第十六話
「やはり体力は落ちていますね。動悸の落ち着きも遅いです。感覚のズレにより疲労が蓄積されやすくなっているようです。男性時のままの感覚で体を動かすと、体のほうがついてきませんから」
バチコムから出されたプログラムをこなし、着替えをしている最中。
デフォルトは椅子に座ったままの卓也を心配していた。
フルマラソンを完走したかのようにうなだれているからだ。
プログラムの内容は過酷のものではないのだが、女性の体になったばかりの卓也には、ストレッチから軽運動まで、その全てが未体験のスポーツをしているかのように体が上手く動かなかったのだ。
「運動会のお父さん。運動音痴よりも若い時に運動してた方が、現実と理想がついていかなくて、恥をかくあれのこと?」
「その感覚はわかりませんよ。汗の量が変わるだけでも、相当疲れるはずですよ。地球人の身体には体温調節機能が――」
「デフォルト。僕のほうが地球人の体には詳しい」
「今は男性ではなく女性ですよ」
「尚詳しい。ほら、少しシャツをはだけさせるだけで……何も起こらない。虚しい……」
卓也は床に穴を開けるような深い溜め息を落とした。
そんな日から数日立ったある日。
卓也は自分の思惑とは外れた女性の生活を楽しんでいた。
「卓也さん……何をしてるんですか?」
「なにって肌を育ててるんだ。料理だって生肉を出して終わりじゃないだろう。こうして肌を育てることで、美味しくなるってわけ」
「誰かと恋仲になったのですか?」
「デフォルト……。恋に落ちてからキレイになっても遅いんだよ。現実は映画みたいにいかないの。日々ステップアップ。デフォルトと同じ考えだね」
「根本は同じだと思うのですが……。そういう老化防止のコンテンツは基本的に意味がないというか、上限はどんどん下がっていきますから、最終的には皮膚移植。そして皮膚組織の――」
「よくそういうことが言えたな」
卓也は少し声を大きくして、デフォルトの言葉を遮った。
「ショックかも知れませんが事実ですよ。それを証拠に、地球では若さより年齢らしさを求められる時期というのがあるではないですか」
「違う。声を小さくしろって言ってるの。真実は時として戦争の火種になる。事実であれば事実であるほど受け入れられないものなの」
卓也は口元で人差し指を立てると、その指で周囲を指した。
今二人がこなしているプログラムは美容に関係するものであり、周囲の客は既存の肌でどうにかしようとケアをしている最中だった。
一見ライフバグシステムには関係ないように見えるプログラムだが、肌の健康を整えるというのは、肌のターンオーバーが行われているかを確かめるのに適した治療なのだ。
「事実は必要なことですよ」
「大丈夫。地球人は無責任に石を投げた後に、都合の良い事実を拾って積み上げることも覚えたから」
「それは覚えなくていいことでは?」
「それも自分を守る術の一つ。キレイになった肌に、化粧を施すのもまた自分を守る術ってやつ。前は口からでまかせだったけど、女になった今ならわかる。女性の化粧は、ベッドに入る前に股間をいじって少し大きく見せる男の見栄とは違うってこと」
「ですが……」とデフォルトは口ごもった。周りを確認して注目されていないのを確認すると、再び切り出した。「こんなにケアする必要ありますか?」
デフォルトは目の前に広がっている美容液の数に圧倒されていた。
「あるに決まってる。体の部位に名前がついてるだろう。それは個人と一緒。その人なりのケアがあるだろう。頬には頬の美容液を、目元には目元の美容液を。ほら、デフォルトの好きな言葉にあるだろう。スペースワイドってのが、もっと考えを広げないと」
試してみなと液体の入った容器を寄せてきたので、デフォルトはそれを手に取ったのだが、蓋を開けた瞬間。卓也の口からはため息が漏れ出ていた。
「洗顔はさっき済ませたから良しとして……まずはブースターだろう。特にデフォルトは前のクラゲだかタコみたいな体だったんだから気を付けないと。地球人の肌は乾燥するぞ。乾燥肌にいいのが導入液ってわけ」
「肌の移植のほうが早くないですか?」
「地球人の肌っていうのは敏感で繊細なの。肌の血色の良さを見たらわかるだろう?」
卓也は腕を見せつけると、ライトの位置を確認して様々な光の当たり方をする自分の肌を見せた。
「卓也さんは女性になっても根本は変わってなさそうですね。なにか安心しました」
「セクシーは男でも女でもセクシーだからね。宇宙一セクシーな男は性別も超越するってこと」
卓也は導入液の入った容器をデフォルトに渡すと、鼻歌を歌いながら自分スキンケアを始めた。
性別が変わったことと、性欲が落ち着いたことによって、卓也の混乱がもっと長引くと思っていたデフォルトは前向きな姿勢の卓也を見て安心していた。
「楽しそうですね」
「楽しいよ。これはジャズドラムと一緒だ。使う時もあるし使わない時もある。でも、あるとワンポイントに使える。化粧品も言えることだ。これも全て女友達から教えてもらった。女の子同士ってもっとギスギスしてると思ったよ。でも、スキンケアの話なら天井知らず。男のうちにもっと勉強しておけばよかったよ。ペットでも子供でもない。時代の中心となる話題はスキンケアと化粧だ。今まではとりあえず褒めてたよ。でも、女性は詳細を褒められたい。男みたいにデカさで褒められて喜ぶほど単純じゃないんだ」
「その考えが地球人の男性的だと思いますけど」
「なら女性になってこないと。知ってるかい? 肌を褒めれば触り放題だって。今度は夜用のスキンケアをじっくりねっとり塗り伸ばすように教えてもらわないと」
卓也はスキンケアを途中で終えると、あえて続きは別の女性に教わろうとそそくさと席を外した。
そんな慌ただしい後ろ姿を眺めながら、デフォルトは複雑な視線で見送った。
合理的なものを求めてきたデフォルトは、地球人の柔軟さを評価するとともに、その自由すぎる思想と思い込みによる行動力を不安にも思っていた。
羨ましくもあるが、卓也の性的衝動のように、突拍子もない感情がふっと湧いて出てきた時の対象方法がわからないからだ。
地球人全員が異常行動をする訳では無いが、身近なサンプルがルーカスと卓也の二名に限られているせいで、感情により発作的行動が出るのを恐れていた。
「わかるわ。そのため息」
先程まで卓也が座っていた椅子に、ピンク肌の星人が座っていた。
突然話しかけられデフォルトは「そうですか?」としか返せなかったが、女性は気にせず続けた。
「美肌になりたいか、美肌に見せたいか。それとも、皮膚の再生能力を高めたいかよ。死んだ細胞を蘇らせられると思う?」
「どういうことですか?」
「肌って角質層を大事にするけど、毛局最後は垢となって落ちていくものでしょう? それが体全部となったら相当の量よ。新しいのを育てた方が有益だと思わない? 肌の寿命を伸ばす星人って、無駄に寿命を伸ばす星人が多いと思うのよ。だから余計なケアが必要になる」
「面白い考えですね。メンテナンスか新技術か。その丁度間にある価値観がスキンケアと同じなのかもしれません」
女性は「そうでしょう」と声を高くした。「結局は成分の経皮吸収よりも、栄養と運動だと思うのよ。でも、ここだと誰も理解してくれなくて……」
「ここはその美容を学ぶセラピーですからね。理解してくれる人を探すほうが難しかと」
「でも、いた!」
女性は声大きくすると、それよりも大きな動作で指をさした。
それが四つある顔を指していると気付いたデフォルトは、気にせず「この体ですから、他とは違うんです」と返した。
「自分と違う異星人のほうが多いのよ。今更外見でどうこういうなんてナンセンスだわ」
「感心するより心が痛いのは、この体のせいだからでしょうか……」
デフォルトの体の事情を知らない女性は一度首を傾げたが、価値観の合う人物だと認めると別のプログラムへと誘い出した。
バチコムから指令されたプログラムの九割を終え、最後の肌テストをしていただけなので、時間は余っている。
デフォルトはしばらく女性と行動を共にすることにした。
主に運動中心のプログラムは、全てが自然豊かな場所で行われた。
体を鍛えると言うよりも、動かして血流を改善するようなものばかりだ。
一瞬一瞬で表情を変える自然に飽きることなく、身も心も癒やさる。
体が末端まで温まり、呼吸が深まると、胃が音を立てて空腹のサインを送った。
体の自然現象に二人で笑い合うと距離も縮まり、食事を一緒にすることとなった。
幸いここは癒やしの惑星。おしゃれな惑星ではないので、慣れない地球人の体に合わせたドレスコードの必要もなく、動きやすい服装が基本だ。
話題も堅苦しかったり色恋沙汰よりも、自分の体や思想のことが中心だ。
話すたびに一人ではなく、お互い作用して高め合っているという気になれた。
食事中の話題も有意義なものだった。
女性も両手両足と一対の手と一対の脚を持ち、直立二足歩行を行うという似た体の構造をしているので、参考になる話が多かった。
「本当に赤ちゃんみたいな人ね。自分のことをそんなに知らない人は珍しいわよ。健康志向なのに」
「生まれたてみたいなものですから」
「面白いこと言うわね。本当に赤ちゃんなら、生きていけないわ。自己管理って自立の芯だと思わない?」
女性が笑いかけると、デフォルトは胸がなにかに強く刺激されるのを感じた。
女性との食事を終え、部屋に戻るとすでに卓也が帰宅済みであり、バチコムと今日のプログラムのテスト結果を話し合っていた。
バチコムが分析中。デフォルトは今日あったことを卓也に話していた。特に原因不明の胸の痛みのことを。
「今も痛い?」
「いいえ」
「その人のことを考えるとどう」
「痛まないです」
「一緒にいたときのことを考えるとどうだ?」
「痛みます……」
「デフォルト! それは恋だよ! 恋! なんて素晴らしいんだ!」
卓也はテンションを上げると、初めてテストで満点を取った子供を褒めるように何度も称えた。
「恋?」
「そうだ! 僕がずっと教えていたかいがある! 恋はするもの。愛は素晴らしい」
「卓也さんの恋というよりも、性ですけど」
「漢字一文字でひらがなにするとニ文字。そんな代わりはないだろう。いいもんだろう?」
「そうでしょうか……」とデフォルトは戸惑った。「痛いし……苦しいです。まるでなにかに訴えかけられているかのように」
「言葉を全て詩人にさせる。それこそ恋だ。胸がキュンとしたら股間がギュンとするまでもう少しだ! 経験者は語るだ」
「いや違う」
診断結果は問題ないと卓也のデータを見せつけながら、バチコムが話題に入ってきた。
「バチコム。口を挟むな。挟むなら胸にして。エッチな意味じゃないよ。愛は胸に宿るんだ。だから男は吸い出そうと必死なの」
「違う。恋や愛という感情でもなく、性的衝動とも違う。ストレスにより胃が荒れているだけだ。前の体で受け入れられたものが、人間の体で受け入れられなくなった結果だ。研究結果によると、スキンケアとストレスの関係は多そうだ。プログラムは任せる。だが、続けるように」
「ですが……今までこんなことは……」
「その女性と話していて何を思った?」
「ルーカス様と卓也様の健康管理は最低最悪のものだと。数世紀遅れた価値観だと確信しました」
「それが恋というものだと思うか?」
「いいえ……」
デフォルトの力ない返事に、バチコムは「ここは癒やしの惑星バル。ゆっくり癒やされるように……」と定型文を返し、食事に仕込まれている極小のカメラで撮った、荒れに荒れたデフォルトの胃の写真を見せたのだった。




