2-1 カフェ早味
2012年4月19日、來見は帰宅のために悠々と町並みを歩いていた。
來見も一応、読書研究部という部活に所属してはいたものの、この日は放課後の司書当番ではなかったので授業を終えるとすぐに下校していたのだった。
(もう、レンガ通りを確認して帰る必要はないよな)
祝の交通事故未遂が起きてから、來見は普段自分が使っている通学路を変更し、階段の修復作業を確認するようにしていた。
(こっちの通りは静かでいいな……歩道も広いし)
しかし事故現場はもうすっかり元通りになっていた為、レンガ通りからは400mほど離れた、楮通りという本来使用していた通学路を來見は進んでいく。
(朝から人混みに紛れるの結構キツかったけど、やっと解放されるなあ)
パトロール中なのだろうか、二人一組で自転車に乗る警察官を目で追いながら見送る。來見は目をあちこちに遊ばせながらものんびりと歩いていった。
「よろしくお願いしまーす」
突然横から伸びてきた腕に驚きその持ち主を見ると、來見より幾分か年上に見える黒髪の若い男性が小さな半券の束を差し出していた。制服なのだろうか、黒いシャツとパンツの上からベージュの首掛け型エプロンを身に付けている。
「新規オープン記念の、コーヒー1杯無料券です。どうぞ」
店員であろう男性は、カフェ早味という看板を上げた店の前に立っていた。傍らには新規開店と書かれたボードが立て掛けられていて、確かに見覚えのない外観に変わっている。
「ええっと、それじゃあ一枚だけ」
束のまま貰うのは流石に気が引けたので1枚だけ抜き取ろうとすると、店員は何故か更に束を増やし來見の手に握らせてくる。
「僕、今日これを捌ききるまで上がれないんだよね。人助けと思って貰ってくれないかな!」
「無料券はあるだけ、何回でも使ってくれて構わないから!友達とかにあげちゃってもいいから!」
「あっ……はい」
にこやかな表情を浮かべているのに強烈な圧を滲ませている様子に根負けし、來見は促されるまま無料券を受け取ってしまう。
「ありがとう!今後ともご贔屓に~」
來見が手の中の無料券の束を見つめていると、店員は見送るように大きな声を上げる。立ち去らざるを得ない状況にされた來見は、困惑しながらもその場を離れる事にした。
(俺なら押し切れそうだと思って、声を掛けてきたのかな)
店員には、來見が簡単に言いくるめられるように見えたのだろう。意志の弱そうな人間に見られたことに少し釈然としない思いを抱えながらも、來見は気を取り直して自宅へ向かうのだった。
來見が自室に籠り課題をこなしていると、机の上で携帯が震えるのが目についた。
香椎あたりが宿題の範囲を忘れて、確認を取るために連絡をしてきたのだろうと携帯を開くと、画面には自動で文面が表示されていた。
「2012年4月23日17時40分、伊斗路市のカフェ早味店内、周編 蒼糸が火災に巻き込まれ死亡する。」
「……未来人はまだ、変えたい過去があるのか?」
示された場所に心当たりのある來見は、ポケットから無料券を取り出し店名を確かめる。カフェ早味とは、來見に半券の束を押し付けた店員が立っていた例の店に違いなかった。
(場所は分かったけど、この人は誰なんだ?それに次は火災か……)
頭を抱えそうになりながらも、來見は脳を回転させ始める。來見には初めから放っておくという選択肢は存在していなかった。
「とは言っても、このメール当てになるようでならないんだよな。情報量が少ないというか……」
4月12日の新幹線の追突事故の場合、場所は合っていた。しかし時間と言えばメールには4時と書かれていたものの、実際は4時8分頃に事は起こっていたようだった。
同様に13日の祝が巻き込まれかけた交通事故は、場所はさておき時間は20分ほど遅れてから起きていた。
(いっそ、時間は見込みでしかないと割り切る必要があるか)
「考え込んでても仕方ない、今は火災について調べよう」
当日まで、まだ4日ある。來見は部屋を飛び出し、父親からパソコンを借りて、必要な情報を取り入れていくのであった。
翌日の4月20日、來見は放課後の掃除を終えるとその足で図書室へ向かっていた。
それは調べもののためではあったが、週に2回火曜日と金曜日に集まることを推奨している、読書研究部へ顔を出すことも兼ねていた。
しかしながら幸か不幸か、今日は部長が欠席なこともあり読書感想会などは行わないようだった。そのため副部長が代わりに出欠確認だけ済ませると、部員達は各々自由に過ごしていた。
(昨日調べた感じ、火災の死亡原因は火傷は勿論、一酸化炭素中毒……窒息が非常に多い)
(祝の連鎖的に起こりかけたあの事故を交通事故としか書かないメールだし、焼死とは書いてないところを見るに……実際の死因は窒息死の可能性は充分あり得るよな)
來見が火災について書かれた本を物色していると、控えめにトントンと肩を叩かれる。
「來見先輩、何か調べものですか?丁度本の整理終わったんで人手がいるなら手伝いますよ」
來見が顔を向けるとそこにいたのは、同じ読書研究部に所属する3学年下の後輩、中等部2年生の浦部 基嗣だった。と言うのも、來見の通う伊斗路高校は中高一貫化を押し進めており、初めて受け入れられた中等生がこの浦部たちの世代だった。
その一環で、來見より上の世代は一学年に8クラスあったものの、來見達からは高校の募集枠が減り半分の4クラスになっていたのである。
「ちょっと火事について調べてた。なあ今の時期に起こる火事って何が原因で起こると思う?」
「うーん、そうですね……」
中等生達は、当初はいきなり3学年も上の先輩が出来ることに戸惑いも多かっただろうが、一年も行事や部活を共にするとすっかり慣れたようだった。浦部も例に漏れず、來見達高校生と会話をする上で余所余所しさはすっかり無くなっていた。
「冬なら、ストーブから引火するのが多そうですけど……」
「あぁ。火の不始末による引火とか、放火。ぱっと思いつくのはその辺だよな」
「ううん……あっ!電化製品の配線がショートしちゃった場合とか!劣化してるのに気付かずに、うっかり使い続けちゃうとかありそうですよね」
流石に中学受験をくぐり抜けてきただけはある。浦部は参考になりそうな情報を得意気な顔で披露してくれた。しかし次の瞬間には大きな目を吊り上げて、來見へ注意を促してくる。
「火災の現場に立ち会っても、小火だからって水かけたら駄目ですよ!燃え上がる場合がありますから」
「火を消すなら消火剤!それに通報、避難!……來見先輩ちょっとうっかりしてそうですから、気を付けてくださいね」
自分が普段どんな風に見られているのか、若干の不安を覚えながらも相槌を打っていく。浦部の言葉を聞いていると、ふと來見は自宅で小火を起こしかけたことがあったのを思い出した。
「そういえば、遠い昔にトースターでハッシュドポテト燃やしたことあったな。……いや、それ以降はやってないからな?」
無意識に口から言葉をこぼしていると浦部が絶句している様子が見え、慌てて弁解しようとする。しかしそれよりも早く我に返った浦部は、目を見開いて声を上げた。
「やっぱりうっかりしてる!火災って些細な静電気が原因で、発火することもあるんですからね!」
「危ないことはしないし、気を付けるよ。……参考になった、ありがとう!じゃあ!」
「あっ!図書室の中、走らない!」
尚も言い募ろうとする浦部に圧倒され、小言を言われる前に來見は早口で言い捨て図書室から逃げ出した。浦部は追いかけようとする様子を見せたが、司書当番だったこともあり追い掛けることを諦めたようだった。
自宅に帰り、來見は集めた情報を元に対策を考えていた。
(火災をどう防ぐか……)
「もしも原因が店の外にある場合……放火とか煙草のポイ捨てが原因なら、張り込んでその犯人を何とかして止めればいい」
何とか、という部分に無理があるような気もするが、とりあえず今はその方向で考えておく。
「でもその場合は店内の見張りはできなくなるから……店の中で出火が起きてしまったら、防ぐことができなくなるかもしれない」
逆の場合も同様で、來見の体が一つしかない以上、どちらかの可能性は切り捨てなければならないことを強いられていた。
(店の人に火事の起こる日時を伝えたとして、いたずらだと思われて取り合ってくれないかもしれない)
そもそもメールの内容を話してはいけないと送られてきたこともあり、その方法を試す気にはなれなかった。
(最悪、俺が放火しようとしてる愉快犯だと勘違いされるかもしれない。それなら、俺がするべきことは……)
來見にはある考えが浮かんでいた。それを実行するためにも今は頭と体を休め、英気を養うことにするのだった。
翌日、4月21日の昼頃、來見はカフェ早味の周辺を調査しに来ていた。
カフェは交差点の角、5階建てのビルの1階に店を構えている。カフェ早味を正面にした時、左手に隣接する高さ7階のビルとの間には人が通れるほどの細い通りが存在していた。
(もしかしてこの場合、ビルから延焼する可能性もあるのか?)
怪しまれない程度に観察を続けていると、どの階にもベランダが取り付けられていないことに気付いた。左手のビルからは昼食を摂るためだろうか、スーツで出入りをしている人間が確認できる。
(土曜日なのに大変だな……それよりこのビルが両方とも住居じゃないのなら、出火する確率は下がると思っていいのかな)
予測を立てながら、次にカフェの裏手に回るとギリギリ車がすれ違えるほどの車道が存在していた。道路は綺麗に清掃されており、塵一つ落ちていない。
(ゴミ箱とかも無いし、もしポイ捨てするならさっきのカフェ早味の横の細い道かな)
路上にゴミを捨てる人間の心理はよく分からないが、來見は割れ窓理論というものを聞いたことがあった。要するに軽犯罪を放置することが重大な犯罪の発生に繋がるという理論だが、その前提はここには生じていないように思えた。
ゴミが散乱しているのなら通りすがりに投げ捨ててもおかしくない。しかし少しでも悪いことをしているという自覚があるのなら、なるべく目立たないところへ捨てるだろうと來見は推測していた。
続いて、來見はいよいよカフェ早味へ入店することにした。
内開きの扉を押し開けるとドアベルが揺れ、音が鳴り響く。すると入り口近くに設置されたレジカウンターに控えている女性店員が、にこやかに言葉を掛けてきた。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」
「一人です」
「当店は全席禁煙となっております。空いているお好きな席へどうぞ。ご注文がお決まりになりましたら、お声掛けください」
滔々と述べる店員に來見は調子を合わせコクコクと頷く。そして店内を見渡すのにより適していそうな、入り口から真っ直ぐ進んだ先にある奥の席を選び座ったのだった。
店内は元々あった建物を利用しているとはいえよく整えられ、小綺麗な印象を与える内装をしていた。客入りも良く、昼時ということもあってか食事をしている人が多い。
(やっぱりカフェって言うだけあって、調理した物が提供されてるんだな。幸いカウンターになってるから、キッチンの様子は座ってても結構見えるけど)
來見も先日まで知らなかったことだが、カフェと喫茶店では提供できる食品に違いがあった。この店がもし喫茶店だったのならばその場で調理が出来ず、食品は市販品のものしか提供できないはずだったのである。(製造許可を取得すれば出来合いの手作り食品は提供できるが)
(やっぱり、火の不始末が原因になるのかな……)
來見が辺りへ視線を彷徨わせていると、ふと一人の男性店員と目が合う。注文が決まったと思ったのだろう、男は來見の元へ脇目も振らずに向かってきた。
「ご注文はお決まりですか?……あれ、君はこの間の」
店員は先日、來見に半券の束を押し付けた男性その人だった。男はお冷やを注ぎながら伏し目がちな表情を緩め、途端に親しげに話し掛けてくる。
「あの時はありがとう!お陰様で早めに上がれて助かったよ。無料券、使いに来たんだよね?」
「お役に立てたなら良かったです。ええっと、そうですね。無料券使えますか」
來見は急に距離感を詰めてきた相手に、呑まれそうになりながらも財布から無料券を取り出した。
「勿論使えるよ、少々お待ちくださいね」
(……他にも注文しようと思ったのに、行っちまった)
男は無料券を受け取ると、さっと身を翻し厨房へ消えていく。來見としては、飲み物だけで居座るのは気が引けるために食品を頼もうとしていたのだが、その隙を全く与えられる事なく立ち去られてしまうのだった。
コーヒーを待ちながら、來見はふと天井を見上げる。事前に調べていた火災報知器の種類は多すぎて覚えられなかったが、それらしき機械が取り付けられているのを確認する事ができる。
(火災報知器はちゃんと付いてる。ここからは見えないけど、多分キッチンにはガス報知器も付いてるよな)
(スプリンクラーっぽいのもあるし……防災はきちんとしてるみたいだ)
そもそも新規開店ということなので、その辺りがきちんとしているのは当たり前なのだろう。それならば周編という人間が逃げられなくなる、何かが起きてしまうのだろうか。
「お待たせ致しました。当店名物、店主オリジナルブレンドでございます」
思索に耽っていると、先程來見からの注文を取った男性店員がテーブルへカップとソーサー、ミルクピッチャーを置いていく。
淹れたてのコーヒーからは湯気が立ち上り香ばしい匂いが広がっていたが、色合いはどう見てもブラックコーヒーのそれであった。
「ありがとうございます」
(こういうのって、まず一口飲んでからミルクを入れるべきなのか?)
礼を述べチラリと店員の方を見ると、何故か店員は留まったままこちらを見つめている。期待を籠めたような眼差しに、來見は覚悟を決めてコーヒーを呷った。
「にっ……」
思わず体をビクつかせつつも、苦い、と叫ぶのを辛うじて我慢する。そんな反応を予想していたのだろうか、店員はミルクピッチャーをそっと來見へ押しやった。
「苦かったり、酸っぱかったりしたら気にせず入れた方が良いよ。自分が一番美味しく飲めるよう調節してね」
「は、はい……」
妙に楽しげに話し掛ける店員を見ると、胸元に名札が付いていることに気付く。
「……周編さん?」
「うん?」
「あっネームプレートに書いてあったんで、読んだだけです。すいません」
気付くのが遅れたが、この男性こそメールに予言されている被害者であるようだった。少なくとも同姓の者が他にいなければの話だが。
「謝らなくていいよ。僕こそ、ジロジロ観察して気分悪かったんじゃない?」
「いや、大丈夫です。でも何で俺のこと見てたんですか?」
自分の行動が他者の気分を害すると分かっていて、それでも止めない豪胆さを持つ周編に、來見はある種の関心を覚えながら質問する。
周編は余程人と対話するのが楽しいのか、表情を緩めて話を続けた。
「若い子がこういうお店に来ることって無いと思ってたからさ。気に入ってくれたら嬉しいなって」
「……俺の舌にはブラックコーヒーはまだ早かったみたいです。でも、すごくいい香りだと思います。ミルクを入れたらちゃんと飲める……はず」
最後の方は声が萎んでいってしまったが、それでも周編は嬉しそうに一つ頷く。二人がこうして話している間にも店内にはベルの音が鳴り響き、客の出入りを知らせていた。
「それなら良かった。それではごゆっくりお過ごしください。」
返答を聞いて満足したのか、漸く周編は來見のテーブルから離れ戻っていった。來見は知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出すと、座席に寄りかかり放心する。
(……最後に一応、トイレも確認したら店を出ようかな)
気を取り直した來見は、ミルクを混ぜたことでマイルドになったコーヒーを飲み干すと、トイレを確認する為に席を立つ。
幸か不幸かトイレには特筆すべき点は見付からず、そのまま会計に向かう事にする。ここでも周編に応対されながら会計を終えると、(と言っても無料だったのだが)やっと來見は退店したのであった。
(遂にここに来てしまった……)
來見はカフェ早味を出てから、駅前のとある場所へと向かっていた。
「どうかしましたか?」
「はい、あの……少し気になることがあって。お時間いただいても良いですか」
來見は40代くらいの警察官に話し掛けていた。そう、交番に来ていたのである。今から取ろうとしている行動に少しの罪悪感を覚えながらも、來見は火災を防ぐための手を打とうとしていた。
「……キャップを被って、マスクと眼鏡をした男性ね。他にも覚えてることありますか?」
「ジーンズを履いていたと思います。上着は……確か黒でした」
「そんな風体の不審者がじっとお店を見詰めていた、と。なるほど……」
勿論そんな不審者は存在しない。來見が適当に考えた、どこにでもいそうな没個性的な人物像を警察官にでっち上げていた。
(もしあの辺に監視カメラが付いているのなら、調べられたら俺が言ってる事は嘘だってバレる)
(でもそれが判明する前に巡回でもしてもらったら、予告された日に非常識な振る舞いをする人は減るかもしれない)
來見は自分がカフェの店内を見張り、外は警察官に見回ってもらうという両面作戦での解決を図ろうとしていた。
嘘がバレないよう緊張している姿が余程不安げに見えたのだろうか、警察官は声を和らげ言い聞かせるように話し始める。
「情報のご提供ありがとうございます。しばらくパトロールの強化を行いますから、心配しなくても大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます!よろしくお願いします!」
(よし、言質は取れた!ボロを出す前に逃げよう)
來見は警察官に勢いよく頭を下げると、内心をおくびにも出さずにそそくさとその場を立ち去る。しかし怪しまれないよう平静を装った姿こそ不自然だったのではないかという來見の不安は、一日中続く事になるのであった。
帰宅した來見は疲労のために、自室で大の字になっていた。体を脱力させながらも、ゆっくりと考えを巡らせる。
(これで店の外からの放火は防げるかな……)
(むしろ本当に不審者が存在するなら、当日までに捕まってくれたら良いんだけど)
そう上手く行くことはないのだろうなと、沈みそうになる気持ちを抱えながら両目を閉じる。來見は精力的に行動した疲労感から、気付けば眠りに落ちていた。
翌朝の4月22日、來見は昼食を兼ねた朝食を摂ると、手付かずになっていた課題をこなしていた。その後はゲームや読書をしたりダラダラと過ごしていると、あっという間に休日は終わり事件当日を迎えてしまうのであった。
4月23日、來見は授業が終わると司書当番のために図書室へ赴いていた。
部活の出欠確認が終わるとカウンターに座り、もう一人の当番である先輩と返却された本の整理や貸出の受付を行っていく。
作業が一段落すると、來見は月に1回、読書研究部が発行する図書室便りへ寄稿する文章を考えていた。
図書室便りは新刊の情報やおすすめの本を紹介する小冊子である。そしてその作成は、合法的に全校生徒へ自分の好みの本を喧伝できる手段でもあったので、部内でも人気の活動の一つであった。
(こんな感じで書けば、中等生にもわかりやすいかな)
小冊子を配布したところで、見ない人は見ないと分かってはいたものの、來見は毎回それなりに頭を悩ませながら執筆していた。真面目に読んでくれる人はいるだろうし、興味を持つきっかけにでもなってくれれば、それで良かったのである。
「來見、そろそろ図書室閉めよう」
文面の作成に熱中していると、眠たげな目をした先輩が話し掛けてくる。気付けば時間は17時を回っていた。よく耳を澄ませると、外からは子供達の帰宅時間を知らせるチャイムも聞こえてくる。
「今日はもう利用者いないから、閉めちゃっても良いでしょ」
「了解です」
普段は17時になると利用者に退室を促し、17時30分には完全に閉めきるという対応をしているのだが、今回はその必要はなさそうだった。
透明なガラスの扉で隔てられた司書室へ移動すると、部活の出席簿を棚へ収める。それから全ての窓の鍵が閉まっているか確認し机と椅子の乱れを直すと、二人は図書室から出ていくのであった。
「戸締まり良し。じゃあ鍵はあたしが返しとくから、先帰っていいよ」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
「うん、ばいばい」
図書室の前で先輩と別れると、來見は再び時間を確認する。予定された時間まではまだ30分ほどの余裕がある。それでも急いでカフェ早味まで向かうことにしたのだった。
「いらっしゃいませー……あれ?」
店内で來見を待っていたのは周編であった。ぺこりと一つ会釈して挨拶をすると、相手も手を振り返してくる。
「こんにちは。また来ちゃいました」
「そっかそっか、いやー嬉しいよ。お好きな席へどうぞ」
來見は周編に声を掛けられながら、前回選んだ奥側の席よりも手前の席へ座ることにした。
(この席からもキッチンは見えるし、なるべく店の真ん中らへんが良いよな)
それはいざとなったら自分が消火に走る為であったので、來見は視線を走らせ店内の消火器の位置もきちんと確認する。
(消火器は入り口近くに置いてある……通路も開けてるし、直ぐに走って取りに行けそうだ)
メニューを手に考えていると、周編がそろそろと近付いてくる。來見は未だ何も注文していないというのに、周編はテーブルにクリームの添えられたシフォンケーキと、コーヒーを配置していった。
「あの、俺まだ注文してないですよ?」
「でもコーヒーは頼むでしょう?ケーキは店主からのサービスね。夕飯前だと思ったから少なめだけど」
來見がおどおどと困惑していると周編は笑いながら、キッチンの方を指差す。
「あそこから覗いてるのがうちの店主ね。若いお客さんを定着させたいみたいで、持っていくように押し付けられたんだよ」
周編の指す方向へ視線を向けると、シルバーフレームの眼鏡をかけた壮年の男性と目が合った。男性は驚いて恥ずかしそうに厨房へ引っ込んでいったが、どことなく優しげな印象を來見に抱かせる。
「早味さん引っ込んじゃった。ちょっとシャイなんだよね、だから僕に運ばせたんだろうけど」
「あぁ!カフェ早味って、もしかして店主さんの名前から取ってるんですか」
「そうそう安直だよね。さて、あんまり長居するのも邪魔だろうから、もう行くよ」
ごゆっくり、と言い残す周編を見送ると來見は携帯を取り出す。17時23分、予告された時間が刻一刻と迫っていた。
來見はすっかり遠慮するのを忘れていたコーヒーとシフォンケーキをありがたく平らげ、課題を広げながら店内を注視する。
(今更だけど、カフェってこんな時間まで営業してるんだな。お酒も提供してるみたいだし、そういうものなのか)
(……それにしても全然、火災が起こりそうな雰囲気じゃないな)
考えを巡らせ神経を尖らせていると、ふと隣の客席の話し声が耳に入ってくる。二人組の女性客の些細な話題の一つのようだったが、その内容は來見の注意を強く引きつけるものだった。
「ねぇ知ってる?この辺で不審者出たって話」
「知ってる知ってる!声掛けた途端逃げ出した人を、警察がばっちり捕まえたんでしょ」
「良かったよねぇ。学生も多い町だから、巻き込まれたら大変だもん」
來見は慌てて携帯でその情報を調べる。検索の結果出てきた記事は昨日の日付で、不審者が逮捕されていたというものだった。
(俺の中のイマジナリー不審者が実在してたのか……!?)
詳しい説明は載っていなかったが、どうやら薬物を不法所持していたらしい。不審な動きをしていた男が警察官に呼び止められた際に逃亡を図った為、その場で御用となったようだった。
(確か薬物って煙を吸ったりするんだっけ。その為に付けた火の不始末が火災の原因になったとか……俺の妄想でしかないけど)
(それなら今回の火災も回避できたってことで良いのかな)
どうかそうであってくれと、一縷の望みを抱きながら來見は時が経つのを待つ。いよいよ予告された時間になろうとしており、來見は胸が早鐘を打つのを嫌でも感じ取っていた。
18時、來見の不安を嘲笑うように、何かが起こることもなく時間は過ぎ去っていた。店内の客足もすっかり途絶え始め、辺りは日没を迎えようとしている。
(これ以上長居するのは迷惑かな。お客さんがいないなら調理もしないだろうし)
來見はテーブルに広げた私物をカバンにしまうと、レジへ赴き会計を済ませ(相変わらず無料だったが)店を出ていった。
念のためカフェ早味の周囲を覗き込み、通りに異変がないことを確かめる。隣接するビルを見上げたところ、火の手が上がっている様子は全くなかった。
(一日中ここにいるわけにもいかないか。……頼むから何も起こらないでくれよ)
來見はこれ以上、自分がこの場所でできることはないと判断する。後ろ髪を引かれる思いで自宅へ足を向けたが、不安は募るばかりであった。




