第十七話
卓也は鏡を見ながら、まだシェービングクリームが残る輪郭を撫でた、鏡には映らない剃り残しを探すためだ。剃りたての肌の上で、なめらかに指が線をつけた。
問題ないと判断すると、少し右を向いて、もみあげへと指を這わせた。ついで左を向き同じことをする。もみあげのバランスも丁度いい。これなら、整える必要もない。
濡れた手で髪をかきあげると、同じく濡れた手の指の腹を使って押し当てるようにして眉毛を整える。流れに沿わない飛び出た毛を二本乱暴に引き抜くと、痛む毛穴をマッサージするように指でぐりぐり押した。
そして、規律に従わずに自己主張する眉毛がなくなるのを確認すると、バシャバシャと顔に水をかけて、シェービングクリームを流すついでに洗顔を済ませた。
タオルで顔を拭き、飛沫で濡れた前髪を手ぐしで整えると、鏡の中の自分を睨みつけた。そのままの表情で手を後ろに伸ばすと、クシを手渡された。それを使い、毛流れを清潔に整えた。
「これっていかにも気合い入れてきましたって感じしない? もう少し余裕を見せたほうがいいかな?」
卓也は鏡越しに、後ろにいるデフォルトに話しかけた。
「だらしなくしているより、きっちりしているほうがいいのではないですか?」
「でも、これじゃまるで高校生だ」
卓也は自分でも童顔だと感じる鏡の自分に向かって、精一杯渋い顔をしてみせたが。その行為が余計に自分を幼く映した。
髪型に納得がいかないと、頭突きをするように頭を振りかぶり、窒息寸前の水の中から空気を求めるように勢いよく顔を上げた。
クシを通してピッチリしていた髪は、空気を含んでボサボサになり、それを手ぐしで整えると、いつもの卓也の髪型になった。
「やっぱりこれだね。君もそう思うだろう?」
「えぇ、いつもの卓也さんが一番ステキだと思いますよ」
デフォルトは謙遜ではなく正直に答えのたのだが、鏡の卓也は納得のいっていない表情をしており、顔の横で立てた人差し指を不満げに振っていた。
「いいかい? デフォルト。昨日の僕より、今日の僕。いつだって僕のかっこよさは更新を続けているんだから」
「……そうですね。今日の卓也さんは昨日以上にステキですよ」
「なんだよ。昨日の僕はダメだって言うのか?」
「卓也さん……」
デフォルトはどうすればいいのかと目を伏せた。
「ごめん。からかっただけだよ。デフォルトの意見はいつも参考にしてるって。現実でも、催眠の世界でもね。で、どう? この服?」
卓也は物語の始まりを話し出すように手を大きく広げると、その場でゆっくり回ってみせた。
「そうですね……。生地はお粗末。着古したおさがりのなので、ほころびも酷い。修繕を重ねて、なんとか服という機能を保っているかと。つまり――いつもと同じ囚人服です」
「こればっかりはねぇ……。まぁ、いいさ。ここじゃ皆同じ服だ。おかげで僕の顔の良さが引き立つってもんさ」
卓也は昨夜デフォルトに念入りに洗ってもらった囚人服を着ており、動く度に出来る服のシワを何度も手のひらで伸ばしていた。
「オシャレをする必要なんかあります? だって――」
デフォルトの言葉は、卓也が突きつけた人差し指によって止められた。
「おおありだよ。アイさんに呼ばれたんだぞ。男が女に呼ばれるってことは、いつでも戦場に来いって意味なんだぞ。たとえそこで争いが起こっても起こらなくても、戦士が赴くことに意味がある。パンツ一枚で戦場に行ってみろ。戦争があれば戦士だと思われないし、戦争がなければただの笑いものだ。だから相応の格好ってものがある。もう一度聞くぞ。男女が二人きり、呼んだのが彼女だ。それでもオシャレが必要ないとでも言うのかい?」
卓也はデフォルトのおでこを人差し指でつつきながら言った。
「ですから……その前提が――」
喋ろうとするデフォルトの口を、またも卓也の人差し指が塞いだ。
「前提は一つ。僕がいい男で、今愛に飢えていることだ。愛に餓えた男の前に、ちょうどよくアイなんて名前のいい女が現れたんだぞ。美味しくいただくのが、正しいテーブルマナーってもんだ。ナイフもフォークも使わない素手のテーブルマナー。原始的だけど、人類が唯一廃れさせなかったマナーがそれだ。わかるかい? デフォルトが学ぶべき地球人の歴史の一頁目に書いておくといいよ」
卓也はくるりと背中を向けると、いそいそとラバドーラに会いに行く支度の続きを始めた。
そしてそのまま上機嫌に鼻歌交じりに部屋を出たので、デフォルトが「また、あとで」と言ったのも聞こえていなかった。
卓也はラバドーラに呼ばれた部屋ではなく、ある囚人の元へと向かった。
「言っとくけどな。前金だぞ。返品も返金もなし。なぜなら、アンタに信用が一切ないからだ」
チャップネイズはシャボンシェルターの中で、目一杯睨みを効かせて言った。
「なんだよ、信用ないのかい?」
「ない」
チャップネイズはシャボンシェルターを卓也の顔面にすれすれまで飛ばし、ネズミそっくりの顔を近づけた。
ルーカス同様、卓也はチャップネイズによく思われていない。一緒になってからかったり、イタズラしたりと好かれることもしていないし、好かれようとも思っていない。
こうして会いに来たのは、ラバドーラへの贈り物のためだ。
チャップネイズは透明なシャボンシェルターになっている、バレーボールサイズの超小型宇宙船に乗って移動することが許されている。彼は未知の菌に抵抗力がなく、このシェルターの中でしか生活できないからだ。
そのある程度自由に動けることを利用して、仕入れ屋をしていた。誰かが棚の上に忘れていたものや、落として蹴られ隅に追いやられたものなど、高いところから見下ろし発見し、それを仕入れと称して囚人に売っている。
なにかと物言いが多い商売なので、卓也に対しても一歩も譲る気はなかった。
「まぁ、いいさ」と卓也は入金した。
チャップネイズは自分のデータを確認して、振り込まれたのを確認すると、シャボンシェルターからアームを出して包みを渡した。
卓也は中身を確認すると「たしかに」と納得の頷きをしたあと。「それにしても……これを選ぶなんて、相当好き者なんだな」とからかいの表情を浮かべた。
「あんなものここで選ぶほど種類があると思うか? あっただけ儲けものだ。だいたいこっちには必要のないものだ。必要のあるほうが少ない。それを苦労して探してだな――」
イライラと語気を強めるチャップネイズを、卓也は「はいはい」と適当にいなした。
「苦労して探すだけの金は払っただろう。短気は余裕のなさの表れ。見ろ、僕なんていつも堂々としてる」
「恥知らずだからだろう」
「恥は知ってるよ。知った上で堂々としてるんだ。これが自信の表れ。怯えると高鳴るの違いだ。君は世間体に怯えて生き、僕は恋に胸を高鳴らせて生きている。同じ動悸でも、僕のは幸せに満ちている。わかるかい? 交感神経活動優位状態による生理的な不整脈だ。つまり僕の心は愛に満ちている」
「……なんだって今日はそんなにうざったいんだ。うざいのはいつものことだけど、いつも以上に気持ち悪い」
「よく聞いてくれたね」
卓也は風船をつつくようにして、チャップネイズが入っているシャボンシェルターに触れた。
「聞いてない。断言したんだ」と去っていこうとする、シャボンシェルターを卓也がわしづかみにした。
「三つの言葉から想像してくれ。男女。二人。ロケット花火」
チャップネイズは無言で、なにか言いたげに眉間にシワを寄せた。
「おっと……失礼。君の惑星の文化には花火なんてないのか。つまりこういうことだ。火を付ける、飛んでく、うるさくて近所迷惑。問題は何発打ち上げるかだよ」
卓也は掴んだままのシャボンシェルターを、近くの異星人にパスするように投げつけた。
中に入っていたチャップネイズのうめき声など耳に入らず、上機嫌に足を踊らせて通路の角を曲がっていった。
そしてしばらく歩き、ラバドーラに呼ばれた部屋の前で立ち止まると、ノックをする前に、踊らせた足で乱れた髪と呼吸を整えた。
隠せない笑みを浮かべながらノックすると「入って」というラバドーラの声が聞こえてきた。
卓也は「お邪魔――」と言って部屋に一歩目を踏み込んだが、すでに部屋にいるデフォルトに目をやって「――だよ」と口を尖らせた。
「卓也さん……やっぱり聞いていなかったんですね。部屋に呼ばれたのではなく、仕事場の変更ですよ。昨日の騒ぎでまた、別の仕事に回されたんです……」
「じゃあ、僕はただ無駄にお金を使ったってわけかい?」
卓也が肩をすくめると、手に持った包み紙が服に擦れて音を立てた。
「あら、なにそれ」
ラバドーラが聞くと、卓也は少し考えてから「……甘いもの」と答えた。
「ちょうどいいですね。今お茶を入れたところなので、よかったら一緒にお出ししていいですか?」
「どっちかというと、お茶を入れるほうが近いものだよ」
卓也が投げやりに押し付けた包みを受け取ったデフォルトは「もしかして、ティーバッグですか? せっかくですし、入れ直しましょうか?」と聞きながら包みを開けると、中に入っているものを広げて目を丸くした。
「ティーバックだよ。どっちかというと、せっかくだから履き直してほしい」
「あら、これは誰が履くの?」
ラバドーラはからかうような瞳で言った。
「そうだなぁ……誰が似合うか、触って確かめてみないと」
「あなたの可愛いおしりが一番似合いそうだけど?」
「触って確かめてみる? 僕は大歓迎。なんなら履いてみせたっていい」
そう言うと卓也は突然後ろを振り返った。
「突然どうしたの? なにもないわよ」
「こういう時って大抵ルーカスがやってきて、『私なら吐いて見せたっていい』茶々を入れてくるから、もしやと思って」
卓也はさっきの続きをと言わんばかりに両手を広げたが、ラバドーラは既に椅子に座っていた。
「ルーカスは来ないわ。今頃たっぷりお灸をすえられているころね。昨日相当やらかしてるから」
続きを諦めた卓也はラバドーラと向かい合うように、デフォルトの隣りに座った。
デフォルトがお茶を勧めると、一口飲んでからおもむろに口を開いた。
「ルーカスがやらかすなんていつものことだろう。なんで今回ばっかりそんなに?」
「場所が悪かったのよね。あの倉庫は燃料庫に入らなくなった、燃料を保存してあったから」
「確かに燃料がありましたね。今使われている燃料よりも少し古めのようですが」
卓也やルーカスと違い、周囲をしっかり観察していたデフォルトはしっかり記憶していた。
「そうねぇ……。あまり使われなくなったから、燃料庫じゃないとこに保管してたんだけど。最近在庫管理をしっかりしようって動きのところに、昨日の騒ぎでしょ?」
「昨日の騒ぎというと……」とデフォルトは頭を抱えた。「駆けつけた看守に慌てたルーカス様が、なんとか取り繕おうと落ちているものを拾い上げ、それを適当に倉庫の隅に投げた結果。配線を傷つけ、その火花がこぼれた燃料に飛び火し、火事を起こした騒動ですか?」
「そのとおりよ。そのせいで、燃料の確認ができなくなっちゃったから、今こってりしぼられてるの」
「そんなの全部燃えたんだからゼロでいいじゃん」
「そうもいかないのよ。なぜ、燃料の管理をもう一度し直してるかって言うと、脱獄の防止のためよ。色んな星の色んな宇宙船を押収してるから、どんな燃料が使えるかわからないでしょう。もし、今回の火事で全部燃えていなかったら? 誰かが、脱獄のために盗んで隠してたら大問題。だから大変なの。まぁ、この仕事場じゃ燃料なんて使わないでしょうけど」
ラバドーラは部屋を見渡しながら言った。
あるのは荷物の山。機械もなにも使わない。ただ手を動かす荷物整理が二人の仕事だった。
デフォルトはルーカスが脱獄のための燃料を盗もうと忍び込んだのかもしれないと「なるほど」そう思わず口に出して納得すると、そのことを突かれないようにそれっきり、なにもなかったかのように口を閉ざした。
ラバドーラは理解していないと意思表示するために首を傾げると「まぁ、とにかくそういうこと。真面目に働きなさい」と言い残して部屋を出ていった。
ラバドーラがいなくなった部屋で、「アイさん……。なにかいつもより綺麗でしたね」とデフォルトがポツリとつぶやいた
「おい! 失礼なことを言うなよ。彼女はいつもキレイだ」
「またその話ですか……。そうではなくてですね……解像度が上がったように肌がきめ細やかになっていたような」
「なるほど……そう言われればそんな気も」
「ですよね?」
デフォルトは疑問に賛同してくれたことに声を上ずらせたが、反対に卓也は声を低くした。
「つまり、僕と君は恋のライバルというわけだ」
「なんでそうなるんですか……」
「恋する相手がキレイに見えるってことだろう。お腹をすかせた時に、カレーを食べるのが人生最大の喜びだと感じるのと一緒さ。僕のカレーを食べる気だな。言っておくけど、僕は甘口も辛口も両方大好きなんだからね」
「卓也さんが考える暇を与えてくれれば、恋かどうか判断できるんですけどね……」
デフォルトがため息をつくと、卓也は満足げにデフォルトの背中を叩いた。
「それでいい。考えなければ、カレーじゃないものを食べても、カレーを食べてると思うようになるさ」
卓也はさっさと仕事をしようと、もう一度強くデフォルトの背中を叩くと、自分はのんきにお茶の続きを飲み始めた。




