王宮の片隅ででも、ひっそり暮らせればいいやと思っていたのだが……
さっさと行けと言われてしまいましたよ、と思いながら、アキは仕方なくさっさと行こうとしたのだが。
ふと気になり、
「ちょっとお待ちください」
と言って、あの花嫁のれんをくぐろうとした。
だが、ぺら、と布をめくってみても、見えたのは王子の顔だけだ。
一応、くぐってもみたのだが、やはり、王子の前に出ただけだった。
どうやら、簡単に元の世界に戻れるわけではないらしいと気づく。
「気が済んだか、アンブリッジローズ」
と老婆が言ってくる。
まあ、これ、夢かもしれないし。
そういえば、運命の相手にもまだ出会えてないしな。
運命の人を見つけてから帰ってもいいか。
……でも、もし、これが夢だったら、今、私はあの寒い蔵の中に倒れて寝ているのでは?
と気がついた。
いやいやいやっ。
風邪ひくしっ。
おじいちゃんたちが気づいてくれなかったら、会社休むことになるしっ。
えっ?
何日休むわけっ?
クビになるっ、とアキは慌てる。
だが、戻り方がわからない。
この老婆は知っているのではっ、と見つめてみたが、老婆は、いいから行けっ、と目で訴えているだけだ。
「よし、なんだかわからないが気がすんだか」
と今度は王子が言った。
「行くぞ、アンブリッジローズ!」
と腕をつかまれ、そのまま下手人のように引っ立てられていく。
塔の小部屋の木の扉が閉まる寸前に見えた。
やれやれ、というように笑い、申し訳程度に小さく手を振ってくる老婆の姿が。
石の階段まで来ると、王子はすぐに手を離してしまい、前後を無言の兵士に囲まれる。
ますます下手人っぽくなってきたな、と思いながら、アキは階段を下りていた。
振り返ってみると、ちょっと後ろにあの長髪イケメンの騎士が居る。
「あの」
と話しかけてみた。
「なんだ」
「本当に私なんて連れて帰っていいんですか?」
王子に訊くべきなのだろうが、その王子はこちらを振り返りもせず、先頭を歩いている。
……王子、先導の者が居なくていいんですか。
その辺から出てきた刺客に、やあっ、とか言って斬り殺されませんか?
などと考えながら眺めていると、
「いいんだろう、別に。
この国から人質の姫を連れて帰った、という形が必要なだけなのだから」
と騎士は言う。
「そうなんですか。
まあ、王子様ともなれば、たくさん妻をもらわれるのでしょうしね」
ひとりふたり、得体の知れない者が居てもオッケーかと思い、そう呟いたのだが。
「いや、居ないぞ。
お前ひとりだ」
と騎士に言われた。
……どうせ、たくさんお妃様とか居るのだろうから、此処に居る間は、王宮の片隅ででも、ひっそり暮らせればいいやと思っていたのだが。
「今はまだ王子様だからですよね?
いずれたくさん奥様を……」
この王子が王になるのか知らないが。
もし、いずれ王になる身なら、そのうち、たくさんの妻を娶るに違いないとそこに希望を託し言ってみたのだが、聞こえていたらしい王子が前方から言ってくる。
「そんな厄介なもの、たくさんもらう予定はない。
言わなかったか。
結婚しないでいると、いろいろとめんどくさいから、形ばかりの妻をもらおうとして此処に来たんだと」
……そうでしたね。
塔の出口まで来た王子は足を止め、アキが下りてくるのを待っていた。
「お前が何者だかよくわからんが。
行くところも特にないのだろう?
とりあえず、俺の側で姫らしくじっとしていれば、衣食住は保証されている。
俺も助かる。
その間に、探したければ、運命の相手とやらを探すが良い」
「えっ?
よいのですか?」
「まあ、その運命の相手とやらが俺であることを望むが」
と真顔で言われ、そんな凛々しい顔でそんなセリフをっ、と赤くなったが、案の定、
「次の妃を探すのがめんどくさいからな」
と言われてしまう。
だが、と外への扉を押し開けながら、王子はアキをちらりと横目に見て言う。
「お前に姫らしく振る舞う素質があるのかが、ちょっと不安なんだが」
「うーん。
なにもできないってところは姫っぽいかなとは思いますが」
「……お前の王族に対するイメージはいろいろと誤解があるようだな」
っていうか、それ、ただの役立たずなんじゃないか? と言われながら、昼間の光あふれた外に踏み出した。
真夜中の蔵から飛んだのにな、と思いながら、その眩しさに瞬いたとき、どすん、と真横に大きな木製の宝箱のようなものが落ちてきた。
ひっ、とアキは振り返る。
塔の上からあの老女がこちらを覗いていた。
「幾らでもお前好みのドレスや宝飾品が出てくる木箱だ。
花嫁支度にくれてやる。
それらを纏い、新たな人生の一歩を踏み出すがよい」
……今、新たな人生を踏み出す前に、この世界からおさらばするところでしたけどね、と真横に落ちたその箱をアキは見る。
もう一度、塔を見上げたが、老女の姿はもうそこにはなかった。
さっと兵士たちが木箱を馬に乗せている。
「一応、馬車を仕立てて連れてきた。
乗るか?」
と王子が振り向いた。
林の向こうに、花嫁を連れに来たからか、金の飾りのついた豪華な馬車がとまっていた。
「手入れされていない山道を通るから、かなり揺れるかもしれないな。
馬車の揺れが苦手なら、俺が抱いて馬で連れていこう」
と王子が言う。
ええっ? と逃げ腰になると、
「お前は俺には気がないのだろう。
恥ずかしがるな」
と王子は言うが。
いやいやいやっ。
好みのタイプだから、こんな上手い話は怪しいと思っているのですよ、とアキは思う。
だが、マイペースな王子は白馬に跨ると、ひょいとアキの身体に手を回し、抱き上げた。
前に座らせる。
「よし、振り落とされないようにしろ。
暗くなるまでに町につかねばな」
「王子、予約しておいた宿に入るには、かなりペースをあげねば」
とあの騎士の人がツアーの添乗員のような感じで言ってくる。
「よしっ、出発だっ。
しっかり俺につかまれっ、アンブリッジローズ!」
そんなさっきついたばかりの名前で呼びかけられてもピンと来ませんっ。
そして、この配置だと、貴方じゃなくて、馬につかまる感じなのですがっ、と思っている間に馬は走り出していた。
ひーっ。
速いっ!
そのスピードで木々の狭い隙間とか走らないでっ。
怖すぎるっ!
今にも、枝にビシッと弾かれそうだっ、と身を屈め気味になりながら、アキは叫んだ。
「あのっ。
私が後ろの方がつかまりやすいんですがっ」
「それだとお前が転げ落ちても気づかないだろう」
確かにこの王子、私がいなくなっていても、気づきそうにない。
ぽてっ、と馬から落ちて、後ろの騎士の馬に蹴られるおのれの姿が容易に想像できたので、そのまま馬様を休憩させるために王子が止まるまで、人間様のはずのアキは人生で一番の恐怖を味わいながら、なんとか耐えた。