口裂け女
口裂け女
1
「私、キレイ?」
「どうしたんだ、風邪でもひいたのかい?」槇草は妻に向かって訊いた。
「ねえ、私キレイ?」
「君が綺麗だってことは分かってるさ。でも、そんなに大きなマスクしてたんじゃ何とも言えないよ」
「じゃあこれで・・・」美希はマスクのゴムに手を掛けた。「どう!」
「わっ、何だよ、そんなに口紅塗りたくって、びっくりするじゃないか!」
「あら、悠さん口裂け女知らないの?最近噂になってる都市伝説だけど」
「そんなの知らないって!」
「な〜んだ」美希はつまらなそうに項垂れた。
「よしてくれよ。街で突然そんな女に出会ったら怖いじゃないか!」
「だからぁ、先に教えてあげてるんじゃない。マスクをした女の人には気を付けてって」
「だからってそんなメイクまでする必要ないだろう」
「折角リアリティ出そうと思ったのにぃ」
「分かった分かった、で、その口裂け女ってのは人に危害を加えるのかい?」
「ううん、それだけ。人を驚かせて喜んでいるんじゃない?」
「なら、問題無いだろ。ほっとけば良いよ」
「それもそうね・・・口紅損しちゃった」
「それより、小太郎は寝たのかい?」
「もうとっくに」
「じゃあ俺も寝るよ。おやすみ」
「は〜い、おやすみなさい」
「凛・・・凛はおらんね?」
道場の玄関から熊さんが呼んだ。
「は〜い」
奥から割烹着をつけ、手拭で姉さん被りをした凛が現れた。
「おお、もう始めちょるとね?今日は師匠の帰らるっまでに掃除ば済ませておかにゃならん。おいが外回りばするけん、おはんは中ば頼む」
「はい、前田先生」
「せ、先生はいかん、熊さんでよか」
「はい、分かりました・・・熊先生」
「まぁ良か・・・そいにしてん、おはんが来てから、おいのすっことがのうなった」
「まぁ、ではその分、あの可愛いお弟子さん達に稽古をつけてさしあげればよろしいではありませんか」
「一郎と洋のこつね?・・・う〜ん、そいが良かかも知れんな」
「そうなさいまし」
熊さんが玄関を出ようとして、ふと足を止めて振り返った。
「その姉さん被りはよう似合うちょる」
そう言うと熊さんはそそくさと出て行った。
「まぁ、珍しい・・・」
凛が妙心館の天井裏に住まうようになって三ヶ月が過ぎた。地縛霊を成仏させた一件で、渋々ではあるが、熊さんの了解を得る事が出来たからだ。
「奪衣の婆様呆れてたわね。あんたのような面倒見の良い死神は初めてだって」凛は独りごちた。「でも、機を見て閻魔様に免職処分を解くように話してくれるって言ってたから、頑張らなくちゃ!」
凛は気合を入れて、平助の居室を掃除するために道場の奥へと向かった。
2
一郎と洋の通う、立花小学校の正門前にパトカーが一台止まっていた。赤色灯がクルクルと回っている。
二人が三年一組に入ると、教室はその話で持ちきりだった。
「口裂け女が出たんだってさ!」情報通の山田が言った。「さっき職員室の前で立ち聞きしたんだ、六年生の男子がハサミを持った女に追いかけ回されたんだって!」
「えっ、本当なの!」思わず一郎が訊いた。
「本当さ。校長先生とその男子が事情聴取を受けてたもん」
「どの辺に出たんだろう?」洋が訊くと山田は首を捻って、そこまでは分かんない、と言った。
「本当だったら、私怖いわ」丸顔の木下が心配そうに呟く。
「木下は大丈夫さ、クラス一足が速いんだから」山田が揶揄う。
「だって口裂け女は100メートル6秒で走るって言うじゃない。とっても敵わないわ」
「明るいうちは出ないんじゃないの?」洋が楽観的な見解を述べる。
「私、バレエ教室があるから、帰りは夜になるわ」野副は最近引っ越して来たお嬢様だ。「でも、お母さんが迎えに来てくれるから大丈夫かなぁ?」
「大人でも危ないんじゃないの?」と、木下が言った所で先生が来た。
「皆んな席に着きなさい、重要な話があります!」百武先生がヒステリックに言った。「先生は信じてなんかいないんだけど・・・」先生は大人の威厳を示すように教室を見回した。「口裂け女が出たんだそうです!」
皆んな一斉に悲鳴とも歓声ともつかぬ声を上げた。
「静かにしなさい!」
皆一斉に口を噤む。
「私は信じちゃいないんだけど・・・」先生はもう一度同じ事を言った。「みんなの安全の為に、今日より当分の間集団下校とします」
ワッ!!っと歓声が上がった。子供達にとっては非日常の出来事は、面白いイベントに過ぎない。
「では、今から帰る方向が同じ人同士でグループ分けをします。まず、神田町方面の人は前に集まって・・・」
そう言う訳で、立花小学校始まって以来の集団下校が始まった。
「全く馬鹿馬鹿しい・・・」百武は心の中で毒付いた。「校長先生も校長先生だわ。あんな子供の言う事を信じるなんて」
「まぁ、父兄の手前仕方ない決断ではあるけれど・・・」
子供達が帰った後、職員室に残ってガリ版を刷っていた百武は、当直の先生に声を掛けて学校の裏門を出た。百武の自宅にはその方が近い。
「近頃、暗くなるのが早くなったわねぇ」外はもう黄昏時である。人の姿は分かるが顔までは判然としない。
百武の自宅は新興住宅街の北側にあった。真っ直ぐ突っ切って行けば早いのだけれど、夕食の買い物の為、東側にあるスーパーに立ち寄る事が多い。
「今夜は何にしようかしら?」四十五歳独身の百武は晩御飯のおかずを決めかね、ようやく買い物が済んだ時には、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
碁盤の目のように区割りがしてある新興住宅街は、角々に街灯が灯っている。決して明るいとは言えないが歩くのには充分な明るさだ。それに、家々の窓灯りもある。
「口裂け女なんて、居るもんですか!」
百武は、買い物で重くなった大きなショルダーバッグを揺り上げて、家路を急いだ。
「あの・・・」
自宅まで後一区画というところまで来た時、後ろから女の声がした。
百武はギクリ!として立ち止まった。子供達にはあんな事を言ったけれど、内心は怯えていたのである。
ゆっくりと振り向くと、真っ赤なコートを着た、目元の涼しい、スタイル抜群の女が立っていた。ハイヒールも赤い、何から何まで赤ずくめである。そして、何より異様なのは顔に大きなマスクをしている事だった。
口裂け女出現のシチュエーションそのままの展開である。
「な、な、何の悪戯よ!」百武は裏返った声で叫ぶ。「そんな事で私は驚かないわよ!」
「私、綺麗?」
「何言ってんのよ、そんな事分かる訳ないじゃない!」
「私、綺麗?」
「執っこいわね、分からないって言ってるでしょ!」
業を煮やした女がマスクに手を掛けた。
「これで・・・」
百武は、ショルダーバックに右手を突っ込んで大根を握りしめた。
「ちょっと綺麗だからってふざけるんじゃないわよ!四十五歳独身女を舐めるんじゃない!」
大根は凄い勢いで女の顔面を直撃した。
ギャッ!と蛙の潰れたような声を上げ、顔を両手で覆って女が蹲る。その拍子にハラリとマスクが落ちて耳まで裂けた口が手の隙間から見えた。
しかし、それくらいでは百武の怒りは収まらなかった。いや、益々火に油を注いだと言うべきか。本来怒りとは恐怖の裏返しなのである。
百武は、折れた大根を女に投げつけ、バックから鯖缶を取り出した。
女はそれを見て慌てて立ち上がると、猛ダッシュで西の道を逃げて行く。
鯖缶が、女の背に向けて飛んで行ったが、途中で勢いを失い虚しく地面に転がった。
「100メートル6秒は嘘じゃかったわね・・・」
3
「凄かねぇ!そん先生は一郎と洋の担任じゃろ?」
土曜日の稽古の後、熊さんは一郎と洋から口裂け女の話を聞いた。
「うん、熊先生。百武先生って言うんだ。普段から口喧しくて、皆んなあんまり好きじゃないんだけど、今は皆んなの英雄だよ!」洋が興奮して捲し立てる。
百武はあの後交番に飛び込み、当番の巡査に一部始終を捲し立てた。
巡査は最初、余り真剣に聞いていなかった。だが、百武があまりにヒステリックに訴えるので渋々現場に行ってみると、大きなマスクと赤いハイヒールが片方落ちているのが見つかった。
それで一気に真実味が増し、校長に連絡を取って父兄会の役員を緊急招集したのだった。
「誰かの悪戯かもしれないよ」冷静に一郎が反論する。
「きっと本物だよ!口が耳まで裂けてたって、先生言ってたもの」洋が言った。
「でも、マスクを取る前に大根で殴ったから、よく分からなかったんじゃないかな?」
「大根・・・そりゃ痛かったろう」熊さんは苦笑した。「じゃっどん、無事で良かったたい」
「妖怪を怖がったりせず、勇敢に立ち向かう事も必要なんだね!」洋はまだ興奮している。
「う〜ん、じゃっどん妖怪は人間には計り知れん能力ば持っとるけん、一概には言えん。今回は、たまたま運が良かっただけかも知れんで、油断は禁物たい」
「はい、熊先生!」
「じゃ、今日はここまでじゃ。気をつけて帰らんね」
「は〜い、有り難うございました。熊先生、さようなら!」
一郎と洋は、元気よく道場の玄関を飛び出して行った。
「素直な良い子供達ですね」
いつの間にか凛が隣に立っていた。
「凛、今ん話ばどげん思うね?」
「さあ、私にも分かりません。今夜確かめてみましょうか?」
「そうね。おいも行くで声ば掛けてくやい」
「分かりました」
4
熊さんと凛は、百武が口裂け女と遭遇したと言う新興住宅街の北側に来た。
「何か変ですね・・・」凛が呟く。もうこの時間に外を出歩く人はいない。
「ないが、変じゃっとな?」
「磁場が微妙に乱れてます」
「磁場?」
「この付近で何か強力な電磁波が発生している」
「磁場と言えば電気じゃが、この辺には変電所は見当たらん。あれば鉄塔が見ゆるはずじゃっで」
「地下ケーブルかも知れません。地下なら見えませんし、配電用変電所なら小さな施設なので目立ちません」
「凛は何でん知っちょるなぁ!」熊さんが感心していると、何やら足下で音が鳴り出した。
巨大なカブトムシの羽音のようだ。
「磁場が大きく乱れています。どうやらここは異界との境界線のようです」
「異界ちな?ならここに妖怪が出ても不思議じゃなかちゅうこつか?」
「はい、むしろ、今まで怪異が起こらなかった方が不思議です」
「ここは、おいが来た頃にはまだ小高い丘じゃった。そいを切り崩して無理やり住宅地にしたような場所じゃっで、驚かすべき人も住んで居らんかったとじゃろう」
「多分そうなのでしょうね」
いつの間にかカブトムシの羽音が止んだ。
「あの・・・」後ろから女の声がした。
「ん?」熊さんが振り返ると、口が耳まで裂けた女が立っていた。「く、口裂け女か!」
「はい・・・」
「か、顔ば見すっとが速過ぎやせんか?」熊さんが狼狽える。
「マスクを落としたものですから・・・」見るとハイヒールも片方しか履いていない。
「貴方悪趣味よ。口を元に戻しなさい」凛がキツい声で言った。
「貴方は人間ではないのですか?」口裂け女が訊いた。
「元死神よ。いいから早く戻すの!」
「はい」
口裂け女の口がスルスルと閉じて、普通のサイズに戻る。
「ほら、とっても綺麗な顔をしているじゃないの」凛の声が和んだ。
「ほんに。なんであげな悪さばすっとか?」
「わ、私は・・・」
「どうしたの?」
「私、本当はあんな事したくは無いんです!」
「じゃあ、なんですっとね?」
「人の想いが、そうする事を望むからです」
「人の想い?・・・分からないわ、訳を話して」
「はい・・・」口裂け女は躊躇いながらも、徐々に身の上を語り出した。
「私の名はおしず、生まれたのは明治の初め、場所は滋賀県の山奥です。私には山を隔てた隣町に権助さんという思い人がおりました。恋しくて恋しくて。でも、会えるのは年に一、二度。そこで私は、夜、山を越えて会いに行く事を思いつきました。けれど、夜道の女の独り歩きは物騒です。私は丑の刻参りの装束を身に付けて行く事にしました。そうです、死装束に五徳を逆さまに被り蝋燭を立て、手に鎌を持ちました。ええ、本当は木槌と五寸釘を持つべきでしょう。でも、それだけじゃあ不安で・・・紅で大きな口を描きました。そうすれば、気味悪がって誰も近付いて来ないと思ったのです。私の思惑は当たりました。遠くで悲鳴のようなものを何度か訊いたことはありましたが、誰とも会う事は無かったのです。二度、三度と逢瀬を重ね味を占めた私は、ある月夜の晩にいつもの様に出掛けて行きました。月の明るい夜でしたので油断していたのでしょう、道に迷ってしまいました。今思えば狐か狸に化かされたのではないかと思います。何日も山を彷徨い、精も根も尽き果て倒れてしまいました。行き倒れですね。すると、誰かが私を迎えに来たのです。「お前は死んだのだから私について来い」と言いました。私はどうしてももう一度権助さんに会いたくて、夢中で地面を這って逃げました。気が付けばその人はいなくなっていました。それから私は、権助さんに会いに行きました。何だか身も心も軽くなって、すごく早く走れた事を思い出します。権助さんは私を見ると怯えて腰を抜かしてしまいました。そして、「二度と俺の前に現れるな!」と言いました。どうしてでしょう?何も悪いことはしていないのに。私は悲しくなって、あちこちを彷徨いました。そのうちに私の噂が立ったのです。「口の裂けた女の妖怪が出るぞ!」と。でも、その時はそれだけでした。つい最近まで、その噂が村の人の言い伝えとして伝承されていたのです。ところが、その伝承に尾鰭が付いて囁かれるようになりました。最初は、マスクを着けた女に「私、綺麗?」と聞かれて、「綺麗です」と答えたら、「これでも・・・?」と言ってマスクを取る。すると口の裂けた大きな口が現れて、その人を吃驚させる、というだけのものでした。が、そのうちに、真っ赤なドレスとハイヒールを履く事になり、「綺麗じゃない」と答えると、追いかけて来ると言う事になり、やがて鋏や包丁で切り殺されるという物騒なものに変わりました。後はもう支離滅裂、私はどんどん凶暴になって行きました。このままでは、私は人を喰い殺しかねません。もう、人間の想念にはついて行けなくなりました。私は・・・私はどうすれば良いのでしょう!」
そこまで話し終えると、おしずは手で顔を覆って泣き出した。
「昔と違うて、今は噂の伝わっとが早かとやね。しかも、凶暴化する速度も早か。人の心が荒んじょる証拠かも知れんな」
「妖怪は人の心が生み出したもの、人の想いの影響を受けるのは仕方ありません」凛が言った。
「じゃっどん、あまりに気の毒か」
「分かりました、私が何とかしましょう」
「凛、どうする気じゃ」
「また婆様のお世話になりましょう。きっと呆れられるとは思いますが」
「私を成仏させてくれるのですか?」おしずが涙声で訊いた。
「ええ、私の同僚がヘマをやった償いです。私も人のことは言えませんが・・・」
「本当ですか?本当にそんな事が・・・」そう言ってお静はまた、静かに泣いた。




