第十五話
卓也のインポテンツが治る数日前。
アースではあることが起こっていた。
合わせ鏡の向こうに映る幾重にも広がる世界。そのいくつかには正確に映し出された世界ではなく、歪みの世界ができる。
その世界こそ時空の歪みだ。
そして、それは鏡のない場所には唐突に現れる。
その日は微弱な振動が続く日だった。
気付くのは各種メーターを管理している技術者か、誰かに揺れたと話せば「気のせいじゃない?」と返されるほど振動に敏感な人。後は機械そのものや、ラバドーラのようなアンドロイドだ。
「――というわけよ」
ラバドーラは突如部屋の真ん中に出来た歪む空間を指した。
「だからなんだと言うのだね」
意味もわからず呼び出されたルーカスは、実際に眼の前で説明されても意味がわかっていなかった。
「時空の歪が出来たというわけよ」
ラバドーラはためらわずにルーカスを巻き添えにして飛び込んだ。
二人が現れた場所は数日前の娯楽施設のメインホールであり、ルーカスが上司に怒られているところがスクリーンに映し出され、皆が笑っているところだった。
「なんだここは!?」
「言ったでしょう。別の時空のアースよ」
「私は一言も聞いていないぞ」
「言ったって理解できないんだから、そういうものだって納得させたの。わかりやすいでしょう」
ラバドーラはスクリーンに向かって真っ直ぐ指した。
自分の失態ほど、飲み込みやすい事態はない。
ルーカスはラバドーラのように指さして笑っている人達を見て、不機嫌に舌打ちを響かせた。
「なんて忌々しい……人の失敗を笑うなんて。人間のクズ共め……」
「笑って許してもらえるだけありがたいと思ったら? ほら、行くわよ」
「どこへだ」
「ルーカスがいない場所」
「私がいない場所を探すのに、私を連れて行ってどうするつもりだ。おバカなのはしょうがないが、考える癖をつけたまえ」
「過去のルーカスがいない場所に行くのよ。鉢合わせたら厄介でしょう」
過去時空の現在。ルーカスの失態はリアルタイムで放送されているので、放送を利用すれば鉢合わせることはないし、ラバドーラは自分の行動を覚えているので、自分と遭遇する心配もいらなかった。
「そんなことはない。優秀な頭脳が二つ。右脳のルーカスと左脳のルーカスと呼びたまえ」
「私が厄介なのよ。ただのバカって呼ばれたくなかったらついてきなさい」
ルーカスの手を引いて、ラバドーラは過去のアースの通路を進んでいった。
「まったくややこしい……」というルーカスの愚痴には言葉を返さないが、心の中では同意していた。
ただでさえ過去時空のアースにいたのに、そのアースの更に過去にワープしたのだ。どういった意味があるのかはわからないが、正しい時間軸に戻るには『重力震』がヒントになる。
正しい時間軸に近づこうとすれば重力震が頻繁に起こる。
というのは、過去の方舟でラバドーラが学んだことだ。
ラバドーラは今のうちに未来への布石を過去に打っておこうと思っていた。
ここで、正しい未来へ舵を取ることができれば、思惑通り現代の地球時間へ時空が寄るに事になる。
過去の地球へ戻ろうとしているデフォルトに対して、先手を取る事ができると確信した。
ルーカスを連れてきたのは、過去と現在の相違を洗い出そうと考えたからであり、彼が問題を起こすことで、時空融合の粗が見えてくるのだ。
だが、肝心のルーカスは過去にワープをしたということにテンションが上り、しょうもないいたずらばかりに熱を入れていた。
「見たかね? これで奴は明日コーヒーサーバーから、熱々の味噌汁を注ぐこととなるだろう。私は預言者として過去に君臨する運命だったのかもしれん」
ルーカスはコップに注がれた味噌汁の香りを嗅いで、まるでワインのソムリエのように満足気に唸った。
「それになんの意味があるわけ? もっとないの? 大きな事件を起こすようなこととか」
「なにを言っている……今まさに大きな事件の最中だろう」
「そうだけど……過去に戻った以外よ」
「そんな話はしていない。私が叱責を受けているのだぞ。あのXXが」
「ややこしいわ……そういえば。言語を取られてるのよね。この過去では……」
ラバドーラはこの時取られた言語を思い出した。
『クソ』や『うんこ』などの排泄物関連の言葉から『トイレ』や『トイレット』などそのもの言葉。そしてそれに関連する『紙』や『ペーパー』という言語を、過去に問題となった星人に奪われてしまった。
数日後。言語は元に戻り、事なきを得て問題は解決したのだが、今は問題の真っ最中。
そして、その問題も大した問題ではなかったと記憶している。
電子書類なので紙やペーパーという言葉使わない。他の言葉はそもそも口に出さなくても良い言葉なので問題はない。
なぜ問題が起きてほしい時に問題が起こらないのかと、ラバドーラはルーカスを睨みつけた。
「そんなに見ても、これはやらんぞ。これは勝利の美酒だ」
ルーカスは不敵に笑みを浮かべると、コップの中身を一気に飲み干した――中身が味噌汁なのを忘れて。
「早まったかしら……」
ラバドーラは塩分にむせるルーカスを見て、先の不安を感じ、ため息の排熱をした。
「はい、ラバドーラ。なにかの罰ゲーム?」
女性はラバドーラを見つけて笑顔を浮かべたが、ルーカスと並んで歩いているのを見ると、眉をひそめ、足を止めることなく通り過ぎていった。
似たようなことが数度続くと、ラバドーラは急に足を止めた。
「ルーカスといると余計なお喋りをしなくて済むから便利ね」
「私は給湯室の張り紙かね。お喋り厳禁」
「そんなことよりなにか騒動でも起こしたらどう? なんのために連れてきたと思ってるのよ」
「そんなことのために連れてこられたことに驚愕している。だいたい騒動なんて起こすわけがないだろう。ここは数日前のアースだぞ。私が余計に怒られる」
「察しが良いわね。自分に返ってくることには……。それなら、なにか不自然に怒られた覚えは?」
「全てに決まっているだろう。今現在、過去の自分が叱責を受けているのさえ納得していない。私はトイレットペーパーをよこせと交渉しただけだ。言うことを聞かんから、レーザーで脅したら逃げていった。実際に燃料トラブルも起こらず、私は未然に事故を防いだと評価されたんだ。それも、今私を叱責してる上司にだぞ。権力に尻尾をふる犬め」
ルーカスは本気で自分が悪いと思うことはほとんどない。
なので、この数日の叱責の内容は何一つ覚えていない。
このままでは埒が明かないと思ったラバドーラだったが
「そうね……。そうだわ。ルーカスが評価されることがおかしいのよ。つまり、なにかここでルーカスの評価を上げるように動くんじゃないかしら」
「なるほど……つまり。私がずっと出世できなかったのは時間という壁に邪魔をされていたわけだな」
「もう……それでいいわ。とりあえずルーカスの報告書でも確認しに行きましょう」
ラバドーラは軽い感じで言ったが、やることはハッキングである。
ルーカスの報告書の内容をいじれば、彼の評価が上がるはずだからだ。
早速人目のつかない通路まで行くと、壁のパネルを剥がして自らの配線と繋いだ。
「まるで古いスパイ映画だ」
「電磁波をハッキングすると証拠が残りやすいのよ。こういう昔の技術で作られた宇宙船はね。指紋みたいに残るのよ。だから宇宙には回遊電磁波が漂ってるの。まあ、今の地球の技術じゃ大丈夫そうだけど。念には念を入れてってやつね」
ラバドーラは話しながらルーカスの報告書を見つけ出していた。
思った通り。結論、根拠、理由がごちゃまぜになって書かれており、全く要点をおさえていない。
文章の校正のはずが、改稿へなってしまい。最終的には一から全て書き直していた。
「なにニヤニヤしてるのよ」
ルーカスの視線が気になったラバドーラは、背面のカメラでルーカスの様子を確認していたので、笑いの対象が自分だと言うのにすぐ気付いた。
「私のために部下が働く。実に気分が良いと思っただけだ。いいことを思いついた。これからもこの関係を続けよう。ラバドーラ君。君が仕事をし、私が評価を得る。実にいい考えだと思わないかね?」
ラバドーラの答えは、顔面への軽いパンチだった。
軽いといっても機械のボディなので、保護されていても地球人の手よりも硬い。
ルーカスにはちょうどよく苦しむ程度の痛みが襲っていた。
「アイよ。次呼び間違えたら制御装置を切ってから殴るわよ」
「つまり私の出世にはなんの問題もないわけだ」
「自分が得することに関しては理解が早いのね。そうよ。ルーカスが私を利用して出世するのにはなんの文句もないわ。元時空のアースに戻ってもね。でも、協力をする筋合いはないからしない」
「随分と殊勝な心を持つようになったではないか。さては、私の深い考えに感化されたな」
「そんなわけないでしょう」
「なら、私に惚れたか? AIと地球人の恋物語などおとぎ話だ。今どき五つの子でも想像せんぞ」
「うるさいのよ、完璧だと周りが。嫉妬と称賛の二極化。ルーカスのポカに巻き込まれるくらいが丁度いいってわかったの。どこか見下される部分がないと人間関係って上手くいかないのね」
「なにを辞職を出す寸前のOLみたいなことを言っているのかね。AIの分際で、人間の機微を理解しようなど笑止千万だ」
「その言葉知ってる。デフォルトが言ってた。あいつも最近うるさいのよね……。で、あなたの報告書こそ笑止千万なんだけど。どうする? 私が書いたので出す? 自分で書いたの出す?」
「そんなもの。君が決めるべきだ。答えはわかっているがな」
ルーカスを評価させるためのハッキングなので、ラバドーラは自分で書いた報告書を出すのに決まっていた。
そんなこと忘れていたとしても、ラバドーラがわざわざ労力を無駄にするようなことはしない。
わかりきったことを何故聞いたのだろうと、ラバドーラは自虐に熱くなったボディから排熱した。
「埃臭いぞ……。こんな狭いところでやめたまえ。まるですかしっぺだ」
「なんとなく悪口なのはわかったわ……。殴ってやりたいけど、この時期からデフォルトが医療チームに参加してるから怪我をさせるわけにはいかないのよね……」
「もう一人のアホはどうするつもりかね。あのアホのせいで出世の道を閉ざされるのはごめんだ」
「本当……自分に損得がかかってる時は頭の回転が早いんだから……。そうね……どうしましょう」
二人が言っているのは卓也のことだ。
ラバドーラはアイの姿を投影している。つまり女性の姿だ。
卓也の女性に関する特殊能力を考えると、なにかしら動きを封じたほうがいいと考えた。
「仕方ない。後ろから一発殴るか。日頃の恨みを込めて、少々力が入るかもしれないが。奴は仮想現実の世界でも生きていける。問題ないだろう。私が殴る」
「おバカ……。卓也が怪我したら余計ややこしくなるでしょう。この数日で卓也が怪我した記憶がある? 眠らせるくらいにしましょう。睡眠時間が増えれば、それだけ遭遇確率が上がるし」
ラバドーラはこの時間に自分が医務室にいないことを記憶から引っ張り出すと、デフォルトにメモを残した。
適当な理由をつけて、今回の騒動である言語障害を治す薬を飲ませるように、デフォルトの上司からのメッセージにしたのだが、その時『日時を知らせ、追って約束の検査をする』と書いてしまったせいで、言語障害が残っているこの時空ではデフォルトには『やXXくの検査をする』と見えてしまい。
卓也は薬物検査をすることとなってしまった。
結果は陰性。
しかし、その検査に使う薬の後遺症のせいで、卓也はしばらく男性機能の障害になることとなった。




