表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死神 凛  作者: 真桑瓜
7/17

夢の精霊



夢の精霊




                    1




『二、三日留守にする』

熊さんにそう言い残して道場を出た。

椿山の麓でバスを降り、ゆっくりと時間をかけて弥勒寺の山門の下に辿り着く。

平助は本堂の前で手を合わせ、庫裡に回って玄関から声をかけた。

「ごめん、住職はおられるか?」

奥で人の動く気配がして、よっちゃんの元気な声が聞こえて来た。

「は〜い、その声は無門先生でしょ、ちょっと待ってて下さいね」

暫く待つと、エプロンで手を拭きながらよっちゃんが出て来た。

よっちゃんは寺のお手伝い、もうすぐ三十路に掛かろうという女性だ。

「先生ごめんなさい、ちょっと糠床を混ぜていたものですから」

「構わんよ、しばらく世話になるでな」

「はい、住職から聞いています。また面白い話聞かせて下さいね」よっちゃんは先に立って平助を奥へと誘った。

「そこのソファーで待ってて下さい。住職も間も無く戻ると思います」縁側に置いてあるソファーを指してよっちゃんが言った。

平助はソファーに座って、よっちゃんが淹れてくれた緑茶を飲みながら、空を眺めたり、鳥の声を聴いたりして時間をやり過ごしている。

近頃、歳の所為か世俗の事がなんとなく煩わしい。たまには俗世を離れて寺でゆっくりするのもいいな。そう思い立ってここまで足を延ばしたのであった。

暫く外を眺めていると、本堂の方から住職の慈栄が歩いて来るのが見えた。

「只今戻りました」玄関で声がして足音がこちらに近づいて来る。

「平助さんいらっしゃい。今夜の般若湯仕入れて来ましたよ」慈栄が手に持った徳利をあげて見せた。

「すまんな、突然」平助が軽く頭を下げる。

「あら、突然じゃなかった事なんてありましたっけ?」

「いや、面目ない」そう言って平助が頭を掻いた。

「そう恐縮されては困ります」そう言って慈栄はコロコロと笑った。

平助は改めて慈栄に頼んだ。「今夜は炭焼き小屋をお借りしたいのじゃが?」

「良うございますよ、囲炉裏でお燗をつけましょう。平助さんは熱燗でしたね?」

「うむ、覚えておったか」

「忘れはしませんよ」

「嬉しいのぅ・・・」



陽が落ちると、闇と寒気が同時に降りて来た。

平助は風呂に入り、さっぱりしたところで炭焼き小屋へ行き囲炉裏に火を入れた。

暫く炭の火を見つめていると小屋の戸が開いて四十がらみの尼僧が入って来た。副住職の慈恵が右手に食材の入ったザルを抱え、左手に徳利をぶら下げている。

「先生、遅くなりました〜。今夜の呑みっくら、負けませんよぅ!」

「おお、軍曹か。暫く振りじゃのう、元気にしておったか?」平助は慈恵を軍曹と呼ぶ。男勝りの性格を揶揄っての事だ。

「はいお陰様で、先生は?」

「見ての通りじゃ」

そこへ住職の慈栄とよっちゃんが料理を持って現れた。

「さ、平助さん。面白いお話聞かせてくださいな・・・」




                    2




翌朝、平助は寺の番犬タロウを連れて散歩に出た。

炭焼き小屋の裏手から山に入り、沢を越えたあたりでタロウの引き綱を外す。

「さあ、自由にせよ。ただし晩飯までには寺に戻るのじゃぞ」平助はタロウにそう言った。

タロウは暫く平助の後をついて来たが、いつの間にか姿が見えなくなっていた。

「犬と子供は放し飼いの方が良い」平助は小さく呟いた。

暫く登ると、杉の大木の下に小さくて汚い祠が現れた。

「はて、こんなところに祠なぞあったかな?」

観音開きの扉が、今にも壊れて外れそうだ。

祠に手を合せ先に進むと薄暗い森に続いている。森の入り口に赤い鳥居が立っているのが見えた。

平助が訝りながら鳥居を潜ると、遠くから懐かしい笛と太鼓の音が聞こえて来た。

鳥居を潜った所で、平助の姿が子供に戻った事に気付かない。

「お神楽だ!」

慌てて駆け出そうとした時、突然背後から声がした。

「坊!」

「わっ!」平助は跳び上がるほどびっくりした。

「平坊、こっちだ・・・」

平助が声のする方を振り返ると、鳥居の下に見覚えのある顔が立っていた。

「才市さん!」

村に一人だけいる按摩の才市さんは、見えない目を瞬きながら平助の方に顔を向けた。

「やっぱり平坊だ、足音で分かったよ」

才市さんは、ヨレヨレの白い着物を着て杖をついている。もう随分と歳だから足元が覚束ない。

「坊、お前の爺ちゃんが拝殿で神楽を舞っているぞ」

「才市さん、見えるの?」

「座頭に見える筈はなかろう。だが床を踏む音で分かる。お前の爺ちゃんの足音は特別じゃからな」

「どこが特別なんだい?」

「ふむ、猫のように軽やかで象のように力強い。喩えて言うなら虎のような足音じゃ」

「分からないよ?そんなの」

「分からんで良い。さ、早く行け爺さんが待ってるぞ」

「うん!」

境内に入ると篝火が赤々と燃えていた。

見知った顔がたくさんあった。皆、拝殿に見入っている。

拝殿には注連縄が張り巡らされており、結界の中できらびやかな衣装を着た鬼が、激しい動作で舞っていた。

「じっちゃん!」平助は鬼を呼んだ。

鬼は平助を認めて一瞬頷いたが、すぐに顔を上げて正面を見据え、再び舞い始めた。

じっちゃんは神楽舞の名手だ。平助はいつ果てるともわからぬ舞を、いつまでも飽きずに眺めていた。



翌朝早く、平助はじっちゃんに起こされた。

「合戦原の町まで古着を仕入れに行くからついて来い」

農閑期、じっちゃんは古着を仕入れて村の人に売っていた。

農耕馬のアオを引いて行き、帰りにアオの背にたくさんの古着を積んで帰るのだ。

アオは、鬣が長く脚の太い黒毛の馬だった。アオは力が強く、働き者で目がとても優しい。

「行きは空背じゃ、乗って行け」じっちゃんは平助を抱えてアオの背に乗せてくれた。

平助は、アオの背から眺める景色が大好きだ。なんだか偉くなった気分になれる。

途中でばっちゃんの作ってくれた弁当を食べ、昼過ぎには街に着いた。


町に着くとじっちゃんは、家々を回って古着を買い集めた。

アオの背が古着でいっぱいになった頃、じっちゃんが言った。

「平助、じっちゃんはちょっと用事があるで、アオを引いて村まで帰っててくれないか。平助も、もう大きゅうなったで、大丈夫じゃな?」

「うん、アオと一緒なら大丈夫!」

「途中までは一本道なので迷う心配は無い。地蔵の追分は右に行くのじゃぞ」

「わかった」平助は、アオを引いて山道を歩きだした。

だが、子供の脚では思うように道は捗らない。暫く行くととっぷりと日が暮れてきた。

地蔵堂の前の追分に着いた時、前方の茂みに狼が現れた。平助は背筋が寒くなった。

だが、アオは平然と歩いている。

そう言えば、いつかじっちゃんから聞いた事がある。「狼に出会ったらゆっくりと歩け。狼は自分の縄張りを出るまで見送ってくれているだけじゃから」

平助はできるだけ平静を装い、ゆっくりと歩いた。狼は付かず離れず平助の後を着いて来た。

村の手前にある一本松まで来ると、いつの間にか狼の姿は消えていた。代わりに、夜空には眉のような月がかかっていた。

道は暗い、平助は心細くて泣きそうになった。アオがいなければきっと泣いていただろう。

その時、村へ続く道の先から甲高い笛の音が聞こえた。前方に白い着物が揺れているのが、ぼんやりと見えた。

「あっ、才市さんだ!」才市さんと一緒に帰れば怖くない。

「お〜い!」平助は大声で才市を呼んだ。

しかし才市は気付かないように歩いて行く。平助は足を早めた。目の見えない才市の足だから、すぐに追いつけるだろうとたかを括っていたのだが、一向に距離が縮まらない。

平助がさらに足を早めようとした時、アオが急に足を止めた。

「どうしたんだアオ?早く行かないと才市さんが行っちゃうよ!」平助は必死でアオを引っ張ったがアオは頑として動かない。

焦った平助はもう一度才市を呼ぼうとして、才市の姿を目で追った。

しかし、才市は忽然と消えていた。「今まで前にいたのに・・・?」

平助はハッとした。「そう言えば、ばっちゃんが言っていたな。一本松の近くには狐がいて、人を化かすから気をつけろって」

ようやく村にたどり着いた時、家の前にばっちゃんが待っていた。緊張の糸が切れた平助はアオの手綱を放り投げてばっちゃんにしがみついた。

「おお、よく一人で帰ってきたな。怖かったろ?」ばっちゃんが優しく言った。


翌日、目を覚ますと目の前にじっちゃんの顔があった。「平助、すまんかったな・・・」

平助はじっちゃんにすがりつき、大声で泣いた。



圧倒的な火力の差であった。

兵達の掘った塹壕の中には、味方の屍が累々と横たわっている。

小高い丘の上にある敵の防塁は鉄壁だった。

物資にものを言わせて一夜で築き上げたコンクリートの防塁だ。

その中から、機関銃が火を噴いた。

三八式歩兵銃を構えて突撃して行った味方の兵達は、ロウソクの火で焼かれる蟻のようにちぢこまって死んでいった。

部隊は指揮官を失い、今は平助が事実上の指揮官だった。


ようやく夜になったが、防塁からは休みなくサーチライトが照らされ真昼のような明るさだ。

ライトの明かりに照らし出されるのは、やはり味方の兵の骸だけだった。

真っ暗な塹壕の中で、平助は生き残った部下達に声を掛けた。

「動ける者はいるか!」

「はっ!五人ほどいます、軍曹殿!」

「小林か?」

「はっ!」

暗闇の中からうめき声が漏れる。

「動けぬ者は?」

「はっ!ざっと十人ほど!」

「その声は知花か?」

「はい、軍曹!」

「お前は無事なのだな?」

「至って元気であります!」

「よし、お前は動ける者を連れて退却せよ」

「・・・」

「どうした、返事は!」

「い、嫌です!自分は軍曹殿とここに残って戦います!」

「この戦いは無意味だ!無駄死にはするな!」

「嫌です!」

「なぜだ!」

「自分は沖縄出身の兵として部隊の中では肩身の狭い思いばかりしてきました。そんな時、いつも軍曹殿が助けてくださいました。ここでご恩をお返ししたくあります!」

「馬鹿者!俺はお前の空手の技を惜しむのだ。お前を死なせたら俺は沖縄のお前の師に申し訳が立たぬではないか!」

「自分だってここで軍曹殿を置いて逃げ出したら何と言ってオナリ神に言い訳するのですか!」

「強情な奴だ!」

「沖縄の人間は元々強情なのです。私は日本のためには死にませんが無門平助の為なら死ねます」

「馬鹿者が・・・」

知花は、いつも陽気にカチャシーを踊ってみんなを笑わせているひょうきん者だ。

『沖縄では、三歳の幼児だってカチャシーを踊るよ』と言って踊るのが知花の常だった。

その知花が、今日は一歩も引こうとしない。平助は沖縄人の優しさの奥にある強さを知った。

「そこまで言うなら仕方がない・・・小林、お前が指揮して撤退せよ」

平助は、小林に命じた。

「し、しかし・・・」

「お前まで嫌だと言うんじゃなかろうな?ここで死ぬのは二人で十分だ。その代わり、他の隊と合流したなら、必ずやここの兵達を収容に来い。これは命令だ!」

「は、はい!分かりました軍曹殿。必ず迎えに参ります!」

「頼んだぞ!」


小林達が出て行った後、平助は知花と作戦を練った。

「俺は今夜、敵の防塁に夜襲をかけるつもりだ」

「私も行きます」

「だが敵の防塁とこの塹壕の間には、急な斜面と広い草原が広がっておる。そこを常にサーチライトが照らし出しておるのだ、正面からはいけぬな」

「私が斥候に出ます」

「危険過ぎる!」

「危険は承知の上です、しかし、この状況を打破するには防塁に到る道を探すしかありません」「しかし、ライトの届かぬところを行かねばならぬ。真っ暗だぞ」

「なぁに、私は子供の頃、毎日ガジュマルの森で暗くなるまで遊んでいたのですから」

平助は暫くの間沈思していたが、思い切ったように顔を上げた。

「それしか無さそうだな」

「そうと決まれば善は急げだ、すぐに出発します」

「よし、くれぐれも気をつけて行くのだぞ」

「任せてください」


まんじりとも出来ぬ時間であった。

平助は、気を紛らわせるように負傷兵達の手当をし、話を聞いた。

皆、国に家族を残し、赤紙一枚で招集されここにいる者達だった。中には祝言をした翌日に入営した者もいる。

「心配するな、必ず小林が戻ってくる」

平助は一縷の望みを小林に託して、そんな気休めを言うしかなかった。

「それにしても遅い」

知花が出て行ってから、既に二時間は経っている。

さっき一度だけ銃声が聞こえたのが、平助の気掛かりだった。


「ただいま戻りました!」

知花が塹壕に飛び込んで来た。

「おお、無事だったか!心配したぞ」

「申し訳ありません。思いの外手間取ってしまいました」

「銃声が聞こえたが?」

「兎です、サーチライトの中を走る兎に敵が反応したのです」

「そうか、ならば良い」

「ところで道は見つかったか?」

「はい、ここから東へ一キロばかり行ったところに小さな沢があります。その沢を辿って上流へ行けば防塁の真後ろに出る事が出来ます、ただ、そこからは崖を登って行かなければなりませんが」

「ふむ・・・敵の人数は分かるか?」

「五人、そのうち一人は常に機関銃を持って見張りに立っています」

「そうか・・・」

平助は祖父弁千代の形見の軍刀を手に取り、背中に括り付けた。

「行くぞ、案内を頼む」

「軍曹殿、銃は?」

「夜襲をかける時、武器が複数あると戦闘の際に迷いが生じ命取りとなる。祖父の教えだ」

「さすが西南の役の雄、厳しい教えです」


「さらばだ、あの世で逢おうぞ!」

平助は負傷兵達に声を掛けて知花と共に塹壕を出た。


塹壕を出て東に緩やかな斜面を下ると、敵の防塁がまるで灯台のように見えた。

月は出ているのだがサーチライトに遮られて光は降りて来ない。

その月にも、今は黒い雲がかかろうとしていた。

「奴等も置いてけ堀なのだな・・・」

防塁に残る敵兵たちは、平助たちの部隊をここに釘付にする為に残されたのに違いなかった。

俺たちは何のために戦っているのだろう、ふと、そんな考えが頭をよぎる。

水の音が聞こえる。真っ暗な斜面を手探りで沢へと降りていった。

沢に沿って、苔むした岩とシダ類の密生する斜面を這うようにして登る。

防塁のある丘を大きく迂回して進んだ。


「ここからは崖を登ります、ロープは残しておきました」

丘の真裏まで来ると知花が言った。十メートルほどの垂直の崖だ。

平助は刀を背負ったまま身軽に登る。知花も後に続いた。

誰もいないことを確かめ、頂に躰を引き揚げる。


「残念ながら、私の役目はここまでです・・・」

背後から知花の声がした。

平助は、鬼のような形相で振り向いた。「お前ここまで来て怖気付いたか!」

その時、雲が切れて月が顔を出した。

月光に照らし出された知花の顔は悲しそうだった。そしてカゲロウのように儚かった。

「お、お前・・・」

知花には影が無かった。自分の影はこんなにクッキリと大地に刻まれていると云うのに。

「そうです、私は既にこの世のものではありません」

「いつだ?」

「あの銃声です」

「それなのに、俺たちの為に・・・」

「私は軍曹殿が大好きです・・・どうか死なないで下さい」

月が隠れた、それと同時に知花の姿も消えていた。

「知花・・・」



防塁は思ったほど大きくはなかった。円形に囲われた壁にドーム型の屋根がついている。

畳二十畳ほどのスペースに、弾薬や通信機器が所狭しと並べてあった。

食料は多くはなかった、いずれ撤退するつもりだったのだろう。

平助は暫く見張りの兵を観察した。

機関銃を構えて十分ほどのペースで防塁の周りを一周している。

三度目、見張りが目の前を通過した時、平助は刀を抜いて時計を見た。

『五分後に突っ込む、知花よく見ておれ・・・』


無言で平助は防塁の壁を乗り越え中に飛び込んだ。

四人の兵が毛布を被って眠りこけている。絶対優位の戦況に油断をしているのか。

一番手近かな奴の喉笛を掻き斬ると、異変に気付いた兵達が飛び起き防塁の中は恐怖と怒号で騒然となった。

二番目の兵の左肩を袈裟斬りに切り下げた時、三番目の兵が短銃を構えた。

返す刀でその手首を掬い上げると、銃が火を噴き手首とともに地に落ちた。

四番目の兵は哀れだった、部屋の隅に蹲り手を握り合わせて命乞いをしている。

平助はそれを無視した。刀を水平に一閃させると兵の首はゴロリと落ちて転がった。

防塁の中は急に静かになった。

見張りの兵は、もうその辺に来ている筈である。

平助は壁の内側に身を寄せて気配を窺った。

足音を忍ばせて、機関銃を構えた兵が入り口から入って来た。

平助は脱ぎ捨てられていた兵の長靴を、部屋の反対側に放った。

銃口がそちらに向いた時、平助の刀は兵士の胴を串刺しにしていた。

兵は、平助を見てニヤリと笑った。

銃口が弾薬を積み上げた壁に向いている。

次の瞬間、機関銃が火を噴いた。

「しまった!」

平助は刀の柄から手を離し、防塁の壁を飛び越え外に転がり出た。

刹那、防塁は轟音と共に木っ端微塵に吹っ飛んでいた。


地面に這いつくばっていた平助はゆっくりと立ち上がった。

サーチライトの明かりは消え、その代わり雲の切間から月が煌々と平助を照らし出していた。

平助は自分の影を見た。

影がゆらゆらと揺れていた。

「知花の奴がカチャーシーを踊っている・・・」


水のせせらぎが聞こえる。目を開けると小川が流れていた。

平助は石に腰掛けて、いつの間にか眠っていたのだ。目から涙がこぼれていた。

「儂も耄碌したもんじゃ。昔の夢を見るとは・・・」

だが、なんだか平助は気分が良かった。「さて、炭焼き小屋に戻るとするか。タロウも戻っておろう」

平助は、よっこらしょと立ち上がり、寺に続く坂道を下り始めた。




                 

                  3





その日、夕食の時平助は、裏山に古い祠があった事や、いつの間にか眠って夢を見ていた事を、弥勒寺の面々に語った。

「懐かしい夢じゃった」

「どんな夢だったのです?」慈栄が訪ねた。

「儂が子供の頃、母方の祖父母と暮らしておった頃の夢と、南方の戦線で九死に一生を得た時の夢じゃよ。まるで今起こったようにリアルな夢じゃった」

「先生、そんな夢よく見るの?」慈恵が訊いた。

「年寄りは厠が近いからのぅ、目が覚めるたびに夢を見る。じゃが、いつも混沌の中で雲を掴むような夢ばかりじゃ。今日のようなはっきりした夢は初めてじゃよ」

「住職、ひょっとしたら、あの伝説の祠では?」よっちゃんが慈栄を見た。

「伝説?」平助が訊き返した。

「実は、寺の裏山にある祠には夢の精霊が住んでいると言われているのですよ」慈栄が言った。

「夢の精霊じゃと?」

「はい、そのような言い伝えがあるだけで、誰も祠を見た者はありませんが」

「それを儂が見たと言うのか?」

「そうかも知れません」

「ふ〜む、精霊と言うからにはさぞかし秀麗な美女じゃろうの?」

「それが杖を突いた貧相なお爺さんらしいですよ」

「そんなはずはあるまい。明日確かめに行ってみよう」

「先生も物好きだねぇ!」

「ははは、性分じゃでのぅ」

「よし、私も行く!」

「慈恵さん、あなた明日は村長さんの所へお経をあげに行く約束じゃ・・・」

「だって住職、こっちの方が面白そうじゃありませんか」

「村長さんのところはどうするの?」

「住職、よろしくお願いします!」慈恵は手を合わせて頭を下げた。

「しょうがないわねぇ」

「軍曹、相変わらず強引じゃのぅ」

「えへへ、近頃面白い事が少ないもので」

「慈恵さん、言い出したら聞かないから」よっちゃんが呆れ顔で呟いた。

「分かりました、村長さんの所へは私が行きましょう。その代わり朝のお勤めをちゃんと終えてから行くのですよ」

「了解です!ありがとうございます、住職!」


そういう訳で、平助は明日、慈恵と一緒に祠の存在を確かめに行く事になった。




                  4




「無門先生、おはよう御座います!」炭焼小屋の戸が開いて慈恵が顔を覗かせた。

「おはよう。朝のお勤めは済んだかの?」

「はい、もうバッチリです!」

「ふむ、では行くとするか」平助は囲炉裏の炭に灰を被せて立ち上がった。

二人は小屋を後にして、裏山に続く道を上り始めた。

「そこの沢を超えてしばらく行ったところに祠があったのじゃ」

「へえ、私は何度も裏山には登ったけど、祠なんか見た事は一度もありませんよ」

平助は、水の中から突き出した岩を慎重に伝って沢を渡った。後から慈恵も着いて来る。

「もうすぐじゃ、祠があった場所は」

沢の土手を登り切ったところに開けた場所があった。その先は鬱蒼とした森へと続いている。

「ほれ、その祠じゃ」

平助が指差す方向に立っている杉の大木の下に、今にも壊れそうな祠があった。

「あれぇ、汚い祠だなぁ!こんなものあったっけ?」

「森の入り口辺りに鳥居があった筈じゃが・・・」平助が森の方を窺う。「なにっ!」

昨日鳥居があった場所に、今は寺の山門が出現している。

平助の声に、慌てて慈恵も視線を向けた。「あっ、弥勒寺の山門だ!」

「なぜこんなところに山門が?」平助が呟いた。

「先生、とにかく行ってみましょう!」

「そうじゃな」

平助と慈恵は祠を通り過ぎて山門の前に立った。

「確かに弥勒寺の山門じゃ。入ってみるか?」

「そうしましょう」

本堂の前まで来ると、猫が賽銭箱の上で寝ていた。

「あっ、まるだ!ここはうちのお寺に間違いありませんよ先生!」

「決めつけるのはまだ早い」

その時、境内の方から何やら人の話し声が聞こえてきた。

「軍曹、行ってみよう!」

「ラジャ!」慈恵が平助に敬礼した。




『儂が老ぼれなんで迷っておるのか?仕方のない奴じゃ、ほれ握手!』

のんびりとした老人の声が聞こえた。


「あれは王の声ではないか・・・」本堂の柱の影に身を寄せて、平助が境内を窺った。

「えっ、王先生は亡くなったんじゃ!・・・」慈恵が驚いて叫んだ。

「シッ!声が高い」平助が慈恵を手で制し、声を潜めて囁いた。「王の前に立っているのは、人間発電所の異名を持つ、プロレスラーのブルーノ・ヨンマルチノじゃ。このシチュエーションどこかで見た覚えがある・・・」


『アウチ!アウチ!オーマイガッ!』

西洋人の習性で、思わず王の手を握ってしまった大男が叫び声を上げた。

『どうじゃ、分かったかな?』王が手を離すと、ヨンマルチノは右手を押さえて呻いた。

ヨンマルチノの眼が本気モードに変わった。腰を低くして王に向かって身構える。

『そう来なくてはな!』王が笑った。

王は邪険、否、蛇拳の構え。蛇の鎌首に擬した手がヨンマルチノを手招きした。レッドスネーク・カモンである。

ヨンマルチノは先ほどの痛みがまだ残っているのか、警戒して容易に間を詰めて来ない。

『なんじゃ、こんのか?・・・ならば、こちらから』

業を煮やした王は、ニョロニョロとした動きでヨンマルチノに接近した。

不可思議な中国拳法の動きに翻弄されたヨンマルチの足を、いきなり王が踏みつけた。

ギャッ!と叫んでヨンマルチノが蹲る。

『丁度良い高さになった』王は北叟笑んで貫手を持ち上げた。

『ア・タ・タ・タ・タ・タ・タ・タ・・・・・!』

コブラが獲物に飛びかかるように、王の貫手がヨンマルチノの頸部を襲う。

ヨンマルチノの顔がみるみる紫色に腫れ上がり、そのままドサリと崩れ落ちた。


「分かったぞ!これは二年前の出来事じゃ」

「二年前?」

「覚えておらぬか?この寺を略奪しようとして、邪悪な妖怪が送り込んできた五人の用心棒達を」

「あっ!思い出した。この寺は自分のものだと難癖付けて、しつこく付き纏っていた奴らだ。たまたま来ていた先生達が追い払ってくれた時の事ですね!」

「そうじゃ。見ていよ、次は儂の出番じゃ」


次に出て来たのは、ジャック・テンプシー。マナッサの人殺しの異名を持つボクサーだ。

得意技は、テンプシーロール。

テンプシーはゆっくりと平助の前に立った。身長差は二十センチ以上。

テンプシーの構えは、上体を反らし両拳を正中線上に乗せたサウスポー。

わ〜たしピンクのサウスポ〜♫などと巫山戯ている場合ではない。

『平助、一分でカタをつけろ!』王が叫ぶ。

『何故じゃ?』

『八時だよ、全員集合が始まる!』

『なにっ!何故そんな番組の為に楽しみを早く切り上げねばならんのじゃ?』

『慈恵殿の命令じゃ!』

『馬鹿、何故それを早く言わん!』

平助はテンプシーに向かって、人差し指を立てた。

『一分じゃ!』



「なんで私が出てくるんですか?」慈恵が口を尖らせた。

「お主、王に命令せなんだか?」

「そりゃ・・・したような気もするけど」

「じゃろう。黙って見ておれ、儂の活躍を」



テンプシーは振り子のように上体を振りながら間合いを詰めて来た。

いきなり得意技を繰り出すつもりらしい。反っていた上体が前屈みになっている。

『見えるぞ、見えるぞ。右足に体重が乗ってから右のパンチが出てくる、左足に体重が乗ってから左のパンチが出る!』

テンプシーには平助が何を言っているのか分からない。平助の予言通りにパンチを出してくる。

何度目かの振り子が右に振れた瞬間、平助が動いた。

『そこじゃ!』

平助の矢のような表裏突がテンプシーの人中を捉えた。

モロに人体最大の急所に拳を受けたのでは堪らない。テンプシーは前歯を口から吐き出しながら、ゆっくりと後方に倒れて沈んだ。

『平助、十秒オーバーじゃ!』王が怒鳴った。

『しまった、遊び過ぎたか!』

『よし、儂に任せろ、次は速攻で決着をつけてやる!』

『王、頼んだぞ!』



「う〜ん、あれは失敗じゃった。お陰で鬼が出てきおったものな」柱の陰で平助が唸った。

「え、鬼?」慈恵が首を捻った。


その時!

本堂の渡り廊下の上から大音声が響いた。『そんなカッタルイ事をしていたんじゃ間に合わないよ!』

廊下の上には・・・鬼が居た

法衣に襷掛け、頭に鉢巻を巻いた慈恵が、脇に薙刀を携えて弁慶のように立っている。

『えいっ!』慈恵は衣の裾を翻し、ヒラリと欄干から飛んだ。

土煙を上げて境内に降り立った慈恵は、頭上に薙刀を構え用心棒達に向かって駆け出した。

『オリャー!覚悟しろ!』ブンブンと薙刀が風を斬る。彼らは狼狽し、悲鳴を上げながら境内を逃げ惑った。

『待て〜!リアル鬼ごっこをしているんじゃないんだよ!おとなしくこの薙刀の錆になれっ!』


いつの間にか、男達の姿は境内から消えていた。

『あっいけない、ドリフが始まる!』

そう言い残し、慈恵の姿もあっという間に境内から消えた。



「あれは・・・私?」慈恵が訊いた。

「他に誰がおる!」

「そうですよねぇ・・・」

「自分でも怖かったろう?」

「いえいえ、そんな事は・・・あっ!でも今のはドッペルゲンガーじゃ?自分の姿を見たら死んじゃうんじゃないですか!」慈恵が狼狽して叫んだ。

「落ち着け軍曹。これは夢じゃ、祠に戻ろう」

「ラ、ラジャ!」



二人が山門から出ようとすると、山門が消えていた。

「せ、先生、山門が!」

「夢から醒めかけておる!寺の裏手から炭焼小屋に抜けて、朝のコースで祠まで行こう!」

平助と慈恵は境内を突っ切り庫裏の裏庭を回って、寺の裏口から炭焼小屋に出た。

「ここはまだ残っておる!」

「急ぎましょう、先生!ここが消えたら永久に娑婆に戻れなくなる!」

「よし、走るぞ!」

「ラジャ!」


走りに走った。坂道を登り沢を越え、土手を上ると杉の大木の根元に祠が見えた。

「見えたぞ、祠だ!」

「あっ!先生、見てください!祠の前の倒木に先生と私が並んで居眠りしてますよ!」

慈恵と平助は眠っている二人の躰に近づいた。

「ありゃ、先生が涎を垂らしてます!」

「お主こそ鼻提灯を膨らませておるではないか」

「ハハハ、こうやって自分の寝姿を見るなんて滅多にある事じゃありませんね。でも、そろそろ起こしてやらなきゃ・・・先生、起きてください」そう言って慈恵が眠っている平助の肩に手を触れようとした。

「あっ!待て、危険じゃ!」平助が叫んだ。

「え?なんですか?」そう言って慈恵が振り向いた時にはもう、慈恵の手が平助の肩を叩いていた。

その瞬間、慈恵は巨大な掃除機にでも吸い込まれたような感覚に陥った。



                


                    5




「あ〜ビックリした・・・まるで竜巻に呑み込まれたみたいだ」

目を覚ました慈恵が頭を振りながら平助の姿を探した。

「ん?なんで坊主がこんな所に・・・」

隣に座っていたのは法衣姿の尼僧だった。

「んんんんん・・・?な、なんだこりゃぁ!」

「なんだ騒々しい・・・」尼僧が目を開けた。「まだ夢を見ておるのかの・・・目の前に儂がおる」

「ち、違います先生!先生が私になっちゃったんですよぉぉぉぉ!」

「なにっ!」平助が慌てて頭に手をやった。「なんじゃ、この手触りは!ツルツルではないか!」

「だから、それは私の頭なんですよぉ!」

「うむむむむ!」

「な、何故こんな事に!」

「思い出したぞ!お主、儂の肩に手を触れたじゃろ。その時お主の魂が儂の躰に入ったのじゃ!」

「そ、そうすると必然的に先生の魂は・・・」

「お主の躰に入るしかない!」

「えええっ!」

その時、何処からか嗄れた声が聞こえてきた。

「馬鹿め、帰る躰を間違いおって・・・」

「え?先生、何か言いました?」

「いや、儂ゃ何も言うとらんぞ・・・」

「よく戻って来られたもんじゃ」

今度は平助にもハッキリと老人の声が聞こえた。

「誰じゃ!」平助が周りを見回したが人影は無い。

「こっちじゃよ」また声がした。

「先生、祠の中から声が聞こえます!」

「なにっ?祠じゃと!」

「そうじゃ、儂はこの中におる」声はそう告げた。

二人は立ち上がり、そっと祠に近付いた。

「開けるぞ・・・軍曹」平助が今にも壊れそうな扉に手をかけた。

「は、はい・・・」

平助が扉を開くと、中に卵形をした石があった。所々黒い筋が走っているのが石らしかった。


「この石が喋ったのか?」平助が石を手に取って呟いた。

「そうじゃよ」石が答えた。

「お主は誰じゃ?」

「名は無い。じゃが俗に夢の精霊と呼ばれておる」

「夢の精霊?何じゃ妙齢の美女ではなかったのか?」

「残念でしたね、先生」慈恵が肩を小刻みに振るわせて笑った。

「お主達、寺の関係者か?」

「そうだよ」慈恵が答えた。

「では、儂をここから出してくれんか?」

「出すって、どうやって?」

「なぁに簡単じゃ。寺の本尊の前に儂を置いて、華厳経を上げてくれればそれで良い」

「華厳経?それなら今、私が上げてやるよ」

「お主ではダメだ、徳のある坊さんでなけりゃ」

「私には徳がないと言うのかい!」

「まぁ、待て軍曹」そう言うと平助は石に問いかけた。「なぜ華厳経なのじゃ?」

「儂は八百年ほど前、明恵という坊さんの霊力によって、この石の中に封じられた。その霊力を解く鍵が華厳経なのじゃよ」

「明恵と言えば、『夢の記』を著した鎌倉時代の高僧ではなかったか?」

「私も住職から聞いた事があります。印度に行く夢を断念して夢の中で修行をされたとか・・・」

「ふ・ふ・ふ、よく知っておるな。夢の力によって明恵を高僧にしたのはこの儂じゃ。言うなれば儂が明恵の師と言っても過言では無い」

「本当かなぁ?」慈恵が疑わしそうに首を傾げた。

「本当じゃ!」

「わ、分かったよ。そんなにムキにならなくても・・・」

「明恵は八才の時両親を失った。事に母親を亡くした悲しみは深かった。じゃから、儂は夢で度々母親に合わせてやったのじゃ!それだけではないぞ。明恵の疑問に名だたる硯学が誰も答えてやれなかった時、儂は夢である僧に引き合わせて疑問を解き明かしてやった。それからじゃ、明恵が夢に関心を持ち始めたのは。元々敏感な性質だった明恵はそのうちに夢に慣れ、夢を飼い馴らしていく過程で、思うがままに夢の中で遊ぶ境地に達したのじゃ!」

夢の精霊が一気にまくし立てた。

「分かった分かった、信じるから」

「だが、それ程の事をしてやったのに、何故石に封じられた?」

「何か悪い事でもしたんじゃないの?」

「ば、馬鹿を言え。儂はただ明恵の為を思って・・・」夢の精霊の声が急に小さくなった。

「やっぱり何かやらかしたんだ」

「わ、儂はただ、枕返しに力を貸しただけじゃ・・・」

「枕返しって、寝ている人の枕をひっくり返して喜んでる、悪戯者の妖怪でしょ?」

「まぁな、じゃが霊力の強い枕返しは人の生命を奪うこともできるのじゃよ。人の魂は夢を見ている間は肉体を離れておるでな。霊力の強い枕返しに枕を返されれば元の躰に戻れなくなるのじゃ」

「それがお主とどう関係するというのじゃ?」

「ふむ、話せば長くなるが・・・聞きたいか?」

「聴きたくはないが、聞かねばお主を出してやる訳には行かぬ」

「そうか、ならば話してしんぜよう・・・」

夢の精霊は、そこで一つ咳払いをした。

「昔、明恵の師に文覚という和尚がおっての、その文覚というのが酷い荒法師じゃった。神護寺を再建する為に御所に押し掛けたり、頼朝に平家討伐を唆したりした。そればかりでは無い、帝位を巡って謀反を企てたりもした。つまり公家たちに嫌われておったのじゃな。その公家の一人が、文覚暗殺を企てた。ある陰陽師に頼んで枕返しを召喚したのじゃ。しかし、その事を察した文覚は一月の間眠らないという荒業を敢行した。護摩壇の前で真言を唱え続け、逆にその相手を呪い殺そうとしたのじゃよ。そうなったら後は時間の問題じゃ、早く相手を殺した方が勝ちとなる。枕返しは、眠らない文覚に業を煮やし、儂に相談を持ち掛けた。文覚を眠らせてくれ・・・と」

「お主はそれを承諾したのじゃな?」

「明恵は修行と文覚の板挟みにあって苦しんでおった。せっかく俗世の喧騒から逃れて、白上の地で修行しておったものを、度々文覚に呼び戻されるのじゃからな」

「それで、明恵上人を助けるために、お主は枕返しに力を貸そうと思った?」

「そうじゃ、儂は自分が間違っておったとは思わぬ。ところが明恵が夢告によって儂の企てを知り、師を助ける為に儂をこの石に閉じ込めたというわけじゃ」

「なるほどのぅ、お主も苦労した訳じゃ」平助が言った。

「分かってくれるか?」

「分かったよ・・・分かったけど私達はどうするのさ?」慈恵が言った。

「どうとは?」

「先生と入れ替わったままじゃ、この先不便で仕方がないよ」

「おお、そうじゃったな。心配ない、儂がこの石から出られた暁にはお前達を元に戻してやる事が出来る」

「本当かなぁ?・・・先生、どうします?」

「信用するしかあるまい。このままでは儂らは永遠にこの姿のままじゃ」

「それは困ります!・・・じゃ、信用するとするか!」

「おお、信用してくれるか、有難い!」夢の精霊は嬉々として言った。

「そうと決まれば一刻も早く寺に戻ろう」慈恵姿の平助は、石を懐に入れた。

「先生、私の躰大事に扱ってくださいよ!」

「お主もな。年寄りを労ってくれ」

「ラジャ!」


二人は寺に続く坂道を下り始めた。




                   6





「華厳経は仏陀の悟りの境地を現したもので、大乗思想の最高頂に達したものです」慈栄が須弥壇の前で言った。慈栄と本尊の間には夢の精霊が封じ込められている石が置いてある。

「明恵が儂を封じた時、封印を解く鍵として華厳経を設定して行ったのじゃ」石が答えた。

「華厳経と言っても膨大なお経ですが?」

「入法界品を読んでくれれば良い」

「善財童子の旅ですね」

「そうだ」

「住職、話は後回しにして早く華厳経を・・・」慈恵が急かした。

「そうですよ住職、慈恵さんが無門先生の姿では可哀想ですよ!」よっちゃんが慈栄の方に身を乗り出した。

「儂は可哀想ではないのか?」平助が不服そうに言った。

「い、いえそう言う訳じゃ・・・」

「分かりました、とにかく二人を元に戻すのが先決ですね」

「頼んだぞ住職、この姿では道場に戻れん。口の悪い槇草がなんて言うか分からん!」

「お任せ下さい」そう言うと慈栄は、須弥壇に向かって姿勢を正し、深々と頭を垂れてから華厳経を唱え出した。


入法界品だけとは言っても、唱え終えるまでには長い時間が必要だった。

「・・・・・・則ち一切諸佛の無上なる大不共の法を得ん」慈栄はやっと最後の句を唱え終えた時、胸の前で手を合わせたまま暫く目を瞑り、最後にまた深く礼をしてから本尊を仰ぎ見た。

「終わりました・・・」そして誰に共なく声を掛けた。

その途端、石が鋭い音を立てて橙色の閃光を発した。

「わっ眩しい!」慈恵が目を覆った。

その場にいた全ての人が一瞬視界を奪われ、視覚が戻るまでしばしの時間を要した。

皆が視界を取り戻した時、そこには見窄らしい身なりの杖をついた翁が立っていた。

「お主が夢の精霊か?」慈恵の姿をした平助が訊いた。

「貧乏神の間違いじゃないの?」平助の姿をした慈恵が言う。

「何を言うか、失敬な!」

「これで宜しいのですね?」穏やかな声で慈栄が訊いた。

「住職殿、忝うござった」

「では、二人を元の躰に戻していただけるのですね?」

「さて、そこじゃ。元に戻してやりたいのはやまやまなれど、それにはまず二人に寝てもらわなければならん」

「なんだ、すぐに戻れると思っていたのに」慈恵が不満げに言った。

「無茶を言うな、お前たちが寝たら儂が夢の世界へ連れてゆく、そうしなければ魂が躰を抜けられん。元に戻すのはそれからじゃ」

「ふむ、道理ではある」

「儂はどこにも逃げやせん。今夜は早めに床についてさっさと寝てしまう事じゃ。そうすれば明日の朝には元の躰に戻っておる」

「本当ですね?」

「儂は嘘は言わん」

「では、今夜は全員で本堂に床を取りましょう。御本尊の前で夜明けを待つのです」

「それが良い、私早速お布団を運びます」よっちゃんが言った。

「すまんのぅ、儂らの為に」

「構いませんよ。なんだか修学旅行みたい」

「よし、私も行くよ。よっちゃんレッツラゴー!」慈恵とよっちゃんは庫裏に飛んで行った。

「なんだか複雑な気分じゃ。布団を運ぶのは儂の躰じゃからの」

「ホホホ、まだまだそれくらいは出来るでしょ、平助さん」

「まぁな・・・」


その時、本堂の柱の影で蠢く異形の者の存在に気づくものは誰も無かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ