8-2 井迎 潜
來見がウォータースライダーを滑り終えたところで、香椎は軽く立てた親指で後ろを指し先導するように歩いていく。
來見達は太陽に照りつけられながらプールサイドで座り込んでいた。
「それで?さっきから何か様子がおかしいけど、どうした?」
香椎は単刀直入に議論の口火を切った。來見自身は自然に振る舞い然り気無く辺りを観察していたつもりだったが、憂う気持ちが読み取られてしまったのだろう。
香椎は全てを見透かしているように強い視線を向けていた。
(……やっぱり妙に鋭いな香椎は。まぁ元々手伝ってもらうつもりだったし、変に誤魔化す必要はないか)
來見は目敏い香椎に感心しつつも、動揺を顔に出さず冷静さを保っていた。それは事前に先の展開を予想し、尤もらしい言い分が用意できていたからに他ならなかった。
「実はさっき昔の友達を見つけてさ。久し振りだったから話そうと思ったんだけど、見失っちまって」
「あぁ、だからキョロキョロしてたのか。道理で上の空だと」
來見の様子を訝しんでいた割に、香椎はあっさりと納得したようだった。片膝を立てて出方を窺っていた颯真は口を開き、一つの意見を提示する。
「気になるなら呼び出せば良いんじゃないか?迷子をアナウンスする感じで。名前は知っているんだろ」
「それはそうなんだけど……」
颯真の提案に來見は渋い表情を浮かべる。それは以前、蓮下 陽彩に対して使用した手段だったが、後の反応を見るとあまり実行したくないというのが今の本音であった。いたずらに不安を抱かせてしまった事実を目の当たりにして、引け目を感じていたのである。
(呼び出したら最後、俺がその場で待ってなかったらおかしな事になるし……クグルが、その道すがらに溺れでもしたら最悪なんだよな)
人手の多さは万一の際に要救助者を生かす手立てを増やす事に繋がるが、一方で來見の動きが制限される状況下になり得てしまう。一所に留まるという選択肢を取る事で、クグルが目の届かない場所で死亡する可能性を高める訳にはいかなかった。
「……嫌だろ?そんな、しょうもない理由で呼び出されるの。向こうも放送に気付かないかもしれないし、自分で見つけるよ」
「ふーん?ちなみにどんな感じの外見してんの」
「あぁ、目についたら教えられるからな。はっきり見えたのか?」
ある程度の納得はできたのか、疑問符を浮かべながらも香椎と颯真は來見に協力する姿勢を示す。二人が想像通りの優しさを見せたことに、來見は内心安堵していた。
「身長は俺よりも少し大きくて、薄い黄色の髪をしてる。癖毛で長さは肩よりも下。あとは……下まつ毛が印象的、かな」
勿論、來見はクグルが今どんな姿をしているのか知る由もなかった。その為、幼少期の記憶を頼りに特徴を挙げていく。それは、もしも昔の容姿とかけ離れていたら意味のない情報共有だったのだが、そこは転送装置の良心を信じることにしたのである。本当にクグルを救いたいのならば、少なくとも來見には分かるように教える筈だと。
「何かいやに具体的だな?まぁ、とりあえず分かった!見かけたら言うよ」
「……年はお前と近いって事で良いんだな?……会えるといいな」
口々に言葉を発する友人に來見は頷いて返事をする。クグルの捜索は未だ始まったばかりであった。
香椎に連れられ來見達一行は流れるプールへ場所を移していた。力を抜いて底から足を離すと泳がずとも体が水に流されていく。
香椎が道中で見つけた、施設で貸し出している浮き輪に乗ってはしゃいでいるのを眺めながら來見は考えを巡らせていた。
(そもそも溺死って言ってもクグルは泳げるんだから、何か外的な要因があるはずだ)
クグルは來見より一つ年上なこともあり、スイミングスクールにおける級が上位のクラスに所属していた。それは定期的に実施される進級試験を來見より多く合格しているという証左であり、水泳技術が優れているという根拠にも繋がっていた。
(急に足が吊ったりすることもあり得るけど、泳ぎ慣れた人間が準備運動もなしに飛び込むとは思えないし……)
事前に調べたところ、疲労や栄養不足によって筋肉の痙攣が起こる症例もあるようだが、クグルがそれに当てはまるかどうかは疑問の余地があった。そもそも市民プールに来ている時点で、まず不健康ではないだろうと結論付けていたのである。
(熱中症とか、いきなり冷たい水に入ったせいでヒートショックを起こして、意識を失って溺れるとか?……そうなってくると水に入る前に見つけないと)
思索に耽りながら來見は水に身を任せる。
溺死の要因として飲酒による酩酊も候補に上がっていたが、來見はその可能性は頭から排除していた。言わずもがな未成年のクグルが、酒を飲むような不良だとは思えなかったのである。
ふと伊斗路高校にあるものと同じような25メートルプールが來見の視界に入ってくる。他のエリアと比べて空いてはいるものの、それなりの人数が集まっているようだった。
(もしクグルがまだ部活とかで水泳を続けてるなら、ああいう場所で練習しててもおかしくない……かな)
このまま呆けていては見つかるものも見つからない。來見はクグルを探索するために友人へ断りを入れようと口を開いた。
「なぁ、あっち行ってみてもいいか」
「おー下見はバッチリしねぇとな」
「……そういうことは、いちいち言ってやるな。心の中で思っておけよ」
からかうように返事をする香椎に颯真が後頭部に手刀を入れる。軽い衝撃しか加えられていないのにも関わらず大袈裟に痛がる様子を見ながら、颯真は大きくため息をついていた。
自分が不快に思ったから止めたのか、はたまた來見の為に制したのかは分からないが、内心ありがたく思いながら水中からいち早く上がる。
「あんまりふざけすぎるなよ、溺れるから」
「浮き輪あるから平気だし。じゃあ行くか」
來見の忠告に香椎は腰に浮き輪を携えたまま、涼しい顔で言葉を返す。後に続いてプールサイドに足を付けた二人を伴い、來見は別のエリアへと向かうのだった。
時計を探し、残された刻限を確認する。時刻は14時を回ろうとしていた。
「結構、人いるな」
颯真が溢した言葉に來見は軽く頷きを返す。
三人は25メートルプールとそのすぐ奥側に50メートルプールが並ぶエリアに足を踏み入れていた。
遊具と呼べるものは一切存在せず、機械によって波や流れが生じている訳でもない。とは言え学校にあるプールとの相違点は一見したところでも、2つほど存在していた。
1つ目の違いは授業でも話題にした5メートル地点を確認できる旗――背泳ぎ用標識が掛けられていない事であった。それに加えて、コースを区切る消波効果のあるレーンロープも張られていない。後者に関しては安全性を下げているようにも思え気に掛かるところではあったが、より多くの人々を収容可能にする為には仕方のない事であったのかもしれない。
人混みでよく見えない部分もあったが、確認できる大きな違いはそれくらいのものであった。
「穴場があるって目ぇつけた人が集まってんのかも」
「確かに。のんびりしたい人には打ってつけの場所だな」
見て分かる通り特別なものは無かったが、その何も無さ故に溢れるほど混んでいることもない。気軽に、ただ水に浮かんでいたい人間にとっては丁度よい場所だったのだろう。
「でもあれだな。こういう所はガチで泳ぎにくる人がいるから、みんな空気呼んで空けてると思ってた」
「……今日はたまたまいなかったんだろ。存在しない人間に配慮しても仕方ないから、別に良いんじゃないか」
「本気で練習したいなら、それこそちゃんとした施設を使うだろうしな。……学生には難しい話かもしれないけど」
香椎と颯真の会話に続けて、來見も意見を述べていく。
初めは皆遠慮して居着かなかったのかもしれないが、このエリアで遊泳が禁止されている訳でもない。恐らく誰かが自由に泳ぎ出したところを見て、注意されない事を認識した人々が次から次へと後に続いたのだろう。
來見の予想を証明するように、小学生くらいの子供達が浮き輪に掴まってたゆたっているのが目に写る。取り残されたように閑散としたプールを見つけて、無邪気に泳ぎ始めたのだろう。自分達だけの遊び場を発見して喜ぶ姿が容易に想像できたのであった。
「深さは学校のプールと変わんなさそうだな。そんなに深くねぇ」
「そうだな。……それにお前の知り合いは、いないみたいだ」
香椎が頭上から照り付ける太陽の光を遮るように、手を目の上に翳し水中を見つめる。颯真は來見の人探しを忘れていなかったのか注意深く辺りを見回していた。
「あぁ、それじゃあ……50メートルの方も見ていいか?」
「ここまで来たらトコトンだなー」
肩に浮き輪を担いだ香椎は來見の提案に頷くと、25メートルプールに入ることはなく隣の区画へ移動する。2つのプール自体は区画と呼べるほど、仕切りによって明確に区切られている訳ではなかったが監視員はそれぞれのプールに付いていた。緊急時には直ぐに駆け付けられ、異変を察知した人々が呼びに行ける距離で見張っているようだった。
「……こっちの方が浮き輪を使ってる人が多いな。もしかしたら深いのかもしれない」
「中心に向かって深くなってるタイプかな……最悪、颯真でも足が付かなくなりそうだ」
來見は50メートルプールをざっと見渡し、颯真の言葉に賛同するように会話を続ける。
水深が深いと思われる中心部には人気がなかったが、プールの縁に近い場所は殊の外混んでいた。プールサイドに腰掛け、足先だけを水に入れて遊ばせている者もいれば、ひしめくように浮き輪で水面を覆っている子供達のグループも見える。
(確かにこの深さなら溺れてもおかしくないけど、監視員の目につかない訳ないよな)
泳げる者が黙って静かに溺れる訳もなく、もがけば水飛沫が上がり異常が直ぐに分かるはずである。
ふと、市民プールの外周を覆うように取り付けられている鉄製のフェンスが目に入る。人が通れるほどの隙間はないが一定の間隔が空いているフェンスには、何か紐のような物が立て掛けており、遠くからでもその鮮やかな色がよく見えた。
近付いて観察してみると、紐の先端にあるカラビナでフェンスに固定するように繋がっている。形状からして水上救命用のロープである事が窺えた。
「何か気になるもんでもあった?」
「うん、たぶん救命用のロープ。初めて実物を見たなって思って」
「へー、意外と浮き輪部分は小さいのな。もっとでかいと思ってた」
しゃがみ込んで検分していた來見に香椎が声を掛けてくる。香椎の言った通り、ロープを辿った先に付いている浮き輪はそれほど大きくなく、片手で掴めるくらいのサイズであった。
「……來見、ちょっと」
「ん?」
二人して興味津々で救命用のロープを覗き込んでいたところに、颯真の呼び掛けが耳に入ってくる。來見が立ち上がり振り向くと颯真は人差し指を伸ばし、とある場所を指し示していた。
「見えるか?飛び込み台のところ。人がいるだろ」
ここで言う飛び込み台とは高台ではなく、クラウチングスタートの際に使用するスタート台の事であった。颯真の指差す方へ視線を動かし、目を凝らすと確かに一人の少年の姿がある。
「遠いから分かりづらいけど……あれ、もしかしたらお前の探してた知り合いじゃないか?」
「……!ありがとう!ちょっと行ってくる!」
はっきりと顔立ちが認識できた訳ではなかったが、遠目でも少年がクリームイエローの癖毛をしていると分かる。來見は決して滑らないように、しかし早足で少年へと近付くのだった。
飛び込み台の上で胡座をかいている少年は、俯いて呆けたように水面を見つめていた。休んでいるのか薄手のパーカーを上半身に羽織り、足元以外は日に晒されて乾き始めていた。
「……クグル?」
來見の呼び掛けにゆっくりと振り向いたその顔は記憶にあるものと一致する。クグルはしきりに目を瞬かせると首を傾げて口を開いた。
「ユート……?」
幸いと言うべきか、クグルも來見のことを覚えていたようだった。根元が黒くなった髪の毛先から水滴が落ちるのを眺めながら、來見は隣に座ることにする。幼少期には地毛だと思っていた色が、この時初めて染髪されたものだったという事実に気付くのだった。
「久し振り、もう5年ぶりくらいになるのかな」
「うん、すごい偶然だな。……お前、昔と変わんないね」
クグルは來見を上から下まで、まじまじと見ながら言葉を発する。それはある種の、年齢を重ねた事による貫禄は身に付けなかったのかという、からかい混じりの言葉でもあったのだろう。
しかしその語気には感慨深さを滲ませ、僅かに口の端を持ち上げていた。
「身長は伸びてるだろ?そんなこと言ったらクグルもあんまり変わってないよ、顔見たら直ぐにお前だって分かった」
來見は自分でも驚くほど自然に、クグルに対して軽口を叩いていた。疎遠になっていた友人と物怖じせずに話せているのは、クグルの声音がとても優しかったお陰に違いなかった。
「俺は変える必要性を感じないから良いんだよ。暑いし、そろそろ髪は切ろうと思ってるけど」
別の色に染めても良いかもな、と自身の毛先を摘まんで発言するクグルに來見は内心動揺する。それはもしもあと数日、事の起こる日程がずれていたのなら來見は間違った情報を元に、クグルを探す羽目になっていた事を示していたからである。
「そっ……か、その前に会えて良かった。髪型が変わってたら、遠目でクグルだと分かんなくなってただろうから」
「ふーん?」
一番目を引く箇所だからといって、数年ぶりに会う人間を頭髪の色を手掛かりに探すのは悪手だったのだろう。クグルの外見が変わることで発見が遅れ、介入もできずに終わっていた可能性に今更になって身震いする。
來見は同じ過ちを繰り返さないよう反省し、肝に銘じる事にする。しかし、そのような素振りは一切顔に出さずに話を続けた。
「……クグルはよくここに泳ぎに来るのか?」
「うん、気分転換に一人でな。ユートは友達と?」
「あぁ、クグルと話したかったからあっちに置いてきた」
來見は少しずつ情報を引き出すように言葉を交わしていく。クグルは來見の友人の扱いに面食らっていたようだが、気を取り直すと困ったように笑い、口を開いた。
「会えたのは嬉しいけど、可哀想だから戻ってやんなよ。俺はもう上がるつもりだったし」
「ちゃんと断ってきたから大丈夫だと思うけど。……今日はもう泳がないんだ?」
「充分気晴らしになったからね。やり過ぎて嫌いになりたくないなら、程々が一番だよ」
來見の念押しにクグルはあっさりと肯定を返し立ち上がる。分別のある意見を口にしたクグルの姿は、どこか大人びて見えた。それはたったの一年でも來見より長く人生を歩んでいるからこそ出せた、空気だったのだろう。
來見は流されるままにクグルの言葉へ妙な説得力を感じながら、強い光で染みる目を細めその立ち姿を見上げていた。
「今日は帰るけどまた今度遊ぼうよ。俺、土日は大体ここに来てるから」
そしたら改めて積もる話でもしよう、と続けるクグルに來見は何度も首を縦に振り同意する。それは現在の二人は携帯電話など連絡先を交換できるものを身に付けていない為に、代替案として提示した約束だったのだろう。
「じゃあ、明日!明日、また会おう」
「良いけど……今日泳いだのに、明日も泳ぐのか?」
「えっ」
逸る気持ちのまま次に会う日を取り決めようとした來見は、思わぬ言葉を返され沈黙する。クグルはそんな姿も愉快だというように笑うと、眉尻を下げて口を開いた。
「明日は普通に遊ぼうか。伊斗路駅で待ち合わせで良いよな?」
「あ、あぁ。時間は……13時とか?」
「それでいいよ。じゃあまた明日」
來見の提案を快諾したクグルはゆっくりと立ち上がり、濡れた飛び込み台からひらりと降りる。幸いにもプールサイドは乾いており、クグルが足を滑らせることはなかった。
「……うん、また明日!気を付けてな」
「心配しなくても転んだりしないって。じゃあね」
來見は大人しくクグルの去っていく後ろ姿を見守る――というには随分熱心に見つめていた。それは勿論、万が一を警戒した為であり必要なら後をつけることすら視野に入れていた。
尾行に勘付かれないように來見は素知らぬ顔でクグルの足取りを追う。実際、その進行方向には二人の友人達がいるため、行動自体におかしなところは無かった。偶然ではあったが言い訳が利く状況になっていたのである。
クグルは迷いのない歩みで更衣室へと足を進めていた。
50メートルプールを通り過ぎ、隣接する25メートルプールのエリアへ踏み入れそのまま何事もなく通り過ぎて行く――はずであったのに、クグルは50メートルプールの中間地点で静止する。
「クグ……」
來見が声を掛けようとしたその時、クグルは羽織っていたパーカーを脱ぎ捨て水中へ飛び込んでいた。勢いよく潜った事で50メートルプールの水面からは水飛沫が上がるも、周りの人間は気にも留めていない。
「……香椎!さっきのロープ、取ってきて!颯真は監視員呼んで!」
來見は滑る危険も忘れて、走りながら友人達へ声を上げる。視線が合ったことでその声が届いたと信じ、首元のゴーグルを目に付けると來見も続けて潜水した。
來見は何が起きているのか正確に理解している訳ではなかった。しかし状況からしてこれがクグルが溺死する原因になり得ると直感しており、気付けば体が動いていたのである。
(……いた!あれは、子供?)
水中は透き通っておりゴーグルを付けている事で、遠くまでよく見えた。
(底に何か引っ掛けて溺れてる……訳でもないな。潜水ごっこでもしてて、我慢しすぎたとか?)
クグルは水底に沈みかけている子供を抱え、水面に上がろうとしているようだったが上手くいっていない。子供が激しくもがき、体に力が入りすぎている事が原因で救助を阻害していたのである。
(無理に助けようとしてクグルも溺れたのか……!)
來見は頭の片隅で状況を冷静に分析しながらも、子供に手を伸ばす。パニックに陥っている子供を一人で抱えるのは難しくとも、二人ならば可能だと判断した上での行動だった。
來見の意図をクグルも直ぐに理解したようだった。申し訳なさそうな顔をしながらも子供の腕を掴み、暴れられないようにする。動きが封じられることで更に暴れ出す可能性もあったが、子供は消耗していたようで勢いを失っていった。
(よし。これなら、二人で連れていけるはず。早くしないと……!)
來見は脱力する子供の様子に焦りながらも胴体を強く抱える。瞼を閉ざしていた子供は突如として生じたよりどころに気付いたのだろう。一瞬目を開け來見の姿を認めると、途端に両足で力強く組み付いてきた。
(重っ……!?)
子供の抜けていた力が再び戻る事で、來見は浮かび上がるのに苦戦を強いられる。全身にかけられる体重は水中であるというのに随分と重く、油断すると來見ごと沈んでしまいそうだった。
しかし次の瞬間クグルが先行しながら、子供の腕ごと上に引っ張って泳いでいく。その勢いで子供が來見から離れる事はなかったが、僅かに減った重量は確実に來見の負担を軽くしていた。
(諦めたら駄目だ、助けないと。……その為に来たんだから)
來見は自分の耳にも届きそうなほど、必死に両足へ力を込め水を蹴っていた。近付く光が水面までの距離が縮まっている事を教えているはずなのに、その道のりは随分と遠く感じてしまう。
視界に映る細かな気泡が、肺に押し留めていた空気が止めどなく零れていく事実を知らしめていた。
(でも、あと少し……!)
――パシャ、と突如として何か軽いものが水面を叩く音が水中に響く。無意識のうちに細めていた目で辺りを見回すと、鮮やかな色をしたロープと浮き輪が水面に浮かんでいるのが確認できる。
來見が手を伸ばしても届かない、しかし子供の腕を捕らえ先を泳ぐクグルはロープを掴むことができる。
來見は少しの躊躇いもなく力を振り絞って、子供の体を水面に押し上げる事にした。幸いにも子供は初めの勢いを失くし、されるがままになっている。
(これで、大丈夫なはず……)
來見の呼吸はその実、限界を迎えていた。誤魔化すように残った息を鼻から細く吐き出しながら、クグルと子供が水中から離れていくのを見届ける。
子供を押した時のまま下ろさずにいた腕は、まるで水面に向かって助けを求めている姿に似ていた。來見は二人が助かる事実に安堵しながらゆっくりと沈んでいく。
(俺、上手いか下手かは置いておいて、泳ぐのは結構好きだったなぁ)
脳裏によぎった考えは走馬灯だったのだろうか。意識が薄れているせいか、不思議と恐怖も感じない。來見は眠るように目を閉じ、全身の力を抜いてしまった。
何か大きなものが落下する音が辺りに響いたような気がした。次の瞬間、來見の体は勢いよく引っ張られ、口から新鮮な空気が入ってくるのを感じていた。
「大丈夫か!ゆっくり息を吸って!」
來見は噎せながらも息を大きく吸う。それは決して意識したものではなく、体が必死に生きようとする本能的な行動だったのだろう。
呼吸が落ち着いたところで、漸く自分が誰かに抱えられているのを理解した。來見を助けたその人は何度か目にしていた監視員であり、決して沈む事がないよう力強く支えていた。
「さ、さっきの、二人は……」
「無事だ、それより君も一度水から出よう。自力で上がれそうか?梯子まで連れていこうか」
「大丈夫です……ありがとうございます」
まず最初にクグルと子供の安否を尋ねた來見の言葉に、肩を貸していた監視員は律儀に返事をする。その回答に胸を撫で下ろした來見は監視員の言葉に従い、弾みをつけてプールサイドへ乗り上げることにした。
遠くなっていた耳が元に戻ってくると、周りは何事かとざわついているようだった。異変に気付きつつも遠目に眺めるだけで関与することはなく、泳ぐのを止めたりその場から立ち去る者もいない。
しかしそれは、パニックを起こさずに落ち着いている状態であるとも言えた。大勢の人間が一斉に水から出ることで波が生じる可能性を、結果的に遠ざけていたのである。
「來見!生きてるか」
「……助けが間に合って良かった」
香椎と颯真が駆け寄ってくる様子を見て、來見は一連の流れを理解する。二人は來見の指示した通りに行動し救命用のロープを投げ、あるいは呼びつけた監視員に來見達の救出を頼んだのだろう。
「助かったよ。言った通りにしてくれて、ありがとうな」
「それはいいんだけど……いきなり飛び込むやつがあるか!心臓に悪いっつーの」
「判断が的確で早かったから、子供が助かったとも言えるんだろうが……それでお前が溺れてたら本末転倒だぞ」
來見の意識がはっきりしており言葉を交わせる状態だと分かると、二人は安堵した様子から一転して苦言を呈し始める。
実際に溺れかけた手前、下手に言い返すこともできない來見は曖昧な笑みを浮かべながら、甘んじて忠告を受け続けるのだった。




