第二十三話
いつもは見せない神妙な面持ちをしたルーカスは、テーブルに肘をつけて、一点を見つめたまま壁を遠く見ていた。動くことはなく、まるで地蔵が鎮座しているかのようだった。
そして。急に怪奇現象を捉えた映像のようにゆっくりと首が動いた。
「卓也君……。腕を一本切り落としてくれないいかね」
卓也は荷物の整理をしていた手を一旦止めると、おやすいごようだと立ち上がった。そしてつかつかと歩き、デフォルトが持つ包丁を取り上げると、その切っ先をルーカスに向けた。
「どっちを切り落せばいい? 右? 左? 迷ってるなら、頭からお尻の割れ目にかけて、体ごと真っ二つにしてもいいけど」
「私ではない!」と、ルーカスは慌てて卓也から距離をとった。
手元で包丁を遊ばせる卓也から、デフォルトが包丁を取り上げ、安全になったことを確認すると、ルーカスはテーブルへと戻ってきて話の続きを始めた。
「君の腕を切り落とせと言っているのだ。考えたらわかることだろう」
「言いたいことはわかってたよ。でも、僕は自分の腕を切り落としたくはないし、バカなことを提案されてムカついたから、ルーカスのを切り落として憂さ晴らししようと思っただけ」
「まったく意味がわからん……」
「それはこっちのセリフだよ。なんで腕を切り落とす必要があるのさ。いくらおバカなルーカスだって、腕を切り落としちゃったら、もう二度と生えてこないことくらいはわかってるだろう?」
「リアリティがない……」ルーカスは大真面目な顔で言った。「私達が乗っていた方舟は木っ端微塵。だが、私達は無傷だ。これでは格好がつかんだろう。傷の一つや二つがあってこそ、地球への感動の帰還であり、栄光の帰還なのだ」
二人の話を聞いていたデフォルトは、またルーカスが突拍子もないおかしなことを話していると呆れていたが、意外にも卓也はなるほどと納得して頷いていた。
「それは盲点だったよ……ルーカス。たしかに僕らはあまりにも無傷すぎる」
「そうだろう。これではまるで近所へおつかいに出たようなものだ。過酷さも、壮絶さも伝わってこない。よって卓也君。君が腕を切り落とすべきだ。船長を守った優秀なクルーだったとして語り継いでやろう」
「対象がルーカスなら、殺してから地球に帰還したほうが僕の株が上がると思うけどね。少なくとも、ルーカスを恨んでる地球の生物の四分の三は喜ぶね」
「私がレストから降りれば、皆キャーキャー言うに決まっている。目を閉じれば拍手喝采が聞こえてくるようだ……」
「阿鼻叫喚じゃなくて?」
「歓声だ」
「罵声じゃなくて?」
「どうしてそう水を差す……。まだ服をトイレットペーパー代わりにしたことを怒っているのか」
ルーカスは悪いことをした自覚はなく、むしろいつまでも怒っている卓也に呆れてさえいた。当然、その態度を隠すこともない。
だが、卓也はぐっと言いたいことを飲み込んだ。
「いいかい? ルーカス。僕が水を差したのは、君の茹だっておかしくなった頭を冷ますためだ。僕らが有名になるチャンスなんだぞ。ほら、あのなんとかっていう宇宙飛行士みたいに」
「それは、あのなんとかという教科書にも載っている宇宙飛行士のことかね?」
「そうだ。なんとかっていう教科書に載っている。なんとかっていう宇宙飛行士だ」
「あの……なんとかというのは誰のことですか?」という質問を投げかけてくるデフォルトを、ルーカスは鼻で笑った。
「教科書にも載っていると言っただろう。子供ではないんだ。自分で調べたまえ」
「では、なんという教科書に載っているのですか?」
「……知らん。とにかくだ! 私はなんとかという教科書に載っている、なんとかという宇宙飛行士と同じ――いや、それ以上に有名になるということだ。通りにだって名前がつくぞ。ルーカス・ストリート。うむ……悪くない。最高の気分だ。まさしく栄光への道。さながらチャンピオンロードだ」
ルーカスは急に立ち上がると、幻想に思いを馳せて目を細めた。
「ちょっと……僕たちのことを忘れてない? 僕達も軌跡の生還を果たした一員だぞ。なぁ、デフォルト」
デフォルトは顔を横に振ると「自分はいいです」とハッキリ否定の言葉を述べた。
「いい心がけだ」とルーカスは我が物顔で偉そうに言った。「卓也君も少しは見習ったらどうかね?」
「デフォルト、遠慮することなんてないんだぞ。僕らが無事に地球に帰れるのも、デフォルトのおかげなんだから。地球出身じゃないことなんて気にするなよ。胸を張って帰ればいいんだ」
卓也の励ましにも似た言葉を、またもデフォルトは首を振って否定した。
「遠慮ではなく、自分自身のためです。自分の身の上を説明すればするほど、話がややこしくなってしまいますから。ルーカス様と卓也さんは、自分達の支配星域を侵した侵入者ですし、地球人から見れば、自分達は宇宙船を攻撃した襲撃者ですよ。それが仲良く帰ってきて、疑う者がいないほど地球人は無垢なのでしょうか?」
「バカ正直に一から百まで話す必要なんてないだろう。そうだな……」卓也は顎に手を当てて考える仕草をする。そして、もったいぶった間を存分に開けてから、さも名案が思いついたという顔で「イカランパにしたらどう?」と言った。
「自分は自分の星人の呼称になっているタコのことにも、イカのことにも明るくないのですが、地球人がそんなことで騙されないことくらいわかります。少なくとも宇宙に出られるくらいの知恵はあるのですから。それに、身分を偽ったり誤魔化すというのは、一番信用されなくなることですよ」
真面目な顔で言うデフォルトに、卓也はめんどくさげに眉間にシワを寄せて顔を見返した。
「どうせ僕らにしかわからないことだぞ。フリくらいできないのかい? 僕だって一夜限りの相手の時は、お金を持ってるフリをするし、特定の女性がいないフリもする。最初さえ乗り切れば、後はどうとでもなるもんだよ」
「……参考までに聞きたいのですが、その後というのは具体的にどうなったのかを……」
「そうだな……」と、卓也は昔を思い出して、感慨深い表情を浮かべた。「ある時はアラブの石油王の隠し子。またある時は波に乗り始めたIT社長。昨日億超えしたばかりのトレーダーってのもあったね」
「なんだか曖昧なものばかりですね……」
「曖昧じゃないとバレちゃうだろう。昔スペイン人のフリをした時は大変だったね。飛行機の中でスペイン語を覚えて、キャビンアテンダントを口説くのには骨が折れたよ」
「そうですか……」とデフォルトは気のない返事をした。
「あっ、疑ってるんだろう。今でも話せるんだぞ。始まりの一言は、メグスタポヨだ」
自動翻訳機を持っているデフォルトにスペイン語の意味はわかっていたのだが、卓也の瞳に従って「……意味はなんですか」と聞いた。
「私はチキンが好きです。ほら、相手はキャビンアテンダントだから。後は、テ・キエロ・ムーチョってなもんさ。僕は時間との勝負に勝ち、飛行機の後は別のものに搭乗したわけ」
「なにを言う……。時間との勝負に負けているから、背が伸びずに大人になった男が。だいたい騙されて、で、消えたユーロになったと自分で言っていただろう」
ルーカスの口ぶりはこの上なくバカにしたものだった。
いつもの卓也ならば強く言い返しているところだが、それよりも気にかかることがあり、「嫌味をどうもありがとう」の一言で終わってしまった。
そして「――それより」と、言葉を続けた。「僕が心配してるのはルーカスもだよ。いくら僕がご誤魔化しても、本当のことをポロッと口に出されたらたまったもんじゃない。僕らは英雄から一転、大戦犯だ。くれぐれもルーカスのうんこタンクを放置して忘れていたことを言わないように」
卓也が人差し指を突きつけて注意すると、ルーカスは不服に眉をひそめて睨んだ。
「うんこタンクではなく、メタンガスタンクだ。それに私のではなく、皆のうんこが詰まっている。それに、今君が言ったことを守るのは実に難しい……」
「なんでさ」
「私はメタンガスタンクが原因で大爆発を起こしたことなど、すっかり忘れていた。卓也君、君が記憶を呼び覚ましたんだ。実に余計なことをしてくれた。これでは頭にチラつき、小鳥がさえずるように喋ってしまいそうではないか……どうしてくれる」
「どうかしてるのはルーカスの頭だよ。自分が不利になることくらい、喋らずに自制できないのかい?」
「まぁ、どうとでもなる。小事だ」
ルーカスは腕を組んで少しふんぞり返って言った。
「答えになってないけど」
「私以外のせいにすれば済むことだと言っているのだ。デフォルトのタコランパ星人が襲撃してきたことは事実だし、卓也が欲望にかまけて船内の規律を乱していたことは事実だ」
「言っとくけど、汚染物質流出の罪は宇宙刑務所行きだぞ。今のところは黙っておくけど、この先はどうなるかわからない」
「もしかして……私を脅しているのかね?」
「本当は答えを委ねたいところだけど、勘違いされたら困るからはっきり言っとく。そうだよ、脅してる。巻き添えはもうごめんだからね」
卓也がルーカスをにらみつけると、デフォルトはまぁまぁとなだめた。
だが、ルーカスも負けじときつく卓也を睨み返した。
「ならば私も、方舟で卓也が飯塚翔子に手を出したことを伝えようではないか――飯塚詩乃に」
「妹に手を出したことを伝えるつもりか!? 言い訳をさせてもらえば、出発前のベッドの中で詩乃とよろしくやってた時に、妹のことをよろしく頼むって言われたからよろしくしただけだぞ」
「その言い訳は、私ではなく飯塚詩乃の前ですることだな」
「この卑怯者め……」
悔しさに歯を食いしばり、先程よりもきつくルーカスを睨む卓也だが、押さえつけられていた触手は緩んでいた。
「あの……。痴情のもつれがどうのこうのというよりも、亡くなっているのですが……」
遠慮がちな言い方のデフォルトの言葉を聞いて、卓也ははっとした。
「そうだよ! ルーカス、聞いたか? デフォルトの言う通りだ! 翔子が自殺して死のうとするかもしれないんだぞ! 彼女は精神的に弱いんだから」
卓也は人でなしとルーカスに詰め寄ったが、デフォルトが卓也の体を押さえつけることはなかった。
「そうではなくてですね……妹さんが方舟に乗っていたのなら、爆発に巻き込まれているのですから、亡くなったことを伝えるのが先ではないかと」
「そうだよ! ルーカス、聞いたか? デフォルトの言う通りだ! 証拠は消えたんだ! 言う必要なんかないってことだ!!」
薄情なことを言う卓也に、ルーカスは「なにを言っている……」とかぶりを振って心底呆れた。「消えたのは翔子ではなく、詩乃だ。いいかげん寝た女の名前くらい覚えたらどうかね。この薄情者め」
「死のうとする翔子のことじゃなくて、証拠の詩乃がいないんだから。翔子に証拠を示さなくていいわけ。だって詩乃は死んだんだから」
「わけがわからん……証拠となる翔子がいないから、詩乃が死のうとする。だから翔子が死のうとして、それが詩乃への証拠になるわけか?」
「待て、ルーカス! ……僕もよくわからなくなってきた。どっちが妹でどっちが姉かも……。どうしよう、デフォルト! なにもかもがわからないよ!」
卓也は泣すがるようにその場に跪いて、デフォルトの触手を掴んだ。
「そうですね……」と、デフォルトは触手の先を顎に当てた。「確実にわかっているのは、これを機会に痴情のもつれをなかったことにしようとする薄情者が一人と、自分の保身のためなら仲間を裏切る薄情者が一人。そして、仲間の死をなんとも思っていない最後の星人になった薄情者が一人。合計三人の薄情者がここに集まっているということですね」
「じゃあ、気に病むことはないね。ここにいるのは三人。その三人が薄情者ってことは、薄情者こそ常識ってことだ。つまり、間違ったことはしてないってわけ。これで大手を振って地球に帰れるね。ほら、もう見えてきたよ。僕の故郷……青く美しい地球が……」
卓也が話を逸らすのに丁度いいものはないかと、視線をさまよわせた先には観測モニターがあった。電磁波を可視化したものではなく、カメラの映像を直接映し出すものだ。
そこには卓也とルーカスはよく知る星、デフォルトにとっては未知の星である地球が映っていた。
「これが地球……。そんなに青いですか? 周囲の星にもっと青い星がありますよ」
デフォルト目には、地球はただの星の一つにしか映っていない。
「いいの、地球を見たらそういう決まりなんだから。青い海、白い雲、緑の大地、黒い――黒い……黒いはあれはなんだろう? 地球の真ん中に黒いものなんてあったっけ?」
卓也が聞くと、ルーカスはこれみよがしにため息をついた。
「私達が出発する前に、地球最大の宇宙ステーションを作ると言っていただろう……。アホの宇宙人が地球に来やすくなるようにと。それが完成したのだ。まぁ、私が地球の総統になったらいの一番に破壊する施設だがな。だが――今の私には、さながらレッドカーペットだ。さぁ、連絡を入れたまえ。ルーカス船長が帰還したと。惨めな地球人共にパレードの準備をさせる猶予をやれ」
ルーカスと卓也は地球に帰るための準備を始めたが、デフォルトは見慣れないはずの地球になぜか違和感を抱き、モニターをずっと眺めていた。




