兜率天
兜率天(とそつてん)
1
「こりゃまた大勢でやって来たね!」奪衣婆が驚いた。
「婆様、狐火ランプをお返しします。お陰で無事皆様にお会いする事が出来ました」
「そりゃいいけど、これからどうするつもりだい?」
「兜率天へ明恵様を探しに参ります」
「兜率天までどうやって行くつもりだい?」
「閻魔大王様にお頼みしてみます」
「そいつは無理な相談だ。いくら閻魔様だって悟りに達してない人間を梵天界に送ることはできないよ」
「そこを何とかお願いしに参りたいのです」
「あんた言い出したら聞かないからねぇ」
「すみません」
「こうなったら、乗りかかった舟だ。三途の川を渡してやるから舟に乗りな。だけど、後はあんたらの力で何とかするんだよ」
奪衣婆はそう言って、舟を舫っている懸衣翁に声を掛けた。
「あんた、お客さんだよ。特別に乗せてやっておくれ!」
「何だ、こんな時間に。今日はもう仕舞いじゃなかったのかい?」
「帰ったら一本つけるからさ、頼むよ、あんた」
「しょうがないなぁ。よ〜く漬かった奈良漬もつけてくれよ」
「分かったよ。きっと付けるから頼んだよ」
「オウ、任しときな」
懸衣翁は舟の舫綱を解き始めた。
「婆様、有難う御座います」凛は奪衣婆に礼を言って船に乗り込んだ。
一行も、それぞれに奪衣婆と懸衣翁に頭を下げて舟底の筵の上に腰を下ろした。
「舟を出すぞ〜!」懸衣翁は掛け声を掛けて、竿で岸を突いた。
2
彼岸に着くと一行を降ろした舟は、すぐに引き返して行った。
「舟頭さん、やけに慌てて帰って行きましたね」槇草が懸衣翁の背を見送りながら言った。
「早く仕事を終わらせて、酒が呑みたかったのであろうよ」
「おいも、早よ現世に戻って旨か酒ば呑みたかぁ」
「熊先生、もう少しの辛抱ですよ。帰ったらたんと呑ませてあげますから」
「本当か凛、そんなら頑張るたい!」
「熊さん、凛さんにデレデレですね」槇草が熊さんを突く。
「な、なんば言いよっとか、揶揄うんじゃなか!」
「ははは、良いではないか熊さん。凛は死神じゃが人間より人情がある」
「じゃっど、じゃっど」
「ところで、閻魔大王のいる所は遠いのか?」
「遠いと言えば遠い、近いと言えば近いのです」
「凛さん、それはどう言う意味ですか?」慈栄が訊いた。
「そう、早く着きたい人には遠く、着きたくない人には近く感じます。ここには人の決めた時間というものがないのです。でも、前に進まなければ着きませんけれど」凛が悪戯っぽく笑った。
「そりゃそうだ。よし、出発!」慈恵が先頭に立って、夕暮れの迫る砂利道を歩き出した。
3
「あっ、あそこに建物が見えます!」よっちゃんが道の先を指さした。
超高層ビルが見えた。上の方は雲に隠れて見えない。
「あれが閻魔局です」凛が答える。
「やっと着いた!」
「そうですね。ですがこれからが正念場です。気を引き締めて参りましょう」慈栄が表情を固くした。
建物の前に門があり、その横に屋根の尖った警備室があった。
近付くと中から赤青二匹の鬼が飛び出して来た。
「誰だ、こんな時間に!」赤鬼が誰何した。
「わっ、鬼!めっちゃ怖い顔をしてる!」よっちゃんが慈恵の背に隠れた。
「心配ないよ、私が守ってやる!」
「なんだお前達は?亡者では無いな、帷子を着ておらん」
「今晩は、赤鬼さん」凛が挨拶をした。
「誰だ、気安く俺の名を呼ぶのは?」
「私です、死神634号です。お忘れですか?」
「おお、お前は脱走死神ではないか。何の用だ?」
「久しぶりだな」槇草が鬼斬丸を携えてズイと前に出た。
「あっ、お前はあの時の・・・!」
「あ〜っ、そっちは俺を金棒ごと斬った髭面男!」隣に立っていた青鬼が叫んだ。
「そん節は世話んなったばい」熊さんがニッと笑った。
「そっちの爺さんにも見覚えがあるぞ!」赤鬼が平助を見た。
「覚えておったか。物覚えの良い奴じゃ」
「平助さん、鬼にお知り合いが?」慈栄が驚いて訊いた。
「うむ、少々縁があってな」
「お二人は獄卒学校の教官だとお聞きしましたが?」凛が訊いた。
「ふん、お前たちのお陰で現場に戻された。今日は守衛の夜勤だ」
「そう言えば、奪衣の婆様がそのような事を仰っていましたね」
「そいつは悪い事をしたな」槇草が気の毒そうに言った。
「ふん、同情はいらねぇ。俺達には現場の方が性に合っているのさ。死神局の役人は虫が好かねぇからな」
「ところで、何の用だ?」青鬼が言った。
「私達は、閻魔様に急なお願いがあって参りました」凛が答える。
「今日の業務は終了だ」
「いえ、個人的なお願いです」
「駄目だ!・・・と、言いたい所だがその男には借りがある」赤鬼が槇草を見た。「閻魔大王様に聞いて来るから、少し待っていろ」
赤鬼は青鬼を残して建物の中に消えて行った。
「案外気の良い奴なんだなぁ」槇草が言った。
「おはん、どうやって生き返った?」熊さんが残った青鬼に訊いた。
「俺たちは何度でも生き返る。いや、死ぬことが出来んと言った方がいいかな」
「それも辛い事ですね」慈栄が言った。
「尼さん、分かってくれるのか?」
「人も涅槃に入るまでは何度でも生まれ変わります。その意味では皆同じです」
「お互い辛い身の上だよなぁ」青鬼がしみじみと言った。
赤鬼が戻って来た。
「閻魔大王様がお会いになるそうだ」
「本当ですか、赤鬼さんありがとう!」
「なぁに、大王様がお前に会いたいと仰ってな」
「閻魔様が?まあ、何でしょう?」
「行けば分かる」
「そうですね・・・皆さん参りましょう」凛は一行を促した。
「待て、行くのはお前一人だ」
「え、何故だ!」槇草が赤鬼に突っかかった。
「まずは、此奴と話してから閻魔様がお決めになる!」
「なにっ!」
「待って下さい槇草先生!私が閻魔様にお頼みしてみます。皆さんはここで待っていて下さい」
「仕方んなか、ここは凛に任せまっしょ」
「気を付けてね」慈栄が心配そうに言った。
「はい、心配要りません。行って参ります」
凛は赤鬼の後ろに着いて建物の中に入って行った。
4
「久しぶりだな、凛」
「閻魔様、お久しぶりです。その節は大変お世話になりました」
「そこに座れ」
執務机の向こうに座った閻魔は、凛をソファーの椅子に誘った。
閻魔というのも職名である。世間で言われているような厳つい顔の閻魔ばかりではない。当代の閻魔は麗しい美形の優男だ。
「今日の業務は終わったのでな、悪いがここで話を聞こう」
「有難うございます。実は明恵上人をお探ししております」
「明恵?」
「はい、八百年ほど前に亡くなられた高山寺の高僧です。今は兜率天におられると聞きました」
「ちょっと待っておれ」閻魔は机の上の帳面を開いた。
「それは?」
「おお、これか。これは、お前が以前来た時に見た電脳装置の端末じゃ。これさえあれば、何処でも検索が出来る」
そう言って閻魔は鍵盤を叩いた。
「おお、この坊主か。確かに八百年前に兜率天に送っておる。して、どうして探しておるのだ?」
「私がお世話になっている方達が、夢の精霊に騙されて夢に閉じ込められてしまったのです」
「ほう、夢にな・・・」
「夢の精霊が申しますには、明恵上人をお連れすれば夢から出してやると」
「なぜ夢の精霊がそのような事を言う?」
「夢の精霊は、とある悪事がばれて明恵様に石に閉じ込められたのです。それで、怨みを晴らしたいと・・・」
「待て、それでは明恵を連れて行けば明恵が危ないのではないか?」
「はい、ですから夢の精霊をまた石に閉じ込める策を、明恵様にお尋ねしに参りたいのです」
「それは難しいな」
「何故です?」
「兜率天は梵天界でもだいぶ上のステージだ。せめて預流果に悟った者でなければ行く事は叶わん」
「でも、どうしても明恵様にお会いせねばならないのです」
「困ったな・・・」
閻魔は腕組みをして、暫く考え込んだ。
「・・・ではこうしよう。お前が連れてきた人間の中に、預流果に達した者がおるかどうか見てみよう。もしいればその者には梵天界に入る許可を与えよう」
「もしいなければ・・・」
「諦めて帰るのだな」
「そんな・・・」
「例え私が許しても、梵天界を守る四天王は許すまい。これでも随分と譲歩しておるのだぞ」
「わ、分かりました。閻魔様、どうかよろしくお願い致します」
「うむ・・・ところで凛、奪衣婆は元気にしておるか?」
閻魔が急に話を変えた。
「婆様はお元気ですが・・・何故?」
「い、いや、元気なら良いのだ・・・凛、折り入って頼みがある」
「何でしょう?」
閻魔は机の引き出しから桐の箱を取り出した。
「これを、奪衣婆に渡してはくれぬか?」
「何ですか、これは?」
「いや、渡せば分かる。どうだ、引き受けてくれるか?」
「婆様にこれをお渡しすれば良いのですね?」
「そうだ、但し誰にも気付かれぬように頼む」
「分かりました、お預かり致します」
「そうか。頼んだぞ!」
「はい」
閻魔はほっとした顔で微笑んだ。
「ならば約束だ、人間達を見てみよう・・・赤鬼、人間達を此れへ!」
「御意!」
5
「私が閻魔だ」執務机の向こうから閻魔が言った。机の上には開かれた帳面が置いてあった。
「今日は時間外だが、特別にお前たちの審査を行う」
「審査ですと?」
「無門先生、明恵様がおられる梵天界には、最低でも預流果に悟った者でなければ入れません。どうか、閻魔様の審査をお受け下さい」凛が申し訳なさそうに言った。
「じゃっどん、どげな審査でごわすか?」
「なに、簡単だ。この浄玻璃の鏡でお前達のして来た事を確かめるだけだ」
「あ、それ聞いた事があります。一瞬でその人の人生が見えると言う鏡ですね!」
「そうだ、但し個人情報は尊守する」
「でも、どこにも鏡なんてありませんよ」
「これだ」閻魔は机の上を指した。
「そいは帳面じゃあいもはんか?」
「ふふふ、これは最新式の電脳装置だ」
「まだお前達の世界では一般に普及してはおるまい。これに情報を入力すれば、立ち所にお前達の審査結果が表示される・・・では一人ずつ名前と生年月日を教えよ」
「まず、儂から願おう。無門平助、明治三十七年十月四日」
閻魔が、カタカタと鍵盤を叩き、最後にポンと釦を押した。
「ふむ・・・合格!」
「なに、本当か!」
「電脳装置に間違いは無い」
「師匠が合格なら僕にも望みがあるな・・・次僕でお願いします」
「生年月日を言え」
「槇草悠、昭和二十年三月三日」
「あら、槇草君。ひな祭りに生まれたの?」慈恵がにやけた顔で槇草を見た。
「そ、そうですが・・・何か?」
「ヒヒヒ・・・別に」
カタカタと音が響く。
「不合格!」
「え〜っ、どうしてですか!」
「言ったであろう、個人情報は尊守すると・・・次っ!」
このようにして、慈恵、よっちゃん、熊さんが次々と玉砕していった。
「私で最後ね・・・堀忍、大正元年、二月十六日」
「ふむ、釈迦の命日の翌日か・・・」
カタカタカタ・・・ポン!
「はい、合格!」
「有難うございます」
慈栄は深々と頭を下げた。
6
「閻魔様は、このエレベーターで百四十階まで行けと仰ってましたね」
「ふむ、この建物がそんなに高かったとは・・・一体どうなっておるのじゃ?」
「この宇宙は平行世界なのです」そう答えたのは凛だった。「私たちは一つの宇宙にしか住めませんが、宇宙はクレープみたいに何層にも重なって存在しているのですよ」
結局、審査に合格したのは平助と慈栄の二人だけだった。他の四人はぶつぶつ言っていたが、三途の川の渡し場で待つように言って帰した。凛は黄泉の国の住人ということで特別枠で通してもらったのだ。
「一体何層くらいに別れているのですか?」
「殆ど無限大です。百四十階と言うのも単なる比喩でしかありません。このエレベーターに乗れば行きたいところに連れて行ってくれるのです」
「なんとも壮大な話じゃのう」
「平助さん、時間がありません。兎に角エレベーターに乗りましょう」
「おお、そうじゃった。梵天界にゆくのじゃったな」
「梵天界は四方を四天王が守っております。四天王には話を通しておく、と閻魔様が言っておられました」
「そうか、ならば急ごう」
三人はエレベーターに乗り込んだ。
「凛、ボタンが一つしか無いぞ!」
「そのボタンは人の心を読み取ります。押して見てください」
平助がボタンを押した。階数表示版に百四十の文字が現れる。
「着きました」
「なに、まだ何も動いてはおらんぞ!」
「このエレベーターは空間を移動するのではありません、直接繋がるのです」
ドアが開いた瞬間、ブワッと砂混じりの風が吹き込んで来た。
途端に慈栄が両手で目を覆った。
「忍ちゃん!」平助は思わず慈栄を俗名で呼んだ。
「大丈夫よ平助さん・・・」
エレベーターの外は砂嵐が吹き荒れていて視界が悪い。階数の表示ランプが点滅を始めた。
「ドアが閉まります!」凛が叫んだ。
「出るぞ!」
ここに留まっても先へは進めない。平助が先頭に立ってエレベーターを降りる。慈栄と凛がその後に続いた。
「無門先生、あちらに大きな岩があります。あの陰で嵐が止むのを待ちましょう」凛が右の方向を指さす。
「そうしよう。忍ちゃん、手を!」平助は右手を慈栄に伸ばす。
「大丈夫・・・」
「遠慮するでない。昔は手を繋いでヤクザの刃の中を突破した仲ではないか」
「えっ、本当に?」凛が思わず聞き返す。
「そんなこともありましたねぇ。遠い昔の話です・・・」
平助が慈栄の手を取って嵐に逆らって歩き出す。左手で目を庇っているので、ほとんど前が見えない。
「私について来て下さい!」凛が平助の前に出た。「私は死神ですので、嵐に物理的な影響は受けません」
「そうか、頼む!」
平助と慈栄は凛の後について行った。岩陰に入ると、ようやく少し風が緩やかになった。
「ふう、やっと目が開けられる。忍ちゃん目は大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。ちょっとゴロゴロしますけど」
「じきに砂嵐は収まります。それまでここにいましょう」
「それしかあるまい」
平助の感覚では、砂嵐は一時間ほど吹き荒れた。しかし、ここに時間というものがあるのかどうか分からない。
「嵐が収まりました。もう大丈夫です」凛が岩陰から出て言った。
平助と慈栄も出てきてあたりを見回している。乾燥した地面の上に、無数の岩が転がっていた。
「あそこに城門が見えるぞ」平助が言った。
どこまでも続く石の城壁の中央に、大きな鉄の扉があった。扉には大きな文字で『北』と書いてある。
「ここには門が四つあって、四天王が守っています。東方持国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天、ここは北門ですから多聞天です。日本では毘沙門天といえば分かり易いでしょうか?」
「夜叉や羅刹を従える、戦いの神じゃな」
「須弥山で説法をする如来を守る仏教の守護神とも言われています。きっと明恵様はここにおられます」
「行ってみましょう」慈栄が門に向かって歩き出した。
「待て!」
先程まで、平助達のいた大きな岩の上から声がした。
「どこへ行く!」
振り仰ぐと苦悶の表情を浮かべた鬼がいた。
「邪鬼です、説法を邪魔しに行くのでしょう」凛が平助を見て小声で囁いた。
「多聞天様に会いに行きます」慈栄が答えた。
「会ってどうする?」
「お主には関係のない事だ」慈栄に代わって平助が応える。
「そうはいかん。あの門は俺が先に通るのだ、お前達は後にせよ」
「生憎だが、儂らも急いでおるでな」
「力尽くでも行かせはせん!」
邪鬼は軽々と岩を蹴って、地上に降り立った。まるで猫のように身が軽い。
「忍ちゃん、凛、下がっておれ」
「ほう。爺い、人間の分際で俺とやるつもりか?」
「爺いで悪かったな・・・試してみるか?」
「ふふふ、すぐ楽にしてやるぞ」
邪鬼は、平助を老ぼれと見て侮っていた。牙をむき出して笑いながら近付いて来る。
平助は邪鬼をギリギリまで引き付けると、いきなり前蹴りで邪鬼の腹を蹴り上げた。
思わぬ攻撃に、蟇の潰れるような声を発して蹲る邪鬼。腹を押さえながら平助を睨み上げる。
「油断した・・・だが今度はそうは行かん!」
それからの邪鬼の動きは素早かった。点々と転がる岩陰を伝って目まぐるしく移動し、急に飛び出して平助に襲い掛かる事を繰り返す。
岩を隠れ蓑にした奇襲戦法で、平助に息吐く間も与えない。
「このままでは埒が開かん!」
躱し続ける事に業を煮やした平助は、右足を引いて入身の構えを取った。
『目で見るのではない、心眼で捉えよ』
平助は自分に言い聞かせた。
平助の構えに邪鬼も警戒しているのだろう。辺りが急に静かになった。
どのくらい経っただろう。その時、ふと、風が動いた。
「そこだ!」
平助の躰が滑るように前に出る。
抜き打ちの居合のような超高速の拳が、邪鬼の顔面にめり込んだ。
邪鬼は声もなく、白目を剥いて転がった。
「馬鹿な奴だ、爺いと見て侮ったな」聞き慣れぬ声がした。
「無門先生!」
「平助さん!」
凛と慈栄の声が重なった。
「なに!」
平助が振り向くと、そこには百匹を超える邪鬼がいた。
「見事な腕だが、この数では叶うまい」
他と比べて一回り大きな邪鬼が前に出た。
「お主が頭か?」
「そうだ、諦めるんだな」
「平助さん、いくらなんでも多過ぎます。諦めるしかありません」慈栄が悲壮な声で言った。
「むむぅ・・・!」
ギギギ・・・
その時、扉が軋む重い音が響いた。
「お頭、門が開く!」邪気の子分達が口々に叫んだ。
「よし、行くぞ、今日こそ多聞天を倒して如来共を皆殺しだ!」
『応!』子分達が声を揃える。
平助達を無視して、邪鬼達が一斉に門を目指して走って行く。
「無念じゃ・・・」平助が悔しそうに唇を噛んだ。
「如来を殺すなど、罰当たりな者達です!」慈栄が憤った。
その時、門の方から嬌声が聞こえた。
我先に門内に駆け込んでいた邪鬼が、弾き返されている。
「性懲りも無く、また来たのか!」
門から巨大な人影が現れた。小脇に太い偃月刀を携えている。
「ここはお前達の来る所ではない。怪我をしたくなければとっとと帰れ!」
「なんじゃあれは!」平助が目を見開いた。「まるで関羽のようじゃ!」
「平助さん、あれは多聞天様ですよ!」
「あれが・・・」
邪鬼の頭が怒鳴った。
「煩い、今日こそはお前を倒して如来を一人残らず殺すのだ!」
「ならば容赦はせぬ!」多聞天の顔が怒りの表情に変わった。
多聞天が偃月刀を構えると、邪鬼が一斉に殺到した。
「及ばずながら助太刀致す!」平助が駆け出した。
「平助さん!」
「先生!」
慈栄と凛の叫び声は、邪鬼達の嬌声に虚しく掻き消された。
多聞天の偃月刀に、次々と邪鬼どもが薙ぎ倒されて行く。
平助も奮戦するが、多聞天の強さには舌を巻く他無かった。
あっと言う間に、邪鬼の一群は頭を残すのみとなった。
「ヒ、ヒー!お、お助けを!」邪鬼の頭は不様に額を土に擦り付けている。
「見よ!お前の所為で子分達はこのザマだ!」
「わ、私が悪うございました、お、お許しを!」
「駄目だ!」
邪鬼の頭が多聞天の大きな足に踏み潰された。断末魔の声が城壁に跳ね返って谺となって響き渡った。
「そこの人、見苦しい所をお見せした。何か御用かな?」
邪鬼の躰から足を退けながら多聞天が平助達を見た。
慈栄が一歩前に出た。
「多聞天様、私は現世で仏法を学ぶ慈栄と言う者です。八百年ほど前に此方に来られた明恵上人を捜しております」
「明恵・・・とな?」
「はい、栂尾の高山寺を開かれた僧です」
「ああ、思い出したぞ、あの夢見がちな僧か?」
「鎌倉時代に、夢の記を記されました」
「ふむ、で、何故捜しておるのだ?」
「それは儂がお答え致しましょう」平助が前に出た。
「先程は助太刀忝い。そちは武人かな?」
「現世で些か武術を学びました。ですが、多聞天様のお働きを見た後では、とても恥ずかしゅうて武人などとは申せません。名は無門平助と申します」
「覚えておこう。して、その理由とは?」
「儂らを含め六人の者が、夢の精霊という妖怪に騙されて、夢の中に閉じ込められてしもうたのです。夢の精霊は、『三日以内に明恵上人をお連れせねばお前達は永久に夢の中を彷徨う事になる』と言うのです。彼奴は明恵様に恨みを抱いておるようでした」
「それで、明恵を連れ帰るつもりか?」
「いえ、それは儂らも考えてはおりません。ただ、夢の精霊を再び封じ込める方法を教えていただければ・・・と」
「ふむ、理由は分かった。だが、もう一つ聞いておきたい事がある」
「何なりと」
「お主達はどうやって此処へ来た?」
「私がお答え致します」今度は凛が前に出る。
「お主は黄泉の者か?」
「はい、ご推察の通り・・・」
「誰に断ってこの梵天界に?」
「閻魔大王様に」
「そうか、閻魔が許したのか」多聞天は暫し考えてから口を開いた。
「閻魔が許したとあれば仕方ない。付いてまいれ!」
『ありがとうございます!』三人の声が重なった。
7
連れて行かれたのは、宮殿のような建物だった。太い朱の柱に凝った龍の彫り物が施してある。
多聞天は、護衛の武官に声を掛け平助達を部屋の中に誘った。
部屋の中は質素で、中央に大きな長机と背もたれの高い木の椅子が六つ置いてある。
入り口の扉から一番離れた場所に執務机が置いてあり、紙の書類と木簡が山のように積んであった。多聞天は堆く積まれた書類の向こう側に回って座った。
「近頃は我々も雑務を強いられておる。現世からの碌でも無い願い事が増えておらからな」自重気味に笑いながら、多聞天は平助達に長机に座るよう促した。
「それはご苦労な事です」平助は多聞天の愚痴に相槌を打つ。
美しい女官が茶を運んで来た。
「夜叉姫だ。儂の秘書のような仕事をしておる」多聞天が紹介して平助達三人が頭を下げた。
「夜叉、明恵をこれへ」
「明恵殿・・・ですか?」女官は帳簿を捲って答える。「明恵殿は只今弥勒菩薩様の抗議に出ております」
「いつ終わる」
「三日後です」
「それでは間に合いません」慈栄が悲痛な声で訴えた。
「弥勒様に儂が申したとお伝えせよ」
「しかし、ここでは抗議が最優先事項です、余程の緊急事態でなければ・・・」
「閻魔がこの三人を寄越したのだ。十分緊急事態だろう」
「御意!」
女官が礼をして、足早に出て行った。
「多聞天様、恩にきます」凛が深く頭を下げた。
「なに、久々に運動して気分が良いのでな」
「儂は未だ多聞天様ほどの技量をお持ちの方を、見た事がありません。さすが梵天界は現世とはスケールが違う」
「無門平助、お主の働きも見事であったぞ。人間にしておくのは惜しい。ここに留まって儂の副官にならぬか?」
「仲間が夢に閉じ込められて待っておりますゆえ。それに、このような老ぼれでは務まりますまい」
「姿は望み次第だ」
「では、いずれこの命が尽きましたら」
「ははは、楽しみにしているぞ」
軽く扉を叩く音がした。
「入れ!」多聞天が応える。
先程の女官が扉を開けて入って来た。
「お連れしました」
女官が引き下がると、若い美貌の僧が立っていた。
僧が入ると、女官は扉を閉めて出て行った。
僧は平助達を一瞥し、ゆっくりと多聞天の側まで進み頭を垂れた。
「明恵、お召により参りました」
「うむ、急ぎ故、用件を言おう。お主に会いたいという人間が来ておる、会うか?」
「はて、私が此方へ来て八百年、現世に私を知っておる者など居らぬと存じますが?」
「そうでも無い、お主の思う以上にお主は有名人らしいぞ」
「お戯れを・・・して、私に会いたいと申すのはそちらの御仁ですかな?」明恵は平助達を振り向いた。
三人は椅子から立ち上がり挨拶をする。
「儂は、無門平助と申す」
「私は、慈栄。尼寺の住職をしております」
「私は凛と申す死神です」
明恵は三人に向き直り腰を折った。
「明恵です。私に御用とは?」
「単刀直入に申しましょう。夢の精霊を再び石に閉じ込める方法をお教え下さい」平助が言った。
「夢の精霊?」
「そうです、明恵様が八百年前、石に封じ込めた妖怪です」
「ああ、思い出した・・・して、再びと申すのは封印が解けたと言う事ですかな?」
「そうです、儂の所為で仲間が夢の中に閉じ込められております。三日以内に明恵様をお連れせねば皆夢から出られませんのじゃ」
「して、今日は何日目かな?」
「今日が三日目になります。急がねばなりません」
「気の毒だがそれはできぬ」
「分かっております。ですからせめて夢の精霊を石に閉じ込める方法を・・・」
「いや、そうでは無い。此方の時間は現世の時間とは流れ方が違う。あなた方が来てから、現世ではもう数十年は経っています。今戻っても顔見知りの人間は一人も居らぬ筈です」
「な、何と・・・」平助がガックリと肩を落とした。
「では、私達は夢の精霊に騙されたのですね」
慈栄は法衣の袖を瞼に当てて涙を拭った。
「そう気を落とされるな、方法がない訳ではない」
「え、ほ、本当ですか?」
「だが、危険な方法ではあります」
「構いませぬ、その方法とやらを教えて下され」
「貴方が夢の精霊と出会う前の世界に戻るのです。そして夢の精霊を封じ込めた石を粉々に砕いてしまうのです」
「そんな事が、本当に出来ますのか?」
「それには多聞天様の許可を取らねばなりません」明恵は多聞天に向き直る。「多聞天様、“虫喰いの井戸“を使わせて頂いても宜しいでしょうか?」
多聞天は眉間に深い皺を刻んだ。
「成功率は千に一つ、いや万に一つかも知れんぞ」
「それでも・・・やらぬよりはましじゃ。戻るのは儂一人で良いのじゃな?」
「そうです」
『それはあまりにも危険過ぎます!』凛と慈栄の声が重なった。
「心配するでない。儂は運の強い男じゃ。先の戦争でも何度も死地を乗り越えた」
「失敗すればこの世からお主の存在自体が消えてしまうのだぞ。二度と生まれ変わることは叶わぬ。それでも良いのか?」多聞天が確認した。
「構いませぬ」
「そうか、それでは“虫喰いの井戸“の使用を許可しよう!」
8
「“虫喰いの井戸“と言うのは、簡単に言えば時空間の裂け目のことです」歩きながら、明恵は淡々と説明を始めた。
「詳しいことは省きますが、とにかく時空がねじれていて、他の場所に出るトンネルが繋がっているのです」
「では、そのトンネルを通って行けば、夢の精霊と会う前の世界に戻れるのじゃな?」
「そう簡単ではありません。そのトンネルの中は、重力の力があまりにも強いので体が物質の最小単位にまで分解されてしまうのです。うまくその世界に戻れたとしても、再生される保証はありません」
「結構、して、夢の精霊に会う前に戻るには?」
「強く念じるのです。それしか方法はありません」
「承知!」
「此処です」明恵が平助に言った。
そこは、宮殿の北の外れにある寂れた場所。嘗ては菩薩の説法の場であったそうだが、現在講堂は新しく南側に建設され、此処は忘れられた場所になっているらしい。
”虫喰いの井戸”は古い講堂の裏手にあった。
注連縄で結界が張られた二坪ほどの土地の中央に、角材で井桁に囲われ、鶴瓶と桶の取り払われた井戸が見えた。
「入られよ」
明恵は結界を腰を屈めて潜りながら平助を促した。
平助は明恵に続いて結界を潜り井戸の淵に立ち中を覗いた。真っ黒い穴がどこまでも続いていた。
「一度飛び込んだら、後戻りは出来ません」
「覚悟は出来ており申す」
「そうですか。では私が華厳経を唱えます、終わるまでにこの井戸に飛び込んで下さい」
「承知致した」
明恵が厳かに経を唱え始める。平助は気を集中して夢の精霊に会う前日に戻れるように念じた。
「・・・・・・則ち一切諸佛の無上なる大不共の法を得ん」
明恵が華厳経を読み終えた時、平助の姿はどこにも見えなかった。
9
まるで躰が饂飩になったような気がした。麺棒で無理やり引き伸ばされるような感覚だ。
道路工事のロードローラーに引かれたら、こんな感じかも知れない。
激痛を感じたが、圧迫された喉からは声も出なかった。
それも一瞬の事、平助の意識は闇の中に吸い込まれて行った。
「此処はどこだ?」
目を開けると周りは漆黒の闇だった。どちらが上で、どちらが下かの判別も難しい。躰の節々が酷く痛む。
指先に、湿った砂の感触があった。どうやら砂の上に横たわっているらしい。
そっと右手を伸ばしてみる。
濡れた毛布のような物に触れた。しかしそれは表面だけの事で、強く押すと硬い感触が押し返してきた。
「石か?」
湿った石の上に苔が生えているらしい。身を起こして周りを手探りしてみる。
どうやら狭い穴のようだ。
目が慣れてくると、真上に紗のかかったような丸い形が見えた。
「虫喰いの井戸の底か?それならば、現世に戻れなかったのか?」
平助は愕然とした。
「明恵殿!」
大声で叫んだが、返事が無い。
「儂がいなくなったと思って戻ったか・・・いや、待て、虫喰いの井戸の口は四角だった筈じゃ」
その時、一条の黄色い光が頭上から差し込んだ。
その光は徐々に大きくなって行った。まるで半眼に開かれた釈迦の瞳が、大きく見開かれて行くみたいに。
やがて、朧げだった円い形がハッキリと満月になった。月が平助の真上で光っていた。
「月じゃったのか」平助が呟いた。
「儂はこうやって生きておる。という事は現世に戻れたという事じゃ。まずは此処から外に出ねばなるまい」
月の光で辺りを見回すと、円い石を積んだ壁が遥か上方の井戸の口まで続いていおり、所々に羊歯類の葉っぱが生えている。
「石の隙間に手を掛けて登れぬ事も無い」
平助は頭の高さの石に左手を掛けた。
「思った以上に滑る」
右手をさらに上方の石に掛け、右の爪先を石の隙間に滑り込ませた。
左足を蹴り一気に体を引き上げた。
壁に取り付いて顔を上げると、満月が井戸の縁から欠けて行こうとしている。
「急がねばまた暗闇に逆戻りじゃ」
慎重に足場を確かめて少しずつ登って行く。
三分の二ほど登った時、突然右手がヒヤリとした。
平助が思わず手を引くと青大将がウネウネと身をくねらせて石の隙間に潜って行った。
「危うく落ちるところじゃった。蝮でなく助かったが・・・」
井戸の縁に手を掛け地上に躰を引き上げる。井戸の周りは杉林の斜面だった。
「此処は見覚えがある」
月明かりで斜面を見上げると石の階段の先に山門があった。
「あれは弥勒寺の山門、ならば此処は”底なしの井戸”」
弥勒寺の三門の脇には、使われなくなった枯れ井戸がある。
『”底なしの井戸”といって地獄へ通じていると言う言い伝えがあります』
いつだったか慈栄が教えてくれた。
平助は閉じた山門の前を通り、寺の裏手へ回る。炭焼き小屋があった。いつも此処へ来ると泊まることが多い。
炭焼き小屋の脇を通って上へ登ると小さな沢に出た。一気に飛び越して更に上へと急いだ。
やがて杉の大木の下に、壊れかけた祠が見えた。
「あれじゃ!」
平助は駆け寄り、そっと祠の戸を開ける。中に、卵型の黒い線の入った石が鎮座していた。
石を取り出し、平助は又駆け出した。
今度は急な斜面を下って谷底に降りる。
大きな岩がゴロゴロと転がる河原に立つ。
平助は徐に両手で石を頭上に持ち上げた。
「待て、何をする!」
石の中から夢の精霊の嗄れた声が聞こえた。
「悪く思うな!」
「わ、儂が何をした!」
「今からするのじゃよ!」
平助は思い切り両手を振り下ろす。
石は破片になって飛び散り、その破片が割れた鏡のように夢の精霊と枕返しの顔を映し出した。
平助は破片を拾い集め河原の石を手にとって、丁寧に砕いて行く。
砕かれた石は光る砂になって足元に散らばった。
それを手で掻き集め川に撒く。
光る砂は、一度川底に沈み漂砂となって川を流れ消えて行った。
「終わったな・・・」
平助はしゃがみ込み、放心したように大岩に背を預けて目を閉じた。
眼がさめると、日は東の空に登っていた。
「さて、確認じゃ」
よっこらしょっ、と腰を上げて、平助は弥勒寺の山門を目指して歩き始めた。
石の階段は掃き清められ、山門は開いていた。清々しい境内の様子を窺う。
本堂で手を合わせ、庫裏の前に立つ。
「ごめん、住職はおられるか?」
「は〜い、その声は無門先生でしょ?ちょっと待っててくださいな」
奥から元気なよっちゃんの声が聞こえた。
「良かった、何もかも元どおりじゃ・・・」
10
「無門先生、他の方達は何も覚えておられぬようです」
「凛、お主は覚えておるのかの?」
「はい、やはり私は死神なのですね。皆様とは違う時空の中で生きているようです」
「じゃが、この度の事はお主がおらねば解決は危うかったであろう」
「変ですよね、死神が生きている人間を助けるなんて」
「お陰でみんな生きておる」平助が微笑んだ。
「私は、また禁を冒しました。これ以上此処に居ることは叶わなくなりました。そろそろお暇いたします」
「死神局には戻れるのか?」
「閻魔様の計らいで」
凛は今回、閻魔から預かった物を奪衣婆に届けた。その中身が何なのかは分からなかったが、閻魔がひどく恩に感じているらしい事は分かる。
「そうか・・・では、一つだけ頼みがある」
「何でしょう?」
「儂が死ぬ時、お主が迎えに来てくれぬか?」
「まあ、無門先生縁起でも無い事を」
「人は曖昧に生き、曖昧に死んで行くもの。儂とていつ死ぬか分からん」
「先生は此の世にやり残した事など、おありにならないのですか?」
「やり残した事・・・か。そうじゃな、武の道をもっと楽しみたかったな。それ故に王は、死んでも妖怪になって現世に留まった。儂は多聞天様の部下となって、武の真髄を学ぼう」
「分かりました。その時が来たら必ずお迎えに参ります」
「それを聞いて安心した。宜しく頼む」
「では、長らくお世話になりました。皆様の記憶の中から私を消して参ります」
「儂の記憶の中からも、かの?」
「はい」
「そうか、寂しくなるな・・・達者で暮らせ」
「先生も」
「さらばじゃ」
「おさらばで御座います・・・」
凛の姿は煙のように掻き消えた。
「さて、弟子入りを楽しみに余生を送ろうか」
死神 凛 完




