3.望乃ちゃんは理解できない
「似鳥望乃さん」
「……はい」
「あなたのことが、好きです」
わたしの目をまっすぐに見つめ、いつもよりずっと真剣な顔で、大倉先輩は言った。
「よかったら、俺と付き合ってほしい」
わたしは目の前の男性が――職場の優しい先輩であったはずの人が、今さっきまで普通に楽しく食事をしていただけだった人が、一体何を言っているのか。
その意味を理解することができず、何も答えることができなかった。
大倉先輩には、わたしが今の職場に入社した時からお世話になっている。
新人で右も左も分からなかったわたしの教育係になってくれて、優しく、時に厳しく、指導してくれた。仕事にも、この環境にも、すっかり慣れた今となっては、時折一緒に食事に行ったりするなど、プライベートでも少しだけ付き合いがあったりする。
……そう。わたしにとって大倉先輩は、そんな人だった。
それだけの人でしか、なかった。
好きとか付き合うとか、言葉としての意味は知っている。
ただ、わたしはどうしたって欠陥だから。
恋人としての付き合いと、家族や友人としての付き合いと、何か違うところがあるのかどうか。その差がどうしても分からなかったし、理解できなかった。
長い間、何度も考えた。色んな人に聞きながら、わたしなりに真剣に考えた。
それでも、わたしには分からなかった。
例えば、わたしの片割れの一人である希乃は言う。
「その人と、セックスできるかどうかじゃない?」
それが何となく違うんだろうなということは、わたしにも分かる。
だってわたし、普通に男友達とセックスするし。
わたしにとって男友達というのは――もちろん多少例外はあるにせよ――たいていの場合、セックス込みで友達という認識だった。
ちなみにそういう関係の男友達は、定期的に遊ぶ人だけで言うとだいたい五人くらいいる。まぁ、男友達ってだけなら多くもなく少なくもなく。それなりという感じ。
複数人とそういう関係になっているという、その部分だけ切り取ると希乃に似ていると言われてしまうかもしれないが、希乃はわたしと違って、どっちかというとワンナイトが多い。それ故に、希乃とそういう関係になった人間は、不特定多数に上る。わたしは、いてもトータルでせいぜい十人いるかいないかくらいだ。
さすがに浮気三昧で本命彼氏がいるのに裏切りを繰り返すような女にはなるまい……と、幼い頃から希乃を間近で見ていたわたしは固く誓っている。
まぁそもそもその前に、上手く恋愛ができていないんだから、わたしの場合最初から裏切りも何もないのだけれど。
もう一人の片割れである、夢乃は言う。
「その人が欲しいって、強く思うかどうかだよ」
希乃の意見よりは的を射ている気がするのだが、やはりわたしには理解できない。
何せ幼い頃から物欲すらまともになくて、いつも希乃と夢乃の諍いを傍からぼんやり見つめているような子供だった。すぐに他人の物を欲しがる夢乃に、自分の物をあげたりもしていたっけ。
そんなわたしが、他人に対してそんな欲求を抱くことなんてあるわけないのだし、欲しいとそんなに強く焦がれる気持ちも分からなかった。
――自分の物に対してさした執着もない。根本は違えど、そういうところもわたしはどっちかというと希乃に似ているのかもしれない。あんまり認めたくはないのだが。
正直、そんな人間に付き合わせてしまうのは申し訳ないと思う。
それに、シンプルにわたしにその気持ちがない。
早いところ適当な理由を付けて断ってしまいたかったのだが、大倉先輩は申し訳なさそうに口を開こうとするわたしを慌てて様子で遮って、
「急に、こんなこと言ってごめんね。……また今度、ちゃんとした時に改めて言わせてほしい」
そう言って、さっさと帰ってしまった。
「――総務部の伊吹くん、飛んだって」
翌週。
いつも通り会社に行くと、社内は騒々しくそんな噂話にも似た話題で持ちきりだった。
隣の席に座っていた、後輩である中村くんにこっそり聞くと、今月から他部署に異動になった元同僚の伊吹くんが、昨日付で急に辞めたらしい。そういえば扁桃炎で一週間くらい休んでいたっけ。きっとそのまま無断欠勤に持ち込んだか、電話一本で連絡を絶ったとか、そんなところか。
あぁ……と変に納得してしまう。
みんなが言っている『飛んだ』というのはつまり、そういうことだ。
「総務部も人減って、だいぶしんどくなるでしょうね」
「まぁ、そもそもポカやって営業から飛ばされてるわけだから、自業自得っちゃ自業自得よね」
それにしても……と口をついて出かけたのを、慌てて噤む。しかし時すでに遅し、気づいた中村くんが、ニヤリと笑った。
「望乃さん、前から伊吹さんのこと狙ってましたもんね」
「狙ってるなんて人聞きの悪い」
もちろん恋愛的な意味ではない。
伊吹くんとは同僚でそれなりに仲が良かったので、どうせ飛ばれるのならその前に関係を持っておきたかったな……という、ただそれだけだ。
ちなみにわたしは別に、男友達だからと言って誰とでもセックスするわけじゃない。生理的に受け付けるかどうかとか、そういう意味で選り好みは多少なりともある。伊吹くんは結構わたし好みの見た目をしていたし、そういう関係になっても特段拗れたりすることもないだろうと思ったのだ。
「誘ったらエッチしてくれそうだったのにな」
「ちょっと勿体なかったっすか」
「まぁねぇ」
ちなみにこんな話に付き合ってくれている中村くんとも、もちろんそういう関係である。
彼は少しばかり細身だが、可愛らしい見た目をしているし身体のパーツも綺麗なのだ。当分彼女はいらないとも言っていたし、手頃に遊ぶにはちょうどいい。趣味も合うからちょくちょく二人で飲みに行ったりもしているし、ぶっちゃけ仕事仲間内では一番楽な関係だったりする。
……じゃあ、大倉先輩はどうなのかって?
あの人はわたしのことを好きだという、その時点でもう分かっている。彼氏彼女とかいう、わたしにとっては未知数で、重たい関係を求めているのだ。そんな軽々しい関係になれるわけがない。
あと、身体つきが何というか……その、ちょっとばかりふくよかなので。あんまりそういった人は好みのタイプじゃなかったりする、というわたし自身の我が儘な理由もあったりする。
「あ、ねぇ。今日仕事の後空いてる? 聞いて欲しいことがあるんだけど」
「いいっすよぉ。いつも通り、飲みながら話しましょ。何かあったんすか?」
「ちょっと、厄介なことになってね……」
あぁでもないこうでもない、とひそひそ二人で話していると、業務時間の始まりを告げながら部長が今日も背筋正しく入ってくる。
「詳しくは夜話すわ」
「了解っす」
さっと無駄話を切り上げ、中村くんと揃って仕事モードに脳内をチェンジすることにした。
とりあえず、ほとぼりが冷めたら伊吹くんに連絡してみよう……と、心に決めながら。
「似鳥さん」
喫煙所に向かって歩いていると、大倉先輩に呼び止められた。
先週以来会ってなかったので、気まずくなって振り向くと、穏やかに笑った大倉先輩がわたしを愛おしそうに見つめている。
……ぞくりと、感じたことのない寒気がした。
「今日の夜、時間ある?」
「あ、えっと……今夜は、先約があって」
先約があるのは、嘘ではない。
何なら今日はこの話を、中村くんに聞いてもらう予定だったのだ。先に潰されてしまっては元も子もないので、できるだけ申し訳なさそうな顔を作って断る。
「あ……そっか」
だったらまた今度、と少し残念そうに笑う。
どうしてこんな顔ができるのだろう、と他人事のように思った。わたしの言動に、十近くも年上の男性が、わたしを好きって気持ちだけで、馬鹿みたいに一喜一憂して。
そう考えると、なんだか気持ち悪く思えてしまって。
……一瞬でも、そう思ってしまった自分に、吐き気がした。
去っていく大きな背中に、問いかける。
――どうして、わたしなんかを好きだと言ってくれるのですか?
わたしのどこが好きなんですか。あなたの目には、わたしの姿ってどう映っているんですか。
わたしのどういうところが長所で、逆にどういうところが短所で。どこまで、わたしのことをちゃんと知ってくれているんですか?
わたしはあなたが持つ恋愛感情なんて少しもわからないし、理解できない。あまつさえ、彼氏でもない人と簡単にセックスするような女です。
こんな穢れたわたしの一面なんて、知らないでしょう?
ねぇ。わたしが、三つ子だということは知っていますか?
希乃と、夢乃と、そして望乃。
わたし達三人が全く同じ格好で、同じ表情をして全員並んだ時に、あなたはわたしを――望乃を、正確に見つけることができますか?
何なら、同じ顔をしているのだから、その上位互換である希乃や夢乃の方に、あなたは心奪われてしまうのではないですか?
……望乃である意味って、なんですか?
――ぐらり、と視界が揺れる。
口元を押さえたままその場にうずくまったわたしに、なかなか戻ってこないからと探しに来てくれた中村くんが、慌てた様子で近寄ってきた。
「大丈夫ですか、望乃さん」
「……っ」
ごめんなさい、ごめんなさい。
欠陥品で、ごめんなさい。
恋愛感情が分からない。気持ち悪いとすら、思う。
それが、こんなにも枷になる日が来るなんて、考えてもみなかった。