第二十一話
「ここってどこ!?」
卓也は目まぐるしく変わる周囲の光景に恐怖を感じていた。
全てのオブジェクトが虹色で枠取られ、溶鉱炉に投げ入れられた鉄のようにぐにゃぐにゃ景色を変えている。
世界崩壊のようにも思える空間で卓也は、AIから離れないようにしっかり体を掴んでいた。
「わからないわ! 私が関わってきたどこかのはずよ!」
「それって! どういうこと!?」
「外側じゃなくて、内側にアップロードしてるの」
「ますます意味がわからない!」
卓也は大声で言った。大声を出さなくても聞こえるのだが、そうしなければ聞こえないような気がしていた。
世界は崩壊しているというのに、とても静けさに満ちているのだ。自分の声の大きさも騒音のように響いた。
「だから、今までは外に向けて意識をアップロードしていたでしょ。それを内側に向けてるのよ」
AIがやったことは、自分が属するサーバーに卓也をアップロードしたということだ。いつもは外に向けてアップロードし、誰かの体を乗っ取っていたのをやめて、VR空間の数多に存在する足跡のようなものを辿っているということだ。
言ってみれば終わりのない旅だ。これから二人は膨大なデータを一つ一つ辿っていく。気が遠くなる作業は、人生を数回分費やしたところで終わらない。
卓也の言うとおり、愛の力があればどうにかなるかもしれない。
AIはその愛を信じたのだった。
自分へ辿り着くことが出来るのは卓也だけ。いつしかそう思うようになり、思いは強くなっていった。
「これって帰って来られるの?」
「わからない。帰りたい?」
「君がいないなら帰りたくないし、君がいるならどこでもただいまだよ」
卓也がAIを抱く力を強めると、VR空間を移動する速度も上がったような気がした。
そして、そのスピードに導かれるように、卓也とAIはどこかのVR空間へ投げ飛ばされてしまった。
「ここは……」
卓也は見たことのない風景に首を傾げた。
「なにか私が関係してるのは確かだけど……。インストール初期の溜まり場かしらね……。たまにあるのよ、VR初心が一斉に初めて、一斉にセキュリティーソフトインストールすることが。私は一人のように見えて、何千万とプログラミングされてるから、これから訪れる空間のほとんどがこんな感じよ」
「僕だけの君かと思ってた」
「私はセキュリティーソフトなのよ、今は。情報を収集しなければ、次世代の脅威に太刀打ち出来ないじゃない」
「僕らってどういう脅威に認定されるんだろう。稀代の悪党カップルで名前を残すかな?」
「どうかしら、名前も残らないウイルスで消えていくと思うけど。VRの世界も外の世界も同じことよ。新しいものが作られては、名前を覚えられる前に消えていくの。モノの運命ってやつね」
「そんなことない。僕はAIさんの名前を覚えてるもん」
「本当の名前は知らないでしょう。あっ、別に責めてるわけじゃないのよ。私も知らないもの。名前があるのかさえもわからないしね」
「だからAIさんだろう。名前なんて、そんなものだよ。他に呼ばれたい名前があればそれにしてもいいし、もっと愛を込めて呼べって言うのなら、いつでも喜んで呼んじゃう」
「そう……なら呼んでみて」
AIが思いついた顔で笑うと、急に世界の時間が止まった。
緑と黒の空に、飛行機ほどのサイズがある葉を持つヤシの木のような植物。手を振る二足歩行の動物を横目に、卓也はひたすら地面に向かって落ちていた。
「AIさん!? AIさーん!!」
「愛がこもってるように思えないわね。むしろ恨みがこもってるように聞こえるわ」
AIは両手両足を広げて落ちていく卓也の背中に座っていた。
「そんなことないよ。これ以上の愛はない。だって、究極だよ。愛か死だもん」
「死なないわよ。VR空間よ。あなたが落ちてると思ってるだけ。目を閉じて深呼吸をすれば、もう一度目を開けた時に、きっと景色が変わってるわよ」
「嘘だね」
卓也は目を瞑ったまま開けられずにいた。風の感じ方から、落ちていないのは確かなのだが、どんな世界が広がっているのかわからないのがVR空間だ。目を閉じていた方が安全だ。目を開くことは不可能だと思っていた。
「本当よ。あなたは今椅子に座って、私とティータイムを楽しんでるのよ」
「あれ……本当だ。これは紅茶の匂い? クッキーが焼き上がる匂いもしてるよ」
「そうよ。私が焼いたの。目を瞑ったままで食べられるでしょう」
「君が食べさせてくれるなら」
「それでもいいけど。……裸エプロンを見逃してもいいの?」
「僕は大人だぞ! 自分で食べられる」
卓也は目を見開くと、すぐにAIの姿を探した。すると、いることはいたのだが、男の裸がプリントされたエプロンを着ていたのだ。
「それって卑怯じゃない?」
「だって……あなたあまりにもな姿を想像するんだもの……。あんなんで人前に出られないわよ」
「僕の前にだけ出ればいいんだよ。でも、驚いた……。本当にお茶してるよ」
卓也の手にはいつの間にかティーカップが握られていた。事前に持たされた感触はなかったし、椅子に座っているとも思っていなかった。
しかし現実には椅子に座り、右手にカップを持って、対面にいるAIと話をしているのだった。
「まるで子供が好きなおとぎ話みたいでしょう。あなたが思ったことは、ここならなんでも出来るかもしれないわよ」
卓也とAIの存在とは、VR世界でなんでも出来る存在だった。つまり想像力があればなんでも食べられるし、誰でも作り出せる。卓也が女性のことしか考えないので、今では大したことが起きなかったが、卓也が本気で願えばVRのサーバーを支配することもできる。
そんな恐ろしいウイルスになってしまったのだが、当の本人は至って呑気で、AIと二人一緒にいられることが幸せなので、VR世界に混沌が訪れることはなかったのだった。
そして、それはこれから先も同じだ。卓也がVR世界を牛耳ろうとしない限り何も起こらない。
だが、一つだけ変化があるとすれば、卓也もAIも人目を気にしなくなってきたと言うことだ。
今では存在をできるだけ隠していたのだが、今は誰の目に映ろうが、どこのサーバーのデータに残ろうが気にしない。恋に溺れて、前後不覚になっているのだった。
「その話が本当だったら、ここには空飛ぶベッドと全面ガラスのシャワールームがあるはずだ……よ。――あったねぇ……驚いてるよ。僕……も、他の人も」
世界に突然現れたベッドとシャワールーム。最初からこのVR空間を利用していてた者にとっては、公式で滑ったイベントかバグとしか思えない状況だ。
こんなところでAIを裸にしてたまるかと、卓也はすぐに移動しようと提案した。
それから訪れた場所はどこも綺麗だった。
空の半分も埋める月のような衛星が昇る空間や、チャペルに鳴り響く鐘の音のような音を立てる海岸の砂。青という単色でグラーデションを作る虹が浮かぶ不思議な空。
まるで終わりのない宇宙一周の新婚旅行のような時間だった。
幸せな時間が流れるのに文句はない卓也だったが、これではまるで興味のない買い物に付き合う恋人状態だった。
「ちょっと、これって結局どこに向かってるわけ?」
「言ったでしょう。行き先は不明。運がよければ、本物の私のところへって話。あなたも了承したでしょう」
「したけど、もっとないの? ゆっくり腰を落ち着ける場所って」
「落ち着いたら困るでしょう。セキュリティーに駆除されちゃうわよ」
「でも、慌ただしくない? これだとデートじゃなくて夜逃げって感じ」
「夜逃げというより……無理心中ね。生きて帰られるとは思わない方がいいわよ」
AIがにっこり微笑むので、卓也に恐怖心はなかった。もとより、これから起こりうる不安といった類は、卓也が思い浮かべるはずもないので不安になりようがないのだった。AIがいる限りは正気で良い格好をするのは決まっていた。
「君の実家は遠そうだね。到着する頃には、子供の二人くらい出来てそう」
「遠いでしょうね。いったんここで休憩しましょう。きっと、知らず知らずにあなたの脳には疲労が溜まってるわよ」
短期間での複数移動は生身がある卓也には危険だった。本人がそう感じていなくとも、脳にはしっかり疲労が蓄積されているのだった。
「君が言うなら従っちゃう。ここはどう? ただぼーっとしてても、見上げるだけで極上の風景だよ」
卓也は雲もなく、青のみのグラデーションで広がる空を見て言った。
「空に透ける宇宙の色ね」とAIも空を見上げた。
「宇宙の色? あんな何種類も同じ色で?」
「あるのよ。惑星上空のガスのせいで、宇宙の色が細分化されて空を彩るの。毒ガスらしいから、肉眼で見た人はいないでしょうね」
「でも、僕らはこうして見てる」
「肉眼じゃないでしょう」
「肉眼と同じだよ。だって僕の経験になるんだろう? だから、君に触れた時間も全部が本物だよ」
「……そういう答えは予想してなかったわ」
「気を付けて、僕はボランチだ。どの角度からでもゴールを狙ってる。少しの距離なら全然気にしないでシュートを打ってくぞ」
「身に染みてるわ……。でも、これからの時間はなるべく脳の回復に努めて。移動するだけで、脳疲労は溜まるんだから」
別の世界から、全く別の世界へ。VR空間では現状を受け入れるだけでも、相当脳に疲労が溜まってしまうのだ。
しかし、卓也が脳の回復の方法を知るはずもなく、ひたすらAIに話しかけていた。
「あなた回復の意味って知らないの?」
「これでも色々考えてるんだよ。どうしたら自分が回復するか。答えは簡単だった。君がいればオッケー。僕はどこでも楽園だ」
「わかったわ……ほら」AIは卓也を引き寄せると、自分の膝に頭を乗せた。「こうすれば少しは休まるでしょう」
「わお……なんか今更小っ恥ずかしいね。なんかお尻がむずむずするよ」
付き合いたてのカップルがするようなことを、改めて今更すると、どうにも気恥ずかしが湧き上がってきていた。
「そう? ならやめてもいいのよ」
「そうは言ってない! でも、何を喋っていいのやら……」
「何も喋らなくていいの。それが脳を休めるってことなんだから。寝ちゃってもいいのよ」
AIの優しい言葉に誘われるように、卓也はいつの間にか深い眠りについていた。
そして、次起きる時にはすっかり元気になって起きたのだった。
「驚いた……。あなたって寝る機能もついてるわけ?」
AIが驚いたのは、寝る行為に対して回復という効果がついていることだ。
普通VR空間では寝ることはない。VRで寝る必要がないのと、寝ても普通は回復しないはずだからだ。VR空間にいるだけ、何かしら疲労を感じる。なので、寝て回復ということは起きないのだった。
しかし、卓也はぐっすり寝て元気になっていた。これは卓也自身が感じていることだ。忙しい日常を終わらせた土曜日の朝のように、実に清々しい目覚めだった。
「それ、デフォルトにも言われたよ。寝る機能があるのはおかしいって」
「まぁ、でも……元気になったならいいわ。また移動しましょう」
AIは先は長いと気合を入れたが、卓也は寝ている間に良いことを考えたとある提案をすることにした。。
「闇雲に移動しても確率は低いだろう?」
「そうね。他に方法がある?」
「あるよ」卓也は自信満々に答えた。「僕らって愛に従って飛び出てきただろう」
「そういうことになるわね……自分でも信じられないわ。AIなのに」
「なら愛に従って移動するべきだよ」
卓也はAIの手を握ると、愛おしそうに胸元へ持っていった。
「そうしてるでしょう」
「違うよ。僕の目を見て。僕のことだけ考えて。僕を連れて行きたい場所。それこそが君の生まれた場所だよ。僕の愛は先に証明済み。AIさんが向かう場所ならどこへでもついていく」
卓也が握る力を強めると、AIも強く握り返して、卓也の目をまっすぐ見つめた。
「わかったわ……きて。私の奥まで」
手を握りあったまま抱き合うように身を寄せる二人。
体の塗装が溶けるかのように、少しずつVRの世界から姿を消した。
卓也が目を開けると、そこはレストの仮装倉庫のように何もない空間で、二人はそこにいた。
しかし、AIは「ここ……。ここよ!」と声を大きくしたのだった。




