第十九話
「見てよ、デフォルト! ここまでは普通なのに、ここからは逆さま。なのに毛は逆立ってない。まるで忍者だ」
卓也はドッキングされた通路の最中、天井から逆さまにぶら下がっていた。一歩後ろに下がると床に足がつき、また一歩前へと進むと天井に足がついた。
しかし卓也は落下する感覚も、体が宙に浮くような浮遊感も、回転するような感覚もなかった。まるでワープでもしているかのように一瞬で体の向きが変わる。デフォルトがいなければ、卓也はなにも気付かずに歩いていただろう。たまたま振り返って、デフォルトが逆さまに目に映るのが見えたおかげで気付いたのだった。
「とても高度な重力制御装置が働いているんですよ。下り上りが激しく蛇行した通路でも、自分達はただ真っすぐ歩けばいいだけです」
今、卓也とデフォルとがいる通路は、別の宇宙船を繋いでいるドッキング通路の間を縫うようにして地上へと伸びていた。
重力制御装置が働いているおかげで、たとえ通路が垂直になっていたとしても、重力は常に足元にある。それも人体にまったく影響がないといえるほど、なにも感じさせないほどだ。
「高度って言うけど、レストにだって重力制御装置くらいついてるぞ。天井を歩けるくらいで、大げさな」
「そうですね……なんと説明してよいやら……」
デフォルトは触手を天井まで伸ばして、突然卓也の足元を払った。
バランスを崩した卓也は、ほんのわずかの一瞬だけ、落ちているのか、浮き上がっているのか、浮いているのかわからない状態に陥るが、転んで顔面をぶつけることも、後頭部をぶつけることも、手をつくこともなかった。ただ驚いた顔で直立しているだけだ。
「いいかい……デフォルト……。二度とやるな……。玉がちぎれて飛んでいくかと思った……」
卓也は自分の股間を握って、二つの玉の所在をしっかり確認すると、安堵のため息をついた。
「一度体験してもらったほうが早いと思ったので。言葉だけで説明をすると、いつも勝手に解釈されて、それをきっかけに面倒事になることが多い気がして……」
「ただ通路を歩くだけだぞ。問題ごとなんて起きないって。転ばないだけなら、言葉だけの説明で事足りるよ」
卓也はやれやれと首を横に振ると、ゆっくりと歩き出した。
「そう短絡的ではなくてですね、常に足元に重力があるから――説明してもダメそうですね……」
デフォルトはがっかりとした顔で立ち止まった。卓也が半球体の窓に張り付くように顔を押し当てて、外にお目当ての異星人の女性がいないか探しているからだ。
「よく見えないけど、異星人がたくさん来てるってことは、女の子がいるのも確実ってことだね。そう思わないかい?」
「一つ確実なのは、その顔を見られたら呆れられるってことでしょうね」
潰れた鼻に、捲れたまぶた、腫れぼったい唇。窓に押し付けた卓也の顔はとてつもなくブサイクになっていた。
それから二人は他愛ない会話を続けながら通路を歩いた。地上に近付くにつれて、エンジンが高速で回転する音や、金属同士がぶつかり合う機械的な音は遠くなり、代わりに言語様々な会話が、ざわめきの波に乗って足元から耳へと広がってきた。
そんなまだ遠い喧騒から「見ろ、降りてくるぞ」という声がデフォルトの耳に入った。
通路の扉が自動的に開き、二人の目に飛び込んできたのは機械の星だった。
木や草などといった植物の類は一切なく、アリの巣のように複雑に伸びた道路と、継ぎ接ぎのように不自然な形状のビルが立ち並ぶ世界だ。
卓也が少し煙たい町並みを眺めていると、ふいに肩を叩かれた。振り返ると、ラグビーボールのように楕円形のロボットが浮いていた。
そのロボットは真横に線を引いたように、急に二つに割れると、中にあるカメラで卓也の顔の撮影を始めるのと同時に、すぐさま卓也の目の前に空中投影ディスプレイが開き、そこに自分の顔と見たことのない文字の羅列が表示された。
「なにこれ」と卓也がつぶやくと、ロボットはオウム返しに卓也と同じ言葉を返した。
「なんだこれ」
「ナンダコレ」
「真似してるのか?」
「マネシテルノカ」
「……生麦生米生卵」
「ナマムギナマゴメナマタマゴ」
卓也がロボットと不毛な会話を繰り広げている間、デフォルトは見知らぬ異星人に話しかけられていた。
「本当にあれで飛んできたのか?」
ナメクジのように触覚の先に目を持った異星人が、複数の目でデフォルトとレストを見比べてながら言った。
「ええ、そうですが……なにか?」
「オレの息子も前に同じものを作ってたよ。三時間で」
ナメクジ目の異星人が下品に笑うと、隣りにいた猫のような顔にサメのようなギザギザの口を持つ異星人も、大きく口を開けてデフォルトをからかった。
「失礼なことを言うなよ。オマエの息子が作ったものより、あの宇宙船のほうがずっと出来が良い。まぁ、それで宇宙に出るなんて言い出さないんだから、頭の出来はオマエの息子のほうがいいな」
二人が目を合わせて笑い合うのを見たデフォルトは、不機嫌な表情で咳払いをした。
「……それでは急ぎますので」
デフォルトは露骨に疎遠な態度を取るが、二人がその場からどくことはなかった。
「すまんすまん。悪気はなかったんだ。まさか言葉が通じると思ってなくてな」
ナメクジ目の男は一つの触覚でしっかりデフォルト見ながら、もう一つの触手でロボットと話す卓也の様子を見ていた。
「だから……なんなのさ」
「ダカラナンナノサ」
卓也とロボットは、相変わらずのオウム返しを繰り返している。
猫頭の異星人は卓也の隣に立つと、勝手にロボットの操作を始めた。
すると、「言語認識完了。言語ナンバー三兆九億八千三。チキュウの言語データを抽出中……完了」と、卓也には聞き慣れた地球の言葉をロボットが話し始めた。
ロボットから出てきた透明なテープを手に取った猫頭の異星人は、持ったまま卓也の右頬に平手打ちをした。
突然の衝撃にうずくまって痛みに耐え卓也の頭上から「聞こえるかい?」という声が聞こえた。
卓也が顔を上げると、猫頭の異星人のニヤニヤした顔が目に入った。
「聞こえるよ」
「なら、よかった。あのロボットは自動翻訳テープを出す機械だ。もし剥がれたら、適当に喋ってからディスプレイの中の赤い部分に触れればいい。出てきたテープを聴覚器官と発話器官の間に貼れば、異なる言語同士でも問題なく喋れる」
猫頭の異星人は「じゃあな」と、ナメクジ目の異星人と歩いていった。
二人の背中が小さくなる間に「あのロボットを使ってるやつなんて初めて見たぜ」「オレもだ。気の毒だな。宇宙翻訳機も作れないなんて、よっぽど頭の悪い異星人なんだろうな」という会話が聞こえてきた。
「卓也さん、気にしないでください」
デフォルトは慰めるような声で言うが、卓也はきょとんとしていた。
「気にするってなにをさ」
「二人の会話ですよ。宇宙翻訳機も作れないとか、レストは子供の玩具だっていう話ですよ」
「宇宙翻訳機が完成してないのも本当だし、レストが子供のおもちゃだっていうのは今初めて聞いた。翻訳機をつけてなかったしね。だいたい、そんなに怒ることかい?」
「からかわれたんですよ。見下されて、バカにされたんです。ただ技術の発展が遅れているだけで。今までの経緯を説明して、地球ではもっと技術開発が進んでいると言ってやればよかったんです」
「わざわざ、ルーカスが溜め込んで隠していた糞のせいで、メタン爆発を起こしたって説明するのかい? その方がよっぽどバカにされると思うけど」
「いいんですか? からかわれるのはお嫌いなのでは?」
「それはハワード・ルイスの場合だけ。背が高くて、いつも僕を見下ろして嫌なやつだよ。彼らは僕より小さかったし、いちいち目くじらを立てるようなことでもないよ。僕より大きかったら、それは大きな問題だけどね」
「ですが、言葉も通じないと思われていたんですよ? 暗に宇宙に関わったのがほんの数百年と言われたんです。それほど技術がない星人だと」
「それはデフォルトが、ただ心外に感じただけの話じゃないの? 要は僕らと一緒だと思われて頭にきたんだろう?」
卓也の言葉を聞いて、デフォルトは雷に打たれような衝撃が走った。触手の先から血の気が引いていき、全身の力が抜けていくようだった。強張った体は動かなくなり、「デフォルト? おーい、デフォルト」と名前を呼び続ける卓也の声が、詰まった耳に遠くから響いていた。
「おーい、デフォルト。いいかげんにこっちの世界に戻ってきなよ」
卓也がカップを叩いてカンカンと大きな音を立てると、デフォルトは体をビクッと震わせて辺りをキョロキョロ見回した。
デフォルトの記憶では、ドッキングされた通路を歩いて外に出ていたはずだが、今現在目に映っているのは見慣れたレストの部屋の中だった。
「はっ! 私は今までなにを!?」
「なにって、僕達の昼ごはんを作ったところ。で、コーヒーサーバーを持ったまま、ずっと固まってたから声を掛けたわけ。なにかあったの?」
「いいえ……悪い夢を見ていたのかもしれません」
デフォルトは気持ちの整理をつけるように、深呼吸を繰り返した。
「悪い夢って、トイレットペーパーが見つからなかったのに、どうしてルーカスがここに座ってご飯を食べてるかって話? 忘れたなら、それがいい。もう一回聞いたら後悔するよ」
「私が最後の手段に出たのは、君達二人がとんでもなく役立たずだからだ。トイレットペーパーの一つも買ってこれないのか……子供のお使いだってもっとましだ。まったく嘆かわしい……それに情けない。私という船長元で働くクルーだという意識はないのかね? バカにされて逃げ帰ってどうする」
ルーカスの言い終わりの言葉と同時に、デフォルトはコーヒーサーバーを床に落とした。乾いた音を立てて割れ、香り高いコーヒーの匂いが部屋中に充満した。
「やはり夢ではなかったのですね……」
「ルーカスが手でお尻を拭いたことかい? ……残念ながらね」
「自分が技術のない者を見下し、その底辺の中で上に立つにことにより、悦に浸る最低な性格だということです……。卓也さんのあの言葉に核心を突かれました……このショックは隠せそうにありません……」
「なに言ってるのさ。気にすることないよ。意識がないまま僕らの世話をするくらいなんだから、立派なもんだよ。そうだろう? ルーカス」
「卓也の言うとおりだ、デフォルト。気にすることはない」とルーカスはため息をついた。「見下すのは当然のことだ。周りにいるのは宇宙船が作れても、トイレットペーパーの一つも作れないような低技術者の集まりだぞ。そいつらが我々と肩を並べようと考えるているのが、そもそもの間違いだ。せめて、私のように一度くらい神になってから文句を言うべきだ。でなければ、ただの戯言だ」
極端すぎるルーカスの姿を自分と重ね合わせて、デフォルトは肩を落とした。
「大丈夫だって、ちゃんと手は洗ったらしいから」と卓也が慰めると、デフォルトはますます肩を落とした。
「卓也から話は聞いている。猫とナメクジだぞ。ネギを食わせて、塩をぶっかければ済むような話だ。よし! 私が文句を言ってきてやろう」
ルーカスは有無を言わさずデフォルトを連れ出して外に出ると、大声で怒鳴り始めた。
「ノミとダニを撒き散らすしか脳のない猫と、まったく存在意義のわからないナメクジよ、出てこい! 私はここだぞ! 全宇宙防衛機関第七特殊部隊隊長のルーカスが相手だ!」
ルーカスの声はよく通った。この星にいる全星人に届いたのではないかと思うほどだ。
「あの……ルーカス様、恥ずかしいのでやめてください……」
デフォルトは触手を巻きつけてルーカスをレスト内に戻そうとするが、どこにそんな力があるのか、ルーカスはまったくその場を動かなかった。
しばらくルーカスが虚構と大言壮語を喚き散らしていると、人が集まり始め、猫頭とナメクジ目の二人の異星人も様子を見に戻ってきた。
普段は鈍いルーカスだが、こういう時の察しは良い。デフォルトが一瞬視線をやった先をすぐさま確認をし、確証を持つと、ずんずんと闊歩して二人へ近づいていった。
「どうした? 大きく目を見開いて。地球人がただ黙っているだけだと思ったか? だとしたら、とんだ思い違いだ。私が指揮を執るからには、武力行使など簡単だ。鼻をかむに等しいほど、なにも感じずに判断できる」
猫頭とナメクジ目はお互い顔を合わせて困惑の表情を浮かべた。
不敵な笑みを浮かべるルーカスが、なにを喋っているのかまったくわからなかったからだ。
ナメクジ目が翻訳機の存在を教えようと、触覚をロボットに向けたが、ルーカスは手で触覚を払い除けた。
「おっと、動くな。私がアホに見えるか? その長い触覚を駆使し、アイコンタクトで密談を行ったことくらいわかっているのだぞ。大方、仲間を呼ぼうとでもしていたんだろう? 実に良い判断だ。私一人に対して戦艦十隻は必要だからな。だが、その計画は潰えた。なぜなら私が目を光らせているからだ。私がこの手を上げれば、地球の全戦艦が貴様らに標準を定めるぞ」
ルーカスが手のひらを向けると、猫頭の異星人の毛が逆だち、おもむろに目を大きく目を見開いた。
明らかに怯えた様子でルーカスの手のひらを見ている。それはナメクジ目の異星人も同じだった。今にも腰を抜かしそうに震えている。
その様子にルーカスはご満悦だと、会心の笑みを浮かべた。
「冗談だ……。だが、いつでも総攻撃が出来るのは本当だ。今すぐ這いつくばって逃げれば許してやろう」
ルーカスが猫頭の異星人の肩に手を置くと、猫頭の異星人は悲鳴を上げて腰を抜かした。
「どうした?」とルーカスが一歩近寄ると、猫頭は必死に後ずさった。
「どうした? 私が怖いのか? わーーー!!」とルーカスが突然大声を上げて驚かせると、猫頭はナメクジ目の男に脇を抱えられて。この場から逃げるように去っていった。
「本当に這いつくばって逃げるとはな。まったく……私がいないと、あんな三下も対処ができないのか」
ルーカスが振り返ると、卓也は一歩後ずさった。
気がつけば、人だかりもずいぶんと遠巻きになっている。
「まさか君まで本気にしたのか? まったく……卓也君。君はどこまでアホなんだ……」
「……さっきの二人の会話聞いてないの?」
卓也が顔をしかめると、ルーカスも顔をしかめた。
「猫語とナメクジ語など、わかるわけもないだろう。まぁ、君にはお似合いの言語だろうがな。それで、媚びを売るしか能がない猫と、油を売るしか能がないナメクジはなんと言っていたのだね?」
「手のひらに大腸菌が信じられないほどいるって……歩く汚染源だってさ。まさか……本当に手で拭いたとは……」
「なにを言っている……私はしっかり手を洗ったぞ」
ルーカスが自分の手のひらの臭いを嗅いで確かめると、人だかりは更に遠くなった。
「顔を売ったね……。もうこの星にいる皆は、ルーカスのことをしっかり認識したよ……」




