第十七話
世界に灰色のスクリーンを落とす曇天の空。色を奪う小雨に煙る町並み。人々は顔に雨粒が当たらないように皆うつむき、雨が跳ねて靴を汚さないように鈍い足取りで歩く。波紋だらけの水溜りの奥行きの狭苦しい世界に、さえない顔を映す。
ルーカスのどんよりとした表情は、まさにそんな雰囲気だった。
「まったく……忌々しいハンバーガーヘッド共め! 小さな脳みそでは、私の偉大さに気付けなかったようだな」
「まだ気にしているんですか? あの星を飛び立って、もう八日も経っているんですから忘れましょう。ほら、ルーカス様の好きなカリカリに焼いたベーコンが三枚ですよ。……見るだけで体に悪そうな」
デフォルトはジジジと脂が弾ける音のするフライパンから、わざわざ一枚ずつベーコンを取り上げて、ルーカスの皿に置いた。
しかし、ルーカスは一瞥もすることなく、手で皿をテーブルの端へと追いやった。
「いらん……さげろ……」
「それはそれは……大変いいことです。こんなものを一枚食べるごとに、寿命が減りそうですからね。これを機に健康的食生活というものに、目を向けて見てはいかがですか? どうですか? 新鮮なサラダですよ」
植物の星に寄ったことによって、燃料だけではなく、食料も補充することができた。いわゆる動物というものが存在していなかったので、野菜や果実ばかりになってしまったが、しばらく食事に心配はいらないほどだ。
とはいえ、すべてが完璧に保存できたわけではない。あくまで、宇宙範囲で野菜と果実に分類されているものなので、地球のものとも、デフォルトが立ち寄っていた星にあったものとも違うものだ。
それを様々な方法で保存してレストに積み込み、ダメになってしまったものは燃料として燃やした。大丈夫なものはデフォルトが詳細にレポートにまとめて、今後に活かすために、誰でも見られる共有のサーバーにデータを保存しているのだが、ルーカスと卓也がそれを見ることはない。
ルーカスは彩り豊かなサラダを見てため息を落とした。
「私は食べない……」
「しっかり分析もしましたし、毒味もしましたよ。それに、もう既にルーカス様が口にしたものばかりですよ」
「……紙がない」
「そうです。神がいなくなった……というか、追い出されてしまった星でルーカス様が食べていたものです」
「違う……紙がなくなったと言っているのだ」
デフォルトは「はぁ……」と気のない返事をしたあと、少し考えてから「あの……」と再び口を開いた。「だから、どうしたのですか?」
「わからないのか? 紙がなくなったのだ。つまり、私のお尻は鎖国されたということだ。出ることも、入れることも許されない」
「まさか……普段はなにか入れているんですか?」
「なにをアホなことを言っとるのかね……。入れるに決まっているだろう。口に入れるから、下から出るのだ」
まさかと思っていたデフォルトは、ほっと胸をなでおろして安堵した。
「お尻を鎖国というからややこしいんですよ……。つまり紙がないから、トイレに行かなくても済むように、なにも食べないということですか?」
「そのとおりだ。食べるからうんこが出る。うんこが出ると拭かなければならない。だが、拭くための紙がない。この問題を解決するには、食べなければいいと結論が出た」
自信満々の笑みを浮かべるルーカスに、デフォルトは苦笑いを浮かべ返した。ここまで思考のレベルが違うと、もうため息も出てこなかった。
「一食抜いただけでそれですよ。その……あの……なんというか、頭が回っていないというか。あの……」
「またお得意のあのあのか、ハッキリ言いたまえ」
「あまりにバカバカしい考えなので、しっかり食事をとって、しっかり脳にエネルギーを与えてください。そしてまともに考えられるようになってから、もう一度話し合いをしましょう」
「それはいい考えだ。私はカリカリベーコンを三枚食べ、パンを食べ、サラダを食べる。そして消化され、栄養が行き渡り、最近生意気になってきたタコランパ星人と話してると、私の目の前にトイレットペーパーが急にぽんっと湧き出てくる。そう言いたいわけだな? だとすれば――アホなのは君だ」
ルーカスの至極当然だという顔に、デフォルトも同じような表情で返した。
ルールが曖昧なにらめっこのように、複雑な表情の返し合いが続く。
「ウォシュレットを使えばよいのでは? 乾燥機能もついているので、紙がなくても大丈夫ですよ」
「あんなもの拳銃を後頭部に突きつけられているのと一緒だ。お尻に目があるのならば別だがな。仮についていたとしても、私は便器をまじまじと見ながら用を足す趣味などない。なぜ皆がウォシュレットに絶対的信頼を寄せているのかもわからん。奴らは人の尻の穴の位置は等しく同じだでも思っているのか?」
「そう言われると……ルーカス様の肛門の位置がもの凄い場所にあるのかと心配になるのですが……」
「話に水を差すな。これだからウォシュレット信仰者は嫌なのだ。口にも尻にも水を差す」
「わかりました……どこかに残っていないか探してみます」
「そうしたまえ。デフォルト君……君も見たくはないだろう。私がなにも口にせず、苦悶の表情を浮かべながら、弱々しくなっていく姿を」ルーカスはデフォルトから視線を外して、遠くに向けた目を憂いげに細めた。そのままゆっくりと目を伏せていくと、急に目を開いて急かして手を鳴らした。「さぁ、早くトイレットペーパーを探しに行きたまえ。私はお腹が減っているのだ」
追い出されるように部屋を後にしたデフォルトは、とりあえず元からあった荷物を保管している倉庫代わりの部屋に向かうことにした。
もう数ヶ月も前、最初のルーカスのわがままでこの倉庫に訪れた時には、様々なものでごった返していたが、分解して使える部品をレストの修理に使ったり、植物を保存燃料にするために粉砕機やプレス機を作るのに利用されたので、かなり空きができていた。
しばらくはここを物で埋めることはできないだろうと、デフォルトが次の行き先にいささか不安を抱いていると、床に立つ触手の一本を卓也の短い影が照らした。
「話は聞いたよ。隠れてるトイレットペーパーを見つけて、全部燃やすんだろう」
「聞いていないじゃないですか……探し出して、ルーカス様に渡すんです」
「だってこのままだとルーカスは、なにも口にせず、苦悶の表情を浮かべながら、弱々しくなっていくんだろう? 見つけても渡さないほうがいいって」
「そうはいかないですよ。食べないと元気が出ずに静かなままですよ」
「絶……対渡さないほうがいい」と卓也は力強く言った。
「空腹も排泄の我慢も、どちらも大きなストレスになります。そうなるとどうなるか……卓也さんのほうがおわかりになると思うのですが」
溜まりに溜まったストレスは思考と判断を鈍らせる。少しのストレスならば、考え方によって軽減することができるが、ストレスが溜まり思考が鈍ると発散方法を間違える。そして判断が鈍り、一歩間違えればの、ダメのほうへ一歩を踏み込んでしまう。
デフォルトは、自分の時のことを思い出して反省してほしいと、眉をひそめて卓也の瞳を覗き込んだ。
「あれはストレスじゃない……。死に至る病だ。僕は女の子といないと息が吸えない、特殊な病気にかかってるんだ」
「たしかに特殊ですね……。それで、特殊な卓也さんは、トイレットペーパーがなくても平気なんですか?」
ここに来た目的を思い出したデフォルトは、再び触手を何本も動かして、ケースの隙間や棚の後ろにトイレットペーパーが残っていないかと探し始めた。
「あんなの一部の偏愛家だけが使ってるアンティークみたいなもんだよ。まぁ、その一部ってのが厄介なんだけどね。人種や、趣向。文化の多様性。様々なことに配慮した結果。地球の宇宙船は大きくなる一方」
「大きくなるとメンテナンスが大変になりそうですが……。自分のところは小型化が進む一方でしたね。一人に一機、家みたいなものです。皆使いやすいように自分で改造していました」
「技術が発展した星人なら、さぞ凄い改造が行われていたんだろうね」
「そうですね……爆発前までは、重力制御装置の切り替えで、部屋の空間を上下左右に切り替え、無駄なスペースをなくすのが流行していましたね」
「なんだ……そんなのは地球の宇宙船でもやってるよ。それも遥か昔に」
卓也ががっかりしていると、デフォルトが驚きに目を見開いた。
「地球というのは、思っていたより科学技術が発展していたんですね。物体透過光源はどうしていたんですか?」
卓也は「ブッタイトウカコウゲン?」と、見開いたデフォルトの目より、大きく口を開けて言った。
「空間の真ん中にある照明機能のことですよ。……まさか、壁や天井に設置型の照明なんですか? このレストのように……」
今度はデフォルトが落胆の表情を浮かべた。
「前から思ってたけどさ。デフォルトって結構、自分より技術発展が劣ってる僕らのことを見下してるよね。ちょっと傲慢なんじゃないの?」
デフォルトは慌てて「いえ!」と否定した。「そんなことは微塵も思っていません。このレストも大変素晴らしいものだと認識しています。最新の宇宙船でしたら燃料が補充できず、途方に暮れているところですよ。ただ燃えればエネルギーになるという発想は、自分達は遥か昔に捨てたものですから、出会ったときに衝撃を受けました。今でも過去への旅行をしているような気分で、逆に新鮮な気持ちでいっぱいなんですよ」
「ほら、見下してる。デフォルト達が、遥か昔に捨てた技術の結晶の船で悪かったね」
「違います! 自分達には発展が望めないと、考えることをやめてしまった技術ということです! つまり、突き詰める能力がなかったのが、我々ということで……」
「凄いね。僕ら地球人が新しいエネルギーを探しあぐねて、仕方なく熱エネルギーを使ってる時代に、デフォルト達は新たなエネルギーぱっぱっと見つけて利用したわけだ。さすが宇宙技術の塊」
卓也言いようは卑下を込めた皮肉たっぷりだった。
卓也の睨むような表情に、デフォルトは更に焦って言葉をかぶせた。
「違います! エネルギーというのものは、発見は最後の手段なんですよ。元あるエネルギーを突き詰めて考え、如何に理解し、活用の幅を広げられるかが技術の最大の進化であって……」
目に見えておろおろするデフォルトの姿に、思わず卓也は吹き出した。
「なーんてね」と口を開いた時には、卓也の顔はおどけたものになっていた。「別に僕は気にしちゃいないよ。現にこうしてトイレットペーパーなんて探してるくらいだしね」
「それなら……なぜ……あんなことを言ったんですか……」
デフォルトは心の疲弊を吐き出すようにため息を落とした。
「ただからかっただけだよ。僕らが仲良くなった証拠さ。異星文化コミュニケーション。地球の文化へようこそ」
卓也は更におどけた表情になって、自宅にでも招き入れるように両手を大きく広げた。
「地球人は……とても不思議なコミュニケーションをとるんですね」
「そうだよ。こうやってからかい合って、お互いの心の機微を悟っていく。そうしてわかり合っていくんだ。じゃないとルーカスみたいになっちゃうぞ」
卓也が肩をすくめると、デフォルトは笑い声を漏らした。
「少し心が楽になった気がします。気付かないうちに気を使いすぎていたのでしょうか」
「僕はもみほぐすのが得意だからね。知ってる? おっぱいを揉むっていうのは、お堅い心もほぐれていくって。そう……僕は愛の伝道師だ」
笑顔から一転。デフォルトは落胆の表情を滲ませた。
「……それが自分を口説いているのでなければ、卓也さんもストレスが溜まってるということですね……あの時みたいに」
「デフォルト甘いよ。考えが甘い。湯上がりの女の子の匂いより甘い。僕は進化する男だぞ」
「本当ですか? また、異性がいそうな星へと勝手に進路を取ったりしてませんよね?」
卓也は「あー! 惜しい」と声を唸らせた。
「嫌な予感がするのですが……」
「本当に? これを見ても同じことが言える?」
卓也は電磁波観測モニターにアクセスしたタブレット端末を見せた。
「デジャブしか感じないのですが……」
「僕は約束を守る男だぞ。しばらくはおとなしくしてるって言っただろう。余計なことはなにもせず、ただ発見を伝えに来ただけだって」卓也はタブレット端末を拡大すると、画面に映るある電磁波に色をつけた。「回遊電磁波をキャッチした。もちろんなにも手を触れてない」
「ということは、上手くいけば技術と言語がある星人とコンタクトが取れ、最悪でもこの電磁波を辿れば技術と言語のある星へと向かえます」
「つまり?」
「どちらにせよ、自分達にとっては得ということです!」