第1話 テルテルとガン
世間は夏が始まったばかりだった。
東京は例年通りの蒸し暑さに加えて各所でゲリラ豪雨に見舞われるという、ある意味理不尽な状況に支配されていた。汗でビショビショになるか雨でビショビショになるかしかない。一部の特殊な人間は喜んでいそうなそんな相変わらずの陽気である。
それでも取りあえず喫緊の心配事が無いのであれば、『間田 育輝』は例年通りグチを吐きながらビールでも飲んでダラダラと仕事に勤しんでいただろう。
しかし今の彼を支配しているのは理不尽ではあるものの、夏の空模様でもなければ差し迫った納期でも無い。どちらかと言えば、中学生の頃に考えた様な状況だった。
もう少し具体的に言えば「明日死ぬとしたら何をやりたいか?」と考えてしまう様な状況であり、彼は冗談抜きで明日にでも死にそうなのだ。
この『間田 育輝』氏は御歳26才の不健全な好青年である。不健全なのは彼の精神の一部と体のほとんどの部分であり、それが『明日にでも死にそう』な状況の原因ということになる。
彼は肝臓癌であると言ってもいいか微妙な状態に置かれている。何故ならガン細胞は身体中に転移しており、彼の正常細胞とそっくり入れ替わろうという勢いで増殖中である為だ。
であるから彼は『肝臓癌』というよりはもはや身体中がガンであり、病名自体が実に無意味に思えるほどに危機的な状態でそして無力だった。
彼自身は己の身に何が起こったのか知らされてはいたが、職場で倒れてから病院に担ぎ込まれ、検査の後に病名が告げられてもいまいち実感がわかない事に戸惑いを覚えていた。
3年前に付き合っていた彼女と別れて以来、自分はまだまだ下半身も元気だし、このあとも今の仕事を続けながら「たまには風俗か何かで遊んでスッキリしちゃおうかな……」などと漠然と考えていたし、もちろんそういう日もあったのである。
それに加えて、出来ればまた良い恋愛でもして結婚だってしたかった。
ところが彼の人生は、そういう散文的でやや不健全でも幸せなストーリーにはなりそうに無いようで、そういった平凡な楽しみの全てがバスンと断ち切られる様に終わろうとしていた。
「オレ、もうすぐ死ぬんだな……」
彼の口から出たセリフは非常に小さくかすれていて、どこか他人事を呟いている様である。
この病院に搬送されてからもう2日以上は経過していた。
家族もやってきていたが、何を話したのか彼は覚えていなかった。誰かが声を殺して病室の外で泣いていた気がするが誰だったかは定かでは無い。
今のところ精神的には凪の状態と言っても良かったが、嵐の前の静けさと言ってもよくいずれ破綻することは目に見えていた。
身体中に痛みもあったためによく眠れず、彼は夜中に暇潰しでもしようかとスマホに手を伸ばした。
ただ結局のところ、彼は自分が予想した以上に弱っており、もはやスマホをまともに掴むことさえ満足に出来なかった。手を伸ばしてもうまく力が入らずズルりと滑り落ちたスマホは床に当たってカチャンという音を立て、これがきっかけになって、とうとう彼の精神は崩壊した。
彼はまともに体が動かないことを嫌というほど自覚した。死期が近いことを思い知らされたが、最早どうにもならなかった。
「クククク、アハハハハハハハハハハハ……」
間田 育輝は凄まじい勢いで笑い始めた。目は見開き、肩で息をしているにもかかわらず、狂気的な笑いはしばらく止まらないようだ。とうとう『死』の実感が襲いかかってきた時に、出たのがバカ笑いだというのはいかにも彼らしいが、心情的には泣きわめいているのと大差無いだろう。
「アヒャヒャヒャヒャ、ヒーヒーヒー、嫌だ! 嫌だァァァァァ! 誰か、誰か何とかしてくれよ。頼むよ!」
幸いにも6人部屋の病室には、彼の他に誰も居らずガランとしている。
ナースコールでも押さない限り誰もやってきそうに無い夜の病院のベッドの上で、彼はとうとう叫び出してしまった。今までの淡々とした様子がウソの様な醜態だ。それでも彼の置かれた状況を考えれば、やっと人間らしい正常な情動が戻ってきたのだと言えるだろう。
「ん~、大分まいってるワネェん。まぁ気持ちは分かるんだけど、私の話聞こえてる?」
あまりにも唐突だった。
先ほどまで誰も居ないはずの病室に2人の女性が立っていた。窓際の方だ。
2人とも日本人には見えなかったが人種不明のいかがわしい雰囲気は共通している。
両方とも目は青く顔立ちは整っていたものの、今言葉を発した方の髪はメタリックな赤でもう一方はメタリックな青だった。
「何か打つか、嗅いでもらった方が良いでしょうか?」
ここで青い方が赤い方に聞いた。
「もうちょっと待ちましょう。彼が落ち着くまで。まだもうしばらくは死なないわ」
育輝はと言えば笑い声は大分おさまったものの、今度は放心したようになっていた。落ち着いてきたらしい。
ここで彼はやっと彼女たち2人に気がついた。頭はズラっぽい上に、コスプレイヤーの様なオーラをまとう国籍人種不明の2人に……。
「提督、やっとこちらに気がついていただけたようです。何かする必要が無くて何よりです」
青い髪の女がやや物騒なことを言ったようだが、それに対して『提督』と呼ばれた赤い髪の方はのほほんと答えた。
「良かったわ! ごめんなさいね、間田さん。うちの参謀が変なこと言って。ところで『テルテル』って呼んでも良い?」
ようやく育輝は反応した。
彼は2人の女をまじまじと見てから、上を向いて少しため息をついた。
彼はまず、目の前の光景をガンの末期症状における幻覚であると判断した。
己の精神が相当まいっている事については自覚がある。自分の脳ミソというヤツは最後にこんな者を見せてどうしようというのか、といった風に考えていた。
それでも目の前の幻覚は消えてくれなかったし、やや心配そうな顔をしつつまばたきもしないで彼を見ている。
「出来が悪い幻覚だ。俺はとっくにそういうのから卒業したと思ってたんだ……。君たちは秋葉原かどこかの移動販売の人? それとも出張サービスか何かかい? 時間は遅いけど風営法に引っ掛からないか?」
そんな育輝の問いかけに対して、提督と参謀は額に手をあてながらそれぞれが「もっと違う格好で来ればよかったわ」というような風情の表情を作る。
「提督、やっぱりもっと普通の服装と髪型の方が良かったんだと思います。私は最初の段階で申し上げました」
「ん~、やっぱりもっとこう思い切った方が良かったわね! 超ミニのスーツにして背中に3連装砲か魚雷投射機でもしょって来れば、まだ評価は高かったかもしれないわ……」
「あー悪いんだけど、俺はそういうゲームもやって無いんだ。あと本当に申し訳ないんだけどガンで死にそうなんだよ」
通常の反応からずれたやり取りをする2人の女性のおかげか、彼の方は再び何とか落ち着いてきた。
「そう! それよ。私たちね、今晩はその件でテルテルに話があんのよ。丁度ガンになったって聞いたから、あなたのことスカウトに来たわけなの」
提督と呼ばれている女が、何やら胡散臭いことを言い始めた。ついでに彼の呼び名は、たとえ呼ぶなと言ったとしても『テルテル』という風に決まってしまいそうな雰囲気が濃厚だった……。