第八話
ノックの音が間隔をあけて三回響いた。それも大きな音で。
そして、しばらく経つとまたノックの音が響いた。三回響くのは同じ。だが、今度は間隔が短く、明らかに苛立っているのがわかる音だった。
やがて苛立ちは焦燥に変わり、忙しないノックの音が止むことなく響いていた。
「ルーカス! 早く出てよ!」
卓也はシャワーの水音が響く真っ白な壁に向かって怒鳴るように言った。
すると、シャワー音は一旦止まり、卓也の頭から上に三十センチの壁の一部が透明なガラスに変わって、そこにルーカスの顔が映った。
頭にはシャンプーハットをかぶっていて、頭は羊の毛のようにもこもこに泡立っており、その中から鬼のツノのようにまとめられた髪束が一つ飛び出していた。
「そう焦るな。私は髪を洗う時には、いつも二本ツノを作ると決めているのだ。あと一本つくらなければ」
「それ、僕のハーブシャンプーだろう!」
「証拠でもあるのかね?」
ルーカスは二本目のツノを作ると、鏡で確認して満足気に笑みを浮かべながら言った。
「アプリコットの匂いがプンプンしてる」
「壁越しでも臭うようなものを常用するなんて信じられん」
「信じられないのはこっち。普通はそんなになるまで使わない。何プッシュしたのさ」
「ほんの十八プッシュだ――頭には。腋にワンプッシュと、股間にワンプッシュで。きりよく二十プッシュといったところだ」
「聞かなければよかった……。言っとくけど、そのシャンプー高いんだぞ……」
卓也がため息をつくのと同時に、壁は白く戻り、土砂降りの雨のようなシャワーの音が大きく響いた。
しばらくすると壁に一筋の線が入り、スライドドアの要領で壁が開いた。
こぼれ出る湯気との中から、シャンプハットを片手に、腰にタオルだけ巻いたルーカスが出てきた。まだ髪も体もずぶ濡れのままだ。
「言っておくが……恨み言を言おうが、恩着せがましく言おうが、私のシャンプーハットは貸さんぞ」
「いいから早くどいて」
卓也はルーカスを押し抜けて、急いでシャワールームへと入っていた。
「まだ私の着替えが置いたままだぞ! まぁいい……」
卓也がシャワー上がりに着るつもりで用意していたバスローブを見つけたルーカスは、了承を取ることなくそれに袖を通した。
そして、ルーカスが椅子に座って一息ついたところで「あの……」と、デフォルトは遠慮がちに声を掛けた。
「なんだね。言っておくが、君のシャワーの順番は一番最後だぞ。一番下っ端なのだから当然だ」
ルーカスは足を組み替えると、顎をしゃくって白い壁に戻ったシャワールームを指した。
「あの……見えてます……」
デフォルトは触手の一本をルーカスの股間に向けた。卓也のバスローブのサイズでは、ルーカスには小さく丈が短いため、デフォルトの位置からは、温められてぐったりしたモノが丸見えになっていた。
「……私の股間を確認するより、モニターでも確認したらどうかね?」
「それはもちろんします。が……水の再利用システムがあるといっても、無駄遣いはなくしたほうがいいと言いにきたのですが……。聞こえてますよね?」
デフォルトは壁の向こうにいる卓也にも声を掛けた。
シャワーの音は止まることなく響き続けている。
「聞こえてるよ。ちゃんと時間を無駄にすることなく、フェイスパック中にトリートメントをして、その間に体を洗うから大丈夫。ドッキングには絶対間に合わせる」
「時間ではなく、水のことですよ。それにそんなに急がなくても、信号が送られてきた場所まで、半日は掛かりますよ」
本当はもっと色々言いたいことがデフォルトにはあったのだが、すぐさま考えを整理して言うことを二つに絞っていた。
本来デフォルトは情報は正確に、事細かに伝えるのが普通のことであり、最初のうちはそうしていたのだが、ルーカスと卓也の二人には大雑把にかいつまんで説明したほうが、かえって伝わるということに気付いた。
もとより二人は自分の興味の範疇でなければ毛ほども関心を示さないのだが、事細やかに説明して興味のある単語があった場合、無駄に時間を取らてしまうし、かき回されてしまう。
しかし、そうして気を付けていても、デフォルトは毎回振り回されていた。
「半日!? 半日しかないの? 洗濯しても乾かす暇ないじゃん! バスローブで出ていけって言うのか?」
卓也は自分の顔付近の壁を透明にすると、困惑の表情をデフォルトに向けた。そしてそのまま視線を変えてバスローブをかけていた椅子を探すが、その椅子にはバスローブを羽織ったルーカスが座っていた。
「……裸で出ていけって言うのか?」
「君の場合。どうせ最終的には裸になるのだから、そのほうが手っ取り早くていいだろう」
ルーカスは悪びれた様子もなく言った。
「なら相手の女の子も最初から裸にしておいてよ。ついでに金塊の上にもでも座らせておいて。デフォルト! 服を洗濯して、どうにかして乾かしておいて」
ガラスから白い壁に戻った向こうからは、卓也のご機嫌な鼻歌が漏れ聞こえてきた。
「まったく……私達は救助に向かうのだ。それがナンパ目的とは……実に嘆かわしい」
ルーカスがため息混じりに言うと、デフォルトは口をぽかんと開けた。
「なんだ、その大きく開けた口は。何口でスイカを食べきれるか試すつもりか?」
「いえ……一目散にシャワールームへと向かったので、卓也さんと同じ考えだったのかと思いまして」
「遭難救助、情報収集。レストの船長として規律のある行動をしているつもりだが。私が責務をほっぽりだし、女に媚びるファッションに身を包み、頭が痛くなるような香料で身を清めるような軟派な男に見えるのかね? 言うことがあるなら言ってみたまえ」
ルーカスは腕を組むと、背もたれに深く背中を預けて、偉そうにふんぞり返った。
「まずは服を着たほうがよろしいかと」
二人は部屋に戻り、ルーカスが着替えをしている間に、デフォルトはあちこちに散らばった卓也の洗濯物を集めていた。
「卓也さんはどれを着るのでしょうか」
「実に簡単なことだ。醤油のシミがついていないシャツと、カレーのシミがついていないズボンだ」
デフォルトは服をがそごそ物色し、五着ほど確認したところで顔を上げた。
「そんな服ありますか?」
「あいつの部屋着で、そんなのがあったら奇跡だな。適当なシャツを洗えばいい。どうせジャケットを着るんだ。これも洗っておいてやれ」
ルーカスはオレンジ一色のジャケットを拾い上げると、デフォルトの頭に掛かるように投げ渡した。
「本当に着るんですか? 袖を通した形跡がないんですが」
「また、お得意のスキャンか。言っておくが、君のやっていることはストーカーと変わらん。私の全てを知りたいのかもしれんが、私は奥深い男だ。理解など到底できん」
「はい……まったく理解不能です……。ですが、ジャケットはスキャンしたわけではなく、値札がついたままに。よく着るものならば、値札は取るものでは?」
デフォルトはジャケットを広げ、襟首についた値札を触手の先でつついてぶらぶら揺らした。
「私はオシャレのことなどわからん」とルーカスはとぼけた。「だから私は失礼のないように制服に身を包む」
ルーカスは両肩と胸ポケットにタグのついた白いシャツを着ていたが、強風が吹けば風を孕んで飛んでいきそうなほどぶかぶかだった。
「それは、ルーカス様の服ですか?」
「もちろんだ」とルーカスはシャツの襟を正した。「第五操縦士の副官の補佐の補佐だけが着ることを許された由緒正しい制服だ」
デフォルトは「ですが……」と対になるズボンを拾い上げると、「ここにハワード・ルイスと名前が刺繍されていますよ」
「……名前ではない。そういう模様なんだ。それと、私のことはルーカス船長と呼ぶように」
「第五操縦士の副官の補佐の補佐の制服ではないのですか?」
「……制服はどうあれ、私の今の役職は船長だ。船長と呼ばれて何が悪い」
ルーカスがズボンをひったくるように奪い、サイズの合っていないブカブカのズボンを履いて、鏡で自分の姿を確認していると、着るものがなく腰にタオル一枚巻いた卓也が部屋に入ってきた。
入ってくるなり、ルーカスの姿を見て「その制服。どっからかっぱらってきたんだ? まるで中学校の入学式みたいだ」と鼻で笑った。
「君の中学の制服は、三年間ブカブカのままだったのだろうな」
ルーカスは中学生の頃から成長していないであろう背丈の卓也を見下ろす。
「中学生の頃、ママによく言われたんだ。あなたはそのままで充分素敵よって。つまり成長してないそのままの僕は今でも素敵だってこと。それで服は?」
「今から洗うところです」
デフォルトは三本の触手にそれぞれシャツとジャケットとズボンを持ち、まるでマネキンのように卓也の目の前でコーディネートして見せた。
「なにこれ……」と卓也は驚愕した。「特にジャケット。ひどいもんだ」
「ルーカス様がこれでいいと」
「うそぉー、オレンジのジャケット? 前にダサいって言ったやつじゃん」
卓也が詰め寄ると、ルーカスは含み笑いを隠した変に無表情な顔で、否定に首を横に振った。
「いや、言ってない。絶対にこのジャケットを着るべきだ」
「こうも言ったはずだ。オマエは鮭の切り身でも羽織ってるのかって」
「いいや、私はそんなこと言わないぞ。消防士みたいでイケていると言ったんだ。こうも言った。オマエは消すのではなく――火をつけるほうだがな」
ルーカスがにこやかな笑顔で、ふざけてじゃれ合うように卓也の肩を押すと、卓也もルーカスの肩を軽く押した、
卓也は「確かに……言われた気もする」と笑顔で頷くと、デフォルトに向かって「僕が髪を乾かしてセットしている間に、ちゃんと服を洗って乾かしておいてよ」と言って、鏡とにらめっこを始めた。
「どう考えても、時間内に終わらないのですが……」
「安心したまえ、デフォルト君。あのバカは、これから最低でも五時間は自分の顔を見て過ごす」
素っ裸で髪を乾かす卓也の後ろ姿を、ルーカスは最上級のバカを見るような瞳で一瞥した。
「髪の毛のセットというのは、そんなに時間が掛かるのですか?」
「あれは髪の毛のセットではない。五時間、自分の顔を見続ける。そうして脳に暗示をかけて、自分をイケメンだと思いこむための儀式だ。そうでないと、五時間も髪をいじる本物のバカだ」
「あの……水を沸かすのにも、水の再利用システムも、服を乾かすのにも、髪を乾かすのにも、当然エネルギーを使うのですが……。またすぐに未知の星に降りて、燃料の補給をしなければいけなくなりますよ」
「私ではなく、あのバカに言いたまえ。さて、私はやることがあるので失礼する」と、ルーカスは部屋を出たが、ドアのすぐ近くで「私は宇宙探検家……いや、冒険家……。スペースレンジャー――これも違う。全宇宙防衛機関第七特殊部隊隊長ルーカス……これは長すぎる……」という、自己紹介の練習をする声が漏れ聞こえていた。
卓也が宇宙で一番良く見られようと髪をセットし、ルーカスが自分はいかに偉いかの自己紹介を考えている間、デフォルトは卓也の服を洗濯して乾かし、ルーカスのブカブカの制服のサイズを縫い直し、モニターを見て目的地からずれていないことを確認し、船をつなぎ合わせるドッキングの準備もしていた。
とても不思議で恐ろしいことに、デフォルトの多大な準備と、卓也とルーカスの準備が終えるのはほぼ同時だった。
元から服など着ていないデフォルトに、派手すぎるオレンジ色のジャケット羽織った卓也に、盗んだ制服に身を包み虚像を演じているルーカス。三者三様の奇妙な出で立ちの三人はドッキング室に集合していた。
「既にドッキングは済ませてあります。重力は安定。害を及ぼすウイルスの発生はなし。放射線量も問題なし。人体に有毒となるものはなく、オールクリア。温度は調整済み。現在酸素濃度の調整中。三……二……一……。酸素濃度の調整完了。いつでも、扉を開けます」
デフォルトはメーターを触手で指し、二人にも確認させながら言った。
「それじゃあ……」と卓也は思い切り息を吸い込み、期待と空気で胸を膨らませた。「先発隊行ってきます!」
卓也が姿勢を正して敬礼すると、ルーカスが無言で敬礼を返して見送った。
卓也は深く頷き、開閉のスイッチを押した。
重々しい音とともに扉は開き、レストとは色も構造も違う床が見えた。卓也はデスティニー号と名乗っていた船に入ると、振り返り、顔を歪ませてまた敬礼をした。
ルーカスは感無量と言った表情で息を目一杯吸い込むと、扉がしまり消えていく卓也の背中に敬礼をした。
一人どうしたらいいのかわからず、二人の行動を見守っていたデフォルトだが、扉が閉まりきるとルーカスに向き直った。
「少し仰々しくはありませんか?」
「タコランパ星人に、部下を見送る優秀な船長の気持ちはわかるまい……」
「わかりませんね」
デフォルトが二人の遊びを止めずにいたのは、最初に船の中をスキャンして確認したところ、生命反応がなかったからだ。
何年も昔に発信された信号が、宇宙を漂う電磁波に残っており、それをたまたまレストがキャッチしたのだと考えていた。実際にそういうことはよくある。
しかし、その情報は慌ただし足音にかき消されるかのように、予想外の言葉がデフォルの耳に入った。
「大変だ、ルーカス!」と慌てた様子で戻ってきた卓也は「世にも見事な光景だ!」とオーバーアクションで伝えた。
さすがに大げさすぎて、これにはルーカスもため息を付いた。
「絶世の美女が、一糸まとわぬ姿で、金塊の上にでも座っていたのかね?」
「え? なんで知ってるの?」
「知ってるもなにもだ……。今なんと言った?」
「なんで知ってるの? って」
「違う。絶世の美女が、一糸まとわぬ姿で、金塊の上にでも座っていると言っただろうが」
「それはルーカスが自分で言ったんじゃん」
「そんなことはどうでもいい。絶世の美女が、一糸まとわぬ姿で、金塊の上にでも座っていたのかね?」
ルーカスが顔を近づけて聞くと、卓也は頷いた。
「絶世の美女が、一糸まとわぬ姿で、金塊の上にでも座っていた」
言葉はそれで終わり、次の瞬間には二人はデスティニー号のドッキング室を、肩をぶつけ合い、押しのけ合って走り抜けていた。




