20-2 見間違いようのない面影
「2011年2月28日。12時40分。桜川公園。西口エリアこどもの広場。事故が起こり子供が巻き込まれる。」
來見は無理のないペースで走りながらも、未来から届いたメールについて思いを馳せる。どうにも要領を得ないその内容は詳細さとは程遠く、またしても事故に関わるであろう被害者の名を載せてはいなかった。
果たして知り合いが巻き込まれるのか否か、今はまだ分からない。來見は取り敢えず、現時点で分かっている情報を整理していく事にしたのである。
(こどもの広場の位置は大体、分かる。去年のマラソン大会の後に行った事もあったし……あとは昨日、自分が走るコースの周りも確認しておいたのが幸いしたな)
もしかすると大会中に迷子になる事もあり得るかもしれない。來見の用心深さは、そんな僅かな不安からくるものであったが結果的にその行動はまるで事故を予期していたかのような準備の良さに繋がっていた。
來見は自分でも自覚している少々行き過ぎた慎重さが、思わぬところで功を奏した事実に少しだけ嬉しくなってしまう。しかし該当する場所の周辺地理が少し頭に入っているだけでは何の役にも立ちはしない。來見は頭の中で桜川公園の地図を広げながら、更に思考を進めていくのであった。
(桜川公園は広い。だから事故が起こる場所を特定するのは……情報が何も無ければ、かなり骨が折れる作業になっただろうな)
桜川公園の敷地面積は、住宅街の間にひっそりと顔を覗かせるようなごく身近に存在する小さな公園――いわゆる基幹公園と比べると途方もなく巨大だと言えた。そんな場所で事故の発生を未然に防がなければならない点を考えると、より一層その広さが身に染みる事になるだろう。エリアと称して幾つかの区分けが為されてはいたがそれは最低限のものであり、そのひとつひとつが決して狭くはない事も來見は経験から知っていた。
桜川公園の内訳はバーベキューやキャンプなどのアウトドアを楽しめる中央エリアに始まり、その創設に至った経緯を学べる資料の展示物が纏められた北口エリアへと続いていく。更に季節ごとの草花を歩きながら楽しめるような、言うなれば自然観賞に特化した区域は東口エリアと称され、今回のメールで指定された西口エリアに関しても相応の敷地面積を誇っていた。
さすがにスキーやスケートなどのウィンタースポーツを楽しめるような施設は存在していなかったが――各エリアに決まって設置される売店やレストランの総数が桜川公園の広大さを証明していたのである。
(でも、その問題はメールのおかげで何とかなる……はず)
桜川公園の各地に点在する設備には、それが例えどれだけ小規模なものであろうとも特徴的な固有名詞が個別に与えられていた。ガイドマップを見れば何処に何があるのかは一目瞭然で、迷子になりやすい人間にも優しい設計になっていたのである。
そして今の來見の状況を振り返ると。エリアの指定が事前にされている上に、施設の固有名詞までもが記述されたメールが届いている。要するに事故が予告された現場を割り出すのは、実に容易い事となっていた。
(エリアの言及だけで終わらずに、こどもの広場って指定があるおかげで範囲はかなり絞り込めてる。助かった……と思うには少し気が早いけど)
単に西口エリアとだけ記述されていたのであれば、來見は大いに困った事だろう。何せそこは主に子供が遊ぶ為のエリアとなっていた。他の区域と比べても大きく面積が取られ、複数の遊具が溢れんばかりに点在していたのである。
あるいは今の季節から考えると夏にしか開放されないプールくらいは候補から外せたかもしれないが、それでも断定しきるには充分な根拠がない。立ち入りが禁止されている場所でも、侵入できる隙があれば好奇心から行動してしまう者はいる。脳裏にヨリの姿が浮かび上がってくるのを、しかし來見は余計な考えだとして今は打ち消すのであった。
兎にも角にも未来からのメールによる温情なのかは不明だが、最悪の事態は避ける事ができていた。広大な敷地からピンポイントで当該の場所を探り当てなければならないという、全く手に負えない状況には辛うじて陥っていなかったのである。
(知ってる場所だから、一から調べる手間が省けたのはラッキーだな。……いや、そんな安心してる場合じゃなかった)
來見は慌てて余念を捨て、緩みそうになった気を改めて引き締める。
來見が今しがた実行した事故現場の絞り込みは、過去にも桜川公園へと足を運んだ経験があるからこそ、こどもの広場という固有名詞に聞き覚えがあったからこそ可能であった事には違いない。しかし幸運に恵まれた現状を喜んでばかりもいられなかった。來見に残された時間は数える程しか存在していなかったのである。
(こどもの広場は……アスレチックのある場所だ。確かに、何かの拍子で事故が起きてもおかしくはない)
來見は予告された場所を想像する。鮮明とは口が裂けても言えない程に朧気ではあるものの、來見はこどもの広場の全景を目蓋の裏で思い描く事ができていた。
僅かではあるが持ち合わせていた桜川公園に関する情報は、間違いなく來見にとって有利に働いていていたのである。
(でも……)
來見の記憶に残っているのは、こどもの広場の敷地の大半を占める多種多様なアスレチック群。それらは用途を誤れば、いかにも事故を誘発しそうなものに思える。
しかし來見には他にも気になる点が存在していたのであった。
「……そもそも何の事故か、書かれてないんだよな……」
思わず口走ってしまった疑問は、息が上がっているせいで途切れ途切れになっていた。それでも、その不可解な有り様に注意を向けるものは一人としていない。來見は不安になるほど静けさに包まれたコースを、ただひたすら孤独に走っていた。
(単純に考えるなら、やっぱりアスレチックが関係する事故だとは思うけど。あの辺り……というか広場の入り口は遊歩道に面していた筈だ)
もはや詳細な情報が事前に入手できないのは、いつもの事なので無視をする。それよりも限られた時間を思考に割く方がよほど有意義だと來見は正しく理解していた。
しかしその切り替えは來見の気持ちを前向きにする訳ではない。脳に浮かぶのは桜川公園の案内図。マラソンのコースを確認する為に目を通した際には何の感慨も得る事がなかったそれは、今や悪い予感ばかりを來見に抱かせていたのである。
(そこまでの速度は出てなくても、遊歩道では移動用のトラムカーが走ってる事がある。……それも、真横に人が歩いてるような距離感で)
普段であれば気にも留めない、その状況。しかし何かしらの事故が起こるという前振りをされてしまえば、誰であれ最悪の方向に想像を膨らませてしまうのではないだろうか。
來見が深刻に受け止めすぎているだけなのかもしれない。しかし数々の事件を経た結果、それくらいが丁度良いのだという意識も來見には刷り込まれてしまっていた。
(交通事故の可能性もある訳だから……後でトラムの時刻表と運行状況を、両方とも確認しておかないと)
來見は頭の中で、やるべき事を刻み付ける。
桜川公園の散策を目的とした人々の移動を助けるトラムカー。それが平常通りに運行していて、メールで予告されている時刻に現場へ寄り付きもしないのであれば注意を向ける必要はなくなるだろう。
しかしそうではなかった場合――トラムカーに何かしらの問題が現在進行形で起こっていた際は考えを改めなければならない。
要するに、本来であれば重ならない筈のトラムカーの運行時間と、事故が発生するとされる時刻が丁度ぶつかってしまうような状況が生まれ得る恐れがある場合。それは正しく交通事故を警戒すべき状態であり、その可能性が残る限りは監視を続ける必要があると判断しなければならないという事であった。
少し検討すれば直ぐに思い当たる安易な考えではあるが、その疑いを捨て切る材料は未だ存在していない。かと言って結論を出すにはまだ早いだろう。
上記の可能性を頭に留めつつ、來見は他にも起こり得る事故について推理を進めていくのであった。
(あとは交通事故って言うとサイクリングロードも思い浮かぶな……でもアレはちゃんと専用のコースが用意されてるから、自転車が遊歩道に現れるような事はない。……はず)
確かに桜川公園には縦横無尽に張り巡らされたサイクリングコースがある。しかしそれらは歩行者と接する事のないように、専用の道が整備されていた筈であった。
問題なのは來見がサイクリングロードに立ち入った事はなく、確証が持てないという所だろうか。來見は何か得られる情報があるかもしれないと、今一度自分の記憶を思い返してみる。
(……うん、そうだ。コースを走っている自転車を橋の上から眺めた記憶はあっても、近距離で擦れ違ったような経験はない。……経験って言える程、ここの常連なわけではないけど)
それは來見の経験則としての話でしかないが、桜川公園での散策中、エリア間の移動の際に橋の上などの高所からサイクリングロードを俯瞰する事は確かに可能であった。しかし両者の歩みが直接的に交差する地点はなく、互いの不注意による事故を防ぐ為にもコースはしっかりと分けられていたように來見は記憶していたのである。
(でも、これもガイドマップをよく見れば判断できそうな事だよな。後で確認するとして……念のためにヨリくんの意見も聞いとかないと)
推理を進めてみると、自転車の危険運転による衝突などの交通事故が起こる確率は現時点では低いように思える。しかし躍起になってその可能性を除外する必要もないだろうと來見は脳の片隅で考えていた。
何にせよガイドマップという信頼の置ける資料がある以上、直に正否は明らかになる筈である。そう割り切った來見は次に考えるべき問題へと目を向ける事にしたのだった。
「事故、事故なぁ……定義が広すぎるんだよなぁ……」
來見は周囲に人影が無いのを良いことに、喉から声を発してぼやく。一口に事故と言ってもその要因は様々で、今の段階ではあらゆる可能性が存在している。そんな疑いようもない事実を前に來見はため息をついてしまっていた。
(キツイな……)
運動をしている為に息が上がるせいなのか、先行きの見えない不安がそうさせているのか。來見の胸は締め付けられるような痛みを訴える。
苦しみを紛らわせる為に空気を吸っては吐く事を繰り返すものの特に効果は現れず、症状が改善される事はなかった。もしかすると逸る鼓動が直ぐにでも酸素を取り込もうと先走り、來見に間違った呼吸をさせているのかもしれない。
このままでは何も変わらないと直感した來見は一度、上を向いて息を吐き切ってみる事にしたのであった。
(雲が多いな。……そういえば、天候が原因に関わってくるような事故は起きないのかも。雨が降るなら色々と考慮しないといけないけど、このまま……天気は保った筈だし)
ふと目に映った曇天から、來見は思考を発展させる。桜川公園へと向かう際の電車内でも思っていた事だが、今日という日は來見が記憶している限り荒天にはなり得なかった。雨によって路面が滑りやすくなるような事態にはならない筈だったのである。
走る際には目に優しくない程の眩しい日差しはなく、雨を予感させるような強く吹き付ける風もない。となると当然、嵐による飛来物との衝突や落雷が原因の突発的な火災なんてものは発生する訳もなく――自然災害などは起こり得ない事を他ならぬ來見の経験が証明していたのであった。
(また一つ、選択肢が減ったのは良いことだ。でも、喜んでばかりもいられないよな……)
じんわりと暑さを感じ始めた來見はジャージの袖を捲り上げる。体だけではなく、全力で回転させている脳までもが発熱しているような心地になりながらも、來見は思考する事を止める訳にはいかなかった。
(やっぱり本命はアスレチックか?色んな形の遊具があって……何より、落ちたら危険な高さもある)
巡りめぐって戻ってきた可能性へ、來見は挑んでいく事にする。その脳内に甦るのは屋外に設置された、子供が遊ぶ事を想定された多くの道具と建造物だった。
例えば、その大部分が自然物に由来する木材などで構成された吊り橋型のアスレチック。糸で吊るされている為に足場である丸太は不規則に揺れるが、その不安定さにスリルを見出だした子供たちは我先にと殺到するだろう。
他にも複雑な形をしたジャングルジムや、高低差のあるスライダーなどの鉄製のアスレチック群など。挙げていけばキリがなく、そのどれにも絶対に事故が起こらないとは言い切れない小さな危険性を伴うものが――体を動かす事を好む子供達が大喜びで夢中になるような遊具が、こどもの広場のそこかしこに存在していた。
(子供同士が接触して高所から落下。上手く受け身を取れなくて怪我をする、とか。……故意ではなくても、それもまた事故って言えるだろうし)
あり得そうな状況として一番に思い付くのは、興奮した子供が羽目を外しすぎた結果、事故に繋がるという可能性。
忘れてはいけないのは、怪我を負った本人にも多少なりとも問題があった場合だろうか。分別がつき始める年頃ではあったとしても、時には突飛な行動に出てしまう子供は少なからずいる。皆が皆、行儀良く遊んでいるとは限らない事実も考慮すべきなのだろう。
しかしながら事故の原因が不注意による衝突であると言う予測は、ありふれすぎていて捻りが無さすぎるようにも思える。
來見は自身の幼少期の体験を照らし合わせながら、浮かび上がった推理について信憑性を持たせられるかどうか考えてみる事にしたのであった。
(俺も昔、うっかり手を滑らせて雲梯から落ちた事はあったけど……その時は軽い捻挫で済んで大怪我には繋がらなかったよな)
來見は先ほど仮定してみた、こどもの広場で起こり得る事故の状況と一番近しい条件に思える過去の体験を比べ、不自然な点を探していく。
その結果、來見が見出だしたものは――自分のような鈍臭い子供が体勢を崩して高所から落ちたとしても、両手さえ塞がっていなければ何とかなるだろうという予感。それは幼子らしく頻繁に転んでは膝を擦りむいていたとしても死に至るような負傷をした覚えは無いという、かつての來見の経験から抱いた印象でしかなかったのだが。やはり単純に遊具から足を滑らせただけでは怪我の程度は知れており、事故と呼べるものではないような気もしていた。
(なら今回も、ただの子供同士の注意不足じゃなくて。何か不慮の事故に巻き込まれた……不幸が連鎖した結果、怪我をする可能性が高いのかも)
思考を整理していった末に來見が行き着いたのは、巻き込まれるであろう子供には何の否もない可能性であった。それは要するに、どれだけ当人が気を付けていても打つ手がない状況に陥ってしまうという事であり――未然に事故を防ぐ為には第三者の介入が無くてはならないのだと逆説的に証明する形になっていたのだった。
(パッと浮かぶのはアスレチックに服が引っ掛かっただとか、老朽化のせいで脆くなってた所に足を取られたとかの小さな不幸の積み重ねだけど……)
こどもの広場のアスレチックは屋外に設置されている。つまりは普段から雨風にさらされているという事であり、定期的な手入れや点検があったとしても全てが万全な状態に維持できていると断言するのは難しい状態なのではないだろうか。
來見が余計な心配をせずとも、公園を運営するにあたり一定の水準を保った安全対策は全域で為されている筈ではある。しかし、それでも。平時であれば何の問題もない些細な綻びが負の連鎖を巻き起こしてしまう可能性は、全くのゼロであるとは言えなかった。
深く考えるのも嫌になるが、そのような厳しい現実を思うと運営側はどれだけのストレスを抱えながら日々を送っているのだろうか。注意を怠らないように努めるのは管理者として当然の責任ではあるものの、來見は関わりすらない人間へと勝手な想像を膨らませては、思わず深いため息をついてしまっていた。
(……ともかく、前回と同じで死亡者についての言及はないし子供が重症を負うとは書かれてない。……だからと言って安心して良いわけじゃないけど)
考えなくても良い事柄にまで気を回し始めてしまった來見であったが、何とか自力で思考を本筋に戻す事に成功する。
何れにせよ來見が取るべき選択肢は一つしかない。それは予告された事故を防ぐ為に最大限の努力をするという事。しかし事前に打てる手も限られているという現実も來見は正しく認識しており、不安を露わにするようにまたしても小さく独りごちてしまっていた。
「あとはこれから起こり得る事故が、できるだけ小規模な事を祈るしかない……か」
來見は一度だけ強く両目を瞑り、迷いを振り切るように勢い良く瞼を開ける。顔を正面に戻した來見は、自分が走るべきコースを見据えていた。
数歩先の遊歩道には簡易的な看板が立てられており、そこには生徒達が走るべき距離があとどれくらい残っているのかが数値で示されている。そのお陰で來見は自分が消化した走行距離を把握し、悪くないペース配分だと感覚的に理解する事ができていた。
來見は呼吸を整える事に注意を向け、自分に適した速度を守りつつ足を前に進めていく。そして、どうやら最後まで走りきれそうだという安堵を心の隅で覚えながらも、その意識は予告された事故へと向けられ思索に埋没していくのであった。
いったい何人の生徒を抜き去ったのか、はたまた何人に追い越されたのか。そのどちらも定かではないが、來見は漸くゴール地点を目視できるところにまで到達していた。
未だ目標まで遠くはある。しかし桜川公園のエリア同士を繋ぐ長い長い遊歩道から、來見はスタート地点でもあった原っぱへと戻ってきていたのであった。
(あと、少し……)
今まで走ってきたコースには一定の距離ごとに看板が置かれており、生徒はそれを目印として残る走行距離と自分達が進む方向を理解していた。特に道が分岐する地点では決して見間違える事のないように教師が見張りに立つなど念入りな措置が取られており、生徒達の誘導に関しては大きな問題が起こり得ないような体制が整えられていた。
しかし該当する全ての箇所に教師を置ける程、人数を揃えられる訳ではない。道中に看板が置かれているのはそうした穴埋めの為でもあり、その多くは課せられた仕事を全うしていたのだが――中にはその作り自体があまりに簡素すぎるものも散見していたのである。
例えば矢印の記号が大きく書かれただけのものが、その筆頭と言えただろう。それは好意的に解釈すれば、直感的で分かりやすい構造を目指して作られたのだと認識する事もできる。しかし極端なまでに無駄を省き必要最低限の情報しか含んでいないその有り様は、過去に作成したであろう教師の有していた時間があまりに少なすぎる事実を悲し気に象徴しているようでもあった。
話は逸れたが、上記の理由は桜川公園がマラソン大会の開催地に相応しいとされた根拠でもあったのだろう。
看板の必要数が比較的少なく済む事と、生徒達が迷子になる確率を良く整備された遊歩道が著しく下げてくれる点。そして來見達の通う中学校が定める学区から計算できる、生徒達の居住地から桜川公園までの移動距離が批判される程に長すぎる事がないという特徴。
何より普段とは違う環境で実施される事が大会らしさを引き立て、生徒達にとっても良い気分転換と刺激になると教師は考え、この場所が選定された。來見はそのように推察していたのである。
中には論手のように不馴れな地で開催されるからこそ嫌がる生徒も存在してはいるのだが、大体において問題が生じる事はなく大会は成功を収め続けていた。だからこそ毎年、同じ場所で開催されていた訳だが――そう全てが都合良く回っている訳でもない。來見が今まさに差し掛かろうとしている原っぱが正にそれを証明していた。マラソン大会の開催を許可してくれてはいたとしても、公園の全域がそれに適した形に作られている筈もなかったのである。
辺り一面に芝生を初めとした植物が敷き詰められている原っぱには、走者もとい歩行者専用の整備された道はなかった。従ってゴールまでのコース形成はマラソン大会を主催する学校側で用意しなければならなかったのである。
とはいえ大人が数人も集まれば、その問題の対処法は直ぐに見付けられた事だろう。その実に単純で明快な答えは來見の目にも既に映っていた。
待機列を整理する為などに使用されるその道具。恐らくは誰しも一度は見掛けた事があるだろうベルトパーテーション。これを設置するという許諾を得た教師達はその安易な手段によって、懸案事項を解決していたのであった。
原っぱの中心部に設営されたゴールへと続いていく、人工的に作られた直線のコース。その横幅は一見すると非常に狭いのだが、2人の人間がギリギリ並走できない程度の余裕は保たれているという、絶妙な塩梅で作られた空間となっていた。
一度その場所へ足を踏み入れてしまえば最後、もはや順位を覆すことはできない。タイムの速さを競っていれば後続に抜かされないように一刻も早くコースに入るべきなのだろうが、スパートをかけるべき地点へ差し掛かったとしても來見はペースを乱すことなくゆったりと足を運んでいた。
特に焦る必要はない。あくまで走り切る事が目的なのだから他者の視線なども気にしなくて良い。そんな思いで平静を装ってはいたのだが――來見の向ける視線の先には、その集中を阻害するかのように多くの生徒の姿があった。
(コレ本当に嫌だよな……いや、見られてると思うのは自意識過剰なんだろうけど)
走り終えた生徒達が体を休め談笑するのは当然の権利と言えただろう。しかし中にはそれだけではなく、物好きな行動を取る者も存在していたのである。
マラソン大会という行事を心から楽しんでいる彼らは、わざわざコースを形成するパーテーションに沿う形で立ち並び、ゴールへと向かう人間の見物に集まっていた。とは言え全員が全員、目を離さずにランナーを観察している訳でもない。彼らの姿は、正に年に一度の特別な雰囲気を味わっているという形容が相応しいのだろう。しかし來見はその状況をまるで自分が好奇の目にさらされているように錯覚してしまい、重苦しい倦怠感が体を支配し始めるのを感じていたのである。
(……走ろう、走ろう。あと少しで、この苦しい時間も終わりだ)
心身の疲労から來見は顔を曇らせる。しかしながら、この状況を打破する方法もとうの昔に理解していた。兎にも角にも、他人の目など気にせず無心で走り抜けてしまえば良いのである。
ゴールをしてしまえばそこで終わり、來見の走る姿など大多数の記憶には残らない。そうやって自分の心を奮い立たせながらスピードを上げた來見の視界に、ふと飛び込んでくる人影があった。
(祝、走り終わってるんだな……そりゃそうか)
中学でも高校でもバスケットボール部に所属していた祝。比べるまでもなく來見よりも運動能力が高い彼女は既にコースを走り切った様子で、友人達と談笑をしていた。
同級生だけに留まらず後輩らしき人々の輪の中に混ざっている祝の姿。ふいに目を引かれたその存在に意識を奪われながらも來見は視界から祝を外し、先ずはゴールまで駆け抜けようと大きく息を吸って気を取り直す事にする。
一瞬だけ、偶然にも顔を上げた彼女と目が合ったようにも感じたが――恐らくは思い違いだろう。前にも同じような事を考えていたな、と自意識の過剰さに込み上げてくる嘲笑を噛み殺しながら、來見は祝の姿を置き去りに足を進めていくのであった。
「お疲れ様でーす」
そんな言葉を來見に投げ掛けてきたのは、マラソン大会の運営を手伝う為にゴールの横で控えていた生徒であった。彼から発された実に義務的な労りの言葉に会釈をすると同時に、來見はゴールテープを切っていたのである。
既に満身創痍の身だが、タイムを報告するまではマラソンをやり遂げたとは言えない。來見はすぐ側に置いてある表示盤を忘れずに確認すると、震える足でゆっくりとゴールから離れるように歩き始めるのだった。
「はー……」
何とか走り切ることができた喜びもよそに來見はクールダウンに努めていた。今すぐにでも眼下に広がる芝生へと身を投げ出したくなっていたのだが、後の事を考えてその気持ちを必死に抑える。
そうして息を整える為に大きく呼吸を繰り返していると、見覚えのある人間が視界に映る。來見の視線の先にいた征生は目が合った事に気付くと片手を上げ、徐に近付いてくるのであった。
「去年もそうだったって、さっき思い出したんだけどさ。あのゴールテープ律儀に張り直してるんだよな。係の人、大変そう」
酸素不足で頭が回っていない來見は、へらへらと笑いながらそんな感想を口に出していた。運営の仕事とはいえ延々と走者を待つのは暇な上に疲れそうだと率直な意見を口にした來見に、征生は虚をつかれたようで目を丸くする。
しかし征生は直ぐにその視線を呆れ混じりのものに変えていた。そしてどこか困惑した様子で言葉を返してくるのであった。
「……走り終わって一番に言うことが、それか?」
「はは、確かに。じゃあ……完走、お疲れ様」
「おう。佑斗もな」
疲れ果てている來見とは裏腹に征生は涼しい顔で立っている。その体の上下は既にジャージに覆われており、征生がゴールに辿り着いてから多くの時間が経っている事も窺えた。
今さら実感するのも馬鹿らしいが、征生の運動能力の高さを來見は再認識していたのであった。
「座るか?」
「うん?」
端的に投げ掛けられた疑問は、未だフラついている來見を見た心配から出たものなのだろうか。征生は來見を安静にして休ませるべきか見定めるように、此方をじっと注視していた。
怪訝そうに片眉を上げる征生に向けて、來見はつい笑みを浮かべてしまう。そこには自分の不甲斐なさに対する苦々しさも混ざってはいたのだが、今の來見は征生を安心させる為だけに口を開くのであった。
「いや、まだ大丈夫。下手に座ると二度と立てなくなりそうだし」
來見の宣言を受けた征生の目は素早く上下に動いていた。一瞬で行き来した視線は來見の様子を窺うものだったのだろう。しかし普通に会話ができている事からも問題はないと判断したのか、征生はゆっくりと一つ頷いて見せた。
「……そうか。なら、係のやつが飲み物配っとるけん貰うてこいや。脱水で死ぬぞ」
征生は右手に携えていたペットボトルを來見に見せびらかすようにして、ネックの部分を2本の指で挟んで振ってみせる。やや物騒な事を口にしてはいるが、その指摘は尤もなものであっただろう。來見は納得を示す為に肯定を言葉にするのであった。
「おう、そうする。ありがと」
言われた通りに飲み物を調達する為、來見は片手を上げてこの場から離れる事を知らせる。すると征生は即座にその意を汲んだようで、首を一度縦に振っては見送る姿勢を示していた。
「タイムも忘れんうちに報告しに行けやー」
「おー」
自分の背中へ向けられた助言に、來見は軽い声で答える。そのまま征生と別れた來見は目的地を目指して、当て所なく歩いていくのであった。
広大な原っぱの中で生徒達は疎らに、しかし至るところでグループを形成していた。
例年通りではあるのだが大会運営の本部と呼べるものは設営されておらず、監督者である教師の近くに分かりやすい目印が立っているという事もない。となると当然、運営を手伝っている生徒とそうでない者の判別は難しく、來見は辺りを見回しては立ち止まる事を繰り返していた。
落ち着きのない來見の姿は、さながら怪しげに徘徊する不審者のようであっただろう。しかし、それを意にも介さないように引き留める者がいた。不意に後方へと引き戻されるような感覚が來見を襲っていたのである。
「お?」
「お疲れ様、來見くん」
來見が振り向いた先にいたのは、先ほど見かけた祝その人であった。予想外な人物の登場に來見が動揺している間も、祝はにこりと微笑みを向けてくる。
「あ、あぁ……祝も、お疲れ」
引っ張られたと思ったのは祝が來見の服を軽く摘まんでいたからであった。それも來見が向き直ると、祝はパッと手を離して少しだけ距離をとる。その頬は寒さからか僅かに赤く染まっており、顔には花が咲いたような明るい表情が浮かんでいたのだった。
「はい、これ。飲み物!まだ貰ってなかったよね」
「あ……うん、ありがとう。運営の手伝いしてるのか」
「私は飲み物を渡すだけ、だけどね!でもちゃんと配布しないと先生が持ち帰らなきゃいけなくなるから、意外と重要な仕事だったりして」
ペットボトルを受け取った來見の瞳を覗き込むようにして、祝は目を合わせてくる。來見はその視線に妙な力強さを感じてしまい、つい目を泳がせてしまった。勿論、その理由の大半は気恥ずかしさから来るものであったのだが。
しかし來見は直ぐに気を取り直す。せっかく話し掛けてくれたというのに、こちらから会話を途切れさせるのは本意ではない。浮わついた思いの中で來見は言葉を選びながら、返事をしていく事にしたのであった。
「走り疲れて受け取るの忘れてる奴、多そうだもんな。それにしたって……誰に配ったのかまで把握するのは大変そうだ。よく覚えてるな、祝は」
「うん。私も全員のゴールをチェックしてる訳じゃないんだけど……來見くんの事は、目に入ったから」
「えっ!……あぁ、そうなのか」
來見は咄嗟に冷静な態度を取り繕って見せるが、我ながら感嘆詞がやたらと口をついて出た事実はもはや変えようがなかった。
何故そこまで驚いてしまうのかと言う事にはなってくるのだが、そもそも今までの來見の記憶の中には中学生の頃に祝と親しく話をした体験など存在していなかった。それは現在の――中学生の來見からすると、どうして祝が積極的に話し掛けてくるのか、その理由が分からないという事であり。彼女の意図をはかりかねていたのである。
來見の動揺を見抜いたように、あるいは更にからかうようにして。祝は一歩、來見へと距離を詰めてくる。地面に縫い止められたように動けなくなった両足とは裏腹に、來見の心臓は煩いほどに鼓動を速めていた。
「ね、來見くんって私のこと……良く見てるよね」
「え……」
「だからかな?私も來見くんの姿を見ると……つい目で追うようになっちゃったのかも」
「あ、お……」
祝の発言に二の句が継げず、來見は口をパクパクと閉口させる。來見の脳内はかつてないほどの混乱に陥っていた。しかし祝は來見の反応に気を悪くした様子もなく、むしろどこか嬉しそうに言葉を紡いでいく。
「この間、伊斗路高校の入学試験が終わった後にね。一番最初に思ったのが……」
祝は一度、そこで言葉を切る。果たして何を言われるのかと無意識に息を飲んだ音が、來見の頭と耳の中で妙に響き渡っていた。
祝は躊躇いがちに少しだけ目を伏せる。しかし次の瞬間、意を決したように一息に話を続けていた。
「……來見くんと同じ学校に通えたら良いなって事だったんだ。不思議だよね、どうしてそう思ったんだろう」
祝は來見に問い掛けていた。しかしそれは上辺だけのものであって、彼女の中には既に答えが存在しているようだった。
祝の瞳の奥には強い意志が宿っている。そして、何か確信を抱いていると來見に思わせる力があった。
祝の視線に晒された來見は言葉を失ってしまう。激しい混乱の中で思考がひたすらに加速していくのを、ただ感じ取る事しかできずにいたのであった。
(質問の体をとってるけど、違う。祝は……)
祝は敢えて迂遠な言い回しをしている。祝が抱いている來見への好意的な感情を、当人の口から代弁させようと揺さぶりをかけている。そして、そうする事で來見に自分の本心を強く印象付けようと誘導している。
來見は祝の狙いを、恐らくは正確に理解してしまっていた。
「え、あ……俺は」
しかし來見は、祝に掛けるべき相応しい言葉が見つからなかった。
そもそも來見が勝手に邪推しているだけで、祝には下心など全く存在していないのではなかろうか。そうなると來見はとんでもない思い上がりと勘違いをしている事になり――その可能性が残っていると分かっていながらも大口を叩く勇気は、今の來見は持ち合わせていなかったのである。
「……俺も、次は祝と同じクラスになれたら良いなって、思ってる」
やっとの事で絞り出したのは、当たり障りのない同調であった。來見は恐る恐る祝の顔色を窺うが、彼女が目に見えて感情を揺らしている様子はない。ただ、期待が外れたとばかりに微かに眉尻を下げた気もしたのだが――瞬きの間にその姿は掻き消え、祝は普段と変わらない笑顔を浮かべていたのであった。
「……うん!その時はまた、よろしくね!」
「あぁ。こちらこそ……よろしく」
2人の会話が一段落したところで祝は友人に呼び掛けられ、來見の前から去っていった。祝はお疲れ様だとか、再度ねぎらいの言葉を來見に向けて発していたようだが、その声は霞がかったように遠く小さくとしか聞こえていなかった。來見としては全く、それどころではない状況だったのである。
(……変なこと言ってなかったよな?俺)
やや不安は残るが、恙無く話を終えられた事に來見は途轍もなく安堵していた。これ以上ない程に全身の力を抜いてしまっていた為に、もはや聴覚が正常に機能していなかったのである。
遠く離れていく祝の背中。その姿を、端から見ればぼんやりと眺めている來見。勘付かれれば怪訝に思われるであろう有り様を誰に見咎められる事もないまま、來見は直近のやり取りを思い返していた。
果たして、先程まで一体何が起こっていたのか。來見の脳は再起動をかけたように急速に回転し始め、答えを探す旅に走り出していたのである。
(あんな祝は今まで……いや。文化祭の、あの時に片鱗は見たかもしれないけど。……何で中学生の今、あんな風になってたんだ?)
高校生の來見に文化祭を共に回ろうと誘ってくれた時の祝の行動は、まだ理解できる。短くとも交流を経たという過程があったからこそ、友好的な態度を示してくれていたのだと分かるから。
そしてそれは当然、來見としても同様であり。お互いに歩み寄った結果、あのような間柄になった――筈であった。
(まだ……そんなに仲良くないよな、俺達。何か切っ掛けとかあったっけ……?)
以前の來見と祝の関係性は、当たり前だが今の世界とは別のもので継続も連動もしていない。そうなると今の、中学生の祝が來見に示す態度が現時点で友好的すぎる点については、どうにも説明しようがなかった。來見は祝の好意に浸って自惚れるよりも先に、その不可解な態度に対する疑問が生じていたのである。
(もしかしてアレか?祝を家まで送り届けたやつ。……いや、でも別に大した会話はしてなかったし……)
一つ、切っ掛けらしい切っ掛けを上げるとするのなら、來見が過去に飛んできた初日の出来事が該当するのかもしれない。ヨリの後押しを受けて、祝を自宅まで送り届けた件の事である。
しかしながら、それについて何度記憶を掘り起こしてみても彼女の心を強く動かすほどの劇的なものは全く存在していなかった。加えて、祝に対して何か上手い事を言えるほど來見の口は達者ではなかったとしか思えなかったのであった。
(じゃあ何だ?他に、何か原因があるとしたら……)
來見は考えを巡らせる。何かヒントがあるとすれば、それは先ほど直接交わした会話の中にあるのかもしれない。來見は祝の様子と共に思い返してみる事にした。
(そういえば……そうだ!祝は入試について話してた。それがもう終わってるって事は……勉強する重圧から解放されてた訳だ)
推薦組であったからこそ失念していたその状況を、來見は漸く認識する。それは日程としてはもう5日は前の話であり、平常時の落ち着きを取り戻すには既に十分な時間が経っていたと言えただろう。
しかし長距離マラソンを走り切った直後の興奮状態が、祝に何かしらの影響を与えていた可能性はある。直近の気が滅入るイベントを立て続けに、悉く消化できた事実が祝を上機嫌にさせた。その解放感が彼女に大胆な行動を取らせていたという予測に來見は思い当たっていたのである。
(ランナーズハイみたいな状態でもあったのかもな。ちょっと……テンションがおかしくなってたんだろう)
來見は自分の推理に納得する。恐らく祝は、後で我に返った暁には來見との会話を無かった事にしたくなる確率が高い。だからこそ來見からはその内容に触れたりはせずに、そっとしておくのが最良の行動だろう。
來見は自分が取るべき立ち振る舞いを算出しては満足を得る。そして漸く落ち着きを取り戻し始めるのであった。
「來見ぃー」
「……嫌な予感しかしないから。頼むから黙っててくれ」
頭の中を整理し終えた來見の肩に、不意に回される馴れ馴れしい手がある。わざわざ振り返って確認するまでもなく、声の主は香椎であると來見は分かってしまっていた。
思わず険のある物言いで忠告してしまった來見であったが、それは僅かに沸き上がった反発心によるものであった。來見はこれから迎えるであろう先の展開が、自身にとって間違いなく不本意なものであると簡単に予想する事ができていたのである。
「そうだな!やっぱり、そういうことだなぁ!」
「止めろ!いらん事を大声で言うな馬鹿!」
他人の事を言えない程に声を荒らげる來見を横目に、香椎は訳知り顔で何度も首を縦に振る。その皆まで言うなと言わんばかりの表情に來見はうんざりとした視線を向けてしまうが、香椎にはまるで効果が無いようだった。
兎も角、祝に関しては他の者からあれこれと言われたくはない。その一心で來見はどうにか香椎の言葉を止めようと口を開きかけたのだが、結局はそれよりも先に目の前の友人の発言を許してしまうのであった。
「いやー良いんだぜ!恥ずかしがらなくて!俺はもう!それはもう応援するし!」
「……自分で何とかするから、マジで放っておいてくれ」
「えぇ?お前、奥手すぎて全然期待できない感じするけど?……まぁ良いか、じゃ必要になったら言えよ」
イイ感じになる作戦、考えてやるからな!とニヤつく香椎に來見は深々とため息をつく。
祝とのやり取りがいつから見られていたのかは分からないが、この調子では長々と揶揄され続ける事になるのだろう。それは、ある意味で高校生の時の状況と変わらないのかもしれないが――以前よりもそうなる時期が早まった事が來見に何をもたらすのか。一体これから何を言われるようになるのか。そんな恐々とした気持ちが芽生えつつあるのを、來見は否定できなかったのであった。
「……それよりも、論手は?あいつ無事か?」
「俺はまだ見かけてねぇなぁ。ま、あいつの事だから変に無理しないで、ゆっくり走ってくるだろ」
一頻り來見を茶化せて気が済んでいたからだろう。あからさまに話を変えた來見に、香椎は抗うことなく乗ってくる。
香椎は論手を心配する素振りも見せずに呑気な意見を述べていたが、それも普段の信頼あっての事だろう。確かに走る前の論手の様子からも、後先を考えないで張り切るような姿は想像できない。來見は苦笑しながらも納得してしまうのであった。
「走ってる間に苛ついて、無駄に疲れてないと良いけど。……いや、走ってたらそれどころじゃないか」
あれだけマラソン大会について忌避感を抱いていた論手である。走る間に何かを考えているとしたら、それは運営に対する文句だろうと來見は当たりを付ける一方で、そんな余裕も持てない程に論手の体力が多くない事実も知っていた。
香椎も來見と同じ考えを持っていたようで首を縦に振り肯定を示す。しかし香椎は更にその先へと思考を進めていたらしく、來見の言葉を引き取っていくのであった。
「キレるなら全部終わった後だろうな。でもその頃には体力を使い果たしてて、結局は怒る気力もないと見た!」
香椎の口から出てきた発言は恐らく核心を突いていた。來見は自分と同じくらいか、あるいはそれ以上に満身創痍になっている論手の姿を易々と想像できてしまう。
学年などによって多少の差はあるが自分を含めた他の生徒達も殆んど同じ距離を走り、皆等しく苦労した。それは身に染みて分かっている。しかし今もなお不満を押し込めて必死に走っているであろう論手の心中を思うと、來見は同情せずにはいられなかったのであった。
「ゴールの後、死んだ目で燃え尽きてる姿が目に浮かぶな……」
「ま、自力で帰ってくんのを出迎えてやろーぜ。……鬱陶しがられる気もするけどな!」
つい溢した來見のぼやきを香椎はからりと笑い飛ばす。その姿はマラソン大会に対する不満など一切持ち合わせていない事を、正しく体現しているようだった。來見は香椎が不意に見せる人徳のある様子に感心を抱きながらも、今はただ同調を示す為に一つ頷きを返すのであった。
來見が自身の計測タイムを記録係に報告し終えてから、暫くした後。気付けば会話に混ざっていた征生も含めて3人で暇を潰していると、今にも論手がゴールへと到達しそうな姿が遠くに見えた。その光景が視界に映ると同時に來見達は場所を移す事を決めていた。全員が示し合わせるようにして、敢闘した者を出迎えに動き出していたのである。
どれだけ時間が掛かったとしても自力で走破したという健闘を称えるため。それに加えて、単純に体は大丈夫なのかという心配もありつつ、3人はぐったりとしている論手の近くまで歩を進めていくのであった。
「よ、お疲れ」
「……もう僕は無理だ。死ぬ」
開口一番、労りの言葉を投げ掛けた來見に対して論手は弱々しくも過剰に悲観的な返事をする。予想していたよりも余裕があるんじゃないかと訝しむ來見であったが、論手の青ざめた表情を見るとからかう気にはなれなかった。それは他の友人達も同様であったのだろう。征生は釘を刺すように言葉を続けていく。
「いきなり立ち止まるな。まだ歩んどけ」
「うん……」
普段なら言われなくとも分かっていると口答えしそうなところを論手は素直に頷いている。今は相当に参ってしまっているのだろう。それはマラソンという競技が論手から、ありとあらゆる気力を奪い取っていった事を端的に表していたのだった。
「この後は……何をすれば良いんだっけ」
「タイムを報告したら終わり。飲み物も貰えるよ」
呼吸の浅い論手は頭が回っておらず、僅かな動作もままならないのだろう。來見が疑問に答えると小さく首を縦に振るだけに留めていた。
「12時になるまでは待機だけど、それ以降は解散して良いんだよな?」
「おう。走り終わった奴はな」
「なら売店でも寄るかー食い物とか買ったりしてさ」
「昼時だしな。丁度良か」
疲れ果てている論手を横目に香椎がマラソン大会のスケジュールを確認すると、征生が頷き保証する。そのまま2人の話題は売店のメニューに関する事から、この後どうするかという計画にまで移っていった。
しかし楽し気な2人とは裏腹に、論手は呑気に談笑している友人の姿に呆れているらしい。ゆっくりと顔を上げると冷ややかな視線を向けるのであった。
「メシ食ったら他のエリアに遊びに行こうぜ」
「アスレチックとかあったばい。俺たち位ん年齢でも遊べるところ」
「……この、体力バカ共め。暑苦しい……」
体力の無い自分への当て付けのように感じたのだろうか。論手は刺々しい口調で、そんな言葉を吐き捨てる。しかしそれは疲労による苛立ちからくるもので、本心から罵ろうとする意図は無いのだと來見は理解していた。香椎や征生も思うところは同じだったようで、むしろ噛み付いてきた論手の行動に安堵するように顔を明るくするのであった。
「お、少しは調子が戻ってきたな」
「悪態つく元気があるなら大丈夫やろ。さっさとタイム報告に行ってこい」
「言われなくても……そうするよ」
論手の返す言葉は消耗し切っている事を示すように途切れ途切れではあったが、その目には力が戻ってきていた。征生はそれを目の当たりにした事でこれ以上の配慮は必要なく、もはや手加減などしなくても良いと判断したのだろう。打って変わって挑発するような発言を続けていく。
「足元が覚束ないな。背負ってやろうか?」
「嫌だよ……何で好き好んで、汗臭い人間にくっつかなきゃいけないのさ」
征生は論手を下に見て馬鹿にしている訳ではない。聞く人によっては皮肉のように感じるかもしれないが半分くらいは本心から心配して、上記のような提案をしていた筈であった。
しかしながら、当然と言えば当然なのかもしれないが――突如として過保護じみた配慮を向けられた論手は非常に迷惑そうな顔で断るばかりで、端から征生に頼るという選択肢は存在していなかったようであった。
「……そこまで嫌な顔さるると、何がなんでもやりとうなるな」
「うわ!近寄って来るな!助けて來見!」
気遣いを察される事もなく拒絶された事実と、情けを掛ける必要が全くないという点が改めて明らかになったからであろう。征生はすっかり平常通りの煽り合いを始めようと、論手に詰め寄っていく。
一方、論手は疲れた体では征生の相手をしたくない事を、隠す素振りもなく露わにしていた。その上で他者に対応を丸投げするように、來見を物理的に盾にしては助けを求め始めている。
そんな2人の応酬を面白く思うからだろうか、來見には悪戯心が芽生えてしまっていた。次の瞬間、來見の口からは愉快な感情を反映した言葉が――今の状況を悪化させるような茶化した返事が飛び出していたのであった。
「……運んでもらうのは楽で良いかもなぁ」
「はぁ!?これだから体力のない奴は……!くっ、悪霊退散!怨敵退散!」
「誰が悪霊や。誰が」
裏切られたと思ったのか論手は即座に來見から離れ、猛獣を前にした無力な人間のように後退りをし始める。しかしその怯え方は征生には逆効果だったのだろう。征生はすっかり友人をからかう方向に舵を切った様子で、ジリジリと論手との距離を縮めていく。
「止めろ!抱えようとするな!ベタベタする!臭い!」
「汗は運動ば頑張った証やろ。大体、今ん匂いは群雲とそう変わらんばい」
「変わる!自分と他人の体臭は違う!あぁー……」
あっさりと征生に捕らえられた論手は情けない声を上げながら、その小脇に抱えられていた。
そこまで体格が良い訳でもない征生が殆んど変わらない背丈の論手を軽々と持ち上げられてしまうのは、潜在的に持つ圧倒的な筋肉量の違いとそこから出力される力が途方もなく巨大だからなのだろうか。
來見がしみじみと考察している間にも、論手は地面へ叩き落とされるのを恐れるようにぐったりとしてしまう。征生はそんな草臥れた姿を意に介する事もなく、悠々と記録係の元へと論手を連れていくのであった。
「怪我させんなよー」
「本気で嫌がってる訳じゃないし、大丈夫……だよな?」
香椎の忠告に征生は振り返り、頷いて返事をする。論手はもはや観念したように――あるいは先程の來見の言葉を聞いて、無駄に抵抗して体力を失うよりは運搬された方が楽だと考えを変えたのか、暴れる様子が一切なくなっていた。
來見のぼやくような独り言を背に征生と論手は去っていく。その姿を香椎と共に來見は唯々、見送るのであった。
時間は進み、教師陣の予想では、そろそろ全ての生徒がゴールし始めているだろうといった頃合い。
辺りを見回すと暇をもて余したように駆け回ったり、あるいは芝生に身を投げていたりと生徒たちが思い思いに過ごしている姿が目に入ってくる。
その学友の中には当然、祝の姿も存在しており――來見は先ほど指摘された事も忘れて彼女を目で追ってしまっていた。
(どうして、この世界の祝をよく見てしまうのか。それは……やっぱり気になるから。無事かどうかを、つい確認したくなる気持ちがあるから何もなくても探しちまう……)
來見は考えを巡らせる。過去に飛んできてから、何度このような思案をしているのだろう。祝という個人に向ける単純な想いとは別の、複雑な感情が入り交じる中で來見は答えを探していた。
(祝は、俺が過去を変えて助けようとした最初の人間だから。特別に思うのは何も不思議な事じゃない。この世界の祝が、あの彼女とは厳密には違う人間だとしても……同じように穏やかに、生きていて欲しいと思う)
來見は今まで助けて来た人々に対して、優劣をつけるつもりはない。皆一様に大切にすべきで、信頼できる人々に違いないと理解している。
それでもやはり、一番初めに助けた祝はどうしても強く印象に残っていた。だからこそ、その彼女と同じ顔をしている中学生の祝も気に掛かって見てしまう。
その理屈に、破綻は特に見られない。しかし來見は祝を視線で追ってしまう理由がそれだけではない事を、はっきりと自覚していた。過去に来てから目を逸らし続けてきた思いを、來見は漸く直視する。
(……そうか、俺は安心したいんだ。目の前にいる祝の助けになる事で、もう会えない祝を救った気になって……自分を慰めようとしてる)
いま思えば、以前の世界では。彼女が平穏の中で楽しそうに過ごしている姿を見ると、自分は正しい事を為しているのだと保証され許されているような心地になっていた。
未来からのメールという切っ掛けがあれど、來見が初めに行動を起こしたのは紛れもない正義感からの事である。それは間違いない。だがその一方で來見は過去を改変してしまったという罪悪感から逃れようと、心の安寧を保つ為に――自身が初めて救った祝の存在を、まるで免罪符のように利用していた。それは今の世界で生きている祝に対しても、きっと同様だったのである。
來見は自分が親交を深めた祝 蕗沙という人物と同じ顔をした者に、同じ役割を求めていた。彼女の身の安全が守られる事で間接的に自分の所業を肯定しようとしていた。來見はそれを、漸くはっきりと自覚したのであった。
(自己中野郎だな、俺)
もはや再会の望みも薄い、前の世界で関係を育んだ祝と今この世界に存在する祝。そのどちらに対しても誠実とは言えない態度を、來見は取ってしまっている。自己分析を終えた來見は分かりやすく気分が落ち込んでいくのを感じていた。
(……祝を見て勝手に浮かれるのは、キモいけどまだ許される範疇……だと思いたい。それよりも俺はいい加減、2人を混同するのを止めないと)
頭の中では理解していても、どうしても割り切れずにいたこと。その正体が一体何であるのか、來見は理解できていた。
香椎などの以前から気安い関係であった人間とは違い、本来であれば深く交わる事がなかった筈の、祝との関係性。未来からのメールという介入がなければ、中学時代の知り合いという係わりしか存在し得なかった状態から逸脱してしまったC世界の自分と祝。
淡白な関係性に留まる筈であったものが大きく変わってしまったからこそ、今の今まで引き摺り続けてしまっている感覚。一度手に入れてしまったからこそ手放し難く、失ったと思いたくない。言葉にすれば、あるいは絆と呼べるもの。
それこそが來見を悩ませている元凶であり、その迷いにも似た甘さを断ち切るべき時が目の前に迫っていたのである。
(前の世界の祝と、今の世界にいる祝は別人。俺が……仲良くなったのは前者だから……さっき会話を交わした彼女を、殊更に特別視する必要はない)
そう決めた瞬間に、胸に走る痛みがある。それは祝に好意を寄せられていると浮かれていた中学生の來見の自尊心が傷付けられた痛みであり、高校生の來見がもう二度と以前の祝には会えないことを再認識した悲しみによるものだったのだろう。
傷心に違いないその苦しみを、來見は抵抗することなく受け入れる。その上で新たに心に決めた事を、刻み込むようにして頭の中で繰り返した。
(……もう2人の姿を重ねる事はしないだけだ。今の俺は目の前の祝を見るだけ。彼女が助けを必要としていたら直ぐにでも走っていくけど……それは他の人にも同じように取っている態度を、祝にも適用するだけ)
自身に言い聞かせるようにして來見は心の整理を行う。とはいえ直ぐに切り替えられるものでもないだろう。それでも時間をかければ、一度始めたからには割り切る事ができるようになる日が必ず来る筈である。
來見は空を見上げて大きく深呼吸をする。そして以前の世界で親交を深めた祝に確かに抱いていた自分の恋心に、そっと区切りを付けたのであった。
「悪い、この後……ちょっと用事あってさ」
俺はこの辺で、と切り出した來見に友人達は目を丸くしながらも首を縦に振っていた。
時刻は既に12時を回っており、教師達もそれを口頭で知らせている。つまりは予め定められていた、生徒達が解散可能な時間を迎えたという事で――來見は迅速に事故が起こり得る現場へと向かう必要が出てきていたのである。
「この前はそんなこと言ってなかったのに。忙しいね」
「そういう時もあるやろ。柊には言うとく」
「悪い!ありがと!」
不満というよりは來見の行動の不可解さに首を傾げていた様子の論手であったが、征生が窘めた為か食い下がる事はしなかった。その反応に胸を撫で下ろす暇もなく、來見は行動を開始する。
征生がついでとばかりに香椎への説明を引き受けてくれた心遣いに感謝しつつも、來見は急いで荷物を回収していた。と言うのも香椎はつい先程トイレに行ってしまった為に、來見から直接弁明する事ができなかったのである。
後で個人的に一言詫びを入れる必要性を考えつつも、その際には必ず述べなければならないだろう言い訳を思うと少しだけ憂鬱さと面倒臭さを覚えてしまう。しかし今はとにかく目の前に迫り来る未来へと全力を尽くすべきだろう。來見は思考を切り替えると再び友人達に向き直るのであった。
「それじゃ、また明日!」
「明日は振替休日だよ。また明後日ね」
「またな」
発言を訂正した論手と言葉少なに挨拶を述べる征生に申し訳なさを抱きつつも、來見は振り返らずに2人の元を去っていく。もしかすると見咎められるのではないかという不安もあったが、既に各自解散が許されている状況では誰に引き止められる筈もない。來見の心配とは裏腹に、現実ではすんなりと生徒達の輪から抜け出す事に成功していた。
「……よし」
來見は決意も新たに自身を鼓舞し、鞄を収まりの良い位置に抱え直す。そしてメールによって事故が予告されていた西口エリアへと、気合いを漲らせながら足を進めるのであった。
「あ、いたいた」
「ヨリくん!」
桜川公園、西口エリア。遊歩道に面している、こどもの広場の入り口前で來見は大きな声を上げてしまっていた。と言うのも來見は自分からヨリに連絡をしておいたのにも関わらず、疲労からかその事実をすっかりと忘れてしまっていたのである。
思わぬ助っ人に驚きはしたものの、來見は同時に安堵を覚える。たった一人で事態に立ち向かうよりもきっと多くの予防策が見つかり、事故を未然に防ぐ事ができる確率の上昇も見込める筈である。道端という中途半端な場所ではあるが來見は早速、ヨリと会議を始めるのであった。
「メール見た?」
「見てなかったら来てないっつーの!事前に聞いてても本当に突発的に未来からメールが来るってのは、驚いたけどな」
來見の疑問に肩を竦めて答えたヨリは、何故だか妙に小綺麗な格好をしているようにも思える。しかし今は敢えて触れる必要もないだろう。
学校指定のジャージを着用している來見と私服姿のヨリの組み合わせは傍から見れば少々浮いていたかもしれないが、他者からの視線など目の前の問題と比べれば些事でしかない。普段なら気にしていたかもしれない体裁を、來見は一旦無視する事にしたのであった。
「それじゃあヨリくんも色々と考えてきてくれたと思うけど……まずは俺の意見から言ってく方針で良いか?」
「おう、良いぞぉ。バンバン言っていけ」
來見の提案にヨリは力強く頷く。來見はマラソンの最中に考えていた案や予想を順に伝えていく事にした。その内容は多分に想像を含むものでもあったのだが、ヨリは一つひとつを真剣な面持ちで聞き取っていく。
來見が全ての構想を語り終えると、ヨリは腕を組んで小さく唸り声をこぼしていた。
「んー、そうだな……じゃ、取り敢えずトラムの時間を調べてみるか。まだ確認してねぇんだよな?」
「あ、うん。まずは現場に行かなきゃって思ってたから……」
「俺のスマホの方が早く調べられそうだから、こっちで確認するか。トラムに問題なさそうなら奥の方も見に行こうぜ」
奥、と言いながらヨリはこどもの広場の中心部である、アスレチックが立ち並ぶ地を顎で示す。その手には既にスマートフォンが握られており、目にも止まらぬ早さで指が動いていた。それは言葉通り、トラムカーに関する情報を検索している姿であったのだろう。
來見は従兄の様子を気にしながらも首を縦に振り、出された提案に同意する姿勢を見せる。しかしそれだけで話し合いを終わらせる訳にもいかない。來見は続けて考えを口にしていった。
「そうだね。ここで突っ立っててもしょうがないし……俺も本命はアスレチックに関係する事故だと思うから」
「ん。……トラムカーは通常通りに運行してるみてぇだな。時刻表と照らし合わせても……メールで予告されてる時間の前後に近くを通る事は無さそうだ」
ヨリはスマートフォンの画面を提示し、來見にも内容を確認させる。ざっと目を通してみたが確かにトラムカーが12時40分付近にこどもの広場へ停車する予定は無く、逆にそこから出発する様子もなかった。
更に明記されている情報を読み込んでいくと、來見達の推理を補強してくれるような内容も窺えた。どうやら桜川公園のトラムカーは、電車が時間によって普通列車と快速列車を切り替えるような複雑な運行をしていない。それは各エリアを通り過ぎる際の速度の違いや都度変わる停留時間を考慮に入れた計算などはしなくて良いという事を示していた。
要するに、素直に時刻表の情報を信じて良い。当該の時間にトラムカーがこどもの広場へと寄り付く事は無いと断言しても問題ない――筈であった。
「そっか。一応チェックは続けた方が良いのかもしれないけど、交通事故の可能性は低くなったと見て問題ない……よな?」
「おう。その解釈で良いんじゃねぇの?サイクリングロードも近くには無いみてぇだし。お前の見立て通り、交通事故の確率は低そうだと思うぜ」
スマートフォンに再び目を向けたヨリは桜川公園のガイドマップを確認しているのだろう。來見はそれを横から覗き込みながら、載せられている文章にも忘れず目を通していく。
「そもそも物理的に無理っぽいな。自転車の持ち出しはできないみたいだし。……うん」
「そうなると怪しいのは……やっぱりアスレチックの方か?」
「直ぐに下見に行こう。もしかしたら老朽化してる部分とか、事前に見付けられるかもしれないし」
「あぁ……何かの拍子に遊具がブッ壊れて事故が起こるとか、滅茶苦茶ありそうな話だ。ガキが大勢乗っかってはしゃいでたら、相当な力が加わってるだろうしなぁ」
來見の言葉を受けたヨリは考えを巡らせるように、宙に視線を彷徨わせる。その頭の中では建造物の設計に関する様々な演算が始まっているのだろうか。ヨリの顔は段々と険しい表情に変わっていく。
「目視で異変を発見できるなら、それに越したことはないからね。……後はヨリくんの考えも聞きたい。何か引っ掛かる事とか、ある?」
「ん?あぁ、そういえば。お前に確認したい事があったんだった。……取り敢えず移動しながら話そうぜ」
來見は頭に疑問符を浮かべる。これから起こり得る事故の予想ではなく、自分への質問とは何なのか。來見には見当がつかなかった。
しかし一先ず、來見は促されるままにアスレチックのある方へと足を向ける事にする。移動は早ければ早いほど良い。迫り来る事故への対処に一刻も早く取り掛かる為にも、2人はこどもの広場――その中心へと歩を進めるのであった。
「それで、確認したい事って?」
「うん。今のお前は過去に飛んできてる訳だから……既に中学3年生の時のマラソン大会を、一度は経験してるって事だよな」
來見の催促を受けたヨリは念を押すように検証を進めていく。発されたその言葉に異論はなく、來見は頷いて肯定を返した。
「うん、そうだな。細部は覚えてないけど……間違いなく、走った経験も記憶もある」
「となると……実際どうだったのかって話になってくるんだよ」
「……?」
ヨリが何を疑問に思っているのか即座に理解する事ができなかった來見は、反射的に首を傾げる。それを見たヨリは意図が伝わっていないと直ぐに気付いたのだろう。考えを巡らせるのと連動するように一度視線を彷徨わせると、噛み砕くように言い直し始める。
「もしも何か……とんでもない事故が起こってた場合。それが、お前の耳に入らなかったのは可笑しいんじゃねぇのって話。俺の言いたいこと分かるか?」
「……あぁ!確かに。俺のアンテナが低すぎて聞き流した可能性もあるけど……」
「よりにもよってマラソン大会の当日に大事故なんかが起きてたとしたら。一人くらいは目撃して、学校で話題にしそうなもんだよな?」
ヨリの考察は尤もなもので、來見は直ぐに同意していた。中学校に通う生徒の、それも3学年分という大所帯を率いて大会を開いておいて。誰も事故について知らなかったというのは違和感を覚えるべきだろう。來見は必死に過去に体験した筈の、当時の記憶を思い返していた。
「確かに、時間的にも大会の直後だから近くで遊んでた子がいてもおかしくない。なのに前の俺は……少しもそんな話を聞かなかった」
同日、同所で何かしらの事故が起きていたとして。もしも当事者が存在したとすれば、間違いなく校内の噂に上っていた筈である。しかし來見の記憶では、そうはなっていなかった。となると事故について考えられる状況は2つほど浮上してくる事になる。
「そうなると、少なくとも俺の同級生……というか中学には。事故に巻き込まれる人は、いなかったって事なのかも」
「それに加えて、幸い規模のでかい事故は起きなかったって証拠だったりしてな。それこそ派手に火事が起きたりだとか、死亡者が出たりはしなかった、とか」
ヨリの意見も合わせてみると、これから起こる事故はまるで大した事でもないように思えてくる。しかし甘く見る訳にはいかない。來見は気を引き締めながら、更に考えを纏めていった。
「つまり、局所的で限定的な……人の話題にも上らなかった事故って分類になるのか?……できれば俺達の手に負えるようなものだと良いけど」
「ま、そう悲観せずにやれるだけやろうぜ。ホラ、見えてきたぞ」
あからさまに憂慮を滲ませる言葉をこぼした來見に対して、ヨリは激励するように肩を強く叩いてくる。不安を隠せない來見とは裏腹に、従兄はそのまま先陣を切るようにして揚々と先に進んでいってしまった。
一人置いていかれたような気持ちになってしまった來見は、心を落ち着かせる為に深呼吸をする。そして顔を上げると、自分の眼前に広がる道を見据えていた。
こどもの広場の入り口からその中心部、アスレチックのある場所へと続く道。それは低い生け垣で舗装された何の変哲もない通路でしかない筈であった。しかし、そのごく普通で平凡な風景ですら、何か來見に訴え掛けてくるものがある。
未来から事故を予言されているという前提がある場合に限った話ではあるだが――今の來見には、あらゆる状況や景色の全てが意味のあるものに映ってしまっていたのであった。
「……どう?目に見えて分かる劣化部分とか、あったりした?」
來見は携帯電話を耳に当て、ヨリへと問い掛ける。來見とヨリはできるだけ広い範囲を監視する為にも、二手に分かれて広場を見回っていた。時折、互いの姿が視界に入る事はあっても基本的に離れた場所で各々が調査を行っていたのである。
「正直に言えば、俺は建築関係は門外漢なワケだけどさぁ……見た限りでは老朽化とかは無さそうなんだよなぁ。ったく一体、何が起こるんだか」
全てのアスレチックを隅々まで確認できたという訳ではないのだろうが、來見と比較するとヨリの方が構造物に関する知識を多く蓄えている筈である。そんな彼がチェックするという事はつまり、より的確に検査すべきポイントを絞ってから見て回っているに違いなかったのだが――今のところ問題のある箇所は突き止められていないようだった。
安心しても良いのか分からない返事に、來見は落ち着かない気分になる。アスレチック自体に異常が無ければ、やはり人間同士の接触などを始めとする突発的に生じた些細な出来事から、転がり落ちるようにして怪我人を出す事故へと繋がってしまうのかもしれない。來見は目を皿のようにして辺りを見回し、警戒を続けるのであった。
「子供が……結構たくさんいるのが怖いな。そういうエリアだから、仕方ないんだけど」
來見のこぼした言葉通り、広場には幅広い年齢層の子供の姿が散見された。一見すると低年齢のいたいけな子供が目立つが、設置された遊具には推奨年齢が課されている訳でもない。その為、來見と同じくらいの年齢の――それこそ同じジャージ姿の中学生も、少なからず混ざっているという状況だったのである。
「なんか平日の割りに混んでるよな?春休みにはまだ早いと思ったけど」
「言われてみれば確かに。……あのさ、そういえばヨリくんって、もう春休みに入ってたっけ?」
「おう、絶賛春休み期間中。……何?もしかして気にしてんの?ヨリくんの貴重な休みを潰しちまってるーってさ」
「そりゃあ……結構、頻繁に呼び出してる訳だし」
ヨリは茶化すような声色で言葉を返してくるが、來見の内心は複雑であった。対応策を考える為とはいえ、未来からのメールに関する事では昼夜を問わずヨリに相談する状況が続いてしまっている。
人に頼る事と人を使う事を覚えろと言われた手前、ヨリに対して遠慮する必要はないと理解している。しかし、そのあまりの頻度の多さには來見も思うところが無い訳ではなかったのであった。
「俺は無理なら事前に言うっての!キャパを超えた時にもな!」
だから、いちいち細かい事を気にするなと続けたヨリは、現状について本当に苦には思っていないようだった。確かにヨリは不満を溜め込むようなタイプではなく、嫌な事ははっきりと主張する性質だろう。
來見は携帯電話の向こう側にいるヨリには見える筈もないのに、小さく頷いて相槌を打つ。従兄の言葉に異を唱える事もなく、年功序列に従うように來見はあっさりと丸め込まれてしまったのであった。
「それよりも、お前の方はどうなんだよ。何か変なもん見付けてねぇの?」
「簡単に見付けられたら苦労しないよな……」
明るい声で話題を変えたヨリではあったが、残念ながら來見としても何の異変も感じ取っていなかった。それを遠回しに告げるも予想の範囲内だったのか、ヨリは落胆する事もなく呑気で適当な返事を返してくる。
このまま何も起こらないのであれば、それが一番幸いな事ではある。しかし決してそうはならないという厳しい現実を來見は身を持って実感していた。
來見は思わず自分の調査能力の低さに大きくため息をついてしまう。しかしここで諦める事こそ、最も愚かで後悔する選択に違いなかった。だからこそ再び監視を続ける為に視線を周囲に動かしたのだが――その目に映された光景に來見は息をするのも忘れてしまう。一瞬、何もかもが來見から遠ざかるような衝撃が、その身に襲い掛かっていたのである。
「あれは……」
「何だー?」
「いや、気のせいかもしれないけど……確かめてくるから、ちょっと待ってて」
「?おう」
來見はヨリに断りを入れつつも、反応が返ってくるよりも先にその足を動かしていた。
発生した問題をいち早く察知するため。視野を広く確保するために一歩引いた開けた場所で観察をしていた來見であったが、今は脇目も振らずに一つのアスレチックに近付いていた。
移動した來見の目の前には巨大なハンモックがそびえ立っていた。布ではなく紐で編まれた幾つもの網。空中に広げられたそれらは何本もの支柱によって固定されており、耐久性に問題があるようには見えない。
しかし、今の來見にとって重要なのはハンモックの頑丈さではなかった。その上で飛び跳ねるようにして遊んでいる――実に既視感を覚える、一人の子供の姿に來見は目を奪われていた。
「……浦部?」
どう見ても、何度確認しようとも。記憶に残る姿よりも、やや幼さを感じるが見間違いようのない面影がある。來見が見付けたのは伊斗路高校、読書研究部に所属する後輩――正確に言うと、近い将来で自分の後輩になるであろう子供。
浦部 基嗣。來見の年下の友人が、確かにそこに存在していたのであった。
(落ち着け、まだ浦部が事故に巻き込まれるとは限らない。でも……いや、取り敢えずハンモックについて考えよう。これも確認すべきアスレチックには違いないし)
來見は言い訳のような論理を展開しながらも、必要な事だと判断して思考を巡らせ始める。どうしても浦部へと吸い込まれてしまう視線を引き剥がすのは簡単な事ではなかったが、來見の中でより一層高まった事故を防がなければならないという使命感がそれを可能にしていたのであった。
ハンモックには大まかに分けて2種類の高さが存在していた。
一つは地面から程近く、小さな子供が一人でも登れる高さに設置されたもの。ここに危機感を抱くとすればハンモックの上で飛び跳ねた時の反動、地面へと向けて沈み込む際に伴う着地への失敗の可能性だろうか。來見は推理を進めていく。
(両足が網目を抜けて、地面と衝突する可能性も考えられるけど……ハンモックの網目はそこまで大きくないし極端に低い位置で張られてる訳じゃない。普通に遊んでいる分には、そんな事にはならないだろうな)
もしハンモックの網目をすり抜ける事があったとして。それが可能な足の大きさから逆算すると、該当するのは相当に幼い子供に限られるだろう。その足は地面に着く程の長さは持たず、そもそも保護者が傍に付いている筈である。來見やヨリの助けが必要になる事態には陥らないと推測できた。
上下で言えば下段にあたるハンモック。そこで遊ぶ事による危険性は少ないだろうという印象を、來見は受け取っていたのである。
そうなると怪しく見えてくるのは、もう一つのハンモック。前述した低い位置に張られたものと一部重なるようにして設置された、高所で網を広げる遊具へと來見は視線を移していく。
(あの高い位置に行く為には、斜めに張られたハンモックを登る必要がある。もしそこで足を滑らせたとしても、下にはクッション代わりになる網があるから怪我はしない……よな)
下段のハンモックから高所へと伸びるように傾斜状に張られた道は限られた一部分にしか存在していない。起き得る事故としては、その狭い場所に殺到した人々へと目掛けるような形で高所にいる子供が落下、及び接触してしまう――そんなところだろうか。
安易な予想が來見の頭に浮かんでは消えていく。しかし來見は傾斜部付近では事故は起きないような気がしていた。僅かに視線を動かすと、より危険性を感じる箇所が來見の目に映っていたのである。
(当然と言えば、当然だけど。高い所のハンモック……場所によっては断崖絶壁みたいに網が途切れてるんだよな……)
屹立するハンモックは傍から見れば來見の懸念とは裏腹に最低限、安全性に配慮した形にはなっている。不注意によって高所から落ちてしまった人間が直接地面と接触する事がないように。低い位置のハンモックが体勢を崩した人々を受け止められるような形に大きく広がってはいるのだが――來見は嫌な予感と最悪な未来しか見えていなかった。
上段のハンモックは、場所によっては地面に足を着けた大人が背伸びをして腕を伸ばしても、ギリギリ届くかどうかという高さにある。スリルを楽しむには十分すぎる高さで、高所が苦手な人間は足が竦みそうなほどに地面との距離が離れている。それらの予測が目算でも立てられるほどの高所に張られたハンモックから、地面に直接落下する事になれば――地面との接触の際に負う傷は、決して軽いものでは済まされないと來見は直感していたのである。
「おーい、聞こえてるかぁ?無視すんなー」
「……あ、ごめん忘れてた。その、知り合いというか……これから先輩と後輩として知り合いになるヤツがいてさ」
ヨリからの問い掛けで來見は漸く我に返る。そして思うままに言葉を述べつつも、來見の中には新たな疑問が生まれていた。それはヨリも同様だったのだろう。従兄は更に話を続ける。
「お前の、未来の後輩って事は……今はまだ小学生って事だよな?平日なのに遊びに来てんのか」
「いや、学校をサボるような奴ではないと思ったけど……」
言外に仮病でも使って遊びに来ているのかというヨリの追及に、來見は言葉を濁す。確固たる根拠がある訳ではないが、浦部がそのようにルールから逸脱した行動を取るとは考えづらかった。
記憶にある浦部は友人である飛織の携帯電話の持ち込みという校則違反を糾弾しつつも、頼まれれば目を瞑るような柔軟性を持ち合わせてはいた。それでも自身の立場においては、原則として規律を守ろうとする性質だった筈である。浦部が勉学を疎かにして遊びに行くような軽率な人間だとは、來見には思えなかったのだった。
「なら、周りにダチの姿とかは見えるか?」
「うーん、ちょっと待って……」
ヨリからの指摘を受けて、來見はじっと目を凝らす。すると、どうやら浦部は一人ではない事が分かった。数人の子供と談笑しながらも、時にはハンモックの上を飛び跳ね駆け回っている。網という不安定な足場のせいで尻餅を付いたりしている様子もあったが、今のところ怪我などはしていないようだった。
「うん、友達と仲良さそうに遊んでる感じだ。そうなると……開校記念日とかで、そもそも小学校が休みになってる……とか?」
「なるほど、それだ!お前アタマ柔らけぇな」
來見が述べたのは浦部と共にいる友人達が同級生であるという仮定を元にした思い付きであったが、ヨリは殊のほか感銘を受けたようだった。然り気無く褒められた照れくささで來見は思わず早口になりながら話を変える事にする。
「えーっと……保護者らしき人達は少し離れたところ、ベンチの辺りで喋ってるみたいだな」
辺りを一瞥して、來見は目星を付けていく。ハンモックからは少し離れた、しかし浦部達の姿が視界に入るような絶妙な位置。そんな場所で年嵩の大人達は談笑しており、時折ハンモックを気に掛けるように視線を寄越していたのである。状況から推察するに、その団体は浦部一行の保護者に該当していると考えられたのだった。
「なら一応、親はいるのか。それなら最低限の監視はされてるって事か?」
「うん、でも……賭けになるかもしれないけど。俺、あいつのこと見てても良いかな」
「まぁ、顔馴染みがいたら普通に気になるよな……良いよ。ただ、その回りの人間にも気ぃ配っとけよ。できる限りで構わねぇから」
「それは、勿論」
來見の申し出は、浦部とそれ以外の人々を天秤に掛けたも同然の物言いだった。知り合いがいる事を言い訳にして、徹底するべき調査を途中で放棄し感情を優先してしまっている。
それでもヨリはその暴挙を許し、來見に忠告を与えつつもフォローする為に動く姿勢を見せてくれていた。來見は深く恩義を感じながらも、再び電話越しに大きく頷いて相槌を返すのだった。
「あ、一応聞いておくけど。その子が事故に巻き込まれたっていう記憶というか、覚えはあるか?」
「いや……?そんな話はしたことないな。あいつが初めて体験入部に来た時も、見て分かるような怪我はしてなかったと思うし」
「んー……そうか。まぁ、いい。取り敢えずお前は後輩のこと見ててやれよ」
「う、うん」
ヨリの含みを残した言い回しは気に掛かるが、來見は躊躇いつつも結局は自分が言い出した通りに行動する事に決めていた。ヨリ自身、何が腑に落ちないのか分かっていないような声色だった為に、來見が問い質したところで今は徒労に終わるだけだと察していたのである。
無駄な思考に時間を取られるよりは、浦部の動向を気にするべきである。來見はそのように割り切っていたのだった。




