第十五話
ある日の朝。顔を洗おうと鏡を見て、卓也は驚愕した。頬の皮膚がぺろんと小さく剥がれてしまっているからだ。
皮膚と言っても薄皮一枚。血も出ていないのだが、卓也にとっては大問題だ。もし皮膚の病気ならば、早急に治してもらわなければと大慌てでデフォルトの元へと向かった。
「デフォルト! 一大事だよ!!」
血相を変えて卓也が部屋へと駆け込んできたので、デフォルトも慌てて駆け寄った。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもあるか! 僕の顔が! 地球温暖化とそれに伴う気候変動が主な原因かもしれない……」
「ここは宇宙ですよ」
「それくらいカサカサ肌になっちゃったかも知れないってこと。どうしよう……思わずキスしたくなる頬ってのが僕の自慢なのに」
まるでこの世の終わりのように慌てふためく卓也だが、たいしたことない理由だと判断したデフォルトは至って冷静だった。
レストのメーターを確認し、その原因が湿度や室温ではないことを確かめる。空気清浄機も酸素発生装置も、空気の循環システムも正常に働いている。
「夜ふかしが原因じゃないですか? あとは運動不足。お夜食も控えめになったほうがよいかと」
「僕は原因を聞いてるんじゃなくて、治るか聞いてるの。痕が残ったらどうしよう……一生モノだよ……。でも、頬に傷がある男っていうのも粋かも……でも、トータルで考えると……」
卓也はあれこれとグチグチ言うので、剥がしてしまえば気にならないだろうとデフォルトは剥がれた皮に触手を伸ばした。
しかし、剥こうとする触手を少し動かしたところで止めた。なぜなら、バリバリという大きな音とともに広範囲に広がってしまったからだ。
「ちょっと……なに? ……今の音。人体模型みたいになってないだろうね……怖くて鏡が見れないよ」
卓也は耳元で響く、皮膚が剥がれる音に背筋が凍った。明らかに、してはいけない音が鳴ったからだ。
これにはさすがにデフォルトも慌てて「大丈夫です! 血は出ていませんから!」と、卓也の頬を
触手で撫でるようにした。当然くっつくわけもないのだが、判断能力がなくなってしまっていた。
そこへルーカスが現れ「私のカリカリベーコンはまだなのかね」と催促してきたものだから、なおのことデフォルトは慌ててしまった。
「すみません! 今それどころではないので、もう少しお待ちになってください!!」
最初ルーカスはなにを言っているのかわからなかったが、卓也の頬からペラペラとしたものがなびいてるのを見ると、なにも考えずに掴んで引き剥がした。
先ほどと同じく大きなバリバリという音が聞こえたにもかかわらず、ルーカスは素知らぬ顔で「これでいいのだろう。さぁ、早くしたまえ」と、デフォルトにベーコンを焼くように言った。
ルーカスが剥がしたものをその辺に投げ捨てると、卓也は「大変だ! 僕の皮膚が! 移植しないと!」と大慌てで拾ったが、それは皮膚ではなく透明なテープだった。
デフォルトはそのテープに見覚えがあるとほっとした。
「それは『自動翻訳テープ』ですよ。自分達が監獄惑星に収監される前に、立ち寄った惑星にあったものです」
「そんなの覚えてないよ。とにかく、僕の皮膚は問題ないってことでしょ」
卓也は胸をなでおろすと、考えもなしにむしり取ったルーカスを睨みつけた。
「問題がないです。よかったですね。翻訳テープが剥がれたとなると、今までのように惑星に寄って女性と会話はスムーズに出来なくなりますが……それくらいのものです」
デフォルトは大した問題じゃないと軽い口調で言ったが、卓也は睨みの先をルーカスからデフォルトへと代えた。
「今僕には、死ねって言われた気がしたんだけど?」
「そんなことは、一言も言っていないのですが……」
「言ったよ! 愛し合ってるふたりに言葉はいらないなんていうのは、倦怠期を誤魔化す為に生まれた言葉なの。もしくは、こじらせて踏み出せない人の言い訳。愛はちゃんと言葉で伝えなきゃ」
卓也が大真面目に言うので、デフォルトも真剣な顔で卓也の言葉に答えた。
「これを機会に宇宙言語を習得してみてはいかがですか? 宇宙言語は数多にありますが、どれ一つ覚えて損になるようなことはないですよ。卓也さんの愛の言葉も、より深くお相手に届くと思います」
「デフォルト……。完成品があるのに、わざわざ手作りなんてするわけがないだろう。小中学生のバレンタインじゃないんだから。僕の言いたいことわかるでしょ?」
「卓也さんには少し努力をするということを、ルーカス様から見習ってほしいものです」
宇宙言語を習得するより翻訳機を使ったほうが早い。それは確かに卓也の言う通りなのだが、翻訳機が通用しない惑星のほうが多いので、素早く未知の言語を学習出来る能力を身につけてほしいというのがデフォルトの本音だった。
褒められたルーカスは「そうだぞ、卓也君。私を見習いたまえ」と得意げな顔になった。「努力というのは報われるのだ」
ルーカスが諭すように肩に置いてきた手を、卓也はぞんざいに振り払った。
「報われてるところを見たことないけど? とにかく、その自動翻訳テープを直してもらわないと困るんだ。こっちが『やあ』って挨拶したつもりでも、向こうではいきなりベッドに誘われたと思うかも知れないだろ。僕はそんなバクチは十代でやめたの」
デフォルトは卓也の言うことはもっともだと考えた。いきなり失礼なことを言ってしまってはトラブルになってしまう。ただでさえトラブルを呼び込む二人なので、翻訳機は絶対に活用したほうがいい。
だが、卓也から剥がれてしまった自動翻訳テープは、元々使い捨てるものなので、修理のしようがない。せめてもう一つ動いている自動翻訳テープがあれば、それをラバドーラに調べてもらい、似たようなものを作れそうなのだが。と考えている途中で、デフォルトはふいにルーカスの頬を見た。
「そういえば、ルーカス様はまだ頬に自動翻訳テープを貼り付けたままなのでは?」
ルーカスは「私のはとっくに剥がれている」とすぐさま否定した。
「今のは別の惑星の言語で言ったのですが」
「知っているぞ。私もバカではない。卓也とは違い、日々宇宙言語を学んでいっているのだ」
「嘘です。地球の言葉で言いました」
「タコランパめ……私を謀るつもりかね?」
ルーカスは思わず頬を手で押さえてしまい、自らまだ自動翻訳テープが貼ってあるのを暴露すると、デフォルトを睨みつけた。
「違います。ルーカス様の稼働している自動翻訳テープがあれば、ラバドーラさんに新しく作ってもらえるということです」
「それは、私の努力を奪い取ろうということだろう。私が日々学んだ努力の結晶を、そこのアホ卓也に分け与えるほど私は慈悲深くはない。アホはアホとコミュニティーを形成するべきだ。そうすればアホとアホが結ばれ、やがて生き残れないほどのアホを生み、勝手に消えていく。最後には私のように優秀な人間だけが生き残るということだ」
「ルーカス様の自動翻訳テープもそのうち剥がれて落ちて、使い物にならなくなってしまいますよ」
「仕方ない、宇宙の肥溜めに以下の存在のアホ卓也が、肥溜めに浮上する千切れた雑草程度のプライドを取り戻せるよう協力仕様ではないか」
ルーカスは一度手に入れた能力を手放してなるものかと、重かった腰が嘘のように軽々と上げた。
「それじゃあ、千切れた雑草の僕は、次に風に流されてどこへ飛んでいくか考えてるよ」
卓也は自動翻訳テープのことは任せたと、自分はダウンロードしておいた女性のプロフィールを眺め始めた。
デフォルトはルーカスを連れて、エンジンルーム隣の倉庫へと向かった。
ここは電子玩具や燃料などが保管されており、すっかりラバドーラの作業部屋になっているのだ。
「ラバドーラさん入ります。直してほしいものがあるのですが」
「無理だ直せない」
ラバドーラは二人の姿を見るなり、きっぱりと言った。
「難しいとは思うのですが、一応見てもらえませんか?」
「嫌というほど見ている……。時代遅れで、役立たずで、スペースばかり取る。直すくらいなら、廃棄したほうが早い。その方が宇宙の平和というものだ」
ラバドーラは汚物が知能を持った醜い生命体を相手にするようなきつい口調で言った。
「直して欲しいのはルーカス様ではなく、ルーカス様の頬に貼られている自動翻訳テープなのですが……」
「それならそうと言え」
ラバドーラはルーカスのもとまでやってくると、頬をつねるようにして、貼られている自動翻訳テープを確かめた。
ルーカスは痛みを無視し「なぜ今の説明で私だと思ったのか、説明を求めたい……」とデフォルトを睨みつけていた。
デフォルトが言い訳するより先に、ラバドーラが「ずいぶん簡単な作りだな」と呟いたので、内心ホッとしながらその話題に乗っかった。
「無料で使えたものですからね。ここまで使えただけでも大助かりですよ」
「ルーカスの顔のことを言っているんだ」
「私の精悍な顔立ちに問題があるとでも言うのかね……」
先程からずいぶん勝手なことばかり言われているので、ルーカスは苛立っていた。
「大ありだ。単純すぎて、生体発電シートが癒着しかかっている」
先程からラバドーラがルーカスの頬を引っ掻いたり、つまんだり、引っ張ったりしているのだが、自動翻訳テープは剥がれるどころか、ほころびを見せることもない。
「つまり自動翻訳テープは私に取り込まれ、私のスキルの一部になるということか。ふむ……悪くないぞ」
ラバドーラは「それでいいなら、問題解決だな」と手を離した。
「問題はないのですか?」
癒着と聞いてデフォルトは心配になった。
「ない。今は体から発している熱や静電気から充電しているが、癒着すればもっと大きなエネルギーが流れ込み、発電シートがそのエネルギーを処理できなくなる」
「処理出来なくなるというのは? 故障するということではないんですか?」
「もっとわかりやすい。ただ爆発するだけだ。ルーカスの顔が粉々に吹き飛ぶ」
「問題はないと言っていましたが……」
「ないだろう? レストの中が静かになる」
「大ありだ! バカモノめ! よくも私の頬に爆弾を仕掛けたな! ポンコツが!!」
ルーカスは飛びかかったが、ラバドーラには半身避けるだけで、軽々といなされてしまった。
「貼ったのは自分だろう。まったく……」
いつの間にかラバドーラの指先はピンセットのモードになっており、そこには今の隙にルーカスの頬から剥がした自動翻訳テープがつままれていた。
「大変だ! 私の顔が爆発した!!」
癒着しかかっていたテープを剥がされ、その音と痛みにルーカスはのたうち回った。
頬はテープ型に赤く腫れ、空気が触れるたびにズキズキ痛みが走る。
そんなルーカスは気にも留めないで、ラバドーラはまじまじと剥がした自動翻訳テープを観察した。
「普通は癒着するようなものではないはずだがな」
材質は至ってシンプル。地球人の肌に特別合わないわけでも、合うわけでもない。しかし、ルーカスにはまるで皮膚が再生するように、ぴったりと張り付いていたのだ。
「そうですよね。卓也さんの自動翻訳テープは剥がれて落ちて来ていましたし……」
「自動翻訳テープのAIを取り込もうとしているのか、AIに取り込まれようとしているのか……。どちらにせよ迷惑な奴だ。DドライブのAIの時もそうだ。すこぶるAIとの相性が悪い」
デフォルトはラバドーラとルーカスを交互に見て、「それはもう……とても悪い気がします」と納得した。
「よく今まで指名手配されなかったな。これだけ問題を起こしていれば、普通は目をつけられる」
「そうですね。良くも悪くも地球という檻に閉じ込められていたんでしょうね。方舟からお二人を開放したのは自分なのですが……」
方舟の大爆発が起こったのは、デフォルト達が奇襲攻撃を仕掛けたからだ。デフォルトはそのどさくさに紛れて、一人宇宙へ逃げようとしていたのだが、その時にルーカスと卓也と出会った。
二人を連れてレストで宇宙へ飛び出したのは、果たして正解だったのか、不正解だったのか、デフォルトは深く考えないようにしていた。
「脱獄の幇助はどの惑星でも罪は重いぞ」と、ラバドーラはからかうように言った。
「銀河の果ての地球で、のんびり暮らしてみたいです」
デフォルトはタイムホールで、過去の方舟に繋がった時の自分が忘れられずにいた。あの地球人の中では、自分も暮らしていけると自信を持ったからだ。
そのためにルーカスと卓也には、もっと地球への帰還を強く思ってほしいものだとため息をついた。




