もりを確かめるようにじっと動かずにいる。

 流れるように行われた一連のやり取りを來見は少しの驚きを持って見つめていた。どちらかと言えば甲斐甲斐しく世話を焼くのはユールの方だと思っていたのだが、2人の間でそのような役割が決まりきっている訳でもないのだろう。名を呼ばれただけで何を促されたのかを把握したユールの姿からは、長年にわたって蓄積されたゆるるへの信頼感と理解の深さを感じずにはいられなかったのだった。


「……少し熱い。熱が出てきたかもしれないから、薬のみなよ」


「うーん……そうかも?泣いちゃったからかな……」


「頭痛は?」


「ちょっとだけ。……うん、一応、飲んでおく」


 ユールを見つめるゆるるの表情は、傍から見て分かる程に変化してはいなかった。しかし、瞳は心情をよく表しているようで、そこには確かに翳りの色が見られたのであった。

 ユールは勧められるままに肩から提げていた鞄に手を触れる。そして、かぶせを開いて中を覗き込むと、ビニール袋の擦れる音と共に紙袋を取り出していた。

 ユールはカプセル剤が等間隔に並ぶシートを取り出すと、突起部分を指で押して掌に薬を転がせる。片手で薬を握り締めたユールが何かを探すように再び鞄に視線を落としたその瞬間、來見は彼女が何を求めているか理解し咄嗟に口を開いていたのであった。


「あ、それなら水あるよ。飲むか?」


「えっ、良いんですか?ああ、ありがとうございます!」


 どうやら來見の申し出は間違っていなかったようだった。薬を飲む為の水分を必要としていたユールに、來見は差し出せずにいたペットボトルを漸く引き渡す事ができる。会話の流れで有耶無耶になりかけていた当初の目的を果たせた事に、來見は一人息をついていたのであった。


「……普通、知らない人から貰ったもの飲む?」


「こ、こら!お世話になった方達に、何て言い種を!」


「いや、警戒心があるのは良いことだよ。……これ、キャップ開けてないからさ。それで安心できるなら、どうぞ」


「い、いただきます!あたしは、お二方のこと、信用していますから!」


 それは無防備すぎるのはどうかと思うという、ゆるるなりの軽い注意喚起だったのだろう。やれやれと呆れた様子でゆるるは首を振っていたが、ユールの浅慮を口で非難するだけに留め水の受け取り自体を止めるつもりは無さそうであった。

 もしかするとペットボトルは未だ未開封であるという点を強調した事が、子供達の警戒を緩める決め手にもなったのかもしれない。

 ユールは來見と祝へ交互に視線を向けてから受け取った水を勢いよく煽り、その行動によって信頼を抱いているという自身の主張を強く示していたのであった。


 薬を飲んで一息ついたユールを見て祝は顔を曇らせる。それは未だ希薄な関係性である人物として疑いを持たれた嫌悪感や不満から来るものではなく、ただ純粋にユールの体調を心配した為に浮かべた表情だったのだろう。祝は気遣わしげにユールを見つめると、徐に口を開いていた。


「……ここには2人で来たんだよね。ねぇ、親御さんに連絡とかは……」


「ああ、あの!そんなに大袈裟に騒ぐことの程でもないので!ただの知恵熱かもしれないですし!」


 祝の言葉に食い気味に反応したユールは、力こぶを作って問題ない事を表していたようだった。しかし空元気にも見えるそのアピールを鵜呑みにすべきではないようにも思う。それは來見と祝、両者が揃って抱いていた危機感だったのだろう。2人にはこのまま何もせずに事態を静観するという選択肢は、今のところ存在していなかったのである。


「今朝、注射してきた薬の副反応かもしれないけど。事前に説明されてた通りの症状だから大丈夫だと思う。……気にしないで」


「……病院に行った、その足でここ(遊園地)に?それって本当に大丈夫なのか?やっぱり迎えに来てもらった方が……」


「激しい運動とかしてないし。平気でしょ。それに……何かあったら直ぐ帰るつもりでいたから、心配されなくても平気」


 食い下がる來見に、ゆるるは何処までも冷静に返事をしていく。恐らくは何を言っても自分の考えを変えるつもりはないのだろう。もしかすると何かにつけて保護者の存在(助けを求める事)を仄めかされるのが鬱陶しいと思う年頃であったのも関係していたのかもしれない。あるいは、まだ來見と祝という他人を信用できないのか。來見の提案はすげなく蹴られ、ゆるるの説得は失敗に終わるのであった。


「あの!でで、でも。やっぱり悪化したら困りますから!だから……あたし達はこの辺りで、お暇しようかなと」


 ね、ゆるる。と続けたユールは、來見とゆるるの言い争いを止めさせるために声を上げていたのだろう。動きを止めた來見を他所に同意を求められたゆるるは、深くため息をつきながらも確かに頷いていたのだった。


「そっか……ねぇ、私も一緒に……」


「おお、お気遣いなく!さすがに、そこまでの迷惑は、かけられませんので!」


 私も一緒に付いていって、途中まで送ろうか。祝が言いたかったのは凡そそのような、何かあった時の為の付き添いの申し出だったのだろう。しかし当のユールは再び前のめりになって断っていた。それは意固地になっているというよりは、言葉通り遠慮している姿勢のように來見には見えていたのだった。

 子供たちを信用していない訳ではない。しかし、このまま行かせても良いものかは、やはり悩ましい。來見がどう発言すべきか考え込み始めたその時、ゆるるは議論を一刀両断するように強い言葉を発していたのであった。


「2人でいれば大丈夫。それともボクじゃ力不足とか、そういう話?」


「ご、ごめんなさい。そういう意味で言った訳じゃなくて……」


 ゆるるの未熟さを認め、それを明言しては強引に同行する事など祝にはできなかったのだろう。祝はゆるるの試してくるような言動に弱り、反射的に謝罪を口にしてしまっていた。

 どれだけ合理的な案だとしても、当事者の心情を思いやると実行が難しくなる時はある。まさに祝の置かれた状況はそれと合致してしまっていたのだろう。だからこそ來見は祝の気持ちが痛いほどに理解できてしまう。遂には來見の頭の中からも他の提案は発信される事なく留まり、ゆるるを引き留める為の言葉は生まれる前に失われていくのであった。


「……ゆるる!」


 責めるような声色のユールは、ゆるるが僅かばかりに意地の悪い発言をした事へ釘を刺そうとしていたのだろう。しかし、ゆるるは何処吹く風でそっぽを向いており、前言を撤回するつもりは全くないようであった。

 來見は一度、大きく息を吸う。このままでは埒が明かないのは、もう十分に理解していた。それならば自分がやるべき事は一つであり――來見は居住まいを正して、ゆるるに向き直っていたのである。


「……うん。頼りにしてるよ、ゆるるのこと」


 來見は手にしていたリンゴジュースをゆるるへと差し出して、穏やかな声で語り掛ける。突如として水を向けられたゆるるは驚いた様子で目を見開き、差し出されたペットボトルと來見の顔を交互に見つめていた。

 しかし來見が柔らかな態度を崩さずにいたからであろうか。ゆるるは躊躇いがちではあるが此方へ向けて手を伸ばしてくれていたのである。


「でも困った事があったら、周りの人に助けて貰うんだぞ。声を掛ければ皆、協力してくれるから」


「……うん」


 ゆるるは、返事と同時にしっかりとペットボトルを受け取っていた。それは來見が口にした忠告への了承であり、來見が示した信頼に対するゆるるなりの答えに違いなかったのである。

 とは言え実際に、ゆるるがペットボトルに口を付けるかどうかは來見の預かり知らぬところだろう。來見はゆるるに最後まで信用されず、渡したリンゴジュースは水道に流され捨てられる可能性は存在していた。しかし――そう斜に構えた見方をせずとも良いだろう。観測できない事まで悲観的に考えすぎる必要はない。來見はそのように切り替えていくのであった。


「うん……気を付けてね、大丈夫だとは思うけど」


「はは、はい!」


 來見とゆるるのやり取りを耳にして、祝もとうとう折れたのだろう。名残惜しそうにしてはいるものの、別れの挨拶を口にし始める。それを受けたユールもつられたように申し訳なさそうに眉尻を下げながらも、しかし笑顔を浮かべて帰りの支度をし始めていたのであった。


「ここまで2人で来れたんだから、帰るのも……そう難しくはないだろ。それに……」


 俺達がいると邪魔になるもんな、と前半は祝に後半はゆるるへと向けて來見は言い放っていた。思わぬ軽口を吹き込まれたゆるるは僅かに体を震わせる。しかし、ここで声を荒らげればユールに怪訝な目で見られてしまうと理解していたのだろう。

 ゆるるは視線に不満を滲ませて來見を射貫くように睨み付けていたのだが、やはりその意見に対する否定は決してしなかったのだった。


「それじゃあ、気を付けてな」


「お大事にね!」


「ああ、ありがとうございました!」


 気を取り直した來見と祝が口々に挨拶を述べると、ユールは深々とお辞儀を返してくる。一方のゆるるは何も口にはしなかったのだが――逡巡した後に小さく頭を垂れていた。一礼とも、頷きにも取れる僅かな動きは、それでも最大限の謝意を示していたように思える。最後までややひねくれた態度を貫き通したゆるるの姿に、來見は思わず表情を緩めてしまうのであった。




 遠ざかっていくユールとゆるるの背がすっかりと見えなくなった頃。子供達を見送った來見と祝は揃って気の抜けた息を吐き出していた。それは一時の交流に区切りがついた事を体にも理解させようとする、無意識の行動だったのかもしれない。來見と祝は顔を見合せ、どちらともなく笑みを溢していたのであった。


「俺達も、そろそろ皆の所に行くか」


「そうだね。もしかしたら、待たせちゃってるかも」


 來見と祝はのんびりとした雰囲気の中、元々の予定通りに行動しようと軌道修正を始めていた。

 もしかすると、香椎あたりに一言連絡を入れた方が良いかもしれない。來見はそんな考えのもと携帯電話を取り出そうとしたのだが、その前に未だ片手を封じているものが存在を主張していた事に気付く。來見は忘れかけていた当初の目的を遂行する為に、祝に向かって口を開いていたのであった。


「祝、お茶いる?」


「あ……。余ったの?なら、2人で飲もうか?」


「なっ……」


 小首を傾げて平然と回し飲みをする旨を仄めかす祝に、來見は絶句して怯んでしまう。まさか喜んで承諾を示す訳にもいかず、來見は身動きが取れなくなってしまっていた。急速に上がった体温が、來見の背に汗を伝わせる。鼓動が激しくなるのを嫌になるほど感じながら、來見は口を噤んでしまっていたのだった。


「……ふふ。冗談、冗談!……本気にしてくれても、一向に構わないんだけどね?」


「はぁ……」


「ふふ、行こっか!」


 悪戯っぽい笑みを浮かべる祝に、來見の口からは言葉にならないため息しか出てこなかった。完全にしてやられている。祝の手玉に取られている。しかし、それが決して不快ではない自分がいる事をやはり來見は、はっきりと自覚していた。

 そして、ここで敢えて祝に対して強く反発する必要もないともなれば、來見にできる事はない。祝にからかわれる事に気分を良くしている所があるのを認識していた來見は、終ぞ抵抗する事もなくされるがままになっていたのであった。


「……ん?」


 軽やかな足取りで先行する祝を追い掛け、一歩踏み出した來見の足を突如として止めるものがある。微かだが存在感を放つ振動は、來見のズボンのポケットから発されていた。

 來見は大きく息を吸う。そして、携帯電話を確認すると――嫌な予感は的中していた。來見の携帯には未来からのメールが、またしても届いていたのである。


「2011年3月9日。ウィラリアム遊園地。ユルが薬害により身体に不可逆なダメージを負う。」


「は……」


 溜め息のようで、驚きの為に呑んだ息は來見の呼吸を阻害する。來見の全身には、また事件が起こるのかという諦めにも似た落胆が駆け巡っていた。しかし、そう落ち込んでもいられない。起こり得る問題を未然に防ぐために來見は慌てて思考を切り替えるのだが、そうすると次は様々な疑問が脳内にひしめき始めていた。


(何で遊園地で、薬害なんだ?いや、それよりも。このユルって名前は……あの2人のどちらかの事を言ってるのか?それに時間も指定されてない。……つまり。早く、行動しないと)


 メールには久し振りに人物名らしきものが記されてはいたものの、個人を特定するには情報が足りていない。來見はユルという名に心当たりこそあるものの、それが先程の子供達を指し示しているかどうかを判別する事はできなかった。來見は表向きは静かなまま、激しい混乱に巻き込まれていく。


(……アナウンスで呼び出してみるか?でも、さっきの2人の本名は分からない。……あの子達が喧嘩をしていたことを引き合いに出せば、本人には伝わるか?いや、でも……)


 まず初めに思い浮かんだ案は、実行するにはやや困難であるとしか言いようがなかった。來見はユールとゆるるについて詳しいことは何も知らず、その粗をつつかれてしまえばそもそも呼び出す段階まで進める筈もない。

 確かに、何時だかの蓮下れんげ姉弟の件ではアナウンスを利用して特定の場所へと人を誘い出す事に成功していた。しかし、あれは本名を知っていたからこそ可能だった策であり今回は使用できない手段となっていた事だろう。

 些細な綻びから園内のスタッフに怪しまれ、追求を受ける事になれば――事件の対処へ向かう為の行動がどんどん後手に回る羽目になってしまう。そんな状況に陥ってしまった時に、果たして來見は上手く立ち回る事ができるのだろうか。

 來見は想像をしてみる。しかし、その結果は深く考えずとも分かってしまっていた。來見は自分が一切の疑いを持たれないまま、何も知らない他者を上手く誤魔化せるようなイメージができなかったのである。つまり、子供達を呼び出すという案は断念せざるを得ない。來見には別の算段を立てる必要が生じてきてしまっていた。


(少し会話しただけの赤の他人が、子供を放送で呼び出すのはたぶん無理だ。追求があったら躱せないし、俺が持ってる情報が少なすぎる。……じゃあ、どうする?)


 思わず止まってしまった足を何処へ進ませるべきか、來見は迷い立ち尽くす。しかし、そこに突如として届く知らせが來見を我に返らせていた。


「ご来園中のお客様に、お呼び出しを申し上げます。本日、大学病院からお越しの(さい)ちゃん、蘭祈(らんき)くん。お医者様の戸伏(とぶし)様が園内、観覧車前でお待ちです……」


「……医者?」


 來見がまず最初にやるべき事として浮かんでいたメールの該当者と思われる人物の呼び出しは、既に行われているようだった。前提として互いに正式な自己紹介をしていなかった為に不可能だと思われていた計画が、誰が別の――戸伏という医師によって問題なく行われている。

 しかし、それは必ずしも安心できる材料とは思えなかった。ユルという名、薬害、呼び出された2人、医者、そして薬を飲んでいたユール。状況証拠から考えるとメールに予言された災禍を受ける人物は先程の子供達であり――來見にそれを見過ごすという選択肢は初めから存在していなかったのである。


「ねぇ、今のって……」


「うん。祝も、あの2人の事だと思うか?」


「……偶然かもしれないけど。ユールちゃんは今朝、注射をしてきたって言ってたよね。……2人に何かあったのかな」


「分からない。けど、医者がわざわざ来てるって所は……無視できないよな」


 断定できる根拠がない為に明言を避けたが、実際のところ來見は祝の意見に同調しているに等しかっただろう。祝は考え込むように目を伏せ、ポツリと言葉を溢していく。


「お医者さんが追い掛けて来るなんて、よっぽどの事だよね。大丈夫なのかな……」


「……うん、心配だ。あまり想像したくはないけど……処方する薬の取り違えとか、ミスが起きていたのかもしれない」


 2人の子供が正式に呼び出されている現状は、戸伏という人物の身元がしっかりとしている事を示していたのだろう。緊急性があるからと言っても、まともな身分の提示ができない者の要請にスタッフが応じるとは思えない。つまり、ただの呼び出しではなく医者からという特別な枕詞がつけられている段階で、戸伏という人物を敢えて疑う必要はない――筈であった。


(常識的に考えたら、この状況で呼び出された人間が医者と会うのを妨害する必要はない。でも……)


 來見には疑問があった。自然の流れに任せておいても問題が解決されるのであれば、來見が何もする必要はない。しかし、こうして未来からのメールが來見の元へ届いたとなると話は変わってきてしまう。勘違いでなければメールの送信者は來見に何かしらの行動を期待しているという事を示しており、介入しなかった場合には――経験上、メールに記載された通りの結末を該当者は迎える羽目になる筈だったのである。


(これが本来の世界でも、元から起こり得た事件だとしたら話は変わってくる。例えば薬を間違えたという医者の考え自体が、間違っていたとしたら……)


 医者が後から処置を施した為に悲劇が訪れてしまう場合。來見が何もしなかったという選択そのものが、子供達に止めを刺す悪手となりかねない。

 本来であれば医者は何も間違えてはいなかったのに、偶然の思い違いのために惨事が巻き起こってしまう。それは放置すべきではない事態であるのは明らかで、來見は祝に向けて口を開いていたのであった。


「祝。俺……」


「うん。……分かってる」


 來見が言い淀んでいる間に祝は硬い口調で頷いていた。來見が全てを明らかにしなくとも、彼女は意図を理解していたのだろう。祝は不安げな表情を一転して引き締め、彼女自身の考えを表明する為に言葉を続けていた。


「私はあの子たちが呼び出された本人なのか、そうであったら迷子になってないか……追い掛けて確かめてくる。その代わり、來見くんは待ち合わせ場所の方で、入れ違いにならないように待っていて」


 祝はごく自然に自分がやろうとしている事と、來見がすべき行動を割り振っていた。実に妥当な提案に、來見は目を丸くする。

 何故なら祝は來見が気付けずにいた可能性に言及していた。それは物事をシンプルに考えた場合――医者の思い違いの有無などは置いておいて、ユールが飲むべきではなかった薬を接種してしまっていた可能性についての話であった。これを前提として、ユールの体に良くない薬効が現れるのが、あまりにも早かった場合。医師が駆け付けるのが僅かばかりに遅かったと同時に、子供達が待ち合わせ場所に辿り着けず適切な処置を受けられない確率も存在していた事を、來見は遅れて認識していたのである。

 予め把握している情報が少なすぎても打つ手がなくなるが、多すぎても混乱してしまう事はままあると言えただろう。言い訳にしかならないが來見は当該の観覧車へ急行することばかり考えており、それ以前の――子供達が道中で行き倒れになるような状況については頭から抜け落ちていたのであった。


「……確かに、二手に別れた方が見付けられる可能性は高いか。いや、でも……」


 しかし來見は返答に困っていた。祝の意見に納得はできるが、彼女からの立候補とは言え使い走りなどさせて良いのかはまた別の悩ましい問題のように思う。一刻を争う状況であると理解していながら、來見は悠長にも判断を先送りにしてしまっていたのである。

 來見が脳内で騒がしくも論争を行っている事を、祝は察したのだろう。表情を柔らかくさせた祝は來見を宥めるような優しい声で、更に言葉を続けていく。


「ふふ。これでも体力には自信があるので、任せてよ!ひとっ走りして確認してくるから!」


 祝に他意はなかったのだろうが、確かに來見と祝では運動能力に明確な差があっただろう。來見が走り回るよりも祝の方が間違いなくユール達を探す事に向いている。自分が園内を奔走したところで直ぐに息切れしてしまう姿が浮かんでしまった來見は、抵抗を覚えながらも祝に頷きを返していたのであった。


「……そうだな、分かった。ありがとう。……頼んだ」


「うん!それじゃあ!」


 來見が了承を示すと同時に祝は駆け出していた。きっと、居ても立ってもいられなかったのだろう。その後の連絡手段について打ち合わせをする前に、祝は來見の前から立ち去っていたのである。

 とは言え、それは大きな問題ではないのだろう。先程の考えではユールとゆるるの本名を知らないことを根拠に、2人を呼び出すことはできないと來見は判断していた。しかし祝に関して言えば、その集合に支障はない筈である。祝本人に直接連絡はできなくとも、それこそアナウンスをしてもらったり、香椎辺りに呼び掛け手を借りるなど――取れる手段はいくつか存在していた。來見は祝が子供達を見付ける事を信じ、まとめて呼び寄せる事もできると確信していたのであった。


(そういえば、ゆるるは仲直りに行く時……ユールの所に走って向かってたよな。……ゆるるも、被害者候補の一人だ。見えないところで薬を飲んでいて、激しい運動をしていたとなれば……不味いかもしれない)


 來見は子供達が取っていた行動を思い返す。致命的な、危険感を抱かせる素振りは見せていなかった筈だが――來見と出会う前に何をしていたのかまでは分からない。

 ユールに駆け寄るゆるるの姿が果たして激しい運動をしていたという定義に当てはまるのか、そもそもそれが命の危機に繋がる行動なのか、それはまだ不明であっただろう。來見はつい悪い方向へと考えてしまうが、そう沈んでばかりもいられない。來見は目の前にある、やるべき事に集中する為にその場から走り出すのであった。




(観覧車の前って……待機列の事じゃないよな?並んでる人はたくさんいるけど、あの2人は……いないか。)


 巨大な観覧車は遠目に見ても圧倒的な存在感を発しており、來見は現場へと真っ直ぐに向かう事ができていた。

 忙しなく周囲を見回しながら、來見は子供達の姿を探す。しかし、それらしき姿は見付からない。祝が見付ける事ができていればそれでも構わないのだが、だからと言って來見がこのまま待ちぼうけている訳にもいかないだろう。來見は起こり得る別の可能性を考え、更なる行動に移る判断を下していた。


(誰かを待ってる様子の人も……いない。それなら待ち合わせの場所が違うのか?近くの……あっちの歩道の上とかも、観覧車の前と言えばそうかもしれないよな……)


 來見は一所に留まる選択はせず、勢いのまま観覧車の側近くに設置されていた高架歩道へと足を進めていた。

 そこは確かに待機列(乗車口)のある箇所とはまた別の、観覧車の前と形容できる場所だっただろう。欄干の向こう側にはゆっくりと動くゴンドラが見え、手を振れば互いに気付く事もできるくらいに両者は近接していると言えた。

 乗車口のある方を表とするのであれば、観覧車の裏側、影となる所。不思議と人気のない開けた場所へと、來見は走り込んでいた。そしてその視線の先には――見知らぬ青年の姿が一つ、佇んでいたのであった。


「君は……」


 來見にとっては面識のない相手。しかし青年は來見の顔を驚いたように凝視し、何故か見知っているような素振りを露わにしていた。

 來見はその振る舞いに疑問を覚えるべきだっただろう。途端に怪しく思えてきた謎の人物に対して、どのような対応をすべきか來見は遅れ馳せながら考え始める。どうやら敵意はないようだが、困惑だけでもない感情を浮かべる青年は何故だか動こうとはしていない。來見と青年は静かな空間で、暫し視線を合わせていたのであった。


「……あ、あれ?來見さんが、何でここに?」


 まるで睨みあったように動かない來見と青年の間に、突如として割って入る声がある。それは聞き馴染みがあるとは言い難いものであったが、間違いなく知っている少女の声であり――確かにユールは來見に向けて、話し掛けていたのであった。

 そして当然ではあるが、ユールはゆるると共に行動をしている。2人は來見の来た方向とは反対側から姿を現しており、ちょうど青年を挟むような形で來見たちは相対していたのであった。


「……戸伏先生じゃない。あんた……誰?」


 低い声を出すゆるるは、どうやら自分達を呼び出した人間が知り合いとは別人であると認識したらしい。來見はともかく見ず知らずの者に気を許すつもりは無いようで、ゆるるは全身から警戒心を露わにしていたのだった。


「ええっと、戸伏先生のお知り合い……ですか?」


 不思議そうにしながらも青年へと近付こうとするユールを、ゆるるは腕を掴む事で引き留める。ゆるるはそのまま庇うようにユールの前に立つと、一切の虚言は許さないとばかりに鋭い視線を青年に向けていたのであった。

 青年は真剣な面持ちで子供達のいる方へと一歩、足を踏み出そうとする。しかし、その瞬間に思わず体を強張らせた來見と、ゆるるの張り詰めた空気を感じ取ったのだろう。青年は動きを止め、視線を地に落とすと諦めたように姿勢を正す。そして、まるで弁明するような静かな声でゆっくりと語り出すのであった。


「……俺の名前は戸伏 直展(なおのぶ)。君たちに薬を渡した戸伏 谷塑目(やそめ)は……俺の父親だ」


「えっ……?」


 來見は隠れて携帯電話を取り出し通報の準備をしていた。ゆるるも來見の行動に気付いたようで、向こう側から目配せを送ってくる。同意するように小さく顎を引いたゆるるに、來見も同じようにして合図を送っていたのだが――青年、直展の告白によって來見の手は止まってしまっていた。

 思わず漏れたユールの声は、静かな空間に響き渡る。喧騒の遠い観覧車の影で、來見たちは揃って戸惑いを覚えていたのであった。


「長話をしている暇はない。俺がここに来たのは薬の回収の為だ。大人しく、病院で処方されたものを渡して欲しい」


「えっ……なな、何で、ですか……?」


「返しに行く必要があるなら、自分で返しに行くよ。今ここで……知り合いでもないアンタに渡す筋合いはない」


 直展は何処か緊張した様子で子供達への要求を示していた。しかしその言葉は2人には響かなかったのだろう。確かに十分な理由も説明できない人間を、ましてや知り合いでもない者をいきなり信用する事は難しい。來見としても三者の仲介をするつもりにはなれず、ただ情報の収集に努めるように黙って成り行きを見守ってしまう。


「……頼む。俺を疑わしいと思うなら、後で警察に突き出してくれても構わない。だから、その薬だけは飲まないでくれ」


「え……」


「君たちは治験に合意し、ワクチンの注射を行った筈だ。そこに問題はない。ただ……」


 一度、言葉を切った直展にこの場にいた全ての人間の視線が注がれていた。切迫した状況である事を隠しもしない直展には鬼気迫るものがあり、來見たちはその勢いに呑まれ始めていたのである。


「俺の親父は……本来、君たちに渡す予定だった薬をすり替えていた可能性がある。認可も受けずに独自に調剤された薬を、絶対に飲ませる訳にはいかない。だから、理解してくれ」


「ハァ!?でも、もうユールはその薬を……!」


「え?え?」


 滔々と語られていく言葉に一番に反発したのは他ならぬ、ゆるるであった。

 ゆるるは、來見と同じように現状を把握している。戸惑うばかりのユールは既に、その危険な薬を服用してしまっており――もはや手遅れである事実を、認める訳にはいかなかったのである。


「まさか、もう服用してしまったのか?……いつ飲んだ!何分前だ!?」


「あぁ……うぅ」


「ユール!?」


 激しい剣幕で捲し立てる直展もまた、状況を理解したのだろう。詰め寄ろうとする直展に、ユールは怯えたように座り込んでしまう。ゆるるはユールと視線を合わせるように屈みながら、咄嗟にその体を支えていた。

 ユールの顔色はみるみると青ざめていき、決して來見が楽観視する事を許さない。少女もまた自身の状態が非常に宜しくない現状を認識してしまったのだろう。來見にはその姿が心が弱るのと比例するように、加速度的に具合が悪化しているようにも見えたのだった。


「今すぐに薬を吐かせる!君は、この子の靴を脱がせて服を緩めろ!」


「……近付くな!」


 恐らくはユールの救助の為に伸ばされかけた直展の手を、ゆるるは強く拒絶する。唸り声が聞こえてきそうな程に恐ろしい形相で、ゆるるは直展を睨み付けていた。それは來見が声を掛けるのも躊躇ってしまう程の迫力があり――情けなくも來見は、その場に縫い止められたように動きを止めてしまっていたのである。


「アンタの言うことが本当だって証拠は何一つないだろ!ユールの、この状態だって……薬のせいじゃない可能性がある!」


 今のところ、ゆるるの主張に強く否定できる部分はない。しかし、その根底にあるのは直展への不信感だっただろう。つまり直展がその疑わしさを払拭する事ができたならば、ゆるるも話を聞き入れる姿勢を取ってくれる可能性があったのである。

 何れにせよ、來見は最悪の結末を回避する為にも双方の意見を聞く必要があっただろう。そうなると、來見がすべき事は自ずと理解できた。來見はゆっくりと直展へと向けて口を開いていたのである。


「ユールに薬を吐かせた結果……本当は必要だった薬を取り除いてしまう形になってしまったら。それこそ最悪の未来を向かえる事になるかもしれない」


 來見はゆるるを逆上させないように、その意見に同調する旨を示しつつ直展へは懐疑的な立場を取る。そうする事で直展から更なる証言を引き出し、状況を打開するための策を練る糧にしようとしていたのである。

 予想通り、と言っても良いのだろうか。來見の方へと振り向いた直展は儘ならない状況に歯噛みするかのように、渋い表情を浮かべていた。続く言葉も何処か苦し気で、絞り出したような声はただ虚しく響きわたる。


「それは……!」


「だから……説明をしてくれませんか。その2人が納得できるような、説明を」


 痛いところを突かれたと思ったのだろうか。畳み掛けるようにして発された來見の言葉に、直展は迷いを見せる。3人が黙り込んだ空間ではユールの浅い呼吸の音だけが聞こえていた。

 しかし、それは段々と存在感を増していく。腕に抱いていたユールの異変に気付いたゆるるの瞳が大きく揺れた、その瞬間。直展の声が事態を収束に導いていたのであった。


「……まずは。その過呼吸を止めてやるべきだろう。体の左側が下になるように寝かせて、何でも良いから袋を口に当てろ。そのままでは苦しいだけだ」


 一度大きく息をついた直展は、体調不良者を前に我に返ったようにも見える。彼は実に落ち着いた態度でゆるるに指示を飛ばしていた。

 確かに顔色の悪いユールをそのままにはしておけない。來見は直展の隣をすり抜け、ゆるるに駆け寄る。そして視線を合わせると頷いて、行動を促すのであった。


「ゆるる、やってあげよう。放っておくのは……可哀想だ」


 來見は苦しそうに呼吸を荒らげるユールの姿を、アトラクションに並んでいた時の祝と重ねて見てしまう。突如として体調を悪化させたのは薬害による可能性もあっただろうが、それよりもまず心理的な負担によりユールは取り乱してしまっていたように思えてならなかったのであった。

 恐らくは周囲の人間が大袈裟に騒ぎ立てたせいで不安になってしまったのだろう。病は気からという言葉にもある通り、ユールは攻撃性の高い会話を聞いた為に、心身の均衡を崩してしまっていた事が窺えたのだった。


「……分かった」


 渋々といった体ではあるが、ゆるるとしてもユールを苦痛に晒し続けるのは本意ではなかったのだろう。言われた通りにユールを左側臥位にさせようとするのを、來見も手伝っていく。

 來見はユールの頭が地面に着く前に素早く制服を脱ぎ、少女の髪が汚れないように広げて置いておく。一瞬だけ、服を畳んで高さのある枕のような状態にすべきか迷ったものの――來見には正確な回復体位についての知識は存在していなかった。よって今は余計な事はせずに無難な選択をすべきだという直感が働き、結局のところ來見は雑にユールの下に制服を広げるだけに留めていたのである。


「袋、持ってるか?」


「うん」


 來見の問いにゆるるは頷き、背負っていた鞄からビニール製の袋を取り出しては荒い呼吸をするユールの口に当てていく。ところで、その袋に來見は既視感を覚えていた。それはユールが薬を飲む時に來見が垣間見たものと外観が一致していたのである。

 要するに、直展の証言通りに2人の子供達には同じ薬が処方されていたのだろう。期せずして分かった事実を、來見はしっかりと記憶しておくのであった。


 一通りの対処を終えたゆるるは、これで良いのかと問うような視線を直展に向ける。未だ緊張感を解かずにいるゆるるに直展は首を縦に振ると、再び話をし始めるのであった。


「あぁ、それで良い。……しかし薬を服用した本人の前で騒いだのは、失態だった。俺の言動のせいで混乱を引き起こしてしまったんだろう。……すまない」


 直展は独白するように反省しながらも、その謝罪は子供達へ向けて述べていたようだった。その内容はある種、ユールの不調は精神の乱れからくるものであったという來見の推理の正しさを証明してもいたのだろう。

 眉をひそめてユールの姿を見つめる直展の瞳には苦慮と憐憫の色が入り交じっているようであった。そんな姿を見た來見は――自分でも実に浅慮である事は分かっていながらも、既に直展が根っからの悪人であるとは、思えなくなっていたのであった。


「ゆるる……」


 不意に小さな声が響く。それは紛れもなくユールのものであった。

 呼吸の落ち着いてきたユールは未だ残る苦しさから涙を湛えた瞳をゆるるへと向けて、ゆっくりと手を伸ばしていた。


「うん。大丈夫だ、ボクが側にいる」


 ゆるるは差し出された手をしっかりと握り締める。そして、ユールを安心させる為なのだろう。強張った表情を少しだけ緩め、薄く微笑んでいたのであった。


「……薬についてだが」


 事態が一段落した今こそが好機だと思ったのだろうか。直展はゆっくりと口を開く。そして、誰からも遮られる事がなかった様子から、そのまま話を続けても良いと判断したのだろう。直展は居住まいを正すと、問題の薬についての説明を始めるのであった。


「君たちが接種したワクチンによって起こる副反応……例えば発熱などに対して予め処方される薬は本来、存在していない」


「え?でも……実際に熱が出ることもありますよね。その時はどうするんですか?治験なんて特殊な状態で運用されたワクチンに、市販薬は使えなさそうですし……」


 來見は過去、自分が身をもって経験した事のある記憶から、直展に疑問を投げ掛けていた。來見は治験に参加した過去はないが予防接種は当然のように受けたことがある。確かその時に医師に言われたのは、発熱の際における市販の解熱剤の使用は特に問題ないという説明だった筈であった。勿論、それは注射されたのが一般的なワクチンであったからという前提の上に成り立っていた言説だったに違いない。

 であるならば。治験という特殊な環境下において、いざという時の為の対処法が――専用の解熱剤などが用意されていない訳がないと來見は考えていたのである。それはユールとゆるるが大学病院で薬を処方されているという事実を踏まえても、否定できない筈であった。

 例え一人の医師が薬に何か手を加える事のできる余地があったとしても、病院が主導していたであろう治験のプロセスにまでは口を出すことはできないように思う。

 要するに、受診した後に薬を受け取るという工程が存在する以上、やはり症状を軽減する為の薬は確かに存在していた。だからこそ直展の述べた、治験に処方される薬は存在しないという言葉は矛盾している。そのように來見は解釈していたのであった。


「だから言っただろう。予め、処方されるものは無い、と」


「あ……」


 來見の口からは呆けたような声が漏れる。つまり事前に手渡す事はないだけで、専用の薬自体は存在してはいるのだ。來見は早とちりをしてしまった自分を恥ずかしく思ってしまう。

 しかし、そうなるとまた別の疑問が湧いてきてしまうのも事実であった。そもそも病院側が渡そうとした薬は一体、何であったのか。來見は答えを聞き出そうと口を開くのだが――それは、ゆるるによって中断されるのであった。


「……じゃあ、電話をするように言われたのは……」


「あぁ。君たちは治験に際して、こう説明されていた筈だ。何か異変を感じたら直ぐに連絡するように、と」


 答え合わせをするように直展はゆるるの言葉に頷いていた。來見は今、時系列に沿った事の全容を目の当たりにしているのだろう。であれば直に真相は明かされる筈である。來見は一時、浮かんだ疑問を胸にしまい込み、2人の会話に耳を傾ける。


「副反応への対処をするのは、事前に渡された薬ではない。まずは医師の診断を受けてから、最適な方法が実施される事になっている」


「じゃあ、そもそも薬を渡す必要(意味)は最初から存在しないってこと?でも、お医者さんは受付で薬を受け取るようにって……」


 ゆるるは言いながら、最悪のパターンに思い当たってしまったのだろう。それは病院に属する全ての人間が示し合わせて、自分達を騙そうとしていたという可能性。ゆるるは一気に具合が悪くなったように顔を青ざめさせ、視線を宙に彷徨わせていた。

 しかし一方の直展は、ゆるるの様子が目に入っていないのだろう。彼は平然としているように見せて、それほど余裕は無いのかもしれない。そのまま淡々と説明を続けていこうとする直展を横目に、來見はゆるるを鼓舞するように小さく背を叩いていたのであった。


「プラセボ……何の成分も入っていない、薬に見立てただけのもの。それを飲むことで症状が改善されるかどうかも、今回の治験の一種だ。その情報を被験者へ事前に教える訳にはいかない為、君たちに知らされる事はなかった」


「本人には、って事は……保護者の方は知っていて了承している、とか。そういう話ですか」


「あぁ。聞けば答えてくれるだろう。……最後までプラセボと知らせない為、律儀に隠し通す人もいるかもしれないが」


 來見は直展との会話によって、先ほど抱いた疑問を解消させていた。思えばユールとゆるるは未だ未成年の身であり、保護者の同意がなければ治験に参加する事などできなかっただろう。そう考えると子供達(当事者)には秘匿されていても保護者(責任者)だけが知っている情報があってもおかしくはない。何の効能もない偽薬について黙っているのも何ら不自然な事ではなかったと來見は納得できていた。


「つまり、あなたの言い分だと……そのプラセボがあなたの父親が作った薬とすり替えられていた、って事ですか」


「あぁ、そうなる」


 ゆるるも話を聞いていて、自分が病院ぐるみの陰謀に巻き込まれた訳ではないと漸く理解したのだろう。小さく息を吐くと、少しだけ体の強張りを解くのであった。


「……とは言え。今の証言も信用するに値するか、君たちは疑問視している事だろう」


 直展は続け様に発言を述べていく。考え込むように俯いた直展は片手を背に回し、ズボンの尻ポケットから財布らしき物体を取り出していた。


「……身分を提示すれば、信じてもらえるか?それなら、今すぐに俺の身辺調査をして特定すると良い。学生証と照らし合わせて、大学に確認を取ってみろ」


 直展は來見達の返事も聞かぬまま財布から一枚のカードを抜き取ると、地面を滑らせるようにして此方へと投げ渡してくる。氏名に始まり、学籍番号など様々な情報が記載されたそれを見るに、直展はどうやら医療系の学部に所属しているようだった。先程から妙に治験について詳しい点や正確な応急措置を指示できていた事からも、それは偽りではないような気がしてくる。

 しかし、今直ぐにやるべき事として、來見は慌てて学生証を手のひらで覆い隠していた。それは個人情報の塊としか形容できない一枚のカードを、無防備に晒し続けるのは駄目だという危機感からもたらされた行動だった。來見は周囲に人気がない事を分かっていながらも、反射的に直展のプライバシーを守る為に動いていたのである。


「……君たちがワクチンを接種したのは今朝のことだったな。それなら、せめて薬をいつ飲んだのかだけは教えてくれ。時間に余裕があるかどうか、確かめなくてはいけない」


 直展がゆるるに向けて話し始めるのを見た來見は迷いながらも、提示された番号を自身の携帯電話に打ち込んでいく。兎にも角にも、時間を無駄にできないと直展は考えているようであり來見もそれは同意する所であった。

 この連絡先自体が偽装されたものであり、応対する者に嘘を付かれる可能性はあるが――その時は改めてインターネットで検索するなどして、示された大学の電話番号の真偽を確かめれば良いだろう。來見は自分ができる事を順に片付けていく判断を下していた。


「……さっき。30分も経ってないくらい」


「そうか……なら。まだ猶予はあるか……?」


 ゆるると直展の声を背に、來見の電話が繋がる。礼儀正しい挨拶をされた來見は、緊張しながらも用件を述べていく。


「君は薬を飲んでないのか」


「……飲んでない。具合悪くないし」


「そうか。……良かった」


 直展とゆるるの間に漂っていた張り詰めた雰囲気は弱まっていく傾向にあるようだった。横になっているユールは先程から黙ったままで困ったように眉尻を下げているが、意識はしっかりしているようにも見える。

 そして肝心の來見の目的は――残念ながら果たされる事はなかった。來見は礼を告げながら電話を切り、おずおずと直展に向けて口を開く事にする。


「……あの」


「確認は取れたか?」


「……すいません。個人情報保護の関係上、答えることはできないと言われまして……」


「な、なんだと……」


 考えてみれば当然の回答に、直展は衝撃を受けているようだった。その動揺ぶりは演技ではないように思え、事前に電話応対する者とそれらしい振る舞いを打ち合わせていた訳でもないように見える。

 どうしたものかと、恐らくはこの場にいる全員が考え始めていた、その時。思いもよらず口火を切ったのは、間違いなく混乱したままの直展その人であった。


「そ、それなら……親父に電話して俺の身元を保証してもらえば……いや、しかし薬の事を勘付かせる訳には……」


「勘付かせるって、なに」


「う……」


「なに?」


 今までの落ち着きは何処に行ってしまったのかと、つい指摘したくなる程に直展は動転していた。もしかすると直展という人物は事前に立てた計画通りに事を実行するのは得意な代わりに、不測の事態にはとんでもなく弱い性質をしていたのかもしれない。口走ってしまった言葉は明らかに怪しさを伴っており、それをゆるるに見抜かれた直展は見るからに狼狽えていたのである。

 しかし、ゆるるから念を押すように訊ねられてしまえば、誤魔化す事もできないと判断したのだろう。直展は居心地の悪そうにしながらも、ゆっくりと静かに告白し始めるのであった。


「……親父は独自に薬を調剤し、何も知らない君たちにそれを投与しようとした。……違法にな」


 直展が口にしたのは初めに主張したものと同様の内容であった。しかし、そこには自身の父親への強い非難の感情が滲んでおり、何としても企みを阻止しようとする硬い意思も感じ取る事ができる。すっかり直展に絆されていた來見は反論する事なく、続く言葉を待っていたのであった。


「今までに何回、同じことをしていたのかは分からない。……だが、犯行をした当日に気を抜いたりはしないだろう。俺と親父の関係を明らかにする為に、今、親父に連絡する事は……できない」


 信用して欲しいが、身分を呈示する手段が存在しない為に自分の主張は受け入れて貰えない。その事実を直展は痛感していたのだろう。顔を歪ませる直展を前にした來見は混沌とした場を整理する為に、考えを巡らせていた。


 メールの文面はこうだった筈だ――2011年3月9日。ウィラリアム遊園地。ユルが薬害により身体に不可逆なダメージを負う。

 第一に検証を始めるべきなのは、直展が嘘を付いていた可能性だろうか。この場合、ユールが副反応を弱める為に飲んだ薬に問題はないという事になり、体内から取り出す必要もなくなる筈であった。つまり未来からのメールで予告された薬害とは、誤ってユールに薬を吐き出させてしまう事で起こる災禍であり、來見はそれを阻止しなければならなかった。

 逆に、直展が真実を口にしていた場合は彼の主張する通りの凶事が起こるのだろう。すり替えられた薬を飲んだユールには薬害が出てしまい、取り返しの付かないダメージを身体に負う羽目になる。

 では、どちらが正しいのだろうか。來見は心情的にはユールやゆるるの側に寄っていたが、忘れてはいけない点がある。それは來見がユールやゆるると同じ立場を取る事が、必ずしも子供達2人の助けには繋がらないという可能性が存在している事だった。

 最悪の結末に至らせないためにも來見は慎重に立ち回る必要がある。だからこそ感情的にではなく客観的に考えて、より確率が高いパターンを來見は分析し見出だす必要に迫られていた。


(そもそも俺がここに来なかった場合の……本来の流れは、どうだったんだろう)


 來見は自分が介入しなかった末に起こり得る展開を、直展とユール、そしてゆるるが取るであろう行動を思い描いてみる事にする。


(ユールは無防備にしていたけど、ゆるるはずっと見ず知らずの人を警戒していた。今は少し落ち着いてるけど……あの人は今も子供達2人に近寄れずにいる)


 直展が一歩踏み込んだだけで激しい拒絶を露わにしていたゆるるが、ユールに触れる事を許すとは思えない。直展もまた、その気持ちを汲んだように――事実として今も、子供達とは距離を保ったままでいる。非常時である事を理由に取り乱す様子は見せてはいたものの、直展は力付くでユールの口をこじ開けるような人物ではないと來見は分析していた。


(それとも、この後に和解できるような話が続くとか……そんな展開があったんだろうか。それならユールから薬を取り出す試みこそ、止めないといけない事になる訳だけど)


 來見は3人の行動を検討していく。しかし、そう悠長にしていられないのも理解していた。直展の言が正しく、プラセボとすり替えられてしまっている違法な薬の成分が効き始めてしまう事になれば、ユールは手遅れになってしまう訳で――それでも來見はどのような判断を下すべきか未だに迷っていたのである。


(……いや。間違いないのは、何もしないでいたら後悔するって事だ。それなら……)


 來見は小さく息を吸う。そして呼吸を整えると直展の人間性を確かめる為に、会話を重ねる事にしたのであった。


「今、あなたの父親に連絡をする事こそが、あなたの嘘を暴く簡単な手段である一方で」


「……その連絡は犯行に及んだあなたの父親へ、違和感を与える役割を担ってしまい……証拠の隠滅に走らせる恐れがある。……そういう話ですよね」


 來見は2つの可能性を示す。先程の直展の動揺がどちらに類するものなのかは不明だが、確かに焦る理由は明確に存在していただろう。直展は一度目を閉じると首を縦に振り、目蓋を開くと同時に口を開いていた。


「……そうだ。俺が恐れているのは後者であり……そうなった場合、証拠となり得るのは君たちの持つ薬だけという事になる。親父の凶行を止める為にも……それは確保しておかなければならないものだ」


「そう言って、証拠隠滅するつもりなんじゃないの。アンタが薬をすり替えた父親と、グルって可能性もある」


「……何を言おうと信用されないかもしれないだろうが、俺と親父は共犯ではない。……そして薬を服用してしまった以上、今回の不祥事を隠す事は不可能だと分かってはいる。だからせめて……薬を処分せずにいてくれるのであれぱ、俺にそれを渡す必要はないと今は考えている」


「つまり、最初は……波風が立たないように立ち回ろうとしてたって事?それって隠蔽工作じゃない?」


 進展しているようにも、停滞したままにも思える議論は全員の頭を悩ませていた事だろう。特にゆるるは、思い詰めたような表情から分かる通り――いつ錯乱して極端な行動に出るか分からない不安定さを滲ませていた。

 しかしながら來見には何となく、ゆるるの気持ちが分かるような気もしていたのである。

 恐らくゆるるの心は直展を信じようとする方向に傾きかけてはいる。疑念を否定して欲しいからこそ、怪しく思う部分に指摘をしてしまっている。しかし、どうにも最後の一押しが足りていなかった。

 何か一つ直展の身の潔白を証明するものがあれば、その訴えに応じる気はあるものの――ユールの命が懸かっていた為に情に流されるなどもっての他である。決して気を許してはいけないのだと、ゆるるは必死に自分を律しているように來見には見えていたのであった。


「……あたし、このままだと、どうなっちゃうんですか?」


 そんな中で、声を上げたのはユールであった。ユールは誤れない判断を前に答えを出せないでいるゆるるの手を握り、直展に語り掛けていた。その声は膠着した場を動かすには最適な手段だったのだろう。暗く沈んだ空気を和らげようとするユールは、ゆるるに微笑みかけていた。


「ユール……」


「……」


 ユールの手を強く握り返すゆるるは、もはや少女の名を呼ぶことしかできなくなっていたようだった。一方の直展は口を閉ざし、詳細を語る事を拒否している。それは恐らく、徒に騒ぎ立てた事でユールの体調を悪化させた自身の行動を反省し、二の舞は踏むまいと誓っていたからなのかもしれない。ユールも直ぐにその前例に思い至ったようで、申し訳なさそうにしながらも更に言葉を続けていく。


「ああ、あの。すり替えられた薬を飲んでいたら、どうなるのか、教えて欲しいです。さっきは取り乱しちゃったけど……今は、大丈夫ですから」


 ユールの催促を受けて、直展は深く息を吐く。そうする事で心を静め、覚悟を決めたのだろう。視線を彷徨わせつつも言葉を選ぶようにゆっくりと、直展は起こり得る症状について開示していくのであった。


「……君たちに渡された薬は本来、子供には処方してはいけない……成分が強すぎるものだ。このまま何もせずに薬が消化されるのを待った場合……予期せぬショック症状を起こしたり、内臓などに重篤な後遺症が残る可能性が高い」


「そんな……!」


 思わず上がったゆるるの悲痛な声に、直展は首を左右に振る。しかしそれは諦めを宣告するものではなく、問題ない事を示そうとした為に出た振る舞いだったらしい。直展は落ち着き払った態度で説明を続けていた。


「まだ、大丈夫だ。君たちに渡された薬は腸溶剤と言って……今は胃に留まっていても吸収されるまでには時間がかかる。薬効を弱めない為に取った手段だったのだろうが、今回はそれが幸いしたな……」


 最後は自分に言い聞かせるように呟いていた直展の主張に、來見は胸を撫で下ろす。それは鵜呑みにしても良い情報だと確定した訳ではないのは理解していたが、直展が嘘を付いてさえいなければ安心できる材料には違いなかったのである。

 そして、ユールとゆるるには運命の時が迫っていた。いつまでも選択を先延ばしにはできない。しかし迷う理由も、來見にはよく分かる。それならば――他の人間が、その重責を肩代わりする他なかっただろう。來見は自分が責任を取る覚悟で、子供達の背を押す言葉を口にし始めていた。


「……信じよう。俺には、その人に悪意があるとは思えない」


「でも……」


 顔を曇らせるゆるるに頷きを返しながら、來見は改めて話を続ける。これまでの様子を見ていても、やはり直展が子供達を罠に嵌めようとしているとは思えない。とは言え來見は決して情に流された訳でもない。物的な証拠はなくとも、現在の状況が直展の証言の信憑性を明示していたのだと來見は考えていたのである。


「あなたがここまで来てくれたのは、何よりも子供達を助ける為だったんじゃないですか。父親を通報するよりも優先すべき事だとして、2人が心配で駆け付けた……そんな風に、俺には見える」


「……」


 直展は來見の指摘に口を閉ざす。それは無言の肯定なのか、それとも來見の示した信頼へは素直に応えられない理由が存在していた事による、後ろめたさの表れだったのか。判断に迷う険しい表情を浮かべ、直展はただ佇んでいた。


「……ゆるる」


「なに」


「あたしも、その人が説明した事に矛盾は無かったと思う。だって、あたし達に嘘をつく理由がないもん。本当に悪い人なら、こそこそ隠れて騙し討ちをする方が……早いでしょ?色々と」


 ユールは頭上で交わされる会話の最中、ずっと考えを巡らせていたのだろうか。今まで発言していなかった分も合わせて、直展を信用する理由を上げていく。來見はそれを聞きながら、直展の行動について再びの分析を始めていた。


(確かに……あの人に悪意があったなら、敢えて素顔を晒す必要はなかったよな。無駄に情報を与える事になっただろうし……)


 例えば直展が嘘をついて子供達に薬害を与えようとしていたり、父親に与して違法な調剤の証拠を隠滅しようと画策していたとして。その行いが犯罪であると理解できていたのならば、敢えて子供達の前に姿を見せる必要はなかっただろう。ユールとゆるるからしてみれば面識がないのにも関わらず、直展だけは一目で2人が何者かを理解していた点からも、敢えて園内の放送で子供達を呼び出す必要性は低かった。何故なら不特定多数のスタッフと顔を合わせ徒に自身の痕跡を残す事などしなくとも、直展はより簡単な方法で子供達に接触できた筈なのである。


(子供達が遊園地に来ているのを知っていた事からも、出口とかで簡単に待ち伏せできただろうしな……初めから計画していたなら、ちょうど良い時間にあわせて行動できただろうし)


 全てが仕組まれていた事だと考えた場合、直展の動きには疑問を感じる点が多すぎた。勿論それらの振る舞いは自分を信じさせようとする直展の作戦であり、子供達を呼び出したのは薬の奪取を完遂する為にすれ違いを防止した故の行動である可能性もあっただろう。


(敢えて拙い行動を取っていて、しおらしい姿も全部演技だったとしたら。それを見抜けなかった事を後悔するのは分かってる。でも……)


 回りくどいが計画の為なら、いくらでも布石を打っておく事ができる強かな人物こそが直展であったと言われてしまえば、それまでの話ではあった。だが、そのような面の皮の厚さがあったのであれば、もう少し恥も外聞もなく自分から善性をアピールし良心に訴えかけてきそうなものであると來見は想像していたのである。

 しかし、そうではなかった。その事実こそが、ユールが直展を信頼してみようと思える要因の一つだったのではないだろうか。來見はそんな分析をしながら、直展への理解を進めようとしていたのである。


(きちんと、後ろめたいと思っているからこそ。あの人は声高に自分の潔白を主張できないんじゃないだろうか。それは……その精神性は悪質さとか狡猾さとは、かけ離れている気がする)


 だからこそ、信用しても良いのではないだろうか。それは甘い考えだと断じられても仕方ないと理解していながらも、來見は結局、見出だしてしまった人の善性を信じたくなってしまうのだろう。

 來見は以上の考えから、ユールの意見を支持していたのであった。




「それは……」


「それにね」


 戸惑うゆるるの言葉に被せるようにして、ユールは声を重ねていく。ゆるるを説得しようとするユールは未だ横たわったままでいる。しかしそんなユールの姿は弱々しく見えるどころか、揺るぎない決意を固めた為に力強い生命力さえ感じられる程であった。


「ゆるるとこうして、普通に話せなくなる方がこわいよ、あたし」


「……。……、…………分かった」


 長い間を取ったゆるるは、しかし根負けしたようにユールへと向けて頭を垂れる。憂いを帯びた瞳を瞬きで隠したゆるるは、しかし再び直展に鋭い視線を向け宣言を始めていた。


「変な事をしたら、許さないから。何をするのか先に説明して」


「勿論だ。……とは言え、俺がやろうとしている事は既に言った通りだ」


 直展はとうとう、ユールに近付く事を許されたと認識したのだろう。拒絶されない事を確かめるように慎重に歩を進めると、ユールの元へ膝を付いては説明を続けていく。


「薬が体に吸収される前に、吐き出してもらう。苦しいだろうが……少しだけ耐えてくれ」


「はい。でも……あたしは、どうしたら良いですか」


「……まずは水を飲んでもらう。次に、口を大きく開けてくれ。そうしたら俺の指を君の喉に差し込んで、吐けるように刺激を加える」


「はは、はい。えっと、お水はさっき來見さんに頂いた物で良いかな……」


 円滑に進んでいく事態に口を挟む事はせず、來見は補助に徹する判断を下した。まずは鞄を探ろうと手を辺りに這わせ始めたユールを押し留め、そのままの状態で安静にしているように促す。

 ユールは動きを阻害された事に驚き目を瞬かせていたが、來見が首を横に振った姿を見てその意図を理解したのだろう。ユールは困ったような笑顔を浮かべながらも、結局は來見の自由にさせていたのであった。

 來見はユールの鞄からペットボトルを取り出し、蓋を外して手渡していく。その一方で直展は人間が横になった状態で水を飲むのは難しい点に気付いていたのだろう、彼はユールの背中に手を添え身を起こすのを手伝っていた。

 直展はユールの経過を観察するように、その一挙手一投足を見つめている。厳しい表情をしているのは緊張感を覚えているせいだろうか。そして、ユールが水を呷りペットボトルから口を離したその瞬間。思わぬ提案がその場に呈示されていた。


「ちょっと待った。その……吐かせるのって、ボクでもできることだよね」


「不可能とは、言わないが……」


「なら、ボクがやる。アンタはやり方を教えてくれるだけで良い。……悪いけど、アンタにユールを触らせたくないから」


 それはきっと、ゆるるができる最大限の譲歩だったのだろう。直展の指示に従いはするが、不必要にユールへ触れるのは許せない。ゆるるは一歩も引かない事を強く表情に露わにしながらも、直展の返答を待っていたのである。


「……どうする」


 そして意外だったのは、直展は自分で答えを出すのではなく。ユールに判断を委ねていた事だった。突如として水を向けられたユールは目を白黒させるも、内容を吟味し把握した後にゆっくりと頷いていた。


「……良いだろう。なら、教えた通りに実践してみろ。君が失敗すれば苦しむのは、この子だと理解して……慎重にな」


「脅されなくても……分かってるよ」


「……ゆるる」


「なに」


 直展に釘を刺されたゆるるは顔を強張らせるも、ユールの呼び声に眉尻を下げる。少しだけ不安そうな表情を浮かべたゆるるを安心させるように、ユールはにこりと微笑んでいた。


「ゆるるなら、大丈夫!あたし、任せるよ」


「……うん」


 他ならぬユールに勇気付けられたゆるるに、もはや怖いものなど存在してはいなかったのだろう。ゆるるは直展に言われた通りに自前のハンカチを指に巻き始める。

 ユールが無事に薬を吐き終えたら、もしかすると更なる水分が必要になってくるかもしれない。來見はユールの側近くに先ほど購入していた未開封のお茶を置くと、また別の行動を取る為に直展へと話し掛けていた。


「俺は彼女を救護室に運んでもらえるように、スタッフの人にお願いしてきます。……構いませんか」


「薬を吐き出すのにも体力を使うだろう。となれば相応しい場所で体を休める必要がある。……頼んだ」


「はい」


 直展の了承を得られた來見は、ユールとゆるるへ順番に視線を向ける。2人の子供達はこれから行われる事に異論はないようで、來見に頷きを返していた。

 直展が危険人物である可能性を考慮するのであれば、來見が席を外すのは懸命な判断とは言えなかっただろう。しかしここまで来てしまった以上、過度に彼を疑うことは時間の無駄にも繋がっていた。自分以外の3人から目を離しても大丈夫だろうと、來見は全員の人となりを信用する事に決めていたのである。


「直ぐに戻るから」


「……うん」


「すす、すいません、お願いします」


 子供達への挨拶もそこそこに、來見は次の行動へと移る。ここは観覧車の影――位置としては後ろ側にあたるが、観覧車の正面と呼べる乗車口との距離はそれほど離れてはいない。ここが高架歩道という周囲を見回すのに適した場所であった事も関係していただろうが、視界に入るくらいには近いその目的地(乗車口)へと來見は駆け出していく。

 来園者を案内する為、観覧車の待機列の側近くで常駐している筈の園内のスタッフの元へと、來見は救助を求めにひた走るのであった。

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