1.希乃ちゃんは浮気性
ぼくの彼女は、浮気性だ。
似鳥希乃とは、大学で知り合った。
愛嬌があり誰とでも分け隔てなく接する、無邪気で裏表のない彼女に惹かれ、ぼくの方から告白して付き合うようになった。ぼくにとって、初めての彼女だった。
今思えば、当時のぼくは相当舞い上がっていたのだろう。
だって、どちらかというと垢抜けないタイプのぼくだったから、まさか希乃が告白を受け入れてくれるだなんて思わなかったのだ。今思えばちっぽけなことだったって、冷静に考えればすぐに理解できることだったのだけれど。
希乃がぼくの想いを受け入れ、ぼくを恋人と呼んで接してくれる――そんな些細なことすら、当時のぼくにとっては奇跡だった。
付き合ってから最初に、希乃の浮気が分かった時。
希乃はひどく申し訳なさそうに眉を下げて「ごめんね」と何度もぼくに謝ってきた。まぁ、恋人に浮気がバレたとなったら――必死な様子で、かどうかはその人の性格によるのかもしれないが――当然、たいていの人がそうするだろう。希乃も例外には漏れなかった。
けれど、そういえばその頃から希乃は「別れたくない」だとか「嫌いにならないで」だとか、そういった許しを請うようなことは一度も言わなかった。
むしろ……。
「わたしのこと許せない? ……別れる?」
こてんと申し訳なさそうに首を傾げて、困ったように微笑みながら。
希乃の方からそう切り出されて、彼女を失うことを恐れ拒んだのはぼくの方だった。
それから二年が経ち、お互いに業種は全く違うものの、就職も決まって。ぼくたちの交際は順調で、いつしか一緒に暮らすようにさえなっていた。お互いの家族にも紹介し、ぼくの方は結婚すら意識しているほどで。
表向きは非常に、上手くいっていた。
――そう、表向きは、だ。
交際を受け入れてくれたのだから、希乃はちゃんとぼくのことを好きでいてくれてると。いつかはこんな馬鹿げたことはやめて、ぼくのことだけを見てくれるようになる、とどこか楽観視していたのは認める。現実を受け入れることを、ぼくは無意識に拒んでいたのだろう。
そんなぼくの願いも空しく、どれだけ経っても希乃の浮気癖は治らなかった。この二年で、希乃に何度同じことを繰り返され、同じ問答をしたか分からない。
何なら一度バレたことで、箍を外してしまったのだろう。希乃はもはやぼくに隠すことなく堂々と朝帰りを決め込むわ、ひどい時にはぼくがいない間に、ぼくたち二人の部屋に浮気相手を連れ込んだりすらするようになった。
一度、予定より早く帰った時に、浮気相手とベッドで致している真っ最中の希乃と鉢合わせたことがある。
マジか、本当にこんなドラマみたいな展開あるんだ……と、部屋のドアを開けた途端目の前に広がっていた光景に、逆に冷静になったことを覚えている。
希乃がどこかおかしい感覚を持っていることに、この時にはとっくに気が付いていて。
ぼくが見ている前で慌てたり、ぼくに弁解しようとしたりすることもなく。立ち尽くすぼくをちらりと一瞥した後、さすがに戸惑った様子の浮気相手を平然と引き寄せ、堂々と行為を再開した時には、こいつマジか……と逆に呆れてしまい、深いため息とともに大人しく部屋を後にするしかなかったのだった。
ぼくが責めると、いつの間にかぼくを見下すような目で、冷ややかに笑うようになった希乃は、
「じゃあ別れる?」
と何事もなく、平然とした顔で聞くのだ。
余裕の表情、と他の人たちなら取るだろうか。
希乃が、ぼくなら何をしても許してくれると。自分がどれだけひどいことをしても、ぼくが希乃と別れることはないと踏んでいる――そう、思うのだろう。
現に周りからは「早く別れちゃえって、そんな奴」とか、「すっぱり捨ててやって、向こうに絶望を味わわせてやれよ」とか、自分のことのように憤慨した様子で言われる。そうすることがきっと、誰の目から見ても正しいのだろう。
ぼくだって、そうできるのならそうしたかった。
希乃への復讐として、罵詈雑言とともにこっぴどく捨ててやって。希乃のその澄ました顔を、絶望で染めてやりたい――そんな意地の悪い願望が、ないと言うと嘘になる。
けど、そうしないのは。
そんなことは不可能だと、所詮そんなのは机上の空論だと、知っているからだ。
希乃が、ぼくなら何をしても許してくれると、別れる気がないと踏んでいる。それはおそらく事実だろう。だからといって希乃はぼくに執着しているわけじゃないし、特別ぼくと別れたがっているというわけでもない。
希乃は本当に、どっちでもいいのだ。
ぼくがこれからもずっと、希乃と一緒にいることを選んでも。浮気癖の治らない希乃にいつか見切りをつけて、別れを選んだとしても。逆にぼくが最悪のタイミングで浮気して、希乃をこっぴどく捨てたとしても――いや、神に誓ってそんなことはしないが、仮にそんなことがあったとしても。
希乃は平然と、ぼくの選択を受け入れる。
ぼくが縛り付ければ、傍にいてくれるし。ぼくが手放せば、そっと離れていく。
希乃自身に、ぼくへの執着は特段ないのだ。
『あいつの童貞奪った、罪滅ぼしだよ。ただ、それだけ』
ぼくと別れることなく一緒にいる理由を聞かれた希乃は、そう答えたという。
「病気だよ。希乃も、あんたも」
目の前で平然とお茶を飲む、希乃――ではなく、希乃と同じ顔をした夢乃が言う。
病気だ、とは別の子にも言われた。
ぼくに希乃がいることを知っていて告白してきた、希乃とはまた違った印象の、ゆるふわヘアーの可愛らしい女の子。大学の後輩で、後にぼくと同じ会社に就職することになった子だ。
『何でまだ、希乃先輩なんかと付き合ってるんですか?』
嫌味でも何でもなく、ただの純粋な疑問といった感じでその子から問われ――希乃のことを『なんか』と言われたことには腹立たしく思ったものの――驚いたことに、ぼくは即答ができなかった。
『別れちゃえばいいのに』
それで、わたしに振り向いてくれればいい。
――当然の、心理だろう。
けれどぼくがその提案を受け入れることはなかった。その子のことは可愛いと思うけれど、それだけだ。
『どれだけ縋ったって、希乃先輩はあなただけを見てくれやしないのに』
ぼくが希乃に感じている、愛とも憎しみともつかない、これほどまでに強い感情は抱かなかった。
『いつかは飽きられて、希乃先輩の方から手放されてしまうかもしれないのに』
心なんて、一ミリも動かなかった。
『それでも、ぼくは決めているから』
希乃とずっと一緒にいるんだ、と告げたぼくに、その子は心底軽蔑した目で言い捨てたのだ。
『病気ですね、あなたは』
「希乃は昔からあんな感じだからね。処女喪失が早かったみたいだから、どっかで壊れちゃったんじゃないかな」
夢乃いわく、希乃は中学校に上がる前に、既に処女をなくしているらしい。
昔、希乃たちの近所に住んでいた大学生くらいのお兄さんが、希乃に対してそういう悪戯を常習的に繰り返していたという。それが今の希乃にとっての基盤なのではないか、と夢乃は言った。
「なんていうんだろ……希乃にとって、セックスって遊びの一環なのよ」
だから希乃は、悪びれないわけじゃなくて、本当に悪気がない。自分がしていることを悪いことだと本気で思っていないのだ。
「だって、仲のいい男友達と普通に遊んでるだけなんだから」
「……」
「けどわたしは、あんたも大概だと思うけどね」
ちらりと、夢乃がぼくを見る。
「何回も裏切られて、希乃にやめてほしいって何度請うても、聞く耳すら持ってもらえなくて。いっそ何を言っても、無駄だって分かってるはずなのに」
それでも希乃を許して、ずっと一緒にいるなんて、病気としか思えない。
「希乃は、あんたといる理由を罪滅ぼしだって言ったけどさ」
実際、あんたのそういうところを利用されてるのかもね?
「浮気癖のせいで、これまでの彼氏とは誰とも長続きしなかったみたいだし」
お似合いだよ、と希乃と同じ顔に悪戯な笑みを浮かべ、夢乃は満面に笑った。
「わたしと希乃を一瞬で見分けられるとこも、ポイントだね」
「何言ってんの。希乃と夢乃ちゃんはどう見たって全然違うだろ」
「それが世間一般的にはそうじゃないからなぁ」
ふふふ、と希乃より上品に、夢乃は笑う。
やっぱり彼女は――どれだけ希乃と同じ血を分けていても、どれだけ同じような見た目をしていたとしても――ぼくの大好きな希乃とは全然違うのだった。
ぼくが希乃と一緒にいる限り、ぼくが希乃を手放さない限り。希乃はずっと、ぼくの傍にいてくれる。
ならばぼくは、ぼくからは、絶対に希乃を手放さない。
たとえこれからも、息を吸うように浮気を繰り返されたとしても。不毛だとか哀れだとか、病気だとか、周りからいくら笑われ揶揄われようとも。
ぼくからは決して、希乃を手放すことなどできないのだ。
――はいはい、惚気乙。
「じゃあ、せいぜい頑張ってね」
ひとしきり話した後、夢乃はデートだからと言ってぼくの前から去っていく。
彼女も彼女で、希乃とまた違った厄介な『癖』があるのだが……まぁ、その話はまた今度。
今日はぼくと、希乃のお話だから。
ポケットに忍ばせた指輪を、そっと握りしめ。
ぼくは次に、もうすぐこの場所で待ち合わせしている浮気性の――今日もきっと、ぼく以外の匂いを纏わせてやって来るのであろう、愛しい恋人を待つのであった。