1-2 祝 蕗沙
「まだ明るいんだから、付き添いとか大丈夫なのに」
「付き合ってくれた礼でもあるから。鬱陶しかったらごめん」
來見は祝にそろそろ日が落ちてきた為に、危ないからと付き添いを申し出ていた。
それは確かに嘘ではなかったのだが、一瞬たりとも祝から目を離したくなかったというのが來見の本音であった。
「そんなことはないんだけど、もしかして心配性?」
「そうかも。まぁ念のためにな」
祝が嫌がってはいないことに安心しながらも、來見は頭を回転させ始める。その場しのぎではあったが保を守る一手として、さりげなく駅と接続されている高架歩道へ誘導し、横断歩道を渡る回数を減らす事にする。
來見は地面から離れた高所でレンガ通りを見下ろし、考えをまとめていた。
(予定された時間はもう過ぎてるけど、人の流れや景色を見るにこの先で事故が起きた形跡はまだない)
レンガ通りで事故が起こるとしたら、まず考えられるのはいくつか存在する横断歩道に信号無視の車が突っ込んでくる状況であった。もしくはガードレールのある歩道に運転を誤った車体が突っ込んでくるという場合を、來見は予想していた。
どちらにせよ既に事故が起きたのなら、少なからず人集りが出来ているはずである。交通誘導に駆り出されている人間が見えてもおかしくなかったのだが、その気配は皆無と言って良いほどに感じられなかった。
(……じゃあ、メールに書かれていた時間は嘘だったのか?そういえば昨日の衝突事故も、実際にいつ起きたのかはまだ分かってなかった)
(それか嫌な予想をするなら……祝がレンガ通りへ来た時間に事故が起こるようになっている、とか)
そうなってくると、いよいよ自分の手には負えない事象なのではないかと心が折れそうになってくる。來見は拳を握り締め考えに没頭するあまり、眉にしわを寄せていた。
「今から行くお店のケーキ、すっごく美味しいんだよ。今度來見くんも試してみて。疲れが吹っ飛んで元気になると思う!」
暗い思考に囚われそうになっていると、祝の明るい声が耳に入ってくる。階段を下りきり車道側に立つ來見が声の方向へ視線を動かすと、祝は顔を覗き込みにこりと笑っていた。
「……うん、そうする」
(時間が信用できないなら場所もそうかもしれない。何が起きてもせいぜい最後まで足掻いてやるさ)
それはもはや、やけくそになっているに違いなかった。それでも祝の命を諦めるよりもずっとマシだと、來見は祝の笑顔を見て自分を奮い立たせていくのであった。
警戒しながらレンガ通りに足を踏み入れ歩みを進めていったが、目的の洋菓子店に入っても特に変わったことは起こらずにいた。
祝はショーケースの前に立ち、好みのケーキを物色している姿が見える。
(もしここで車がガードレールをぶち抜いて外から店内にいる祝を轢いたとしたら、場所はレンガ通りじゃなく店舗の名前になりそうだよな)
それとも未来の癖に詳細が判明していなかったのだろうか。未来から過去を変えようとしている割には、あまりにも杜撰すぎるメールである。
(俺が余計なことをしたせいで、辻褄が合わなくなったのか?)
來見は店内から交通量の増えてきた車道を監視しながら、打つ手を考えていく。しかし交通事故という突発的なものを防ごうと思っても、出来ることは限られているように思えた。
(運転手が意識を失っていたら、通報したところで止めようがないよな。俺達自身が気を付けて巻き込まれないようにするしかない)
そして、いざとなったら自分が盾になるしかない。
死ぬ覚悟が出来るはずもない來見は、その考えを打ち消すように首を振り視線を落とす。
(とんでもない大仕事を押し付けられたな……)
來見は未来を教えてくれたメールを恨めしく思いながら、壁際から背を離す。
ケーキを購入し終えた祝の姿を認めた來見は、慎重に辺りに注意を払いながら守るべき人の側に控えるのだった。
「祝、危ないから歩くなら歩道側な」
「祝、危ないから信号変わった後も少し待ってから、横断歩道を渡ろうな」
「祝、危ないから角で待たないで、一歩引こうな」
急に口うるさく注意し始めた來見に、祝は狼狽えながらも大人しく従っていく。その甲斐あってか、レンガ通りを抜けたところで二人の体には傷一つ付いてはいなかった。
再び高架歩道へ戻るために上りの階段へ足をかけると、來見はようやく一息つくことができたのだった。
「自分で指示しておいてなんだけど、全然文句言わないんだな」
そう言うと、來見の数歩先に階段を登っていた祝が体ごと振り返る。その動きに合わせて両手で持った靴やケーキの入った袋を揺らしながら、祝は口を開いた。
「私だってやりたくないことはやらないけど……何か過保護なお父さんみたいで面白かったから」
「……後ろ向きで登るのは危ないから、前向こうな」
クスクス笑う祝に恥ずかしさを覚えながらも、來見は再び注意をする。來見はもうすっかり仕事を終えた気分になり、限界まで高めた警戒心を緩めてしまっていた。
――ガツン、と音が聞こえた気がする。
地面が揺れて体勢を崩しかける。目の前の祝が來見に向かって落下してくる姿が、不思議とスローモーションのように見えていた。
次の瞬間、二人はしゃがみこんでいた。來見が咄嗟に片手で手すりを掴み、もう片方の腕で祝を抱き留めることに成功していたのである。
「びっくりした……ありがとう來見くん」
「大丈夫……だけど、一体何が」
初めは地震かと思ったがどうやら違っているようだった。人々のざわめきが地上の方から聞こえてくる。
祝に手を貸しながら二人で下方向を見ると、大型のトラックが階段へ側面を擦り付けるように突っ込み、停車しているのが見える。
地上部分の階段、特に車道側は衝撃で三分の一ほどが吹っ飛んでいた。その光景を見れば、もし二人があの場にいたとしたら一溜りもなかったであろうことが嫌でも分かってしまう。
「ど、どうしよう……上っちゃった方が良いのかな」
階段が崩落することを怖がったのだろう、顔を青ざめさせて言う祝に來見は即座に頷いた。
「うん、走れるか?急いで上ろう」
來見は祝が携えていた荷物を持つと、祝の手を引いて慌ただしく階段を駆け上がっていく。強く握り返された手に胸を高鳴らせるような余裕もなく、來見は必死に足を動かすことしかできなかったのだった。
祝の心配は杞憂に終わり、階段は崩れることもなく二人は無事に高架歩道まで避難することができた。
階段を上り終えると來見は再び事故現場を見下ろす。トラックには白砂運輸というロゴと、火山のようなシンボルマークが描かれていた。残念ながらそれは來見には馴染みのない運送会社であった。
(トラックの後ろからも何台か車が突っ込んでる、そのせいで余計に階段に食い込んでるな。ブレーキをかけるのが間に合わなかったんだ)
車間距離をきちんと保持していたとしても、何の前触れもなく前方の車が停車したと思えば、仕方のないことではあった。
炎上が起きていないだけ、まだ良い状況なのかもしれない。
(もし、俺が祝といなかったらどうなっていたんだろう)
確か、あのメールにはこうも書かれていた。
「祝 蕗沙を一人にしてはいけない。」
來見がいなかったら、祝は踏ん張りがきかずに落下していたのかもしれない。両手は靴やケーキの袋で塞がっていて、恐らく手すりを掴むこともできなかった。
背中から落下した祝は、階段に突っ込んだトラックの前に体をさらすことになる。すると後方からぶつかってきた車がトラックを物理的に押し進め、祝はその下敷きに。そうして体が引き摺られた先はレンガ通りに違いなくて――。
(確かに言葉にすれば交通事故かもしれないけど、他にも言うべきことがあっただろ!何とかなったから良かったけど!)
あまりにも言葉の足らないメールに憤りを覚えながらも、その一方で祝が助かったことに來見はひどく安心していた。
冷静さを取り戻し、周りが見えるようになると途端に手の平の中にある温もりが存在を主張してくるのを感じてしまう。來見は慌てて繋いでいた手を離すと、途端に照れくさくなり思わず謝ってしまった。
「ご、ごめん。いきなり手握ったりして」
「……ううん、大丈夫。それよりびっくりしたね……來見くんは、怪我とかない?平気?」
祝は來見と同じように呆然として事故現場を見つめていたが、きちんと言葉を返してくる。不安を感じてはいるものの、気を取り直すことができているようだった。
「俺は平気だ、保は?」
「私も大丈夫!……でも、もう帰りたいかも。疲れちゃった」
「無理もないよ。見てて気持ちの良いものでもないし、早く帰ろう。……バス停まで送るよ」
もしかしたら事故の目撃者として、説明しなければならないことがあったのかもしれない。それでもストレスを抱えた祝を付き合わせたくはなかったし、來見自身もそんな元気は残っていなかった。
(目撃者自体は他にたくさんいる。それにもう救急車も呼んでるみたいだから、他の大人に任せても良いよな)
來見は自分の高校生という肩書きを大いに利用するつもりで祝を引き連れ、そそくさとその場を後にする。世間的には未だ子供なのだから多少の身勝手は許されるだろうと、個人的な感情を優先したのであった。
「それじゃあ、気を付けて」
「うん、また学校でね!」
來見は今度は改札ではなく、バス停まで付いていった上で別れの挨拶を再び行っていた。今度こそ祝がバスに乗り込むのをその目で確認し、安心感に包まれる。
窓越しにひらひらと手を振る祝へ來見も同じ様に返しながら、ようやく困難を乗り越えたのだという達成感を噛み締めるのだった。
「俺はあなたを助けられましたか?」
自宅のベッドに寝そべりメールを打つと、未来人へ送信する。どれだけ待っても送られて来ない返信に、とうとう來見は諦め携帯を枕元へ放り投げた。
「まぁ、いいか。祝のこと助けられたんだし」
きっと自分の役目は終わったのだろう。そう考えた來見はゆっくりと目を閉じる。何も考えないで眠りにつけるのは久しぶりだなという感想を抱いていると、あっという間に意識を手放していたのだった。
週明け、來見が学校へ登校すると昇降口で偶然、祝と鉢合わせていた。
「あっ、おはよう來見くん!」
「おはよう。……この間の、あの後大丈夫だったか?」
すっかり元気そうな様子とは言え、多大な恐怖を感じたに違いない。なるべく刺激しないように言葉を選びながら尋ねると、祝は首を縦に振って返事をしてくれる。
「うん!來見くんが助けてくれたからね。本当にありがとう」
「……そっか。それなら良いんだけど」
こうも直球で返されると、謙遜するのは逆に嫌味になるだろう。來見は表情を緩め、祝の言葉を素直に受け入れていた。
「運転手さん、過労で意識失っちゃったんだってね。怪我はしたみたいだけど、亡くなった人がいなくて本当に良かった」
「ああ。また同じことが起きないようにしてくれると良いな」
外履きであるローファーから学校指定の青色のサンダルへ履き替えた二人は、歩きながら事故の顛末を話していた。
どこかしんみりとした空気になったのを察したのか、祝は明るい口調で別の話題へと変えようとする。
「ねぇねぇ、プレゼントの評判どうだった?來見くんのお母さん、喜んでくれたかな」
「うん。珍しいって驚いてたけど、喜んでた」
良かった、と微笑む祝を見ながら、來見は先日の母親の様子を思い出す。母親はプレゼントを喜ぶ一方で、妙に來見に詰め寄ってきていた。
絶対に一人で選んでない、誰かに協力してもらったでしょ。吐きなさい、女の子でしょう、と捲し立てる母親と口を割らない來見との攻防があったのだが、それは祝には言わないでおくことにした。
ぽつぽつと話しながら教室まで来ると、祝はそのまま室内へ入っていく。來見は貴重品をしまう為、廊下に設置されたロッカーへと足を向けたので、自然とバラバラに別れて入室する状況になっていた。
自分の席へスクールバックを置くと、先に登校して別の友人と話していた香椎がニヤつきながら近付いてくる。
「奥手に見えて、本命には手が早いタイプだったんだなぁ。武勇伝聞かせてくれよ」
「……ちょっと相談に乗ってもらっただけだから、そんなんじゃないって」
言葉ではそう言いつつも、來見は先日より強く否定ができなくなっていた。それもそのはず、ハプニングはあったが二人きりで出掛けておいて、今更意識しないというのは無理があったのである。
「言いふらしたりしねぇって!な!手とか繋いじゃったか!」
小声で叫んでいるように声を発する、妙に器用な香椎をいなしながら、來見は小走りで教室を出ていく。
「一限目、体育だろ。早く隣のクラス行こうぜ」
体育は2クラス合同で行われるので、着替える場所がそれぞれの教室で男女に割り振られていた。一時的に來見達の教室が女子専用になり、隣のクラスが男子専用の更衣室となるのである。
このまま自分の教室に居着いていると女子から鋭い視線を浴びせられることに気付いたのか、香椎は慌てて追いかけてくる。
「絶対聞き出してやるからな!」
「絶対言わねぇ!」
遂に声を張り上げ始めた香椎と來見に、周りの生徒は何事かと視線を向ける。來見は気付かなかったがその中に混ざっていた祝は小さく笑い声を上げ、二人を見守っていたのだった。
ロッカーにしまわれた來見の携帯電話が、わずかに震えメールを受信する。本来折り畳まれているはずの携帯は、放り入れられた衝撃せいかうっすらと開いてしまっていた。
「ありがとう。」
自動で画面に表示された文面にはそう記されており、確かに來見の成功を認めていたのだった。
2022年。都内のビル群の一つ、その最上階で男は佇んでいた。
手にしていたのは、この時代では旧式扱いされるであろう、古い機種の折り畳み式の携帯電話であった。本体は色褪せ、ストラップホールからは古ぼけた鈴が吊り下げられている。
今しがた送ったばかりの、ありがとうと一言書かれたメールを見返し、過去の送信済みメールのフォルダを確認する。
「俺はあなたを助けられましたか?」
紛れもなく存在するそのメールを確認すると、男は静かに携帯を閉じた。
仕立ての良いスーツに身を包んだその男は、限られた者しか踏み入れることのできないラボへ、ゆっくりと歩を進める。
ロックを解錠し入った部屋の中には、床や天井などあらゆる場所に電気や光を通す為のケーブルが張り巡らされていた。
男はよく磨かれた革靴の音を響かせながら、更に部屋の奥へ歩いていく。おびただしい数のケーブルが接続された基盤に上下を挟まれた、巨大なガラスの筒が鎮座しているのが男の視界に映った。
どこかレトロな雰囲気を感じさせる、その機械のようなものに手を滑らせると、男は満足げに笑みをこぼした。
「これで良い、これが良い。……そうだろう?」
男は静かにアンダーリムの眼鏡を押し上げる。誰に向けたわけでもないその言葉は、静かに泡のように消えていくだけであった。