第二十五話
「――カス……。――カス。――カス」
早朝。
闇に渦巻くように響く卓也の声は、催眠術師が耳元でささやくように何度も耳の中でこだました。
真っ黒な視界。まだら模様が広がっては消え、消えた視界からまた新たにまだら模様が作られる。
模様はやがて螺旋となり、意識を深い闇のそこへといざなうかと思われたが、斬りつけるような白い閃光に襲われ、ルカースは思わず目を開けた。
「カスカスとうるさい! 誰がカスだ!」
「だって、ルーカスだろう」
卓也はまっすぐルーカスの顔を指した。
その指先を睨みつけ、より目になったルーカスだったが、徐々にその目玉がキョロキョロと動き出した。
自由に動く視界。視線だけでは補えない角度は、別のものを使えば解決する。
それは首だ。
ルーカスの知らないうちに、バチコムが魂を肉体へと移したのだった。
卓也達もそれぞれ元の身体に戻っており、ルーカスの目には見慣れた面々の顔と、鏡に写る久しく見ていなかった自分の姿が映し出されていた。
「素晴らしい……。なんて凛々しい顔つきだ……。なんと雄々しい身体だ。もう離さないぞ」
自分で自分の体を強く抱きしめる姿を見て、デフォルトは「卓也さんみたいですね」と漏らした。
「デフォルトが普段から僕をどう見てるのかよーくわかったよ」
卓也は鏡の自分から少しだけ視線をずらして、鏡の中から触手をうねらせるデフォルトを見た。
「なにも変わらない。裸じゃないだけルーカスのほうがマシだ」
記憶容量の無駄遣いをさせるなと嘆くラバドーラも、元のボロいボディへとデータが戻されていた。
「言っておくけど、鏡の前で裸になるのは普通のこと。いつでも脱げるように毎朝のチェックは欠かさない。ラバドーラがニュースサイトで、最初にエッチなニュースをチェックするのと一緒」
「するか。知的生命体のニュースなど、私にとってはなんおニュースにならないからな」
「うそ……。でも、エッチなニュースは選り分けておいて。意外に女の子ほうがそういう記事をチェックしてるんだ。これってどういうことかわかる? 心の鍵は開いてるってサイン」
元の身体に戻ったことにより、いつもの調子を取り戻した四人。
このまま今回の事件は大変だったね。と終わりムードに入っていたのだが、バチコムが申し訳無さそうに割って入ったことにより流れが変わった。
「睡眠中が最も魂移植の成功率が高い。前もって知らせるとスイッチが入り、寝ていても脳が興奮状態に入る可能性もあった。だから事前通知なしに手術させてもらった」
「急に喜ばせても、お返しはしないよ。宇宙一セクシーな男の生身の体は、女の子のためだけに動くって決まってるの」
「そのことなのだが……」
「ぬはん……ぬはっ! むほほほほ。ふしゅー……はっはっは!」
架空生物の鳴き声をマネしているかのような奇妙な笑い声は、満面の笑みのルーカスの口から発せられているものだ。
「うるさいよ……」
卓也が無表情でコップをテーブルに置くと、ルーカスは中の水を顔面に引っ掛けた。
「誰が水を持ってこいって言った」
「白湯も水も同じだろう?」
「白湯だったならば、今頃君の顔は大やけどだ」
「白湯でやけどするわけないだろう。熱湯じゃないんだぞ」
「おっ? 文句かね? 今、この私に、文句を言った。卓也君。今君は。文句を言ったのかね?」
いつもならばルーカスの嫌味に辛辣に返す卓也だが、今日は違った。
無表情のままウォーターサーバーから、白湯をコップに注ぎ直した。
ルーカスのはその一連の動作を満足そうな笑みで眺めながら「君達にも命令したはずだが? ただ突っ立っていろとでも命令されたつもりかね?」と、デフォルトとラバドーラを言葉で牽制した。
デフォルトは文句なく頼まれていた食事の用意。わざわざ地球風に味付けのし直しを始めた。
ラバドーラだけは真っ白なマネキンのような姿のまま。ただじっとルーカスに顔を向けていた。
表情を投影していたら絶対に殺意を込めた瞳で睨んでいるのだが、真っ白な顔でも凄みはあった。
なのでルーカスも奥の手を出すしかなかった。
「いいのかね? そのボディー。誰のおかげで新品を手に入れられたと思っているのだ」
現在三人がルーカスの命令を聞かざるを得ない理由は、ルーカスの腸内細菌であるサル菌が関係していた。
サル菌は日和見菌の一種であり、状況に応じて善玉菌に作用したり、逆に悪玉菌に作用したりする。
つまり生物に有用なサル菌を増やすには、日和見菌の動きを活性化させる必要がある。
そして腸内細菌を整える最も効果的な方法はストレスフリーな生活だ。
簡単に言えば、ルーカスのわがままを聞いて良い気分にさせて、健康的な便から細菌を抽出するということだ。
嫌々ながらもバチコムが出した提案に乗っかった理由は、サル菌と取引でレストに不足していた備品や食料が手に入れられるのと、ラバドーラのボディの引き換えの代金も入っている。
ラバドーラが大人しいのも、幽閉されていた頃からだましだましメンテナンスと改造を繰り返して凌いできたが、いい加減ボロボロのボディでいるのは嫌だったからだ。
ここは癒やしの惑星バルということもあり、見た目は危ないものあるが、攻撃的な装置は備わっていないボディばかりなので、悪名を馳せていたときのように武器を使って脱出することは出来ない。
ルーカスのわがままを聞くしかなかった。
人間の体ではなくなり、機械的でぎこちなさがなくなった動作だというのに、その後ろ姿からは悔しさがにじみ出ていた。
「ぬはん……ぬは! 実に気分が良いぞ」
「気分が良いのはいいけど、その笑い方やめれば? チンパンジーだってもっとマシな笑い方する」
卓也は持ってきた白湯をテーブルに置くのと同時に、ため息もテーブルに置いた。
「私のお腹にいるのはチンパンジーではない。サルだ。サル菌だと言っただろう」
ルーカスがうっとりとした表情でお腹を撫でる姿を見て、卓也は顔をしかめて頭を抱えた。
「また変なものを産むつもりじゃないだろうな」
「変なものというな。この子が聞いたら気を悪くするだろう。私の優秀な遺伝子だ」
ルーカスはより優しくお腹を撫でると、卓也の顔は残り香漂うトイレの個室に入った時のようにしかめ面を更に強くした。
「その光景を見てる僕のほうが気分が悪い……。そもそもただの腸内細菌だろう」
「ただのではない。君が食べる食事も、ラバドーラのボディーも。そのすべてが私の体の一部の恩恵だと言うことを忘れるな。片時もだ。食事の時も、寝る時もだ」
「トイレの時もだろう」
「面白いことを言うではないか。今君は私の機嫌を損ねたぞ。いいのかね? 屁が臭くなっても。屁の臭いは腸内環境の悪化が原因だ。つまり、君達の忠誠心のなさの現れに繋がる」
「最悪の脅しだよ……。それで次は? 水を補充したからホースを持てって言うならお断り。地球には帰れなくていいから、今すぐ殺して」
「そうだな……」
それから数十分後。調理室で味付けし直した料理を持ってきたデフォルトは、壁スクリーンに映し出されたハゲ頭の卓也を見て驚愕した。
「なにをしているんですか……」
「なにってルーカスのご機嫌取りに、貶されてるんだよ。でも、僕はハゲてもカッコいいことに気付いた。将来が楽しみだよ。――で、思った反応と違って不機嫌になってるのが、そこにいるルーカス」
「不機嫌になっているのではない。呆れているのだ。まるで中学生のイガクリ坊主だぞ。童顔もここまで極めれば変態だ」
「大人のお姉さんと童貞の中学生ごっこをしない限り変態じゃない。でも、良さは否定しない」
「遊ぶのもいいですが。食事はしっかり摂りましょう。地球の出身者が祖先の惑星だということもあり、ここで育てている家畜や野菜は似た食材が多いらしいですよ。保存食の否定派ではありませんが、生の食材というのはやはり力を感じますね。生命力の素晴らしさです。ルーカス様も明日の朝は水やりに参加しませんか? 自分が食べる野菜が育つのを日々見るのはとても充実しますよ」
「アホかね……。野菜は観葉植物ではない。それにきゅうりは好かん。私をバッタかなにかかと勘違いしているのかね? 即刻作り直したまえ」
ルーカスが厭味ったらしいため息をついた瞬間。壁のモニターが卓也のハゲ頭からバチコムの通信へと変わった。
「良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」
「これ以上悪いニュースがあるなら聞くけど」
卓也はルーカスのわがままを聞くのも限界だと、うんざりとした様子で肩を落とした。
「悪いニュースはサル菌が役に立たないということだ。味方にも敵にもなるというのが厄介だ。少しの腸内環境の変化で、たちまち悪玉菌が優勢になる」
「権力になびくなんてルーカスそのものじゃん。悪いニュースって、僕らのやってることが無駄になったってこと?」
「ある意味ではだ。良いニュースは、ストレスが与えられるとサル菌は擬態するということだ。どちらかの菌のフリをし保護を受け、優位に立ったところ腸内フローラを支配しようと動き出す」
「本当にルーカスそのものじゃん……。それのどこが良いニュースなのさ。ルーカス増殖計画でもするつもり?」
「擬態という行動が重要なんだ。上手く悪玉菌に作用させれば、善玉菌が優位に働く環境ができる。なにより、このサル菌という腸内細菌は寄生生物のような働きもしている。酸素を求めて外に出たがるんだ。理由はわかっていないが、腸内フローラの入れ替わりをスムーズにさせているのは確かだ」
「ウォシュレットがダメな理由がわかったよ」
卓也の呆れ顔とは違い、ルーカスの顔は真剣だった。
自分の体内に理由のわからない細菌がいて、寄生という単語も出てきたので、健康状態が気になって偉ぶることも忘れていた。
「それは大丈夫なのかね?」
「ダメだ。数分後には腸内で溜まったガスが爆発する」
「また私は爆発するというのかね!! 大変だ! 知の損失だ! 今すぐに緊急手術だ!!」
ルーカスがベッドに寝転がって叫ぶと、バチコムの「嘘だ」という音声が無情に響いた。
「今ので私の腸内環境は乱れたぞ。文字通り高く付くことになる」
最高級のおもてなしを要求したルーカスだったが、バチコムはそれを了承することはなかった。
「乱れて結構。それこそが目的だ。ルーカスの腸内に住んでいるサル菌という腸内環境は、ストレスの掛かる環境下によって活性化される。擬態された菌を取り出すのには、ストレスを与えた方が良いということだ」
「つまり……」とルーカスが言葉を飲み込むと、卓也が満面の笑みになった。
「僕には最高の数日間が待っているってこと」
「待ちたまえ……」
ルーカスが引きつった笑みで後ずさりをするが、ぴったり同じ歩幅分だけ卓也は近付いていった。
「僕初めてだよ。女の子以外に何でもしていいって言われて、こんなにワクワクするのは」
「私は何でもしていいなどと一言も言ってはいない」
「いいや言った」
「いつだ」
「今さ」
「言っていない」
「言ったもん。聞いたからね」
「言っていないと言ってるだろう」
「言った。言った。ナナナナナナーナ」
卓也が歌いながらからかうと、ルーカスは顔を真赤にして「腹立たしい男だ」と語気を強めた。
「これ、新しい治療法になるよ。バカをからかうの」
この日の卓也の笑い声は、寝言も続いていた。
そして更に数日経つと、四人は癒やしの惑星バルではなく、宇宙船レストの中にいた。
ストレスのある状態。ストレスのない状態。どちらの状態のサル菌も提供できたので、約束通り地球へのログと物資を積んで、再び宇宙を進んでいるところだった。
「いよいよなんですね……」
デフォルトははっきりと映し出される、地球へと繋がる電子の線を見て心を踊らせていた。
「なんで僕よりウキウキしてるのさ」
「一応憧れの惑星ですから。それに催眠裁判中の地球人も、過去の方舟で会った地球人も、どちらも自分の肌に合っていました」
「まっ、歓迎されればだけどね」
卓也の言葉の裏には、バチコムから聞いた星流しという言葉が隠れていた。
「卓也さんは怖くないのですか?」
「だって僕は宇宙一セクシーな男だよ? 銀河系の半分は味方ってこと。ぼくを本気で殺したい男なんて……まあ……五、六人はいるだろうね」
「心配ですよ……」
「大丈夫だって。地球人の見栄って凄いんだから。見栄のために法律を変えた歴史なんて山ほどあるんだから。一度掲げた拳は、武器を持たないと振り下ろせないの。地球人の男は殆ど知らない事実。拳を掲げる時はブラを外したときだけだって。拳を下ろせば、次はパンツを脱がせられるからね」
「本当に半分だけですか? 敵は……」
「本当の意味での敵はね。一度刺されてから成就する愛もある。二度とやるつもりはないけどね……」
卓也は苦い思い出に眉をひそめると、そのまま視線を窓の外へ向けた。
外側観測スクリーンは、変わらない星々を映し出しているが、どこか懐かしく感じるのは銀河系へと戻ってきたから。
そう考えると、卓也の胸にもデフォルトの高揚がうつったかのように、高鳴る鼓動が響き始めた。




