8-3 助けた理由
「ユート」
三人が座り込んで会話をしていると間に割って入る声がある。声の主はクグルであり、飛び込む際に脱ぎ捨てたパーカーを着直してしっかりとした足取りで立っていた。
「溺れてた子は救護室に運ばれたけど、命に別状はないって」
「そっか、良かった。クグルは大丈夫?」
「お陰様でね。むしろお前の方が心配だよ、立てるか?」
先にプールから上がっていたクグルは救出した子供に付いていたのだろう。それも後は信頼できる大人に任せて來見の元へ来たようだった。
クグルは立てるかどうかを聞きつつも手を差し伸べていた。來見はその介助を断ることもなく手を伸ばす。手首を力強く掴まれると勢い良く引っ張られるその力に身を任せて、來見は立ち上がるのだった。
「おーい」
來見達がプールサイドで佇んでいると、辺りに響く声があった。それは先程、來見を救助した監視員のものであり、彼もまた一度子供の様子を見てから戻ってきたようだった。
「君らは大丈夫かい?気分が悪ければ無理せず、休んでいきなさいね」
「俺は大丈夫です!さっきはお世話になりました」
來見が頭を下げるのに合わせて、香椎達も軽く会釈をする。監視員はその言葉を聞いて安心したように深く頷き、人好きのする笑顔で話を続けた。
「それが仕事だから気にしないでくれ。あの子の事は僕達の方で受け持つから。帰るにしろ残って遊ぶにしろ、自由にして良いからな」
「はい。わざわざ、ありがとうございました」
手を振って、再び見張り台へと戻る監視員の姿を一同は見送る。
束の間の沈黙が流れた後ややあってクグルが口を開き、今度こそ帰宅することを伝えるのだった。
「それじゃあね、また明日。お前も無理はするなよ」
「うん、またな」
來見は引き留めることもなく、一仕事終えたような晴れやかな気持ちでクグルを送り出す。
万が一に備えてその後ろ姿への観察を止めることはできなかったが、クグルは何事もなく軽い足取りで更衣室へと消えていったのであった。
(よし、もうプール棟から出ていったなら大丈夫なはず……)
メールに記されていた通り、事が起こると予言されていたのはウォータースライダーや50メートルプールのあるプール棟であった。
更衣室は管理棟に区別されていた為に、來見がこれ以上何かしなければならない行動もクグルの身を案じる必要もなかったのである。
「ま、色々あったけど友達に会えて良かったな」
「色々で済ませて良いものか疑問だけどな……後で具合が悪くなったら、ちゃんと医者にかかれよ」
「うん、体調は大丈夫だ。……二人とも手伝ってくれてありがとうな」
友人の心遣いを噛みしめながら、來見は感謝の言葉を述べる。香椎はカラッとした笑い声を上げ、颯真は仕方ないものを見るような目をしながらも口元を緩めていた。終わり良ければ全て良しという事だったのだろう。
「よし、もう一回スライダー行こうぜ!次は浮き輪付きで滑ろう!」
「それでその次はまた、浮き輪なしで滑るんだろうな……」
しみじみとした空気を吹き飛ばすように発言した香椎に、颯真は呆れながらも言葉を返す。來見はその光景を見て、日常が帰ってきたことを実感しながら歩き出した。
「あ痛た……」
「來見?」
「いや、大丈夫。何でもない」
突如、体に走った痛みに思わず声を上げてしまう。來見は咄嗟に取り繕うものの、視線を患部へと向けた。
鈍痛は横腹から背中にかけて生じていた。当該箇所をよく見ると、うっすらと赤くなっており圧迫されたような痕が見える。
(もしかして、しがみ付かれた時の痕か?……そうだとしたら俺の体、貧弱すぎる気がするけど)
思い当たることは一つしかなく、小学生ほどの子供に加えられた力であっさりと痣になりかけている事実に落ち込みそうになる。しかしその感傷も長くは続かなかった、不意に過った考えがあったのである。
(クグルが、子供を助けようとする。でも子供は激しくもがいて……どうするべきか思いあぐねたクグルは、一度息を吸いに戻ろうとした)
來見は脳内で、あり得たかもしれない可能性を思い描く。クグルの判断は正しく、溺れた人を助ける為に自分が溺れてしまうのは颯真も言っていた通り本末転倒でしかなかった。
(……子供は視界が霞む中で助けに来てくれた人の姿を見る。助かりたくて命綱だと思ったその人に必死ですがり付いた為に、クグルは水の中に引きずり込まれてしまった)
その後、監視員が気付いた時にはもう手遅れだったのだろう。子供がどれだけ死に物狂いだったのかは、來見の体に付いた痕を見れば分かることであった。
自分でした想像にも関わらず、死に至る生々しい過程に思わず身を震わせる。溺れた人を救おうとして二次被害が出てしまうという例はよく考えれば分かっていたはずなのに、十分に注意を払う事ができていなかったのだ。
來見は実際に溺れかけたことで、あり得たかもしれない可能性を思い、より一層身につまされる。
「來見、早く!置いてくぞー」
「……本当に大丈夫か?休んでいても良いんだぞ」
「大丈夫……大丈夫!今行く!」
香椎の急き立てる声と颯真の心配そうな声に來見は現実に引き戻される。自分に言い聞かせるように言葉を発すると、急いで二人に駆け寄った。今は何か楽しいことをして、この焦燥感を忘れるように打ち消してしまいたかったのだった。
幸いにも暫くすると体の痛みは引き、それ以降あらゆる動作に問題が生じることはなかった。懸念していた痣も出ることはなく、疲労で熱が出たりもしない。十分に睡眠を取った結果、翌日にはすっかり回復し医者の世話にはならずに済んだのであった。
「はい、メール送ったよ」
「了解。送り返しておくな」
照囲市民プールでの溺死未遂の翌日。來見は約束通りクグルと遊びに来ていた。
連絡先を交換する為にアドレスを教え、來見宛てにメールを送ってもらう事で、受信したアドレスをクグルの物として登録する。
無事に互いの情報を手に入れた來見達は一息ついて飲み物を呷った。昼下がりの屋外は灼熱の様相を呈しており、二人は一時的にファーストフード店へと避難していたのである。
「昨日、言い忘れたんだけどさ」
「うん?」
「溺れた子がいただろ、燕ちゃんって言うんだけどさ。その子と一緒に遊びに来てた友達がすごく感謝してたよ」
言葉を溢したクグルに思わず顔を上げると、穏やかな表情で外の景色を眺めていた。來見は少し遅れて先日の話だと気付くと詳細を聞く為に口を開く。
「そっか……でも友達がいたのに溺れた事に気付けなかったんだな。勿論、俺も人のことは言えないんだけど」
「うん、遊ぶのに夢中だったんだろうね。子供だから仕方ないよ」
一呼吸置くとクグルが振り向き、不意に視線が合う。その目に微かな消沈と憐憫が浮かんでいるのを感じ取りながらも、來見は話すことを止めなかった。
「クグルはよく気付けたよな。……そもそもあの子を見付けられていなかったら、助けることもできなかっただろ」
「……あの時、誰も使ってない浮き輪が目に入ってさ。念のために水中を確認したら、偶然発見できたってだけだよ」
來見の質問にクグルはどこかもの思いに沈んだ様子で返答する。來見があまりにも凝視した為だろうか。その態度へ疑問を抱いたのが分かったのか、クグルは静かな声で発言を続けた。
「もうずっと昔の話だけど。プールの排水口に吸い込まれかけて、溺れた子供を見たことがあったんだ。当時の俺は何もできなかったんだけどね」
それは來見が事前に調べた、プールにおける水難事故でもよく見かけた話であった。主な被害者が幼児だった事で、クグルの身に振り掛かる事故としては候補から外していたがその実、深いところで関係していたのだろう。
「……それが普通だよ。咄嗟に動いて人を助けるなんて、簡単にできることじゃない。まして子供の頃なら尚更な」
目を伏せまるで懺悔するように告げるクグルを見て、來見は慰めの言葉を口にする。それは今まで散々な思いをしながらも転送装置からのメールに従い、人を助け続けた経験から出てくる偽らざる気持ちであった。
「……そうだな。結局その子は他の大人が助けて無事だったんだけど、すごく怖くなってさ……子供は静かに溺れるんだってその時、初めて知ったんだ」
(そうか。だから直ぐに異変に気付けて、助けに行ったんだな……後悔しないためにも)
怖い、という言葉がクグルの身にも起き得る事として捉えた為に生じた感情なのか、時には呆気なく訪れる他人の死に対して抱いたものなのか。あるいはその両方だったのだろう。
何れにせよ、水に関する恐怖心が強烈に刻まれているのは確かなようだった。しかし來見は、だからこそ言わずにはいられない事があった。
「……でも今回は助けられたじゃん、恐怖を乗り越えてさ」
思い返せば來見の知っている幼少期のクグルは、自分より上手に――それでいて、いつも楽しそうに泳いでいた。そうなれるまでに恐怖を乗り越え水泳技術を向上させたのは、原動力が何であったとしても称賛されるべき事だと信じて疑わなかったのである。
「まぁ、あんなに迷いなく飛び込むとは思わなかったけどさ。水泳、続けてるのか?」
「ユートがいなかったら、あの子と一緒に溺れてたかもしれないけどな。……本格的には泳いでないけど、中高続けて水泳部やってるよ。そう言うユートは?」
來見が殊更に声の調子を上げ話し掛けると、クグルは俯かせていた顔を上げのんびりと言葉を返す。その様子を見てクグルの気持ちが上向いたのを感じ取ると同時に、初めて高校へ進学していた事を知るのだった。
「俺は中学入る時に止めてそれっきり。勉強で忙しくなるし、バタフライまで習い終わってたから区切りが良かったしな」
「メドレーまで行くとタイム縮めるのが主になるから、やる意味あんまりないしね。……子供の頃の習い事とか、そんなもんだよな。親がやれって言うからやってただけで、思い入れとかないし面倒臭さばっかり感じる」
「溺れない技術とか……無駄にならない事を習えるのは良い体験だと思うよ。クグルだって泳ぐのは嫌いじゃないから、水泳部に入ったんだろ?」
達観しているようでいて、皮肉めいた物言いをするクグルに來見は思わず苦笑する。それでも幼少期の習い事を通して好きなものを見つけることもあるだろうと仄めかすと、図星だったのか肩を竦めて返事をしていた。
もしかするとクグルは他にも習わされていた事があり、そちらに関しては言葉通り煩わしさ以外に感じられるものがなかったのかもしれない。あるいはクグルがトラウマを体験した際に同行していた親が、同じ目に合わせない為に無理矢理水泳を習わせたのだろうか。
何れにせよ、クグルは水へのトラウマを克服できているし水泳に関しては好んで続けている。それならばクグルの意思は尊重されるべきものだとしても、彼の親が取った選択は一概に悪いとは言えないように思えたのだった。
「そういえば、ユートの高校は文化祭いつ?やっぱり秋口かな」
クグルが別の話題を持ち掛けた姿を見て、來見は必要以上の詮索は止める事にする。手持ち無沙汰になったのか、結露したグラスの中身をストローでかき混ぜながら日程を聞き出すクグルに、來見は素直に答えていた。
「うん、9月の最初の方。クグルの高校は?」
肘をついて物静かに語り掛ける声につられて、來見も何時しか長閑な口調になっている。眠気を誘うように管理された快適な空間で、同じように日程を尋ねていた。
「確か菁高校は10月だったかな……興味あるなら昨日の友達でも連れて来なよ。何か奢ってやるから」
昨日の礼も兼ねてな、と笑うクグルに來見は頷いて肯定する。何かにつけて奢られる機会が増えたことを少し面白く思いながらも、決して悪いことではないと理解していた。
大人になれば貸し借りに損得勘定が付随することは友人同士であっても、ままあるものであった。学生という子供でいられる時期だからこそ、些細で簡単なものでも心さえ籠っていれば純粋に報いとして受け取ってもらえるのは、良いことに違いなかっただろう。
「うん、絶対行く。クグルもこっちの文化祭来なよ、パンフレット送るからさ」
「楽しみにしてるよ」
ところで、來見は菁という高校名に聞き覚えがあった。受験するにあたって自宅から通いやすい高校を絞った際に、その名前を見掛けた事があったのである。
最寄りである伊斗路駅から10分ほど乗車し、3駅隣にある藤打駅近辺に立地しているのを思い浮かべながら、いざ向かうことになっても迷わずに済みそうだと考えていた。
(こうやって疎遠になった友達と次の約束ができるのも、ある意味メールのお陰なのかな)
確かに人を助けるのは大変で、心も身体もすり減っていく。それでも不幸な結末を阻止できた事は勿論、他にも好ましい出来事は起こり得るのである。
來見は改めて二人の命を助けられた事実に胸を撫で下ろし、言葉を続ける為に口を開いた。
「うん、待ってる!」
言い終わるや否や、机に投げ出していた携帯電話が震えメールの受信を知らせる。咄嗟に手を伸ばし画面がクグルから見えないよう然り気無く携帯を開くと、いつものように感謝を述べる文面が表示されていた。
「ありがとう。」
來見は思わず顔をほころばせながら、ゆっくりと携帯電話を閉じる。
その後は七夕を過ぎているのにも関わらず未だ開催している七夕祭りを眺めに行ったり、ゲームセンターに立ち寄ったりと一頻り遊び回っていた。日が暮れ始めた頃、待ち合わせ場所に選んでいた伊斗路駅で分かれると、來見とクグルはそれぞれの帰路につくのであった。
2022年、都内のとある水族館。
クグルは飼育動物への給餌と健康状態の確認を終え、退勤の準備をしていた。日誌にトレーニングの進捗情報を記入し、タイムカードを切って、同僚へと声を掛ける。
「それじゃあ、お先に」
「お疲れ様でーす」
事務所を出て裏口から退勤していく。当然と言うべきかこの勤務先は交通の便が良く、少し歩くとあっという間に最寄りの駅に辿り着くのだった。
電車に揺られぼんやりしながら車内の液晶のディスプレイを眺めていると、不意に電子広告が目に入ってくる。内容は遊園地に関するもので、今の時期なら学生の入場料が安くなるという部分を前面に押し出していた。
ふと学生時代に勉強に明け暮れた記憶を思い出す。将来は何か水に関わる職に携わろうと考えた時に、狭き門と分かっていながら水族館の獣医師を選択し、クグルは幸運にも採用されていた。
結果的にその決断は良い方向へ向かったのだが、もしかするとその就職の難しさ故に漁業やマリンスポーツに関する仕事に就いていてもおかしくなかったのである。その場合、履修した学業や取得した免許は無駄に成りかねなかったが、クグルは良くも悪くも先のことを深く考えていなかった。
電車から降り、改札口を通り過ぎるとスマートフォンに連絡が入る。送信元アドレスは自宅にあるパソコンのものであり、クグルは同居人が送ってきたのだと直ぐに理解した。
「もしもし、メール見たよ」
クグルは自宅の固定電話を鳴らし、同居人が受話器を取ったことを確認すると話し始めた。駅構内から併設されたスーパーへと歩を進めながら、他に必要なものがないか聞き出していく。
「マスクとガーゼ以外は大丈夫?……分かった。じゃあまたね」
電話を切るとクグルは今日の献立を考え始める。夏バテ予防にも効きそうな豚肉をメインにする事を決めると、手頃な野菜と好みそうな酒を選んでいくのだった。
「……二人分かぁ。これは、どっちかな」
帰路につくクグルを見る、一人の男の姿があった。小麦色の髪を持つその男は一度考え込むように目を瞑ると、後をつける為にゆっくりと歩き出す。クグルは終ぞ、その尾行に気付くことはなかったのであった。
「造倉さん」
柏木はグループ会社の上役が集められた立食パーティーへと参加していた。目当ての人物を見付け声を掛けると、造倉は屈託のない笑みで振り向き近付いてくる。
「やぁ、柏木さん!お久し振りです。お話ししたかったですよ!」
「お久し振りです。何か良いことでもありましたか、今日は輪をかけて機嫌が良さそうだ」
柏木はうっすらと笑みを浮かべながら、一つの違和感も見逃さないように造倉の姿を凝視する。その上辺だけでも取り繕った友好的な態度の割りに、吐き出した言葉はともすれば皮肉と捉えられかねなかった。造倉は普段から能天気に見えると言っているようなものだったからである。
しかし造倉は浮かれているのか柏木の口振りを気にも留めない。むしろ勢いを増して、嬉しそうに会話を続けた。
「えぇ、えぇ。娘の燕がこの間、柔道の大会で優勝したんですよ!今までに見たことがないくらい、えらく喜んでいて……私もつられて嬉しくなってしまいまして」
「それは、おめでとうございます。燕さんはつい最近、成人されたばかりでしたか」
「そう!そうなんです。この間、前撮りした着物姿!見てくださいよ」
造倉は破顔して返事も聞かずに写真を見せてくる。成人式で着る予定のものなのだろう。着飾った燕の写真を見せるだけでは飽き足らず自分と一緒に写っている動画まで流し始め、その健在ぶりを証明していた。
その後も造倉は滔々と娘の功績を誇らしげに話していたが、柏木は全て知っていた。ひとえに來見へメールを送ったのは、その為であったからである。
「……実に喜ばしいことだ。将来が楽しみですね」
「えぇ、本当に!……娘が自分から止めると言い出すまでは、支援を惜しまないつもりなんです。小さい頃から続けている事ですし、やれるところまで挑戦して欲しい、親心ってやつですね」
「きっと素晴らしい実績を残されますよ。期待して宜しいかと」
柏木の言葉は本音で言っているのか、社交辞令なのかは周りの人間には判別できなかった。陰影に富んだ瞳だけが何かを語るように光っていたが、それも瞬きによって隠されてしまう。
柏木はスーツの内側から伝わる振動を感じ取ると、断りを入れ集まりから離れていった。人気のない廊下でスマートフォンを確認すると、予想通りの人間から連絡が来ていた事が分かる。
「……どうした」
余計なやり取りは排除し、端的に状況を尋ねる。通話相手は笑いながらも、どうにも気に掛かる情報を提供し始めた。
「お忙しい中すいませんねぇ。ちょっと井迎 潜について気になることがあってさ」
クグルが買い物を終え自宅の中に消えていく姿を、合駕嵯 仁はアパートの下から観察していた。
車内の助手席に置かれたタブレットを操作し、井迎 潜の個人情報を見直していく。仁の直感は未だ監視を続けるべきだと告げていたのである。
「具体的に言え、何が怪しい」
「そう急かすなって。どうやら井迎は誰かと同居してるみたいなんですよ。そんな素振りは無かったんだけどなぁ」
仁は柏木の判断を仰ぐために報告をしていく。内心、動揺する様子を見せるのではないかと期待していたが、その望みは裏切られたようだった。柏木は暫くの間沈黙したものの、冷静な口調を崩さずに問いを発する。
「根拠は。単に買い物の量が多かったのは理由にならない。一人暮らしなら、休日に作り置きくらいするだろう」
「分かってますよ。でも酒の匂いで酔うほどの下戸が、ブランデーやウイスキーなんか買うか?怪しいよなぁ」
「……他の用途があるとしたら」
「食いもんに使うほど、料理にこだわる人間じゃないって知ってるだろ?俺に質問しながら、ご自分の考えを纏めてるんでしょうけど」
仁の指摘通り、柏木は思索に耽っていた。しかし結論を出すにはまだ情報が足りていない。即座にそう判断した柏木は仁に続けて問い掛ける。
「……相手は男か、女か」
「今は分かんないですね。どうする?張込みでもするか?」
「最優先で調査しろ。同居人の身元を明らかにしたら、直ぐに報告しに来い」
提案する仁に、柏木は心持ち早口になりながら一息で言い切った。抑揚のない声とは裏腹に、一刻も早く突き止めなければならないという焦りが滲み出ていた事を仁は感じ取る。
「ハイハイ。了解しました」
単調な割には強く行動を求めるような――威圧すら感じた声に、仁はおざなりに返事をする。調査が終わるまで帰ってこなくて良いと言われるだろうと、骨身に染みて理解していたのである。
「それにしても錐体内出血による急性平衡失調……でしたっけ。泳ぎが得意な人間でもあっさり溺れるとか、怖い症状もあったもんだ」
「水底に引きずり込まれた結果、水を飲んで三半規管の機能が低下。結果、平衡感覚を失い溺れた……少し調べれば思い当たる原因だがな」
過去の來見の推測と答え合わせをするように柏木は言葉を返す。その傲慢にも思える口振りを制するものは何処にも居らず、仁も例外ではなかった。
「來見が気付いてなくても結果オーライだろ?それで造倉はどうだったんだ?お元気でしたか」
「娘が存命な分、元気だった。彼の能力は無くすには惜しい。一度目は才を腐らせていたが、やはりこうあるべきだった……」
突如として熱に浮かされたように話し始めた柏木に仁は口を挟まなかった。発言の終わり際が示している通り、柏木自身が我に返り会話を打ち切ったからである。
仁はその取り繕う姿を直接見られない事に落胆しながらも、からかうように口を開いた。面白い反応が返ってくるのならそれで良かったのである。
「造倉が使い物にならない状況から好転させるのが目的でしたもんね?井迎 潜はその為の――造倉の娘を助ける道具だった訳だ」
「……」
「一人娘が死んでたら腑抜けてただけの人間が、今や技術開発部のトップと来たもんだ。そりゃあ躍起になって助けますよねぇ。色々と便利ですから」
仁はただ、事実を述べていた。特に責めようと思っている訳ではない。それなのに柏木は痛いところを突かれたように押し黙り、自分からの言及を避けているようであった。
柏木は周囲に目を走らせる。仁との会話を――聞くものが聞けば勘繰られるような内容を聞かれてはならないという理性は、まだ残っていた。
「話が終わったのなら、切る」
「怒ってます?嫌だなぁ。事実を言ってるだけじゃないですか。それに元は二人して死んでたところを救った功績は否定してませんよ?」
仁が全ての言葉を伝え終わる前に、電話は切られていた。それでも仁は気にすることはない。他人にどう思われているか気にするような情緒は端から持ち合わせていなかった。
そしてもう一つ思う事がある。クグルの身辺調査に躍起になる柏木の姿は、他の者の目にはどう映るのだろうか、と。神経質な過保護に見えるのか、あるいは想定外を入念に排除しようとする完璧主義者に映るのか。
「……ま、良いか。それじゃあ監視でもしますか。何人か、駆り出すかなぁ」
もはや何の音も聞こえないスマートフォンを助手席に放り投げ、大きく伸びをする。薄暗い車内で明るい金の目を爛々とさせながら、仁は次の算段を立てていた。




