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第3話 ときの港3

 雲ひとつない夜空には煌びやかな星が瞬いている。と、思っていたらその下を夜目にも見える真っ白な雲が悠々と流れていった。

 大きくて白い雲はぼくの何倍も大きくて、それがクジラの腹だと認識した途端、少しだけ身が竦む。店の中で一匹だけ見た桃色の魚も、外に出ればたくさんの数が旋回していた。ドレスのような尾ヒレがそこかしこに舞っている。

 不思議なのはそれだけで、あとはよく知る夜の姿だった。

 耳が切れそうなくらい、風邪が冷たい。

 肩で息をすると、鼻がつーんとして目頭が熱くなった。

 停泊所にある灯火はひとつだけ。けれど一際大きく一際暖かい色をしている。

 その明かりの下で、ひとりの男性が座っていた。明るい色の茶髪に、どこかの工場務めに見える草緑色の作業服。

 空を泳ぐ魚たちを見ても驚いている感じはしない。

(何をしているんだろう)

 呆然と、ただ座っているだけの男性を見て率直に思った。同時に全てのものが幻想であるような気がしてくる。

 目の前のひとも、魚もクジラも、落ちていった女の子も。本体はまだ喫茶店にあって、眠りこけているのだろうか。

 何が現実で何が幻想なのか、そんなことを考えていると、不意に男性がこちらを向いて目が合った。

 大きく見開かれる目。

「キョウコさん……?」

 祖母の名が聞こえた気がした。

「あ、いや、ぼくは」


「お孫さんだってさ」


 中性的な、テノールの声。

 聞き覚えのある音に振り向くと、喫茶店の店員さんが腕を組んで立っていた。詰襟のシャツに着流し、カラス色の羽織。カウンターで見えなかった足元は膝丈のロングブーツだった。

 海のようだった瞳に、今度は月の光が詰められている。

 店員さんの言葉を聞いて「まご……?」と首を傾げた男性は一拍置いて声を上げた。

「孫だァ?!」

 口を開けたまま硬直する男性に、店員さんがひとつの茶封筒を渡した。一般的な茶色い封筒。渡しながら「残念だったね」と、店員さんは意地の悪い笑顔を浮かべている。楽しんでいるようだった。

「……おふたりは祖母をご存知なんですか?」

「ご存知も何も、キョウコさんとは(ふる)い友でなァ」

 旧い、と、店員さんも呟く。

 昔からの友人ということなのだろう。けれど、目の前の男性は三十代前後に見えるし店員さんはもっと若い。

「で、なんだ? 懐古屋になるつもりでここにきたのか?」

「あ、いえ、今日からアルバイトで……喫茶店の下の、売店で」

「喫茶店……? どういうことだい、ナツキさん」

 ぼくたちの視線が店員さんに注がれる。モノクルの奥の瞳が上を向いて、店員さんは困ったような溜息を吐いた。

 そんな店員さんを他所に、男性はぼくの肩に腕を置いて、楽しげにまた話し出す。

「そういえば、なんでお前は息咳切らして走ってきたんだ?」

「……制服を着た女の子が停泊所から海に落ちていったのが見えて、慌てて。でもぼくの気のせいだったんだと思います」

 そう答えた途端、寒さが足元から襲ってきて、ぼくは思わず肩を窄めた。慌てて飛び出したから喫茶店に全部置いてきたんだった。そんなぼくに店員さんが自分の羽織を掛けてくれる。

 優しさかと思ったけれど慈悲のような目をしていた。

「……俺の監督不行届だ、ごめん。入水癖(じゅすいへき)がある友人なんだ」

「入水……?」

 気にしないでください、と固い笑顔で言う。

「この調子だとキョウコさんから何も聞いてないみたいだなァ。どうするつもりだナツキさん」

「どうもこうも……。お孫さんが京子さんのことを知りたがるのは必然だしそのうち来るとは思ってたさ。それに、京子さんがやってたことはお孫さんにしか出来ない。頼まれてくれるのが一番ありがたいんだけど」

 「祖母がやってたことって、一体」

 「ただじゃァ教えられないね」

 狂言師のように茶封筒を口元に寄せて、男性はにたりと笑った。対して店員さんは思案するように顎に手をやってひとしきり唸っている。

 「教えられない、というか教えにくい、が正解なんだが。それに、おばあさんがやってたからって、お孫さんが継ぐことでもないしね。……海の聖が呼んでいる。そろそろ帰った方がいい」

 ぼくの隣をクジラが通っていく。テレビや時間でしか見たことがない大きさのそれに、やっぱりぼくは恐れおののいた。その周りを美しい桃色が舞う。

 初めはその二種類しかいなかったはずなのに、気づけば様々な種類の生き物たちが辺りを泳ぎ回っている。

 夜の色が濃くなり、街灯の橙が一層瞬く。すでに港の外は大人たちの世界に変わっていた。

 「また、来てもいいですか」

 ぼくはまだ子どもだ。いろんなものに守られて、助けられている。だから、帰りたくなくてもそう言うしかない。

 「是非に、いつでも。夜になる前においで」

 そんなぼくに、店員さんが微笑んで頷いた。

 夜風が吹く。水色のクラゲが風に吹かれたようにゆらゆらと流されていった。

 初めて祖母と話がしてみたいと思った。同時にもっと話をすればよかったと後悔もした。今はもう叶わぬことだけど。


 祖母が、世良京子が見ていたものを見てみたい。

 ただ、今日はよくそんなことを考える一日だった。

 


◇◇◇



 「そいえば名前、なんて言うんだ? いつまでも孫だ孫だって言うのは可哀想だろ。俺はエイギ、配達人をしてる」

 「俺はナツキだ。魚の月で、魚月。好きに呼んでくれて構わないから」

 「あ、(あらた)です。よろしくお願いします」


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