16-3 臨死
流血描写があります。
「もう少しで來見が来ますよ。あと皐羅宜の奴らもかな。一応、穐生楽の連中に対応させるつもりですけど」
「そうか」
仁の忠告に柏木は言葉少なに答えを返す。その視線はテーブルの上――灰皿の中で燃え盛る手帳に向けられており、その全てが灰になるのを見届けるまで柏木は決して目を逸らす事はなかった。
「行くならさっさと行った方が良いですよ。多勢に無勢って言うだろ?」
煙草を咥え革張りのソファに寝転んでいる仁を一瞥すると、柏木は見苦しいものを目に映してしまったかのように僅かに眉をひそめる。しかしわざわざ苦言を呈するつもりはないようで、眼鏡のブリッジを押し上げるとため息をつくだけで終わらせた。
「……とうの昔に改善点は分かっていたが、今回はここまでだな。留まっていた事で得た情報は存分に活用するとしよう」
「良いシミュレーションになったようで何より。で?あんたはどうせ、そっちの俺にまた介入させるつもりなんだろ?」
徐に立ち上がった柏木は、ラボへと足を進めていく。その背中に向かって掛けられた仁の言葉をまともに取り合おうとはしない。
仁は最後まで変わらない柏木の振る舞いに、思わず笑みを溢してしまう。仁に対する辛辣さは今更、目くじらを立てる程の事ではない。
何より、この柏木という男が次にどう行動するのか。長いこと連んでいたお陰で、ある程度の見当は付けられていたのである。
「精々、面白可笑しく付き合ってくれよ?つまんねぇのは一番、駄目だ」
「……これは好きにしろ、既に不必要になった」
何処までも仁の言葉を無視する柏木はデスクから何かを取り出すと、此方に向かって放り投げる。
危なげなく受け取ったそれは旧式の携帯電話であった。仁はそこに付属する古びたストラップを手で遊ばせながら、頭に浮かんだ疑問を投げ掛ける。
「へぇ、壊さなくて良いんです?俺が余計なことしたら、怒り狂う癖に」
「お前がメールを送ったとして、私の向かう過去に届くかは甚だ疑問だ。……徒労に終わるだけだろう」
「あー、あっちの俺が何処まで見てるか分からねぇからなぁ。博打にしかならないか」
端から聞けば、要領を得ない会話を2人は淡々と交わしていく。しかし仁は柏木の説明に納得し、それ以上食い下がる事はなかった。
「そういうことだ。……もう行く」
「ハイハイお達者でー。またよろしくなぁ」
仁は別れの挨拶を口にしながらも柏木の後に続き、ラボでその旅立ちを見届ける。仁の目は確かに、柏木がガラスの筒に入って装置を起動した事を観測していた。
柏木は既に過去へと飛んだ。そしてその姿を仁は見た。だからもう、次が始まっている事を仁は知っている。込み上げてくる喜悦を堪えきれずに、仁は痛む体も忘れて笑い声を上げていた。
「結局、お前は誰に指図されてたのかも分からないまま……勘違いしたまま死んだか」
そして過去の自分に噛み合わないアドバイスを送るだけ送って、勝手に満足して死んだ。その愚かで自己満足でしかない振る舞いを面白く思いはするが、失望する。仁はどこか、この來見という人間はもう少し優秀な出来をしていると、買い被り過ぎていたのかもしれない。
「蓄積され続ける慢性的なストレスは、脳に不可逆なダメージを与える、か……」
心身を十分に休ませることができる機会を失ったことで、來見の脳は回復機能をも失った。その経過に伴う判断力の低下は短絡的な行動を招き――來見は遂に身を破滅させた。
少々残念だが、妥当ではある。視野が狭くなっていた割には、良く推理できていた方だろう。ただ、情報源である颯真ともども詰めが甘かった。それだけの話である。
今までの過程を顧みるに、今回はこれ以上に面白くなる事はなかっただろう。だから、仁の気は済んでいた。
「可哀想になぁ。頭、悪くなっちまって」
倒れた仁は同じく伏している來見を見る。脳天を撃ち抜かれても僅かに意識が残っていたのだろうか。その手は千切れ飛んだ仁の耳――そこから外れた青いピアスへと伸びていた。
だが、それを手にして一体どうなったというのだろうか。ただの物体に宿るものは何もない。それでも、感じる筈のない祝の体温でも確かめようとしたのだろうか。
仁はその無意味で滑稽な姿と、來見にそこまでさせた祝の存在に満足感を得る。
「良かったなぁ、意味があって。でも……」
仁は來見の遺体越しに、沈黙しているレトロな機械へと目を向ける。既に起動したそれは、もう2度と使用される事はない。
「……何をするにしても後手に回っていた人間が。どうして最後は出し抜けるなんて、身の丈に合わない夢を見ちまうんだろうな?」
カーテンで覆われたガラスの筒。中身が隠され見えなくなっていたその場所に、一人の人間が入っていた事を仁だけは知っている。
(俺の準備も、もう終わった。後は次の俺がどうするかだが……)
仁は包帯の巻かれた右手を見つめて笑う。再び同じ状況になったとすれば――考えるまでもなく、自分は面白おかしく生きる道を選ぶだろう。心配するものは何もなく、ただ楽しく振る舞える事を願っては思いを馳せる。
やがて、予め設置されていた爆弾が全ての証拠を隠滅する為に起動する。負傷した為に逃げられなかった仁は勿論、その場にいた息絶えた人間ごと。柏木アイソレーションの最上階、社長室の存在するフロアは跡形もなく破壊されるのであった。
「解体工事ねぇ……随分、行動が早いことで」
月退は一人、かつて柏木アイソレーションに所属する者達が通勤していたビルを見上げて言葉を溢す。
柏木アイソレーション爆破事件から、数ヶ月後。封鎖されていた事件現場は、今や養生シートでその全てが覆われていた。
相変わらず立ち入りの禁止はされているものの、通行人はそれが当然だと言わんばかりに気に止める様子がない。辺りはまるで事件など起きていなかったかのように、すっかりと落ち着きを取り戻していた。
「人が一人死んでんのに速すぎねぇか?まともに捜査してんのかなぁ」
「……何、一人でぼやいてるのさ。知」
腕を組んで首を捻る月退に、不意に声が掛けられる。視線を向けた先には林が突っ立っており、呆れたように月退を見下ろしていた。
「ん?あぁ、林か。……よっ、久し振り」
「一週間前に会った人間にする挨拶じゃないよ……適当だな」
「そうだったっけ?……あぁ、この間メシ行ったのって先週の事だったか。もっと前だと思ってた」
言われてみれば、確かにそうだったような気がする。気分転換を兼ねたネタ収集の為に、友人に声を掛けて食事をしたのだった。とは言ってもあまり特筆すべき内容はなかったからだろう、その内容は記憶の片隅に追いやられていたのである。
ただ、今になって振り返ってみると更田が何やら騒いでいた事だけは無駄に鮮明に思い出せる。彼女が欲しいだの何だの、昔から変わらない願望を酔った末に吐いていた姿を見て、安心をしたような感情だけが月退の心に強く残っていた。
「……あんま覚えてねぇな!まぁ良いか!」
林は店先で酔い潰れた月退を回収する為に呼ばれたのだったか、あるいは途中から出向くように催促したような気もする。そんな自分の過去の所業を水に流すかのように、月退はおざなりな笑みを浮かべる。一方の林は諦めたようにため息をついて、再び口を開いていた。
「場所、移そうよ。こんな所じゃ落ち着いて話もできない」
「おーそうだなぁ」
「……大体、何でここを待ち合わせ場所にしたのさ。数ヶ月前の爆破事件が、そんなに気になってたの?」
「んー……」
林の疑問に月退は言葉にならない返事をする。はぐらかすつもりではないのだが、上手い言葉が見つからない。それでも考えを巡らせながら、思い付く順番に漠然と抱いた感想を述べていく事にした。
「……とっくに忘れ去られてる事だけどさ。ほんの一時でも、一世を風靡した事件の現場だろ?そんな場所でも見れば、創作意欲が沸くかと思ったんだよ」
「あぁ、趣味が悪いね。……否定はしないよ、そういうこともあるだろうから」
林は表面上は非難するような感想を返すが、その思想自体は受け入れる姿勢を見せる。
創作物は何らかのエネルギーが原動力となって誕生する事が多い。それが悲劇的な事件を受けて、抱いた感情を出力するパターンであっても、おかしくはないと考えたのだろう。何よりも過去の事件から教訓を得るというのは、日々を暮らしていくにあたって往々にしてある事で。
林は納得すると同時に、先を促すように一つ頷きを返していたのである。
「でさ、事件現場が大企業の傘下って事が関係してるのか分かんねぇけど。最初は、かなり情報が制限されてたじゃん」
「報道規制されてるみたいにね。確かに、一般人は殆んど何も知らされていないも同然だった」
「そうそう。だから色んな噂が立っては消えていった。まぁ、合駕嵯商会の次期代表取締役が巻き込まれて死んだとなれば、当然の流れなんだろうけどさ」
「今回の事件において、彼はただ一人の犠牲者だったから……親族である合駕嵯 阿尊の会見も急だったし、色々と大変だったみたいだよ」
柏木アイソレーションの爆破事件は幸か不幸か合駕嵯 仁という、たった一名の犠牲者を除いて死傷者は存在していないと報道されていた。
林はグループ会社に行われた謎の攻撃に対する表明と同時に、息子の訃報を知らせる羽目になった合駕嵯 阿尊の災難を思い返しているのだろう。その目はどこか憂いの色を帯びていたのである。
「ふーん?……でも、あの人はあんまり……実の子供が亡くなったにしては落ち込んでいるようには見えなかったけどな」
「警察から事情聴取されたり、葬儀の準備に追われてたんでしょ。悲しむ暇もなかったんじゃないか」
「じゃあ今は十分、悲嘆に暮れた後って訳だ。それで指示するのが事件現場であるビルを潰すって判断なんだから、やっぱ大企業の長は違ぇよなー」
まだ犯人も捕まってないのに、そう続ける月退に林は困ったものを見るような視線を向ける。月退のあまりに素直すぎる、遠慮のない言い分を窘めようと思ったのだろう。林は複雑そうな表情を浮かべながらも口を開いていた。
「……そういう事は、思ってても言うもんじゃないよ。まして身内の不幸があった人に対してはね」
とはいえ合駕嵯 阿尊の性急すぎる行動には、引っ掛かる点があるのも確かであった。林も実のところ、同じように感じていたのだろう。月退の疑問までを否定する事はしなかった。
「後ろ暗いことが無いなら、堂々としてりゃ良いのにな。証拠を隠滅するみたいに急いで解体なんか始めたから……妙な噂が立つようになっちまった」
「それはゴシップの読みすぎだよ。大体、壊れたビルを再建するのは当たり前でしょ。警察の調査も終わったから出来ることだろうし、何の問題もない筈だ」
「へー、業界人はお詳しいねぇ」
「……別に秘密にされてる事じゃない。誰だって知ってるよ」
林の言うことは尤もである。だが皆が皆、起こった事をそのまま素直に受け取る訳ではない。むしろ面白おかしく書き立てて、人々を扇動しようとする者もいる。要するに、柏木アイソレーションの爆破事件を、全く関係のない事件に無理矢理にこじつけようとする人間まで現れる始末だったのである。
重要な機密文書を保持していた為にテロの標的にされただとか、むしろその証拠を隠滅する為の自作自演の爆発だったとか。挙句の果てには裏社会との繋がりを示唆する者まで出てきてはいたが、今のところ確証はなく意味ありげな噂程度に留まっていた。
「でもさぁ、とにかく時期が悪い。柏木アイソレーションの取締役も急な病に倒れたとかあっただろ?危篤状態とか言われてるし、色んな出来事が重なりすぎて怪しまれるのも仕方ねぇよ」
「……自分の会社が巻き込まれたっていう心労はありそうだけどね。それも所詮はただの噂だ。何より爆破事件と病気は直接の関わりはないんだし」
柏木アイソレーションの取締役、柏木 渚。その急な不調は表向きには爆破事件とは無関係とされている。しかし示し合わせたように同時期に起きた出来事となれば、偏った見方をされてしまうのも仕方のないことだったであろう。
例えば爆破事件の首謀者である暴力団に襲われただとか、爆発の件を聞いて絶望し自殺を図ったのだとか。
真偽も不明なそれらの風説は妙に持て囃されており、出所が分からない情報源だというのに瞬く間に広まっていた。
「知ってるか?近い時期に起きてた都内のガス爆発まで、今回の事件との関係を疑われてるとか。まぁ、一人で勝手に妄想する分には面白い題材だろうな」
「その言い方だと、知はそうでもなかったんだ?」
林の鋭い指摘に月退は思わず口を閉じる。それは全くの図星であった。月退はそれまでの勢いを失い、言葉を探すように視線を宙に泳がせる。
「そうだな、何か……駄目だったな。虚しい気分になるだけ。この場所に来てみたところで、誰かの願いも執念も感じられなかった」
「……センチメンタルだね。珍しい」
「余計な情報を先に知っちまったからかなー。いつもはもっと、無関係な立ち位置で見れんのに」
俺のアンテナが錆び付いてるだけかもしれないけど、と続ける月退を林は実に珍しいものを見る目で眺めている。
その一方で、月退はここまで心の内を他人に吐露した事はなかったのを今更になって自覚していた。言葉にした事で改めてその実感を強めてしまった月退は、急激に恥ずかしさに襲われていたのである。
「……やっぱ今のナシで。らしくねぇわ!」
話を打ち切ろうと、不自然に明るい声を出す月退を林は静かに見つめていた。これ以上、月退を追い込んではいけないと判断したのだろう。ややあって擁護するように次の言葉を続けていたのである。
「ここ、白石が勤めてるんだっけ。だから……どこかで感情を遮断しようとしてるのかもね。友だちの不幸を考えたくはないから」
「いや、そんな殊勝なタチじゃねぇんだけどな!……それか、スランプが悪さしてんのかも。なーんかモヤモヤして駄目だ」
後頭部を掻きむしり、ぼやく月退を横目に林は目を見開いていた。何かを閃いて驚いている。その異様な雰囲気に気付いた月退が声を掛けようと口を開く前に、林は自分から発言していた。
「あぁ、もしかして。だから……怒ってたのか?」
「うん?」
「友達が巻き込まれかけたのに、事件が解決しないから。だから現場まで様子を見に来たし、合駕嵯 阿尊に当たりが強いんだ」
犯人を捕まえる為に協力する気概を感じられないから、そう続ける林に驚くのは月退の番だった。指摘された事に月退は全く自覚がなかった。自分の内側に曖昧に存在していた不快な感覚が、名付けられた事で急速に輪郭を帯びていく。それは実に腑に落ちる命名だったのである。
「そう……かもな。うん、俺はムカついてたのか」
「……無自覚だったの?重症だね。俺の意見に妙に食い下がってきたのも、現状に不満があったからでしょ」
「それは……悪かったよ。でもスッキリしたわ、何か無性に書きたくなってきたかもしんない」
林は月退の切り換えの速さに、驚きよりも困惑しているようだった。眉尻を下げ不安げに様子を窺っている。
しかし平然としている月退を見て心配する必要はないと判断したのだろう。次の瞬間、林は何処か期待を滲ませて月退に問いを投げ掛けていた。
「……充電期間は終わりそう?」
「かもなぁ。この怒りをぶつけてみるか」
今の月退はフリーライターのような働き方をしていた。仕事を募集する傍ら、求められたテーマについて寄稿しては、ペンネームを使用して気ままにソーシャルゲームへのストーリーを提供したり。先の見えないその日暮らしを続けているようなものであったが、月退はその生活が嫌いではなかった。
本当に切羽詰まった時だって、持ち前の愛嬌を駆使すれば見ず知らずの他人の家で雨水を凌く事もできる。だから、これからもそんな行き当たりばったりな、不安定な人生を歩むのだと思っていた。
「書き上がったら一番に見せてよ。もし映像を撮るなら、絶対に呼んで」
しかしそれを簡単には許そうとしないのが目の前の林という人間で――この男は折に触れては月退に書籍、あるいは脚本を作らせようと働きかけてくる。挙句の果てには、その映像化にまで身を乗り出す有り様であった。
「どうだろうなぁ、映像はともかく……うん、そうだな。明るい話が良い」
自分とは違い、会社へと就職して順調にカメラマンとしてのキャリアを積んでいる林。そんな真面目な人間に期待されるのは悪い気がしなかった。
何故そこまで月退に付き合おうとするのかは、未だに分からない。それでも敢えて理由を尋ねようとは思えなかった。そうしたら最後、何かこっぱずかしい言葉をぶつけられるような――むず痒い予感がして止まなかったからであった。
「世の中は辛いことばっかりだ。だから創作物の中でくらい、明るい話がやりてぇよなぁ」
「……そんなこと言って、途中で重苦しい話にするのが大好きな癖に」
月退の言葉に林は呆れた口調で返事をする。それでも月退が創作に前向きになった事には喜んでいるようで、林の口元は緩み瞳は興奮で輝いていた。
「終わりが良ければ、どれだけ辛くしても良いだろ?ただ……締めは絶対、見て良かったと思うものにしたい」
「……良いんじゃないかな。気長に待ってるよ」
「おー、あんま期待しないでなー」
どちらからともなく2人は歩き出し、柏木アイソレーションを後にする。他愛のない会話を交わし雑踏に紛れながら。月退と林は、また代わり映えのしない――しかし平和な日常へと戻っていくのであった。
來見は何処かの街中に立っていた。いや浮いているのかもしれない。任意の場所を、ありとあらゆる角度から見渡せるような視界で、來見は呆然と眼前に広がる風景を眺めていた。
來見は寒さを感じないがどうやら季節は冬らしい。道行く人は誰も彼もが厚手の上着を羽織っており、白い息を吐きながら足早に去っていく。
(……誰とも目が合わない。俺は……死んだのか)
歩道のど真ん中に立っていても、來見に目を向けるものはいない。そして何かに触れようと伸ばした手はあらゆる物をすり抜けていく。來見は自分の死を、不思議と何の混乱もなく受け入れていた。
「もしもし?あー、聞こえるか?」
ふと來見は繁華街を歩く一人の人間に目を留める。何故だか異様に視線が惹き付けられるその男は、どこか自分が成長したような――來見の未来の姿を彷彿とさせた。
「あぁ、聞こえた聞こえた。大丈夫」
男は見慣れない縦長の四角いディスプレイに向かって話し掛けている。両耳にはコードのないイヤホンが付けられており、その道具によって通話を成立させているようだった。
(あれ、颯真が持ってた携帯電話に、似てるような……)
ふわふわとして纏まらない考えのまま、來見は記憶を思い返す。これは走馬灯のように思い出が甦っているのだろうか。それとも都合の良い夢を見ているのであろうか。
「白石は大丈夫そうか?……うん、バリアフリーになってる店。うん……今日の場所選んだの俺だからさ、良かったよ」
奇しくも同級生と同じ名前が出てきた事に來見は反応する。そして男の持っている携帯電話らしきものの画面を見ると、通話の相手は香椎 柊と表示されており――見間違いでなければ來見のよく知る友人の名前と寸分違わぬものであった。
「あぁ、更田も?じゃあ途中で見付けられるかもな。あいつ遅れたからって走って行きそうだし――」
また一人、知っている人物の名が上げられる。偶然には思えないその現象は來見に一つの判断を下させた。自分は注意深くこの男の動向を見守らなければならない。続く会話を傾聴しようと近付いたその瞬間、しかし男と香椎との電話は遮られてしまっていた。
「お兄さん、お兄さん!ウチの店、寄って行かない?お一人様、大歓迎なんだけど!」
男に声を掛けたのは一人の女性であった。店員らしきその女性は商品の書かれたメニューを両手で掲げ、飲食店の前で客引きを行っている。そのターゲットにされた男は、通話中に話し掛けられた事に驚くように目を見開いていた。しかし直ぐに気を取り直すと手にしていた機械を距離を取るように僅かに下げ、女性に向き直る。
その態度に女性は目を輝かせる。上手く捕まえられたと思ったのだろう。しかし男は眉尻を下げ申し訳なさそうにしながら、断るために口を開いていた。
「すいません、今日は別の店を予約していて。また今度、寄らせていただきます」
(真面目な人だな……俺だったら、会釈だけして素通りするのに)
道すがら、呼び止められる度に相手をしていては、いくら時があっても足りない。相手が手練手管に長けていた場合、足を止めてしまった時点で誘いを断るのも難しくなることだろう。
はっきり言ってしまえば時間の無駄で、悪質な客引きに引っ掛かる可能性を高める愚かな行為としか思えない。それでも男は女性を邪険に扱わず、終始穏やかに応対していた。
「……そっか~残念!先約があるなら仕方ないね!」
女性もここまで丁寧に接されるとは思っていなかったのだろう。唖然として言葉が直ぐには出てこなかったようだが、一転して呼び込みを担当する店員らしく愛嬌たっぷりに振る舞っていた。
先程よりも声が弾んでいるのは、男が発言通りに日を改めて来店する事を確信したからなのだろうか。女性は商機を逃すまいと、笑顔で言葉を続けていく。
「お兄さん、この前のサッカー見た?凄かったよね~!アレのお陰でウチの店長が張り切ってるの!だから、暫くの間はサービス続けてるから!また今度絶対に来てね!」
はい、これウチで使えるクーポン!と、女性は広告の入ったポケットティッシュを男に差し出す。女性の勢いに気圧されたのか男は苦笑しながらも、しっかりとそれを受け取っていた。
(歴史的勝利を祝って、ドリンク一杯無料。他にも大幅値下げ実施中……サッカーは詳しくないから分からないけど、何か大会でもあったのか?)
來見は広告に載せられていた文言を心の中で読み上げる。サッカーと言えば思い浮かぶのは香椎の事で――來見は男と香椎が何かしらの言及をしないかと期待を抱き始めていた。
「……それじゃあ、失礼します」
「バイバーイ!また今度!」
男は会話が一段落したと判断したのだろう。会釈をするとその場を立ち去っていく。女性もしっかりと宣伝を行えたのだという手応えを感じたのか、無理に男を引き留めることはなかった。
來見は変わらず、男に付いていく事にする。男は店から離れたところで下ろしていた手を持ち上げ、機械に向かって再び口を開いていた。
「悪い。ちょっと客引きに……あぁ、聞こえてたのか。そうだった」
スピーカーにしてたから、男は呟くように言葉を溢す。その顔には複雑な表情が浮かんでおり、どこか所在なさげにも見えた。
「……電話、一回離して良いか。結構、外が騒がしいからスピーカーじゃなくて普通のにするわ」
男はそう告げるとディスプレイの表面を触り、耳からイヤホンを取り外す。そして機械を耳に当てると、会話を再開する素振りを見せた。
來見はふわりと宙に浮き男の電話に近付くと、その内容を聞き取ろうと試みる。
どうせ自分の姿は誰にも認識されていない。それならばどんな行動を取ったところで見咎められやしないという楽観が、來見を大胆にさせていたのである。
「もしもし……悪い、それで何の話だったっけ」
「……あのさ、そんなに謝るなよ。お前が言ってるのって高校の時のアレだろ?」
男のしどろもどろな言葉に、香椎はやや呆れたような声音で返事をする。來見は無事に会話が聞き取れる事に安堵しながらも、続けて耳をそばだてる事にした。
「あの時お前に……誰にも相談しないって決めたのは俺だし。だからそんな気にすんなって。別に今更、どこでサッカーの話題が出ようと気まずく思ったりしねぇし」
「……そうだな、変に意識する方がおかしいか。悪い」
「だから謝んなっつーの!その辛気臭さで店まで来たら、俺が即刻追い帰すからな!」
口癖になってしまったように謝罪を繰り返す男は、しかし香椎に釘を刺されて小さく笑いを溢す。互いの気安さを感じる会話は、2人が良好な関係である事を來見に窺わせていた。
やがて香椎は暗くなりかけた雰囲気を和らげるかのような明るい声で、会話を切り上げる言葉を告げる。
男はゆっくりと頷くと、相手の通話が切れるのを待ってから機械を耳から離したのであった。
(確かに電話の声は香椎に似てた。でもサッカーの話って、何の事を言ってるんだろう。……部活で、何かがあったんだっけ……?)
來見には心当たりがあると分かっているのに、不思議と該当する記憶を鮮明に思い出せない。考えを纏めようとする側から、注意力が散漫になっていく感覚に襲われる。
それはさながら足元が不安定になるような、大事なものが抜け落ちていく恐怖を覚えても良い筈であったのに――來見の感情が波立つ事はなく、淡々と目の前の出来事を受け入れていた。
男は香椎との通話を終えると携帯電話らしきものを懐にしまう。そのまま真っ直ぐ道を進んでは信号の前で立ち止まり、その色が青に変わるのをただ静かに待っていた。
特に何事もなく、この男は飲みにでも行くのだろうか。確かに成人はとうに越えているように見える。
(でも、何で……こんなに、この人が気になるんだろう)
來見は恐らく、行こうと思えば何処へでも行けた。この男に目を惹き付けられはするが、物理的に引き寄せられている訳ではない。
生じた違和感を解消する為に、來見は辺りに視線を巡らせる。何か來見を焚き付ける理由があるのではないだろうか。情報を得ようと行動に移した次の瞬間、常軌を逸した速さでトラックが歩道に突っ込んでくる姿を來見はその目に映していた。
「危ない!」
恐怖で立ち竦んでいたのだろう。車の進行方向で棒立ちになっていた女性を、來見が追っていた男は庇うように突き飛ばす。そしてその歩道には不幸な事にガードレールは存在しておらず、來見は次に目の前で起こるであろう未来を予見してしまっていた。
「あ……」
女性の口から、細い声が零れる。運転手は意識を失っているのだろうか。トラックの勢いは落ちる気配を微塵も見せない。
人間が車の速さに勝てる筈もなく、一瞬の後に男は女性の身代わりになったかのように撥ね飛ばされていた。
「誰か!救急車呼んで!」
「撥ねられたぞ!」
一気に騒然となる現場。中には物珍しそうに動画や写真を撮っている者もいる。轢かれた男は無知な來見でも分かるほどの重体で。流れ出る血の量が、もはや助かる術はない事を示していた。
悲痛な声が上がり混沌とする状況。しかしその中から飛び出してくる姿がある。男が庇うために突き飛ばした女性が、その献身に報いるかのように駆け寄って来ていたのである。
「聞こえますか!……大丈夫、大丈夫ですから!目を閉じないで!」
ちらつき始めた雪の中で女性は倒れた男の手を握り、懸命に呼び掛けている。長く伸ばした山吹色の髪にスカイブルーの美しい瞳。その顔立ちは、祝 蕗沙が成長した姿に似ているような気がしていた。




