第十六話
「私は絶対にここから出んぞ!」
ルーカスはトイレの中で叫んだ。
「いいから開けろ! こんなドアなど、ハックすればすぐに開くことが出来るんだぞ」
ラバドーラも負けじとトイレに向かって声を張り上げた。
ルーカスがトイレから出てこないのは、お腹を壊しているだけが原因ではない。尻を拭く紙がないからだ。
監獄惑星から持ってきたトイレットペーパーは、既にレストのエンジンの燃料として使われてしまったので、トイレットペーパーの代わりが見付かるまでは、トイレから出ないと立てこもってしまった。
「水洗機能があるだろう!」
「私のお尻は、最高級のトイレットペーパーしか受け付けないのだ。わかったら、さっさとあの宇宙生物を撃退しに……行き……たまえ。いいか……気を抜くな……ここが……踏ん張りどころだぞ……っ!」
ルーカスがくぐもった深く短いうめき声をあげたかと思うと、細く長い力ないため息をついた。
「息むな! 踏ん張るな! 出てこい!」
「出てほしいなら、大声を出すな! 気が散って集中できんではないか!」
「そっちを出せと言っているんじゃない! ルーカス! オマエが出てこいと言っているんだ」
ラバドーラは一刻も早くドアを開けてしまいたかったが、レストをハッキングしてロックを解除するとなると、また自分がデータを処理しきれずにフリーズしてしまうので出来ない。なんとか言葉でルーカスを焦らそうと色々言ってみるが、まったく効果がない。
ルーカスにとってトイレに籠城することは慣れたことだからだ。怒鳴られようが、脅されようが、煽られようが、トイレの中に入れば安全だ。それどころか、トイレの数が少なければ少ないほどイニシアチブが取れる。
だが、食事をとる必要もない、排泄をする必要もないラバドーラもかなり優位な立場にいる。
結局の所、時間との我慢比べだった。
しばらくノックと怒鳴り合い合戦が続いたが、デフォルトと卓也が様子を見に来たことによって終りを迎えた。
デフォルトは「つまり、この状況とまったく同じことです」とラバドーラに向かって触手を一本指した。「大音量を出して、なんとか出させようとしていますが、予定通りに動いていないんです」
「だから、もっと大きな騒音を出して対抗してみようってことじゃないの?」
卓也はラバドーラの隣に立ってトイレのドアをノックした。
中からルーカスが怒鳴ったが、卓也とデフォルトはまったく無視だ。
「宇宙空間というのは真空ですから、ほとんど音が伝わらないんですよ。なので自分は、ワームホールの壁――様々なエネルギーが流れている空間――から、音波のエネルギーを刺激して、あの宇宙生物にぶつけようとしたのですが……その過去の自分の言葉は忘れてください」
「それはいいけど……燃料はどうするのさ。結構使っちゃったぞ」
「やることは同じです。大きな音を出して、宇宙生物がワームホールから逃げ出すのに便乗する。変えるのは媒体です」
宇宙生物というのは、その名の通り宇宙空間に適応した生物なので、空気以外からも音を感じ取れる器官を持っている。
音波の波形を音としてではなく映像的に捉えて判断する生物もいれば、ほぼ真空の宇宙空間でも通用するほどの可聴域を持つ生物もいる。
デフォルトが流れものと呼んだこの宇宙生物がどちらに属するかはわからない。今の様子から見ると、レストから発せられている振動でノイズは感じられないが、体に不調は感じているといったところだ。人間で言う低周波騒音での精神的不調を起こしているようなものだ。
これでもそのうち効果は出てくるはずだが、そのうちではなく今すぐワームホールを出たいので、宇宙生物の聴覚器官に張り付いて、そこでエンジンを全開にしようということだ。
「宇宙空間ではなく、宇宙生物とレストを別のなにかで繋ごうということです」
言いながらデフォルトは、トイレットペーパーをラバドーラに渡した。
「……持っていたのか。ほら、紙だ……」
ラバドーラが言うと、ルーカスはドアの隙間を開けて手を出し、素早くトイレットペーパーを受け取った。
こういうことが起こるのはわかっていたので、デフォルトは食料や燃料タンクとは別の場所に積み込んでいた。
間もなく「糞をひねり出し、トイレットペーパーで拭く。これぞ人間の生活だ」と、ルーカスがトイレから出ていた。
「で、この宇宙生物はトイレから出てきたけど、あっちはどうするのさ。媒体を変えろって言ったって、あっちはトイレットペーパーを渡しても出てこないぞ」
「トイレットペーパーは、ルーカス様を宇宙生物だと課程して出した例です。方法はマイクをケーブルでスピーカーに繋ぐようなものです。マイクはレスト、スピーカーは宇宙生物の聴覚器官。ケーブルはこれです」
デフォルトはある機械の部品をラバドーラに渡した。
「音波を電気信号に変え、電気信号を音波に戻すということか……」
ラバドーラが渡されたものは、自分でレストに保管した『マルチエネルギー変換機器』だった。どんなエネルギーも、電気エネルギーに変換できるものだ。
デフォルトはこれを改造してほしいと言った。それを使ってレストのエンジン音を、直接宇宙生物の聴覚器官に伝えるという作戦に変更するとのことだった。
エネルギー変換機器を改造するチームと、聴覚器官を探し当てるチームに分かれるという作戦には快く同意したラバドーラだったが、チーム分けには大いに文句があった。
「納得がいかない。なぜコイツなんだ……」
ラバドーラは指すついでに、ルーカスの胸を乱暴に叩いた。
「仕方ないんですよ……。自分とラバドーラさんが組むと、残った二人はアレですし……」
機械技術はラバドーラが詳しく、宇宙生物はデフォルトのほうが詳しい。必然的にこの二人は分かれることになるが、問題はルーカスと卓也だ。
ルーカスの方が人にはない発想を持ち、卓也の方が観察眼がある。
なので、ルーカスはラバドーラと機械の改造。卓也はデフォルトと宇宙生物の観察ということになった。
仮にルーカスと卓也が逆だったとしても、ラバドーラは文句を言っていただろう。
ラバドーラは「私は一人の方が捗る」との結論に至ったが、デフォルトの「自分もです……。さすがに、二人を見ながら宇宙生物の聴覚器官を探すというのも……」という言葉に、頷くしかなかった。
結局予定通り、ルーカスとラバドーラ。卓也とデフォルトという二つのチームに分かれることになった。
操縦室のモニターを眺めながら、卓也は「あれのどこを観察しろって言うのさ」と、疑問を口にした。
宇宙生物は緑色という特徴以外はなく、あとは時折液体のように姿をぐねぐねと変えるだけだ。
「もっとわかりやすい生物でしたら、聴覚器官を塞ぐとかあるんですが……自分にもさっぱりです」
デフォルトは宇宙生物の映像データを元にホログラムを作り、行動パターンを分析して、聴覚器官を庇う動きがないかといろいろ試してみた。
成果はなかったが、少しの安心感を覚えていた。
自分がこうしたいと思ったことの準備は、ほとんどされていたからだ。記憶にない過去の自分の言動はわからないが、やるべきことはしっかりやっている。
次元移動をしたとしても、自分は自分だという確信が持てた。
だが、それで宇宙生物がどうにかなると言ったわけではない
この宇宙生物を研究していた仲間はいたが、今となっては研究成果を聞く手段も見る手段もなかった。
ダメ元で卓也に何か気付いたことはないかと聞いてみると、卓也は一応は首を傾げて考えてみた。
「どうだろうね……お風呂の水を眺めてたほうがまだ気付くことがあるよ。この浮いた毛は、すね毛なのか腕毛なのか、それとも……」
「女性のことでしたら、細かなことも気付ける観察眼あるのにもったいないですね」
思慮深さ、大胆さと柔軟さ。シュミュレーション能力に行動力。それが少しでも宇宙での日常生活に発揮されればと、デフォルトが思わずこぼした言葉は、卓也には違う解釈で届いていた。
「つまり、あの宇宙生物を女の子だと思えと? 僕を勘違いしてるんじゃないのかい?」
「そういうつもりで言ったのでは……」と否定するデフォルトだが、卓也は勝手に話を進めだした。
「確かに艶めかしい肌と言えなくもない……色だけで言えば、モルダカルド星人の次くらいには、美しい緑色の肌をしているね。待てよ……そう考えると……ギギギンナンサン星人みたいだと考えるといいかもしれない。彼女らは酸素がない空間では液体のような姿でいるけど、酸素があると氷のように透き通った肌に固まるんだ。四本の三関節の腕がスラッと長くてねぇ……それは綺麗な女性だったよ。目を閉じれば今でも思い出す……名前以外は」
卓也は目を閉じると、思い出を心に投影させて、めいっぱい空気を抱きしめた。
「あの……思い出にひたり終えたら、続きを手伝ってもらってもいいですか?」
「もう……いいところなんだから邪魔しないでよ」卓也は不満をあらわにすると続きを思い出し、妄想を続けた。「四本腕の情熱的な抱擁……硬い皮膚の奥にある柔らかさを想像する期待感……聴覚器官が体の中心にあるから、彼女との愛の語らいは、まるでお腹の赤ちゃんに話しかけているようだったよ」
卓也はひとり言のように話していたので、デフォルトの反応は遅れたが、確実に重要な話をしていた。
「今なんて言いました?」
「ギギギンナンサン星人は分裂で繁殖するから、おっぱいという概念はないって話? いいかい? デフォルト……たとえおっぱいがなくても、エッチなことをしなくても愛がある。愛こそが最高の感情表現なわけ」
「そうではなく、聴覚器官の話ですよ。体の中心にあるって言いませんでしたか?」
「ギギンナンサン星人はね。ちなみに四本の腕にある指は三本で、その真ん中の指は驚くほどしなやかで柔らかいんだ。あの指で首筋を撫でられてごらんよ。男は皆虜になる」
「……いいですか? あの宇宙生物が体を丸めてるのは、体を圧縮して質量を変えているだけではなく、重要な器官を体の中心に持っていき守っている可能性もあるということです。つまり、一度あの体勢を変えさせないといけないわけです」
「つまり愛の言葉で、緊張してる女の子をジョークでほぐすのと同じことね」
「そうなんですか?」
「ベッドに入る前か、入った後かによって意味は大きく違ってくる。今はどっち?」
「どっちも違うと思いますが……」
デフォルトが活路を見出した頃、ラバドーラとルーカスはようやくエネルギー変換機器の分解を終えていた。
「まったく……ただ押さえているだけができないとはな。こんなに時間がかかるなんて予定外だ」
ラバドーラが不満を口にすると、負けじとルーカスも言い返した。
「いいかね。今私の力の六割は肛門に使っているのだ。残りの四割の力を貸しただけでもありがたいと思いたまえ」
ルーカスは睨みつけようと眉間にシワを寄せたが、余計な力を使ったせいで壊した腹が悲鳴を上げた。
「これならトイレに籠っていられたほうが、よっぽどマシだ」
「言っておくが、私はもう動けんぞ……今の私は絶妙なバランスで成り立っているのだ。アンドロイドに、人間の繊細な腹痛の辛さなどわかるまい。まるで腸に蓋の開かない時限爆弾が仕掛けられたようなものだ。いつ爆発するかわからない緊張感と、もし爆発した時の被害を考える。私のように強靭な精神を持っているものしか耐えられまい……」
腹痛に顔を歪めながらもルーカスは不敵な笑みを口元に浮かべたが、ラバドーラに腕を乱暴に引っ張られたせいで、笑みは消えて、悲痛な食いしばりに変わった。
「行くぞ」と連れ出そうとするラバドーラに、ルーカスは「私は置いていけ……」と力なく答えた。
「私だってそうしたい。出来るなら、このワームホールに置き去りにしたいくらいだ。目を離したすきに余計なことをされると困るんだ」
ラバドーラは部品を取り付けるのと、コントロールパネルに接続するために、ルーカスを連れて制御室へと向かった。
「もう、動かすな……」と倒れたままになっているルーカスに見向きもせず、ラバドーラは部品を取り付け始めた。
構造は簡単で、仕組みも取り付けるのも簡単だが、宇宙生物の張り付くかどうかはわからないので、何度か調整しなくてはならなかった。
レストに付いているレーザーは古すぎて殺傷能力がほぼゼロだったが、これが幸いして音波を流す装置を飛ばすことが出来た。少しでも新しければ、装置を壊さないように飛ばすための改造にまた時間がかかるところだった。
試し打ちの一回目は宇宙生物まで届かず、二回三回目は肌に張り付くことが出来なかった。四回目で装置が肌に張り付くと集音機能のスイッチを入れた。
問題なく作動することが確認できたので、後は防音機能だ。レストのエンジンの音をそのまま宇宙生物にぶつけるので、レストの中に響く音も相当なものになる。
その音もエネルギー変換器で電気にエネルギーに変えて、レストのエンジンを動かすエネルギーに変えようと、ラバドーラが少しだけルーカスから目を話してエンジンルームに向かっていると。
突然宇宙生物は暴れるように体を広げた。




