第十五話
卓也とラバドーラが目覚めるのは同時だった。
模様のない、床と間違うような白い天井を見た後、二人は同時に体を起こして顔を見合わせた。
「ここは?」
ラバドーラは再び倒れ込みながら言った。
スリープモードに入ったときのように、視界が四隅から徐々に暗くなっていったせいだ。
初めて経験するめまいは強烈で、ベッドとの距離感がつかずに勢いがつき、クッション性能の割には大きな音が鳴った。
「部屋です。急に機敏な動きは危ないですよ。のぼせ状態で倒れていたのですから。まずはゆっくり心を落ち着けて。そして水を飲んでから話しましょう」
老婆の顔のデフォルトは常温の水をコップに汲むと、優しくサイドテーブルに置いた。
今度はゆっくり体を起こしたラバドーラは、一口分喉を鳴らして水を飲んだ。
「なんだこれは」
「なにってミネラルが豊富な水ですよ。成分表が必要ならばすぐに出します」
「こんな美味いものをいつも飲んでいたのか!?」
ラバドーラは目を見開いて驚いていた。まるで神への冒涜だとでも言い出しそうな表情だ。
「まあ……それは……生きるのに必要な成分ですし……」
「驚いた。なんだこの感覚。実に味わい深い……」
おかわりした水もごくごくと飲み干すラバドーラの姿を、卓也は半裸のまま眺めていた。
「水って無味無臭だと思ってた」
「一般的に無味無臭でいいと思いますよ」
デフォルトは試しに自分も水を飲んでみたのだが、どこの惑星にもある水だ。
何かに取って代わることもなく、水はどこでも水だ。デフォルトが間違えるはずもなかった。
「水をあんなにありがたがって飲むことある? もしかして、めちゃくちゃ高級な水だったりする? 飲んでおかなくちゃ」
卓也は癒やしの惑星なら水もそれなりのものだろうと、同じようにごくごく喉を鳴らして飲み干したのだが、地球で飲んだ水と同じであり、宇宙船で飲む水とも全く同じだった。
「おそらく、味覚に圧倒されているのではないでしょうか? 聴覚や視覚や触覚というのはセンサーとしてアンドロイドの時も機能していましたが、調理機能はなかったので味覚はプログラミングされていなかったのでは? 味覚と言っても、レシピや栄養成分値が元になったデータですが」
「少なくとも、僕は水に感動したことはないけどね」
「普通はありえないことですからね。知識や知恵を十分に蓄えた状態で、初めて水を飲むということは。自分も普段と違う肌感覚に少し戸惑っています」
デフォルトの元の身体と違い、人間の身体は体温調節が難しい。暖かいや冷たいといった感覚はいつも以上に感じていた。
それは辛さや痛さではなく、心地良さとしてデフォルトを癒やしていた。
「二人共情けないんだから。僕なんか、もう身体に順応してる。勝手知ったる女の子身体だよ? 最早自分の体より詳しいよ。僕が本気を出せば女体の神秘の三割は解明できるね。学会に出て論文を発表してもいいくらい。でもなぜしないか。宇宙暦以前の地球人が宇宙に夢を見ていたように、女体もまた夢を見せる存在だからさ」
「そんなことより服を着てください。いつまで半裸でいるおつもりですか」
デフォルトは卓也が得意な女性のことで混乱して倒れたことは伝えず、着替えを渡した。
「脱がせたのは君だろう」
「全裸で倒れたのは卓也さんですよ。そのまま運ばれたんです。下も簡易的な治療用のズボンです。ボタン式なので脱げやすくなっています。部屋から出るなら、下も着替えたほうがいいですよ」
「おっぱい丸出しの美女がいるのに、この反応とはね。君たちには礼儀というものを教えたいよ」
卓也が肩を落とすと、いつも揺れない胸が揺れた。
「まったく……女になっても俗物な男だ。いや、俗物がゆえに女になったとも言える」
ルーカスの偉そうな声は、ラバドーラの腕からしていた。
「待った。なぜ私の腕にこれがついている」
「慣れない身体なので、自分よりラバドーラさんが付けてたほうが良いと思ったんです。とっさの時にルーカス様の助言が聞けると思うので」
「私が、これにか?」
ラバドーラは心外だという顔で、腕時計型のディスプレイ睨みつけた。
「人間の体は繊細ですから」
「これがか?」
ラバドーラはテイクツーのように、まったく同じ動きで時計の中のルーカスを睨んだ。
「これだと? 男の生理現象にも対応できない青二才が何を言っている」
ルーカスは膨らんだラバドーラの股間を見て、こんな状況で何を考えているのかと呆れた。
「半裸の僕がいるんだぞ。恥ずべきことはなにもない。むしろ誇るべきだ」
満更でもない卓也の言い方にルーカス更に呆れたが、急にラバドーラが立ち上がったので慌てて声を大きくした。
「言葉を馬鹿正直に取るやつがいるか。あの女になったバカは、誇らしく股間の大蛇を振り回せと言っているのではない」
「私は私に従っているだけだ」
ラバドーラはそのままぐるぐると部屋中を歩き回り始めた。
全裸のままで男が闊歩する姿は不気味の一言に尽きる。
部屋にいる誰もが、声もかけられずにいた。
卓也だけがかろうじて「なにしてるの?」と、裸の経験差から口に出すことが出来た。
「なにって、見ろ。矢印が指し示す方向へ進んでるんだ。マニュアル通りに操作するのは普通だろう」
ラバドーラは自分の股間を指すと、自慢するかのように堂々と歩き始めた。
「呆れた……それじゃあ、自分の尻尾を追いかける犬だよ。もっと興奮すれば、空まで歩いてくね」
「そうは言うが、どうすればいい。矢印は前を向いているんだ」
からかっているわけでもなければ、ふざけているわけでもない。
生身の身体の生理現象にラバドーラの思考はヒート寸前だった。
「トイレに言って落ち着いてくれば? 無理なくおしっこが出るようになれば、人前に出ても大丈夫な証拠だから。まったく……信じられる? 男になった途端。僕を女として意識し始めた。これだから男って最低……」
「卓也さん?」
普段絶対に言わないような言い方に、身もココロモまで卓也が女性になってしまったのではないかとデフォルトは慌てた。
「冗談だよ。でも、これからは冗談じゃない。僕もラバドーラと同じものがほしい。いや、奪い返したい。カチコミから」
「バチコムです。Dr.バチコム」
『そうだ。Dr.バチコムだ。どうぞよろしく』
突如として部屋に響いたバチコムの声は、それはそれは嬉しそうだった。
クリスマスのプレゼントを目の前にした子供のような無邪気であり、無責任なものだ。
「一体何が目的ですか」
デフォルトはバチコムがなにか危害を加えてくるのではないかと身構えた。
「目的の前に、とりあえず安定剤だね。不慣れな身体で気絶しやすくなっている傾向がある。少し代謝を上げて免疫力を高めたほうがいい。精神の癒着にはリラックスが必要不可欠だ」
「それが目的ですか?」
「そうだ。健康体でこそ意味がある。君達にはこれから毎日テストをしてもらい。ライフバグシステムの欠陥を探してもらう。ないならないに越したことはないが、性格上目で見ないと納得できない質でね。ここ癒やしの惑星バルなら、緊急事態にも対応できる」
「そんな勝手なことで、我々の魂をいじったのですか?」
「別に宇宙を混乱に陥れようとしているわけではない。魂がない状態で出来る治療があるならば、模索するのが医療従事者だ。そして、治療が終われば魂を戻す。この大いなるシステムのことをライフバグシステムと呼んでいるのだ。わかったか?」
「つまり自分達の身体に戻れると?」
「そう言っているだろう。むしろ元の身体に戻れるまでがライフバグシステムだ。別人になりすましたかったら仮想現実でいい。誰にも迷惑をかけず、寿命まで無駄な時間を過ごし死ぬことも出来るからな。私は仮想現実依存で寿命が尽きたものを死んだとは思わないがな。生まれた現実すらなくなるのが仮想現実だ」
「危険はないのですか?」
「生きていることが一番の危険行為だ。それに協力をすれば、君達の目的のものを送ろう。地球へのログだ。あの男から君達の経緯は聞いた。ここは銀河系の端。地球からの来訪者も少なくはない。安心していい。君達の身体は、見事に脳死した新鮮な死体を使っている。顔が四つあるのは、それだけ考える力があるということ。少し手術はしたけど、君の上質な脳みそにはピッタリのはずだ」
バチコムのやっていることはもちろん違法だが、全宇宙の医療を考えると誰かがやらなければならないこと。
技術の進化に必要不可欠なものは、時として法を見て見ぬふりすることが大事だ。
デフォルトはいつものように反発するのではなく、バチコムの医療に対する姿勢に感銘を受け、全面的に協力することを決めた。
快くテストを受け入れたことに感謝を述べたバチコムは、当面のスケジュールと緊急時のマニュアルのデータを部屋のコンピュータに送ると、好きに過ごすようにと声を消した。
全員のIDが新たなものに書き換えられ、惑星バルの施設どこでも自由に利用でき、料金の心配もいらなくなった。
バチコムから送られてくるプログラムをこなせば、後はどう過ごしてもいいということだった。
「これで本当に地球の尻尾を掴んだという感じですね」
地球へのログ。これは本物だった。地球人の身体のサンプルがあるのが証拠だ。
「地球の尻尾だって? 僕の前についてた尻尾の件はどうなったのさ。どうにかして生やすプログラムとかないわけ?」
「元の身体へ戻れるんですよ。少しの時間だけです。我慢してはどうですか?」
バチコムに嘘はない。デフォルトの判断は正しかった。
なんの運命か実験体になってしまったが、自分達はライフバグシステム成功の証拠にもなる。
何としても生かそうとするはずだ。
バチコムの言う通り、元の身体に戻るまでがライフバグシステム。
デフォルトにもう不安はなくなっていた。
「この体に生えてるから意味があるの。僕は悟ったよ。ラバドーラが正しい。僕には股間のコンパスが必要なんだ。僕はコンパスが指し示す方角へ導かれたい……」
いつもの調子に戻った卓也にため息をついたデフォルトは、とりあえず自分達のプログラムをこなしに部屋へを出ていった。
ラバドーラを置いていった理由は、トイレから関わりたくない会話が聞こえてきたからだ。
「どうすればいい。暴れるぞこいつは。ウイルスか?」
「ホースで水を撒くのとはわけが違う! 押しつぶすな! 押しつぶしたとて勢いは強くならん」
「別に勢いを強くしたいわけじゃない、オイル交換をしたいだけだ」
「いいか? 銃と一緒だ。おしりをしめて狙いを定めろ。的を探せ。漫然と垂れ流しにすると、あらぬ方向へ飛んでいく。特に寝起きは気をつけたまえ、本体が寝てるのを良いことに反旗を翻す。まっすぐ飛ばしたつもりが右へ。酷い時は二股に飛んでいく」
「一体どういう身体の構造をしているんだ……」
「それが生きるということだ。私から存分に学びたまえ」
ルーカスの高笑いはラバドーラの股間付近から響き渡った。




