第二十五話
ルーカスの見慣れた形じゃなければ嫌だというワガママから、トイレットペーパーは地球のものに似せて作られていた。つまりロール状であり、簡単にちぎれるものだ。
だが実際には木材から作られた紙ではなく化学繊維だ。紙よりも摩擦係数が低いので、ルーカスの手からこぼれ落ちていったあのトイレットペーパーは、滑るようにして遠くに転がっていっていた。
壁にぶつかり止まるが、暴動者の足に蹴られ、ほどけ、千切れると、火が燃え移り一瞬の炎を上げた。黒い燃えカスがノイズのように舞い、風に煽られて消えていく。
ほとんどのトイレットペーパーは、そうして少しずつ小さくなりなくなっていくが、そのうちの一つだけはほどけずに、千切れずに、密集したまま炎を立てずに燻ぶらせたまま転がっていた。
もちろんトイレットペーパーは無機物だ。生命体ではない。なので、防犯装置にひっかかることも、看守に取り押さえられることも、囚人に襲われることもない。時の運に身を任せて、目的もなく転がっていくだけだ。
誰にも気に留められない存在は、誰にも邪魔されることなく、思いもよらない場所へと転がっていくことになる。
誰かのつま先に蹴飛ばされ、勢い付いたトイレットペーパーは、子供が遊びでやるフットボールのようにデタラメに転がっていくと、いくつもの扉とエリアを超えていった。
そこでトイレットペーパーは、こぼれた液体燃料を拭くような形で転がった。燻る火種は、広がる花弁のように火を咲かせると、今度は炎の轍を残しながら転がり続けた。
燃焼性の高い液体燃料で燃えた炎は、人の流れで出来た風や踏まれたくらいでは消えることはなく、新たな燃料を飲み込み、更に炎を大きくさせた。
看守が持つレーザーガンならば広がりはすぐに収まりを見せただろう。だが、囚人達が秘密裏に作った原始的な武器は、作業車や機械から抜き取った燃料が使われているため、一度火がつけば鎮火は容易ではない。まるで火炎瓶だ。その消えない炎は武器にもなる。
そんなものがそこらにゴミのように転がっていた。囚人達が何世代も昔の原始的な武器を作ったとて、原始的生物ではない。看守から奪った新しい武器が手に入れば、お手製の武器は用無しとなり、ポケットの埃でも払うようにそこら辺に捨ててしまう。
わざわざ炎に焚べるようなことはしないが、わざわざ炎から遠ざけたところに捨てるわけでもない。だが結果的に囚人や看守がいる場所というは、火の手が回っていない場所であり、たまたま免れていただけだ。
そこへ、わざわざその捨てられた武器に火をつけるように、一つのトイレットペーパーが転がりまわり、大規模火災へと発展させた
デフォルトが聞いた爆発音は、火の手が燃料庫までまわり、タンクに火がつき、中の高圧縮エネルギーが爆発した音だった。
そしてその音と同時に、ルーカスはゾンビのようにムクリと起き上がり、ラバドーラを羽交い締めにした。
「見たかね? 聞いたかね? 卓也君。こいつはラバドーラだ。つまり、捕まえて宇宙警察に差し出せば私達は有名人だぞ!」
ルーカスの狂喜乱舞の下卑た笑いがレストの中に響き渡った。
しかしラバドーラは歯牙にもかけずに、デフォルトの命令に従っていた。滑走路の確保と天井の開放が終わるまでは、余計な邪魔を入れないように情報を遮断しているせいで、なにが起こっているのかもわかっていない。
音声認識のマイクがある場所で、ルーカスが叫んでもまったく音は届いていなかった。
「卓也君! ロープだ! 私が取り押さえている間に縛り上げるんだ! これで地球に帰る頃には、有名人で、億万長者だ! これがどういうことかわかるかね? 知名度と資金で、選挙には当確するということだ!」
「……なんかデジャブを感じるんだけど。これって催眠裁判の続きじゃないよね? だとしたら僕も好い目を見ないと納得できないんだけど」
「好きにすればいいだろう。肩書という大木の樹液によってくる女――通称カブトムシを口説くもよし。見事に才能が開いた花にだけよってきて盗蜜する女――通称チョウを口説くもよし。男が全てを晒した瞬間から財産を喰らい尽くす――通称カマキリを口説くもよしだ。地球へ奇跡の生還を果たし、悪名高きL型ポシタムのボスラバドーラを捕まえた我々なら、女など選り取り見取りだ」
「もっと上手い誘い文句ができないの? 知的だけど夜は乱れるとか、知的じゃないけど夜は乱れるとか、朝も夜も痴的に乱れるとかさぁ」
「文句があるならこのマネキンを見張っていたまえ。私がロープを探してくる」
「いいや、僕は昆虫も大好き」
卓也はレストの生活ルームへと向かっていった。
デフォルトは二人を止めようかとも思ったが、ラバドーラの意識が外部から隔離されている、今の状況で捕縛しておくのも悪いことではないと口を閉ざした。
状況が収まり我に返れば、再び暴れだしそうだからだ。自棄になって、自分達を巻き込んで自爆されては困る。
「あの……ルーカス様」
「なんだね」
「行動を制限するならば、縛るよりも、太ももの部分にある燃料タンクから燃料を抜いたほうが効果的だと思いますが」
デフォルトの言葉を聞いて、ルーカスはニンマリと笑った。
「デフォルト君……君も正義に染まってきたな。実に人間らしい考え方だ。相手の微々たる犠牲など厭わない。いい傾向だ」
ルーカスは工具を持ってくるようにデフォルトに言うと、すぐに手渡された。もうレストの中のことは誰よりもデフォルトが詳しかった。
ルーカスはラバドーラの股ぐらに座り込むと、不器用なカチャカチャと音を鳴らしながら、太もものカバーを外すのに悪戦苦闘していた。
この分だと燃料を抜き取るのにも時間がかかるが、デフォルトにとってはそれも込みの考えだった。
ラバドーラは燃料が少なくなると、省エネモードに入り、行動が端的かされあまり多くのことができなくなってしまうというのは、今までのことから整理できた。
今やってもらっている滑走路の確保と天井の開放がされる前に、行動が制限されてしまうと、脱獄が不可能になってしまうからだ。
このことをルーカスに素直に説明すれば「こんなマネキンに頼らなくても、私がやる」と出来もしないことをやろうとして、実態を悪化させるのは目に見えているので、なにかやらせておくのが一番だった。
「……これがアイさんの姿だったら、僕は卒倒してるね。今なら同情するけど」
操縦室に戻ってきた卓也は服を着ており、裸でラバドーラの股ぐらで作業をするルーカスを哀れな目で見つめた。
手には服を抱えている。ロープが見つからなかったので、これを結び合わせてロープ代わりにするつもりだ。
「いいから、早く縛りまえ」
「いいから、まず服を着てよ……。素っ裸のルーカスが大きな人形の股間をいじって、僕がその人形を縛ってるんだぞ……。この光景を変態的と呼ばないなら、世の中に変態は存在しないね」
「股間ではなく太ももだ。いくらネジを回しても頑なに開かん!」
ルーカスはイライラとした様子で工具を床に叩きつけると、卓也から服をひったくるように取り、まずシャツから袖を通し始めた。
「そりゃ力任せなんて開かないよ」卓也はラバドーラを縛り上げると、交代だと足元に座った。「まずはマッサージからさ、よく触って弱い場所を探すんだ。ゆっくり下から上へ。十分ほぐしたら、今度は手のひらじゃなくて、指を立てて膝から太ももに這わせる。開いた指を太ももあたりで収束させるように。ゆっくり何度も、スピードを変えてだ」
「誰がなにをレクチャーしてくれと言ったのかね……」
「女の子の開かせ方だろ?」卓也が言うのと同時にカタカタという音がした。太もものカバーに隙間が出来たのだ。「ほら、緩んできた証拠だ。あとは緩んだネジをなめさないように、工具でゆっくり回してやるんだ。急かさず、無理矢理でもなく……」
「いつまでチンタラやってるつもりかね……」
ルーカスは卓也のもどかしい手付きにイライラしながら言った。
「この子が良いって言うまでに決まってるだろう」
「もういい……まどろっこしいことをしなくとも、電動工具を使えば一発だ」
ルーカスが卓也の肩を掴んで引きのけた。すかさず電動工具をネジ山に合わせると「なにをやっている……」と頭上から声を浴びせられた。
ルーカスが顔を上げるのと同時に、顎をラバドーラに蹴り上げられた。その時、レストの外側観測モニターに、開けた天井と青すぎる空が映し出されているのが見えた。
ラバドーラは縛られた自分の姿を確認すると、もう一度「なにをやっている……」と低い声で言った。
「僕はなにも」と卓也がそっぽを向くように首を振った。
「滑走路が空いたことを教えてやろうとしたんだ。勝手に早とちりをしたのは君だ」
ルーカスは事実のように平然と嘘を言ってのけると、また蹴られてはたまらないとラバドーラから距離をとった。
「天井を開けたのも、滑走路を空けたのも自分だ。言われなくてもわかる。なぜ縛られているのかを聞いているんだ」
ラバドーラの威圧するような声に、思わずルーカスは怯んだ。
「それは……あれだ。ほら、卓也君。答えたまえ。君だろう、縛ったのは。私は止めたんだ、だが……彼の変態性を止めることは出来なかった」
ルーカスが卓也に視線を送ると、ラバドーラも卓也の顔を見た。それも本来の姿ではなく、人間のアイとして過ごしていた時の姿でだ。
好ましいと思っている姿に変えて、嘘をつけなくしてやろうと思ったのだが、かえって卓也は嫌われまいと嘘をついた。それも表情を変えずにだ。
「このレストは発進時に揺れるからね。安全の為さ。シートベルト代わり。本当だよ。まるで大爆発が起こったみたいに揺れるんだ」
卓也が言った瞬間。遠くから爆発の音が聞こえた。それも一発ではなく何発もだ。それは徐々に近づいてきて、音も大きくなっている。
デフォルトが外側観測モニターのカメラを動かし、確認すると大きな火の玉が転がり、押収された宇宙船に火をつけながらこちらへと向かっていた。
「なんだあれは!? 宇宙生物かね!」
ルーカスは驚愕の表情でモニターを見つめた。どう見ても意思を持って近づいてきているように見えたからだ。
実際にはたまたまなのだが、あちこち正確に宇宙船にぶつかり爆発を起こさせながら近づいてくるので、ルーカスだけではなく全員にそう見えていた。
「外の様子を見せて!」と姿と同じく口調まで変わったラバドーラを、縛った姿のまま椅子から引き抜くようにして抱き上げた卓也は、一度外に出たが三分もしないうちにラバドーラを連れて戻ってきた。
そして、ご丁寧に操縦席へと座らせ、また椅子にラバドーラをくくりつけた。
「どうでした?」
デフォルトが発進の準備をさせながら聞くと、ラバドーラがルーカスを睨みつけた。
「生物じゃないわ。ロボットが熱暴走を起こしてる。それも複数のロボットや部品が溶けてくっついて大きな塊となってるの。その核となる中心部分になにがあったと思う?」
ラバドーラがエンジンルームの方向へ目をやったので、理解したデフォルトは頭を抱えた。
「またですか……ルーカス様……」
「私がなにをしたというのだね」
「トイレットペーパーを落としましたよね? アレが原因でこうなっているのです」
デフォルトはモニターに映る火の塊を触手の先で指した。
思い当たることがすぐ思い浮かび、一瞬顔が真っ青になったルーカスだが、すぐに両手の人差し指をデフォルトと卓也に向けた。
「君達も拾おうとはしなかった」
「こんなことになるとは思わないからだろ」
卓也が責めるように言うが、ルーカスは「ほら、聞いたか?」と鬼の首を取ったようにデフォルト聞いた。「つまり予想外だ。私は悪くない」
デフォルトは今は言い訳を聞いてる暇はないと、「とりあえず発信させます」とスイッチを押した。
レストのエンジンが獣の方向のように騒音を立てると、それに負けないような大声で「電磁シールドはどうなったんだ?」とラバドーラが聞いた。
「確認している暇はありません。おそらく……この押収物倉庫の圧縮エネルギータンクに火がついて大爆発が起こるので、電磁シールドが解除されていなければ、二つのエネルギーと衝突することになるので、宇宙船ごと木っ端微塵。宇宙の塵となります」
このデフォルトの考えには見誤りがあった。この惑星『P-M1026』には、もう既に爆破処理の為の爆薬が運び込まれていた。
そして今まさにその爆薬に火がついたところだった。
レストが飛び立つのと同時。爆風に煽られて、レストは一気に最高速度に到達すると、電磁シールドにぶつかった。だが、それも一瞬。大爆発と同時にすべての電気系統は停止したので、間一髪木っ端微塵は免れた。
これがレストではない精密機器だらけの新型宇宙船だったら、半壊していただろう。頑丈さが取り柄のおかげで、中が大地震並の揺れに襲われるだけで済んだ。
ルーカスも卓也もデフォルトも、その衝撃に天井や床や壁に頭をぶつけ気絶してしまったが、椅子に縛られたラバドーラだけが被害の一つもなかった。
ただ、吹き飛んでいく惑星を外側観測モニターで見つめていた。
長い間。自分から自由を奪っていた星が、一人のアホな男のちょっとした不注意で、憐れに、無様に、虚しく散っていくのを清々しく思っていた。




