第十話
それからデフォルトは、自分がどのように過ごしたか覚えていなかった。まるで夢の中で過ごすかのようにふわふわしたままで、視界の情報が正しく脳に伝わったのは、フットボールの試合が終わり、ミーティングルームでチーフマネージャーに欠席の連絡を入れるように注意されていた時だ。
デフォルトは「すいません」と頭を下げて謝ったが、今までなにを話していたか思い出せたわけではない。おそらく昨日のことを言われているのだろうと、条件反射での謝罪だった。
「これ以上責めるつもりもないが、代わりに余計に働くことになった者もいたということも忘れないでくれ」と、チーフマネージャーは至極当然のことを言うと、気分を変えようとパンと手を叩いて区切りをつけた。「さぁ、話は終わりだ。反省も今の時間で終わりだ。後はゆっくりして、今後に備えてくれ」
「はい……」と元気なくこたえたデフォルトが思いつめたように見えたので、チーフマネージャーはまた少し心配していたが、それから二言三言会話を交わして問題がないとわかると、納得して去っていった。
一人になったデフォルトは困惑のため息を落とした。注意されたことを気に病んでいるわけではない。どうして自分の情報が、この方舟のIDに保存されているか謎だからだ。
それも真実の情報ではなく虚偽の情報だ。デフォルトは地球出身の『多古』という成人男性。それも宇宙工学の良いところの大学を卒業したばかりということになっていた。
ラバドーラがなにかしたというのは予測がついたが、この情報元にどう動いたらいいのかがわからなかった。この男性になりきるべきかとも考えたが、もし本人と鉢合わせてしまったらどうなるのかがわからない。少なくとも良い方向へは転がらないだろう。
この『過去』という特殊な現場で、自分はどう動いたらいいのだろうと考えていると、聞き慣れた尊大な笑い声が聞こえてきた。
「どうしたのだ? ぼーっと突っ立って。新しい上司への挨拶をしたらどうだね。鼻毛の先についた鼻くそだって、もう少しまともに動くぞ。まったく……それじゃあこの先苦労するぞ。私は役立たずには厳しいからな。私の足を引っ張る脱ぎかけの靴下のような奴らは、すぐさま見捨てるぞ」
ルーカスが昇進したという証拠の制服姿を見て、方舟の乗組員達は間違いであってくれと思っていた。口に出さないのは、それをルーカスに拾われでもしたら、なにを言われ、なにをされるのかわかったものではないからだ。上機嫌に揺れるルーカスの背中を、悔しげに睨みつけつことしか出来なかった。
ルーカスは自分の立場を見せつけるために、自分の生活エリア周辺をわざわざ端から端まで闊歩していた。くやしそうな目の人達を見るたびに、笑い声を大きく響かせている。
それから少し遅れてラバドーラが歩いてくるのが見えたので、デフォルトは慌てて駆け寄った。
「いったいどういうことですか?」
「バカをからかって遊んでるだけよ」とラバドーラは表情を変えずに言った。「どうせすぐにバレるのに、あんなに得意になって……。なにを食べて育ったらあそこまで学ばないバカになれるのかしら」
「それもかなり気になるんですが、これのことです」
デフォルトがIDカードを見せると、ラバドーラも自分のIDカードを見せた。
カードには『アイ』と名前が入力されていた。
ラバドーラがデータ管理室で行ったのはデータの削除と復旧だ。
一度方舟の乗組員のデータを全員分削除し、コピーしておいたデータに自分達のデータを書き加えておき、そのデータで復旧させる。これで等しく同じ時間にIDが更新されたことになる。その上書きの時間中はデフォルトの買い物の時間と一緒で、それによって読み込みエラーが起きていたのだ。
ルーカスが昇進したのも、ラバドーラがデータを弄って書き加えたからだった。
深刻な顔をするデフォルトよりも、もっと深刻な顔をした卓也が「なるほどね……」と呟いた。
デフォルトが顔を上げるのと同時に、卓也がデフォルトのIDカードを取り上げた。
「どうかしましたか?」
IDカードを見て、卓也はもう一度「なるほどね……」と呟くと、「君はそうやって、いきなりIDを女の子に見せながら声をかけるわけだ。学歴をひけらかすなんて下品な男だよ……」と、蔑んで言った。
しかし、ラバドーラが「彼は弟よ」と微笑んで言うと、卓也のデフォルトへの態度は一変した。
「だと思った! 聡明さって顔に出るんだね。姉弟そっくりだよ。それに、出会った時から思ってたんだ。なんで君は頭がいいのに、マスコットなんてやってるんだろうって。でも、すぐに理解した。僕と同じ考えだったんだって。逆に考えれば……僕も頭がいいってことかも知れない。つまり僕らは頭がいい同士で結ばれるべきなんだよ」
卓也は馬鹿げたことを曇りない瞳で言い切った。
「男はバカなほうがいいわよ」と返したラバドーラの言葉は、当然扱いやすいからということだからだが、卓也はそんなことには気付かずに笑顔になった。
「なら、僕はバカなままでいるよ。なにも変わらず、僕らしくだ」
「もし未来を変えられるなら……これを気に変わったほうがいいかと」
デフォルトは一縷の望みを掛けて言ってみたが、当然卓也に真意が伝わることはなかった。
「未来の義兄のことが心配かい?」
「いえ、今心配なのはあちらのほうです……」
デフォルトが遠くで笑い声を響かせているルーカスの背中を指すと、その触手をラバドーラが掴んだ。
「それじゃ、今日は弟と帰るから」
「残念……だけどしょうがない」卓也はラバドーラに別れのハグをすると、デフォルトにも同じようにハグをした。しかし耳元で「くれぐれも余計なことは言わないように」と念を押してから、笑顔を振りまいて去っていった。
デフォルトとラバドーラは、また遠回りして自分達の足取りを誤魔化しながら帰ることにした。その最中。小声でこれからのこと話していた。
「あまり遊んでいると、ややこしいことになりますよ……」
ラバドーラは「安心しろ。全部予定通りだ」と声色を戻した。「明日の朝にはデータを弄ったことがバレるが、ルーカスが目立ってるおかげで注意はそっちに向く。私達のデータを潜り込ませたことがバレるのはずっと先になる。卓也にしてもだ。ある程度親しくなっておいたほうが、なにかとやりやすい」
「そう上手くいけばいいのですが……。もう忘れたんですか? あの二人が自由奔放に動いたせいで、ラバドーラさんの計画が無茶苦茶にされたことを」
「……忘れたんじゃない。忘れたいんだ。あの時は、あの二人の情報が少なくて引っ掻き回されたが、今回は違う。パターンもいくつか掴めているから、予定外のことがあってもすぐに修正できる」
ラバドーラはルーカスと卓也に計画の邪魔をされたのを根に持っていた。今度こそ出し抜いてやると熱くなっており、鼻息荒く排熱していた。
「流れに身を任せたほうが上手くいくと思うのですが」
「なにを言っている……。流れに身を任せると、卓也にベッドに誘われるだけだ」
「このまま親交を深めて、レストに招待されようということです。卓也さんの性格なら、女性と関係を深めるまでの間も楽しむはずなので、まず警戒心を解くために、姉弟となっている自分達をセットで呼ぶと思います。その時に、レストの中を探索するのがよいかと」
デフォルトの考えは当たっており、間もない数日のうちに卓也から招待の連絡がラバドーラへと届いた。
「ルーカス早く! もー! もうすぐ来ちゃうじゃん」
卓也はレストの中で、一メートル先にいるルーカスに向かって大声を出した。
「……私を耳の遠いジジイだと思っているのならば、こき使うのは虐待だと思わんのかね?」
ルーカスは床に落ちているお菓子の空き箱を拾うと、銃でも突きつけるように卓也に向けた。
卓也も負けじと持っていたフライ返しを、尖剣を向けるように突きつけた。
「言っておくけどね……僕が助け舟を出さなければ、君は地球に帰るまでコールドスリープされていたかもしれないんだぞ。身分の偽造なんて重罪なんだから。文句言わずにレストの掃除くらいやってよね。僕は料理で忙しいんだから」
「そもそも冤罪なのだから、かばって貰う必要などなかったのだ。だいだいだ……それが料理と言えるか?」
「言えるに決まってるだろう。ははーん……さては、ルーカス。料理なんてしたことないんだろう」
「出来合いのものを買ってきて、皿に乗せるだけのものを料理と呼ぶならば、私は超一流のシェフになれる。今すぐにでもな」
「なに言ってるのさ、食器を選んで盛り付けるのも立派な料理。想像してご覧よ。この中身が丼によそわれてるのを……最悪だろう?」
「私はなにを買ってきたのかさえしらん」
「作ったって言ってよ。えっと……」卓也は買ってきた料理のラベルを見た。「なになに……セップ・ア・ラ・ボルドレーズ。セップ茸のボルドー風ね…… セップ・ア・ラ・ボルドレーズ…… セップ・ア・ラ・ボルドレーズ……」
卓也は言い慣れるために、何回も料理名を口に出して言う。
「なんだその気取った名前は。まったく意味がわからん」
掃除が面倒くさくなったルーカスは、足を使ってゴミを部屋の隅へと追いやりながら言った。
「確かに良い質問だ。答えられないと、僕が作った意味がない。フランスのボルドー地方でセップというキノコを、にんにく、エシャロット、パセリで炒めたもの……。なるほど、つまりきのこ炒めだ」
「きのこ炒めだと、そんなもの前菜ではないか」
「だって、彼女あんまり食べないっていうんだもん。ゲストを呼ぶんだから気を使わないと。一応つまめるものも他に用意してあるけど、二人きりじゃないしね。そこまで本格的にすると、狙い過ぎだろう? 今日はあくまで友人同士の親睦会だ」
「気を使うなら、そのエプロンをどうにかしたらどうだ。まるでダルメシアンだ……それも発情期のな」
ルーカスは卓也の汚れたエプロンを指差した。料理をヒート機能で温めるさいに、加熱しすぎたせいで、蓋を開けた時に汁が盛大にはねてしまった。そのせいでおろしたてのエプロンにはシミが点々とついていた。
「なるほど」と卓也は鏡に映る自分を見て、意味ありげに頷いた。そして、ためらうことなく蓋の汚れに両手の手のひらですくい取り、ペタペタとエプロンを触って汚すと、鏡を見直し「これで完璧」と満足気に笑みを浮かべた。
最後にもう一度料理名を確認すると、入れ物を綺麗に片付けて、始めから買っていなどいないように、いかにも手作りといった感じの少し崩れた盛りつけをした皿を並べた。
しかし、すべてを並べるわけではない。手に一皿持ったまま、卓也は突っ立っていた。
「ものを知らないアホなのは知っているが、料理はテーブルに置き、その威厳のない小さなお尻は椅子に乗せるものだ」
「彼女が来るのを待ってるんだよ。もういつ来てもおかしくない。僕は小走りの音を立てて、このままドアを開ける。するとどうだい。汚れたエプロンに、手にはまだ温かい料理。名シェフここに誕生ってわけ」
卓也がポーズを決めると、来たという合図を鳴らずにラバドーラが入ってきていた。
レストのことはデフォルトがよくわかっているので、入り口の開け方も、二人がいる場所もすべてわかっている。なので、いちいち知らせて中に入る必要などなかった。
「なにが誕生したの?」
ラバドーラに突然声を掛けられた卓也は皿を落としそうになり、バランスをとりながら焦って「きのこ炒め!」と答えたが、すぐに「あっ! 違う……」と否定した。
「え? 違うんですか?」と一緒に来たデフォルトが皿を見た。
「いや、違わないけど。これはフランス語で……なんとかっていうんだ」
さっきのサプライズで卓也の頭からは、料理名が綺麗さっぱり削除されていた。
「えぇ、私も知ってるわ」とラバドーラは悪戯な笑みを浮かべると「イタリア語でもなんとかっていうらしいわよ。たぶん英語でもなんとかっていうんじゃないかしら」とからかって言った。
「君って物知りだねー惚れ直しちゃうよ。じゃあ、奥に入って。このなんとかっていう、なんとか語の料理を食べよう」
卓也はラバドーラの腰に手を回して、既にルーカスが座っているテーブルへと一緒に歩いてエスコートした。
その短い距離を歩く途中で、デフォルトが「先にトイレへ行ってもよろしいでしょうか?」と聞いた。
「どうぞ」と卓也は適当にあしらった。
ラバドーラが一緒なので、自分がトイレまで案内されないことはデフォルトにはわかっていた。
トイレに行くと言って、迷ってるふりをする。その間に、レストの中にあると思われるタイムホールを探すという算段だ。
しかし、この日はなにも見付けられないままで、食事会が終わってしまった。




