15-3 契約
上映が終了する時間を見計らい、隅に控えていた連城が点灯のスイッチを押すと、途端に室内が明るくなる。次の瞬間、誰が始めたのかは分からないが自然と拍手が巻き起こっていた。
それは映像の出来、不出来に関わるものではなく鑑賞者としての最低限のマナーとして、儀礼的になされたものだったのかもしれない。それでも客の肯定的な反応は、その場に常駐していたスタッフ達の心を軽くするのに成功していた。
來見達は安堵から、ほっと息をつく。しかしすぐに気を取り直すと、客足の誘導を行うために立ち上がり動き始めるのであった。
「ただいまを持ちまして、第一回の上映会を終了させていただきます。この後は是非、劇中に出てきた場所を巡ってみてはどうでしょうか!」
ところで、來見のクラスでは作中に登場した舞台にそれぞれスタンプを置いて、お客さんに集めてもらうという試みをしてみてはどうかという意見もあった。
しかし該当する場所は点在している上に、スタッフを各地で常駐させるのは拘束時間を考えると現実的ではないという反対意見を受けて、少しの間保留となっていたのである。
折衷案として出されたのはスタンプだけを設置するというのものであったが、想像してみると侘しさと味気なさを助長させている雰囲気がある。そんな光景を入学希望者に見せるのは、無駄に伊斗路高校のイメージを損なわせるだろうという結論が出た為に、取り止めの方向へと舵を切る事になっていた。
最終的には、何もない普段通りの光景の方が探索への興味を煽るところもあるのではないか、という尤もらしい主張がなされたことで、この議論は決着を見たのである。
「それでは引き続き、伊斗路高校の文化祭をお楽しみください!ご視聴、ありがとうございました!」
スクリーンの前に進み出た連城が口上を述べると、鑑賞者達はひそひそと喋りながら退去の準備に移っていく。それを見た來見は片手を上げると、続いて注意を呼び掛ける事にした。
「お忘れ物にご注意下さい。出口はこちら、後方の扉からお願い致します。ありがとうございました」
よるかは手元のパソコンに視線を落とし、再び動画を直ぐに再生できるように準備を整える。來見の言葉に先んじて教室の扉を開放しに行っていた香椎は同じように声を上げて客をさばきつつ、訪問してくれた事への感謝を会釈と共に口にするのだった。
ふと微動だにせず呆然としている月退の姿が來見の目に入る。余韻が抜けきっていないのか心ここにあらずといった様子で、果たしてどのような感情を抱いているのか外からでは判別できない状態であった。
「來見先輩!映画、すごい良かったです!」
「面白かったです」
友人への言葉の掛け方を考えあぐねていると、不意に背後から呼び止められる。浦部は顔を明るくして駆け寄り、飛織はゆっくりと近付いてくる。來見は一度、月退はそっとして置くことに決め、素直な称賛を述べてくれた後輩の相手をする為に向き合うのだった。
「うん。朝から見に来てくれてありがとうな」
「あの、劇中の七不思議って本当にあるやつなんですか!?」
鑑賞中からずっと気になっていたのだろう。浦部は感想もそこそこに身を乗り出して質問をぶつけてくる。そんな姿を飛織は興味なさそうに眺めながらも置き去りにしない優しさはあるようで、友人の気が済むのを待っているようだった。
「そうだな……」
実のところ美術室の絵画と呪いのお札、それに加えて亡者の徘徊する廊下に関しては、劇中の言及通りの由来がある話ではあった。そして音楽室の演奏と無人トイレの話は、以前月退から教えられたように七不思議といえば外せない定番のスポットとして候補に上がり――それらしい話として創作されたものである。
残る七不思議である裏門を出た後の神隠しと願いの叶うバルコニーについても、当然と言えば当然だが作劇上必要になった為に捻出された話であった。
しかし後者に関しては映像の最後でも流れた通り、生徒達が面白半分で実験してみたところ本当に叶ってしまったという誤算も生じてしまっていた。最後の最後で新しい七不思議を生み出してしまうという奇妙な変遷を辿りながら、來見達のクラスは撮影を終了したのである。
「……まだ内緒。文化祭を回るついでに色んな所へ行って、調べてみな。それで、後から答え合わせしよう」
直ぐに教えてしまうのは勿体ない。そもそも映像制作の趣旨には伊斗路高校における、普段立ち寄らないような場所への訪問意欲を高める目的もある。
ネタばらしをしたい気持ちを押さえながらも答えを出し渋った來見に浦部は目を瞬かせる。狙い通りに興味を抱いてくれた後輩に喜びと楽しさを抱いていた事が表情に出てしまっていたのだろう。それでも浦部は一つ頷き不思議そうな顔を笑顔に変えると、快く返事をしたのだった。
「なるほど、分かりました!約束ですからね!」
「……浦部、俺達もそろそろ出ないと。次のお客さんが入れないから」
会話が一段落したと思ったのだろう。様子を窺っていた飛織は浦部の興奮を落ち着かせるように横から窘める。
注意を受けた浦部は辺りからすっかり人気がなくなっている事に遅れて気付くと、申し訳なさそうに頭を下げていた。
「す、すいません。確かに邪魔になっちゃいますね」
「大丈夫だよ。後で俺もお前達のクラスに寄るから、またその時に喋ろうな」
「はい!それじゃあ、失礼しました!」
浦部の謝罪に來見は気に病む必要はないと告げるように、ひらひらと手を振っては約束を取り付ける。そのまま2人の後輩は去っていくと思っていたのだが、意外にも飛織が立ち止まり振り返って口を開いていた。
「……あの、また見に来ても良いですか?」
「勿論!お客さんは大歓迎だよ。でも折角の文化祭なんだ、先に色んな所で楽しんで来な」
うちの映画は日に何回も上映してるから、と続けると飛織は小さく頷き今度こそ浦部と共に去っていった。その背を見送りながら、來見はつい笑顔になって何度も頷いてしまう。
(わざわざ伺いを立てるくらいには、気に入ってくれたのかな)
どのような結果になるのか自分の中で確信している場合、浦部は横着して説明を放棄するような性質を持ち合わせていた。そんな彼が目上とはいえ、わざわざ來見に確認を取ってきたという事実が興味深くもあり。それ程までに映画を気に入ったのだと行動で示してくれているようだった。
恐らく2人は浦部が先導する形で校舎を巡り、再び映画を見に来てくれるのだろう。初回の上映は成功したのだと、來見は改めて手応えを感じていた。
「……今のは?」
ようやく我に返ったのか、月退は深いため息の後ゆっくりと動き始める。一見平静を取り戻したように見えるが未だ何処か所在なさげな様子に、來見は言葉を選びつつ口を開いた。
「部活の後輩と年下の友達。良かったじゃん、中等生にもちゃんと受けてたよ」
「そっか……そっか」
内輪からの過剰な称賛は増長を招き、あるいは余計な重圧を与える可能性があるとして控える事にした。果たして來見の述べた言葉が最適な励ましだったのかは分からないが、ありのまま客観的な事実を述べたのが良かったのかもしれない。月退はその感想を噛み締めるように目を伏せ、小さく言葉を溢していた。
「安心したんなら、ツッキーも他のクラス回ってきなよ。2日しかないんだから時間は有意義に使わないと」
「あぁ……」
重圧から解放されたように呆けている月退は上の空といった様子で返事をする。それは來見の言葉に答えたというよりかは反射的に発された音に違いなかった。
「2分後、次のお客さん入りまーす!」
「了解!ホラ、出た出た」
「あぁ、うん。また後で」
後輩に続き、月退を退室させた事ですっかり客が出払った教室を見回しながら、來見は出口の扉を閉める。視界に入るスタッフ役の生徒達は忙しなく動き回っており、來見も同じように仕事を手伝う事にした。
上映が終わる度に忘れ物がないか確認しつつ、乱れた椅子を整頓し直す。そして予め立てていたスケジュール通りに教室を解放すると、待機していた次の客を室内へと誘導していくのであった。
背後で扉を閉められた月退はまるで追い出されたかのようにその場で立ち尽くしていた。それでも少し歩いた事で血が巡った為だろうか、徐々に意識がはっきりとしてくるのが分かる。
廊下での喧騒が耳に届くようになると、漸く初回の上映が問題なく終わったのだという実感が沸いてくる。月退の胸中は明るく晴れやかなものに変わっていた。
目と眉に力が入り、気付けば瞼が閉じられていた。そして俯くと同時に、拳が小さく握られており――制御できないままに口から言葉がこぼれ落ちる。
「……よしっ」
普段から友人達に見せている姿は、決して偽りと言う訳ではない。しかし格好良く思われたい気持ちから飄々とした態度を敢えて取っている側面も確かにあった。
やに下がった姿を見せまいと取り繕い、張られていた虚勢。今やそれらは全て剥がれ落ち、月退の顔には満面の笑みが浮かんでいたのである。
「次の上映の受付を行っておりまーす!興味があったら是非どうぞ!」
「おっと……」
不意に祝の呼び込みの声が耳に届き、月退は立っている場所が何処なのかを思い出す。そのまま素早く体の向きを変えると、月退は社会科室から離れていった。
幸いロッカーの影になっていたが、少し覗き込まれれば月退の締まりのない表情は受付スタッフの視界に入ってしまう。気恥ずかしさもあり、あまり浮かれた姿を晒したくはないという考えからそそくさと立ち去ったのだが、その足取りが軽やかな事実は隠しきれずにいたのだった。
「えーっと確か、2階の……」
気を取り直した月退は文化祭を楽しみ尽くす為に予めピックアップしておいた出し物を、頭に思い描きながら歩いていく。そうして考え事をしていたのがいけなかったのだろう。
「おわっ」
階段を下る為に廊下を曲がろうとした瞬間、影から出てきた人物とぶつかってしまったのだった。
「あー、すいません。よく見てませんでした」
「……いや、こちらこそ不注意だった。失礼」
整髪料で固められた黒髪のオールバックに、視線を悟らせない黒々としたサングラス。さながら映像作品で見るSPのようなスーツ姿の男は、月退の粗相を気にした素振りも見せずに立ち去る。
端然とした身嗜みには不似合いな来客用のスリッパを着用する姿。そして外履きが入っているであろう――これもまた学校側で用意された皺だらけの袋を手に提げる様は明らかに周囲から浮いており、すれ違う生徒も視線を向けずにはいられない様子であった。
「……保護者にしては厳ついなぁ」
つい足取りが気になり後ろ姿を眺めていると、男性は先程まで月退が滞在していた社会科室の方向へと進む。そのまま待機列に加わるのだろうかとぼうっと見つめていると、不意に月退へと掛けられる声があった。
「おーい。初回上映、もう終わったでしょ。早く視聴覚室に行こうよ」
「やべ、もう始まっちまうな。行こう行こう」
月退の姿を探しに来たのだろう。階段を上ってきた林に呼ばれ、慌てて先を急ぐ事にする。
会場として一つの教室を与えられ、時間の許す限り日に何度も上映できる自分達のクラスとは違い、体育館のステージや視聴覚室などで行われる出し物は1日に披露できる回数に限りがあった。文化祭を隙なく回る為にかなり慌ただしいスケジュールを組んでしまった月退は、一度たりともそれらの上映時間を逃す訳にはいかなかったのである。
「お客さんの反応、どうだった。聞くまでもないと思うけど」
「あぁ……そうだな、俺たちって天才だったわ。盛況すぎて代々語り継がれる逸話になるぜ、コレは」
「……また適当なこと言ってるよ。まぁ、優秀賞は間違いないだろうけどね。皆のお陰だ」
飄々とした様子で、しかし作り上げた作品に対して絶対の自信を隠そうともしない林に月退は思わず呆気に取られる。それは今までに費やされた努力は報われて当然だという思想の現れでもあり、制作を主導する上でクラスメイト達の献身を多く受けた立場だったからこそ抱く希求だったのかもしれない。
「……間違いねぇな。主演と実行委員は表彰台に立たせてやらねぇと。写真撮影の用意でもしとくかぁ」
「カメラ回しとこうよ。その時くらいなら先生から見逃されそうだし」
林の特徴である奥二重の垂れ目は、常から眉尻が下がっている事も相まって自信が無さそうな印象を与えがちである。しかしその実、かなりの頑固者で負けん気の強い性格だと月退は知っていた。
その一端を改めて目の当たりにして、日常が戻ってきたように実感し気が抜けたのかもしれない。月退はすっかり調子を取り戻して扇子で自分を扇ぎ始めていた。
口にした言葉はただの皮算用であり、望み通りにならなかった場合は必要以上に落ち込むことになると頭では分かっていた。それでも制作現場で身に染みるほど感じた友人達の努力を思えば、彼らは報われて然るべきだと感じずにはいられなかったのである。
2人は早足になりながら、しかし悠々とした様子で歩を進める。不思議とその体から疲労は消え、ただ目の前の文化祭を楽しもうとする、使命感にも似た意欲だけがただ高まっていたのだった。
「さっきね、部活の後輩が来てくれてたの!」
「私のところも!みんな優しいねぇ」
嬉しそうに話し掛けてくる建井に祝は同じように笑顔になって言葉を返す。次の待機列を整理し終えた2人は、受付で束の間の休息を得ていたのである。
それでも祝は時たま通りすがる顔馴染みに手を振って、挨拶をしながらも宣伝を欠かさない。一方の建井も控えめに来場者に声を掛けつつも、どこまでも職務に忠実に接客を行っていたのだった。
「すまない。道に迷ってしまったのだが、案内を頼めないだろうか」
不意に現れた黒髪の男性が、受付の前に立って声を掛ける。サングラス越しでも分かる程の鋭い視線は自分だけに向けられており、祝は思わず身を竦ませてしまった。
向かい合って何秒立ったのだろうか。教室の中から來見が事前の注意喚起を行っている声が聞こえてきて、祝はふと我に返る。未だ静かに佇んでいる男性を前に口を開こうとした瞬間、それよりも早く服を引っ張られる感覚があった。
「……何か怪しい感じ、しない?先生を呼んだ方が良いのかも……」
時を同じくして畏縮してしまっていた建井であったが、彼女はこっそりと祝に耳打ちをしてきていた。その言葉は尤もなものだっただろう。しかし押し黙っている男性がどこか居たたまれない様子を滲ませている事に気づいた祝は、気付けば案内を申し出ていた。
「はい、私で良ければ案内します」
「蕗沙ちゃん!」
「心配しないで。私、行ってくるよ。ここは任せても平気かな?」
普段ならば優しげな丸みを帯びた目を鋭くさせて、建井は声を上げていた。元から赤面症の気もあったように認識していたが、興奮からか顔が紅潮してしまっている。
他ならぬ自分がそうさせてしまっている自覚があった祝は、内心申し訳なく思いながらも建井の手にゆっくりと触れる。
異議を唱えるように服を摘まむ力を強くしていた建井だったが、その手を優しく取って外しながら、祝は安心させるように微笑んでいた。
「危ないよ……!」
「人の多いところ通るから、大丈夫!」
眉尻を下げる建井と小声でやり取りを交わしながら祝は立ち上がる。
建井は不満を示すように祝の片手を握り締め何度も乱暴に振るが、それ以上は何も言わない。もはや引き留めても無駄だと悟ったのだろう。追い縋るように祝の瞳を覗き込んでいたが、最後は友人の意向を汲むようにそっと手を解放していた。
「お待たせして、すいません。どこへ行きたいんですか?」
「あぁ。体育棟の……体育館まで、お願いできるだろうか」
少女達の会話を気にも止めず、男は要望を口にする。祝は一つ頷くと目的の場所へと先導して行くのであった。
祝は社会科室のある東棟4階から中央棟へと移り、階段を下りる。そして体育棟へと続く連絡通路を進みながら、退屈を紛らわすように沈黙を破っていた。
「この渡り廊下がある場所、分かりづらいですよね。外から見ると迷わずに済みそうなんですけど」
「あぁ、そうだな」
文化祭期間中、来場者が体育棟で立ち入る場所と言えば3階部分に位置する体育館にしかなく、他に用がなければ近寄る部外者はいない。1階や2階にある武道場には生徒達が備品を置いていたりもするのだが、どちらも祝の今いる連絡通路からは離れた所に位置しており、この場にはひっそりとした静けさが漂っていた。
それを証明するように先を行く誰かの姿を見ることも、向かい側から来る生徒とすれ違う事もない。人の往来が途絶えた通路を祝と男性は進んでいた。
「人の流れに付いていければ良かったんですけど……時間的には、もう劇が始まってるんでしょうね。もっと看板とかがあれば良かったかな……」
最後は自分に言い聞かせるように次回の文化祭に向けての反省を口にする祝は、男性との会話が一向に弾まない点については全く気にしていなかった。男性の堅苦しい返事はただ祝との距離間を測りかねているだけで、会話自体を苦としている訳ではないように思えたからであった。言葉は短くとも拒絶するような空気は感じられなかったのである。
「ここまでで構わない」
連絡通路を渡り終えた2人は体育館へと続く階段の前で立ち止まる。日が射し込み、汗をかきそうな程の暑さを感じる通路を渡ってきたからだろうか。喧騒が遠退いた廊下は日陰にあるというだけで、冷房が付いている訳でもないのに涼しく思える。祝はその急激な寒暖差に一瞬身を震わせながらも、反論するように口を開いていた。
「そうですか?あと少しなので……折角だから最後まで付き添いますよ」
「いや。私は君と話がしたくて、人気の少ない場所まで来た。だからここで良い」
「話……」
「祝 蕗沙。君の父親について」
突如として始まった会話。向き直った男がサングラスを外し胸元へとしまう動作が、奇妙な程にゆっくりと思える。寒さではない理由で再び肌が粟立つのを感じながら、祝は視線を落として一歩後ずさっていた。
「君の母親は父親と、ある契約を交わしている」
男は祝が逃げることを許さないように言葉を続ける。思わぬ人物の名前が出てきた事で顔を上げると、鳶色の瞳が祝を射貫くように見つめていた。
鋭い眼光のせいだろうか、足がその場に縫い止められたように少しも動かす事ができない。祝は逃げ出すという選択肢を振り払い、覚悟を固める。深く息を吸うと、その発言の意味を知る為に聞き返す事にしたのだった。
「……契約、とは?」
「君が一人立ちするまでの支援を惜しまないこと。その際に生じる負担は、全てこちらで持つこと。その代わり……」
こちら、とは祝の父親の事を指し示しているのだろう。男が一度言葉を切り、僅かに目を泳がせたのを目撃しながら祝は続く話を待った。
「君が、君の父親と接触しないことを、未来永劫にわたって約束すること」
「君自身がその約束を守る気があるのか。私は君の父親の代理人として、その意思を確認させてもらいに来た」
滔々と述べる男の様子は、事前に用意された原稿を読み上げていくアナウンサーの姿を連想させる。祝の右手は何時しか、体を何かから防御するように自分の左腕を強く掴んでいた。
「とは言っても、君の人生には父親など初めから存在していなかった。迷うものではないと思うが、念には念を入れておくべきだというのが……君の父親の考えだという訳だ」
「……私、個人としては。お父さんに会いたくないと言ったら、嘘になります」
畳み掛けるように話す男に祝は躊躇いがちに言葉を返す。その発言は男にとって予想外だったのか、眉をピクリとひきつらせた。それでも祝は不興を買う事も恐れずに本心を口にする事にした。
「でもその約束はきっと、お母さんが私の為に結んだもので……私に口を出す権利はないのだと思います」
「つまり。君もこの契約に同意してくれたものとみて、構わないんだな」
「……はい」
間違いなく葛藤はある。それでも祝は出来る限り母親の思いを尊重したいし、すべきだと思っている。それは一人で苦労しながらも自分を育ててくれた親に対する、当然の姿勢であると信じて疑っていなかった。
そもそも自分が我儘を言わなければ母親と父親、双方の望む通りになる。だからこそ敢えて反発するという選択肢は端から祝の中に存在していなかったのである。
「……それが聞けて安心した。ついでにもう一つ、確認したい事があるのだが構わないだろうか」
「はい、どうぞ」
言質を取り、交渉が成立した事で肩の荷が下りたのか、男は首元に手を持ち上げてネクタイを直す素振りを見せていた。既に整っているのにも関わらず身嗜みを気にする姿を見て、祝は自身を省みる。
普段は装着が楽なリボンばかり身に付けていて、いざ正装であるネクタイを結ぶ時になると友人を頼ってしまう。一度形を作ってしまってそのまま解かずにいれば使い回せる為に、自分で締めるとなると何時まで立っても苦手なまま。
ちゃんと克服すべきなのだろうなと考えながらも、こうして別の事へ気をそらせる程に余裕が出来ている自分に遅れて気付く。そのままどこか浮わついた気持ちで祝は男の発言に耳を澄ませていた。
「君は今、幸せ……いや。日々の生活を送るのにあたって不自由をしていないだろうか。これは契約の根幹に関わることだ、遠慮なく言って欲しい」
言い淀んだ言葉を取り消すように早口になる男に、祝は目を瞬かせる。しかしその眼差しは真剣そのもので、祝は戸惑いを覚えた心を深呼吸して落ち着かせた。
「……今の私は友達がいて、学校も楽しくて……何よりお母さんが元気でいてくれるから、とっても幸せです」
男が真に聞きたかったであろう本心を祝は包み隠さず話す。しかしその言葉はあまりに都合が良すぎると思ったのか、男は事実を見極めるように眉間に力を込めていた。
「これは建前とかではなくて、本当にそう思ってます。だから……お父さんも幸せになってください。……そう伝えてもらっても良いですか」
「……あぁ。一言一句、正確に報告しておこう」
「ありがとう、ございます」
途切れ途切れに覚束ない語り口で伝言を頼む祝に、男は殊の外、力強く首肯する。その乏しい表情から男の胸中を伺い知る事は叶わなかったが、必ずその約束は果たされると理解していた。祝には男と対話する過程で生じた、一つの確信があったのである。
「では話は以上だ、もう戻ってくれて構わない。協力に感謝する」
「はい。……さようなら」
祝は会釈をすると、男に背を向け社会科室へと戻っていく。歯を食いしばって、込み上げてくるものを必死で押し留めながら。いつしかその足取りが駆け足へと変わっていくのを止める事もできずに、祝は一目散にその場から逃げ出していた。
「……よろしかったのですか阿尊様。最低限、目の届く場所で保護するという選択肢もあったのでは」
祝の立ち位置からは目視できなかった場所、上階の踊り場から下りてきた男が上司である合駕嵯 阿尊に声を掛ける。呆けたように祝の後ろ姿を見送っていた阿尊は徐にサングラスを掛け直すと、ブリッジを押し上げながら口を開いた。
「顔も知らない父親と、今更まともな家族関係を築ける筈もない。互いが互いを異物としてしか認識できず、不必要な心労を抱えるだけだ」
男は何も寝食を共にするよう推奨した訳ではない。にも関わらず、男の提案に沿った場合だと一緒に暮らす前提で話を進めている気の早さに、阿尊自身が気付いていない。
自らの考えに違和感すら覚えていない様子は阿尊の本心を表しているようだった。叶うのならば娘と――妻子と共に暮らしたい。
察しの良い男は反論する為に口を開く。それは部下としては出過ぎた真似だと理解していても、例え失敗に終わるかもしれなくとも。未だ修復可能に思える家族を前に黙っていられなかったのである。
「ですが……あの日、ご息女を一目見てからは処分するという手段を避けるようになったのではありませんか。今からでも……」
「……だから会いたくなかったんだ。情というものは時に判断を狂わせる」
ポケットに手を入れ、あからさまに男から顔を背けた阿尊は疲れた様子で後悔を口にする。それは計り知れないほどの懊悩を抱えている証にも思えたが、男は未だ阿尊の下した判断に承服しかねていた。
「あの日……電話が来る前に彼女を処分できなかった時点で、こうなる事は決まっていたのだろう。もはや言っても詮無いことだ」
一介の部下でしかない人間の反発などはね除けてしまえば良いというのに、阿尊は男を納得させる為に説明を加える。だからこそ食い下がりたくもなってしまうのだが、男はその言葉に疑問符を浮かべていた。
阿尊が口にした内容の意図を男は掴み損ねていた。電話が何だと言うのだろう。男は運転手として阿尊を迎えに行った日の記憶を辿りながら、本心を問い質そうと試みていた。
「電話のお相手は確か新興の……起業家の方でしたよね。それとご息女に何の関係が……?」
「それをお前が知る必要はない」
しかし男の疑問は両断される。最低限言うべき事は言ったのだと告げるように体の向きを変えた阿尊は、重々しく言葉を続けた。
「もう出る。この場に我々が関係するものは、もはや存在しない」
「……はい。かしこまりました」
2人は階段を下るが、多くの訪問客が出入りをしている昇降口に戻る事はない。人目を気にして上階から微かに聞こえてくる演劇の音を背に、閑散とした体育棟1階のエントランスを目指す。
男達は無造作に置かれた傍らのスリッパ入れに、来客用の履き物と外履きを入れていた袋を戻す。そして一度も振り返る事なく立ち去ると、扉の閉まる音を最後に辺りは静けさに包まれた。しかしそこには――校舎の構造に疎かった2人は気付く事ができなかったのだが、一つの人影があったのである。
「……何だったんだ。今の話」
扉が閉まりきったのを確認してから、颯真は壁越しに顔を出す。
壁を隔てた階段の横。これ以上、下に続く階段がない為にぽかりと空いているスペース。頭上は上り階段の形に沿うように傾斜した天井となっていた場所で、颯真は早めの昼食を摂る為に休憩をしていたのだった。
「場所取りサンキュー、ここ涼しくていいなァ」
「あぁ……」
謎の2人組が姿を消した方向とは逆。昇降口のある、中央棟へと続く地上の連絡通路。颯真の座る場所から程近い通路口から顔を出したのは議波であり、その手には食堂で購入したであろう食材の入った袋が提げられていた。
「どうした?お前も買って来いよ。腹減ってないのか?」
「いや……行ってくる」
「おー当番の時間が来ちまう前に、さっさと食わねーとなァ」
お先にいただきます、と断りを入れて食べ始める友人を横目に颯真は徐に立ち上がる。よく分からないが、他人の家の事情に首を突っ込む性分でもない。颯真は祝とその父親らしき男の会話と、その後に行われた2人組のやり取りの全てを心に秘めておく事にする。颯真は僅かに抱いた疑問も忘れ、食堂へと足を進めるのであった。
「あっ、蕗沙ちゃんお帰り……うん!?」
走って戻ってきた祝は人目も憚らず友人に抱き着いていた。突如として熱い抱擁を受けた建井は目を白黒させながらも祝の背中をさする事にする。
「ど、どうしたの?もしかして、さっきの人に何か変なことされたんじゃ……」
抱いていた嫌な予感が的中してしまったのかと、建井は焦りながら問い掛けるが祝は首を横に振り否定する。しかしどう考えても、並々ならぬ様子であるとしか捉えられない。何か声を掛けようと口を開いたその瞬間、祝が震えている事に気付いた建井は言葉を失ってしまっていた。
「あの人……お父さんだった。昔、お母さんが教えてくれた特徴と全部……全部、一致してた」
建井は自身の肩口が祝の涙で濡れていくのを感じていた。遅れてその言葉の意味を理解した建井は言わなくても良い事を口走ってしまう。
「蕗沙ちゃんのお父さんって……」
祝が母子家庭だということは知っていたが、父親に関する話題が上がる事は殆ど無かった。写真も残っていないのだと溢していた記憶を思い出し、建井は慌てて口を閉ざす。
それでも建井の言わんとする事を理解したのだろう。祝はのろのろと顔を上げると、目を合わせて小さく頷いた。
「でも、お別れしてきたの。仕方のないことだって、分かってる……けど……」
祝は必死に耐えようとしているが、その目は潤み再び涙が溢れ落ちそうになっている。建井はハンカチを取り出そうと懐に手を伸ばすが、不意に体が軽くなり祝が自分から引き剥がされていた事を理解した。
「蕗沙~。凛乃と一緒に控え室行こうかぁ」
「じゃあ私は代わりに受付、座っちゃおうかな」
いつから見ていたのだろうか。凛乃が蕗沙の背後から手を回して抱き付き、その連れである長身の女生徒は宣言通りに、流れるようにして受付の空いている席に座っていた。
他クラスである彼女達は自由時間を使って映画を見に来ていたのだろう。しかし異常を察知して助け船を出してくれていた。
本来なら建井が付いて行きたいところではあるが、受付の仕事を放り出す訳にはいかず、かといって上映中の室内から人を呼ぶ訳にもいかない。建井は僅かに逡巡しつつも2人の提案に乗ることにしたのだった。
「蕗沙ちゃんのこと、お願いしてもいい?」
「いいよーそっちはヘルプ呼んだ方が良いかもねー」
「それまでは私が代わりって事で」
建井の申し出に2人は指し示したようにピースを作って、快く承諾をする。苦にも思っていないその姿に安堵して一つ頷くと、建井は祝に向かって口を開いた。
「こっちは大丈夫だから、蕗沙ちゃんは少し休んだ方が良いかもね」
「うん……ごめんなさい」
「ううん、こういう時の為のマニュアルだってあるんだから。気にせずゆっくりしておいで」
祝は静かに目元を拭いながらも、未だ冷静になりきれていないと自覚しているのだろう。表情を曇らせ、建井の言葉に大人しく従う姿を見せる。弱々しく謝罪を述べる様子は見ているこちらの胸が締め付けられるようだった。
「凛乃がおんぶしてあげようかー控え室は直ぐそこだけど!」
「ふふ……大丈夫。ありがとう……」
祝の肩に顔を乗せながら、凛乃は子供をあやすように軽く持ち上げて見せる。凛乃の頬にはキラキラと光るシールが貼られており、頭には何故か猫耳のカチューシャが乗せられていた。祝の胴に回る手の指先はカラフルなマニキュアで彩られており、今日という日に気合いを入れて来たのが分かる。
そんな彼女の時間を取らせてしまう事を申し訳なさそうに思いながらも、凛乃なりの無邪気な励ましが功を奏したのだろう。祝は眉尻を下げながらも微笑みを取り戻していた。
凛乃は一度振り返って建井に手刀を切るジェスチャーを送ると祝の手を取り、先導するようにして特別講義室のある方向へと消えていく。後を頼まれた建井と少女は互いに頷き合うと、臨時で組まされた者同士で職務にあたることにしたのだった。




