第二十四話
季節は初秋だった。夏と秋の移りゆく瞬間。そのちょうど間を切り取ったような温い日差しが落ちてきている。
目立ち始めた老いた母の白髪のように、ところどころに哀愁を見せる山々の姿を窓枠が切り取って、まるで抽象的な絵画を飾っているようだった。
そんな風景が見えるアパートの一室が、卓也の暮らす部屋だった。
卓也は窓を開けて、朝の新鮮な空気を部屋に取り入れた。
風に手を引かれ、優雅に踊るレースの影はいたずらをするように、ベッドに眠る彼女の顔を照らしたり浸したりしていた。
「もう……朝?」
彼女はまぶたの上から陽の光を薄く透かして、寝起きのうつろな目を起こそうと身じろいだ。
「そうだよ……残念ながらね。幸せな時間はあっという間に過ぎる。でも、その一瞬の思い出は皆で共有したことになったね。ほら……昨晩は声が大きかったから、三軒となりまでは聞こえてたよ。卓也凄い。卓也ならできる。卓也が一番って」
「……全部あなたが自分で言ったのよ」
彼女は呆れながらも優しい笑みを浮かべると、卓也の頬に触れる程度のキスをしてベッドから降りた。
「そう、でも周りの住人は気にしない」
「そんなにいつも女を連れ込んでるの?」
彼女は脱ぎ散らかし、混ざりあった服の中から自分の服を探して手にとった。
「そうじゃなくても言ってるから、皆慣れてるの。コーヒーでもどう?」
卓也が聞くと、彼女は袖のボタンを止めながら「今日は早朝ミーティングだから、もう行かなくちゃ。昨日と同じ服を着てると周りがうるさいの。新しい彼が出来たのかとか、古い彼とよりを戻したのかとか。男ってそういうのある?」と着替えを済ませた。
「ないね。男は自分から言う。昨夜は勝ったのか負けたのか。手段は、決め手は、まるで自作自演の勝利者インタビューだよ。女の人にはないの? 言い値で買ったのか、いくらかまけたのかとか」
「そうねぇ……。女同士で言うのは、誰にもらったかとか、値段はいくらとかね」
「僕はいくらだった?」
彼女は「さぁ、どうかしら」と肩をすくめた。「あなたが私に勝ったか負けたかによるわね」
「キミの前では負けたってことにしておくよ」
「なら、私もあなたの前では良い買い物をしたってことにしておくわ」
「それってどっちの意味で?」
卓也が聞くと、彼女はいたずらに微笑んだ。
「好きにとって、お友達に自慢していいわよ」
着替え終わり、ドアから出ていこうとする彼女の背中に、卓也が「愛してるよ」と声をかけると、彼女は申し訳なさそうな顔をして振り返った。
「昨日……会ったときに言わなかった? 今は特定の相手を作るつもりはないって」
「覚えてるよ。じゃなきゃこんなこと堂々と言えない。愛してるって」
満面の笑みで言う卓也の頬にキスをすると、彼女は振り返らずに部屋を出ていった。
部屋に残された卓也は目一杯空気を吸い込むと、「これこそ人間の生活だね。キスがあり、愛があり、でも本気はない。これこそ、ストレスのない正しい生活だ。そう思うだろう」と大きな声で言った。
当然独り言ではない。同居人に問いかけたのだ。
「今まで無視されていたのに、急に話を振られても困るんのですが……」
朝食の匂いを引き連れて、隣の部屋からデフォルトが顔をのぞかせた。
「無視なんかするもんか、彼女にコーヒーを勧めたとき、ちゃんと心の中でデフォルトが淹れたって付け加えてたよ。僕の家なのに、いちいち全部デフォルトに聞かないといけないのかい?」
「そうですね。夕食を取るのか、朝食をとるのか、アレルギーはあるのか、いつ連れてくるのか、終電前に帰るのか。最低限のことはいちいち聞いて、言ってください。トーストが一枚無駄になってしまいました」
デフォルトはこんがりと焼けたばかりのトーストを三枚テーブルに置いた。
「僕が食べるよ。疲れてお腹が空いたからね」
卓也は半裸のまま椅子に座ると、いただきますと言いながらトーストを二つに裂いた。裂け目から湧き出る湯気はバターをいとも簡単に溶かし、からからに乾いていた焦げ目をしっとり濡らした。
卓也はトーストを口に入れると噛むことなく咥え、テレビのリモコンを探し、テレビをつけてからトーストを噛みちぎった。
「新型エンジンが爆発だってさ。この間、絶対に安全って言ったばかりなのにね」
「エンジンの構造というよりも、燃料の問題でしょうね。それと、もう少し引力に頼らない加速と軌道変更方法にするべきです」
デフォルトは言いながら、卓也の皿にサラダとオムレツを取り分けると、自分も食事を始めた。
「デフォルトが教えてあげればいいのに」
「前にも似たようなことを言いましたが、あまり口を出すと星に合わない進化を遂げてしまうので危険なんですよ。資源を取り尽くして、星と星を転々とするようになったら大変ですよ。今の地球の宇宙科学技術では」
「まぁ、方舟は新しい資源を見つけずに、それも帰ってこれなかったわけだし。次に出た宇宙船が無事に帰ってくるまで、なにも変わらないだろうね。まぁ、時間なんてあっという間に過ぎる」
卓也は息を吹きかけてコーヒーを冷ました。湯気は消えてなくなったが、それは一瞬のことで、すぐにまた苦々しい黒い水面から白い湯気を立てた。
「たしかにあっという間ですね。地球に帰還してから、もう一ヶ月ですか。レストで騒いでいたのが遠い昔のようですよ」
「今となっちゃ良い思い出だよ。それで、地球の暮らしには慣れたかい?」
「はっきりと言えば、まだまだ全然です。地球という星だけではなく、国や宗教という文化と共に複雑にからまったルールや信念など、どうすればいいのかわからないことだらけです。ですが、暖かく受け入れられているので、不自由は少ないです」
「まぁ、僕が知らない間に異星人も増えてたし、昔よりも異星人が暮らしやすくなったんだろうね。知ってるかい? オットコリーム星人は男一人に対して、女二人でセットになるんだって。ある意味生命の完成形だと思わない?」
「さぁ、どうなんでしょうか……」
卓也とデフォルトが異星人交流について話していると、テレビには耳につく電子音と共に速報の文字が流れた。
画面には見知った顔の写真が映し出されていた。
「これはルーカス様でしょうか?」
「そうだよ……残念ながらね。不幸な時間はあっという間にやってくる……」
『ルーカス氏が第三惑星選挙に立候補する意向を固めました。地球閉鎖党は、政策が一致すればルーカス氏を支援する考えです』
「一人、レストから降りたっていうのにまだ騒いでるね……困ったもんだ」
卓也はテレビに向かってため息をついた。
『関係者によりますと、ルーカス氏は星知事選に出馬する意向を固め、近く会見をする方針です』
「立派なものですよ。内容はともかく……」
「ルーカスのルーカスによるルーカスの為の政治だからだろう。誰も票なんか入れないよ」
「ですが、つい一ヶ月前ですよ。卓也さんが出馬すると言ったルーカス様を笑って別れたのは」
「奇跡の帰還もすぐに熱が冷めるさ。そうすれば地球の皆からバッシングされて、泣きついてくるよ」
「そうでしょうか……卓也さんも未だに奇跡の帰還を利用して女性を部屋にお呼びになっていますよね?」
「なんだよ、別にいいだろう。出待ちまでいるんだぞ。ロックバンドのボーカルでもないのにだ」
「そうではなく、影響力はまだまだあるということですよ」
「そうかな? デフォルトを見てると影響力なんてないようなものだと思えちゃうけど」
卓也はデフォルトの姿を見て言った。
既に食事を取り終え、買い物に行く用意まで済ませたデフォルトは、地球に相当馴染んでいるように見えた。
「なにか買ってくるものはありますか? 安売りしてる野菜と明日の朝のホットケーキの材料を買ってくる予定ですが」
「そうだな……生クリームを頼むよ」
「ホットケーキに塗る生クリームですね」
「まぁ……今晩余ったら、そういう使い方をしてもいい」
卓也は彼女が忘れていったブラジャーを見ながら言った。
「……女性と遊ぶのも結構ですが、大学にもちゃんと行ってくださいよ」
「まるでママみたいな口ぶりだ」
「あと、お皿は食器洗い機にいれるか、水を張っておいてくださいね」
デフォルトはそう言い残すと、部屋を出ていった。
生まれ持った星というものがなく、人生のほとんどを宇宙船の中で過ごしていたデフォルトには、季節の移り変わりというのはとても不思議に感じていた。
時折降りる星も、降りるたびに変化は起こっていたが、こうも美しい風景に出会うことはなかった。
子供の心情と変わらなかった。見るものすべてが新鮮で、なんにでも目を奪われる。
そして人々は。不自然に立ち止まってキョロキョロとする異形の異星人を不審に思うことなく、ただ通り過ぎていく。
まるで自分は地球に最初からある当たり前の一部のようだと感じていた。
見知った顔と会釈をするようになり、それが朝の挨拶をするようになり、今では会話もするようになり、デフォルトは第二の人生を楽しんでいた。
今日も買い物先で出会った主婦達と話をしていた。
「うちの旦那もよ。食器は片付けない、脱いだ服は散らかしっぱなし。詰め寄ったら、話を逸らして逃げる。デフォルトさんのところじゃ、こんなこともないでしょう?」
主婦の一人に聞かれたデフォルトは肯定的な意味で首を横に振った。
「自分のところも似たようなものです。今日も帰ったら、テーブルに乗ったままのお皿の片付けからです」
主婦たちは同時に「あらー」と「大変ね」と相づちを打った。そして、また別の主婦が新たな話題を出した。
「旦那もだけど、子供も大変よ。変なサイトは見るわ、よくわからない行動をするわ、急に友達を家に呼ぶわ。お昼をどうするのかさえ言わないんだから」
「そうですね……。もう少し自制心が芽生えてくれるといいんですけど……」
デフォルトは主婦の言葉に心底同意してうなだれた。
それから長い井戸端会議を終え、帰宅中。デフォルトは主婦達の話を思い出していた。子供も連れ合いもいない自分と話が合うのが不思議だった。
だが、主婦達と話をしていると、たしかに思春期の子供を育てているような気持ちにもなってくる。
しかし、急に襲ってきた違和感が、その幸せな気持ちを打ち消した。
考えがまとまらない内に触手を走らせて、デフォルトは卓也の家へと大急ぎで向かった。
当たり前のように卓也は、大学ではなく家でくつろいでいた。汚れた皿もテーブルに置いたままだ。
しかし、そんなことはおかいまく「卓也さん!!」とデフォルトは大声で名前を呼んだ。
「なんだよ……。具合が悪かったから大学行かなかったの。今は治っただけ」
「違います! なぜご両親に会いに行かないんですか?」
「そのうち行くよ」
「自分のことを紹介してほしいんです」
「……僕を嫁にでももらうつもりかい? まぁ、そのうち合わせるよ」
卓也が適当にあしらうと、デフォルトはやっぱりとつぶやいた。
「卓也さん……あなたはどうしようもないナルシストですよね?」
「……」
「そして、どうしようもないマザコンであり、どうしようもないファザコンでもある」
「大急ぎで帰ってきたのは、僕に喧嘩を売るためかい?」
「違います。会いたくないのですか? 大好きなご両親ですよ。なぜ地球に帰ってから一度も会いに行かないのですか?」
「そんなの……――なんで? なんで、僕はママとパパに会いに行ってないの? 地球に戻ったっていうのに、まだ一度も『あなたは最高の息子よ』って、ママの口から聞いてないし、『パパの自慢の息子だ』とも聞いてないんだけど! そんなのおかしいだろう!!」
「そうなんですおかしいんです。卓也さんのこともそうですが、自分のこともおかしいんです。地球に来て、一ヶ月で結婚相手の文句を言い合って、子供の愚痴まで言っているんですから」
「なんだって!?」と卓也は驚いた。「いつの間に結婚して、子供まで産ませたんだ?」
「だからおかしいと言っているんです。地球で平穏に皆に受け入れて暮らすという、まるで自分が望んだ通りの世界を過ごしているんです」
「なんだって!?」と卓也は驚いた。「体だけの関係で、めんどくさくなったら帰ってくれて、だけど存分にイチャイチャできる彼女と昨夜知り合ったのも、僕が望んだ世界だって言うつもりかい?」
「……違うんですか?」
「そのとおりだよ……。でも、このままでなんか不自由ある?」
「この都合の良い世界に身に覚えはありませんか?」
「思春期の妄想以外で?」
「その都合の良い妄想が叶って、広い宇宙で女性と偶然連絡がとれたことですよ」
「まさか、これが催眠だっていうのかい? 誰がなんのために? 必要性は?」
「恋人を盗られた男が腹いせのために偽装ログを渡し、この催眠を必要としているのはおそらく……」
「おそらく? おそらくなんだよ」
「宇宙刑務所です。内なる欲望や、罪を自白させるために催眠状態にさせるんです。そうして潜在意識を探られ、起きた時には罪状が決定しています」
「こんなに普通な地球が、宇宙刑務所だって言うのかい?」
「排他的で差別主義者。独裁的で自分勝手。そんなルーカス様が支持されているこの地球が、普通だと言うんですか?」
卓也は考えるまでもなく首を振って否定した。
「ルーカスは会見を開くって言ってたよね? そこで変なことを言ったらヤバいんじゃないの?」
デフォルトは無言で頷いた。
「ルーカスに会って止めなくちゃ……」




