自死がなんで悲しいのか考えた
考えたことがなかったと思い、自死について自分なりに考えてみました。
こうゆうのの積み重ねが、大事かと思いました。
坂口恭平さんは生き方の達人です。辛くなったらコンタクトとるのも手です。
自死について考えてみたいと思う。結論を言うと自死とは、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観をともなわない、至極単一で個人的・私的=孤独という認知、な死である。自死を防ぐためには、その単一で個人的・私的=孤独という認知、な状態にある自死念慮者を人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観へと導く、ということである。
まず、私は、命そのものに対して絶対の普遍的な価値があり生きていることが無条件で素晴らしい、とは捉えられない、ということだ。悲しいかな、同じはずの命であったとしても、人間の命と、食用の家畜の命、同じ命なのに差がある。人間と家畜を同等に並べるなという意見もあるかもしれないが、私はどうも、それを区別してなお、自死を考えることが、どうしてもできなかった。そんな現実を前にして「命は大切だ、生きているだけで素晴らしい」ととても言う気にはなれない。むしろ、命そのものに価値があるならば、もしかしたらそれは思っているよりもおざなりなものかもしれない。
だからこそ、我々人間はそのおざなりな命の価値を変えることができるのではないか。それが、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観である。誰かが自死して周囲の人々が悲しむ時、その悲しみは命そのものの消失による悲しみではない(命そのものの価値はおざなり)。自死者とその周囲の人間との間でつくり出される公的な想像・世界観が損傷を受けたから悲しむのである。よって、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観においての死というものは、儀式的な要素を必要とする。死期を悟る、終活、そして死後の葬式。それを経て初めて人は穏やかに損傷をゆっくりと受け入れるのだ。しかし。自死とは単一で個人的・私的=孤独という認知、なアクシデントである。そこには人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観に沿う死の儀式的な要素を欠いているがゆえ、周囲の人間に著しい損傷を与えるのである。もし、自死にそれが含まれていたならば、自死ではなく、尊厳死や安楽死といったものになるだろう。人の本質は個人的・私的=孤独という認知、な命ではなく、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観なのかもしれない、今のところは。
自死念慮者は単一で個人的・私的=孤独という認知、な状態を抜け出せぬがための自死念慮者であり、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観へと開かれていくのは難しい。我々ができることといえば、自死念慮者に、貴方の本質は単一でない、貴方の苦しみは個人的なものでも、私的なものでもないと語りかけ、貴方の生きられる世界は一つではない、一つの命に対してこの世界は不定形でたくさんの想像と世界観があり、そのどれかできっと生きることができる、その姿をみせ、ゆっくりと導くことである。命そのものの価値はおざなりだが、貴方の命が尊い人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観、貴方が貴方たるところの世界がある。そちらに賭けてみて欲しい。なぜなら、誰かにとって、共につくってきた想像・世界観の大切な柱を失うことは、とても辛く寂しいものだからだ。人は誰しも誰かと意識せずとも人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観がある。喪失によって苦しみ、涙を流す人がきっといる。もし可能ならば、生きてみて欲しい。私の前に自死念慮者がいたら、私はこう語りかけてみる、私は今貴方と、会話したという関係性=私と貴方の間でつくり出される公的な想像・世界観があるから、生きてみて欲しい、と。
追記
対面者を個人的・私的=孤独という認知から人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観へと導くために、対面者と相互に自己紹介をするのが良いのではと気づいた。
「こんにちは。僕は○○といいます。貴方の名前が知りたいです」
「僕は△△が好きなんだけど、君は好きなことって、なんか? 趣味とか、歌手とか、映画とか、ドラマとか、ある?」
「今までの人生で一番の覚えてることって、ある?」
坂口恭平さんも、似たような会話をしていた気がする。対面者の話を聞くことで、自身の中に人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観(=名前、趣味、好きな歌手・映画・ドラマ、思い出)があることを自覚させられるのかもしれない。