私立プレアデス学園
魔王が図書館に通い出して数日が経った。彼の現代への適応ぶりは日々目覚ましい進歩を遂げている。
例えば自力でリゼの自宅と図書館を往来するようになり、交通機関を熟知して横断歩道や信号をきちんと守っている。しかも本だけでなくふと調べたいことがあったら携帯魔鏡を借りて検索するほどに文明の利器を使いこなしていた。
だがなによりリゼが話を聞いて驚いたのは、この短期間で彼が読破した本の数であった。
日に数十冊はくだらなく、家に帰ってからも夜遅くまで数冊を消化する勢いだそうだ。
元々彼は本の虫として読書に目がない人物であることをニーナは知っている。だからこそ口頭で教えるよりも読んで学んで貰った方が彼に適していると判断して図書館に送り出した。
その没頭ぶりが高じて夕食の際もテーブルに本を置こうとしたのは流石に制止される。
渋々食卓で食事にのみ専念するウィズウッドだったが、それはそれで別の事柄に関心を寄せた。
「この白身魚フライ、とやらだが」
「ああ、安かったから買ったおかずね」
「一体どういった魚なのだ?」
「え? ええっと……白身の、魚?」
「タラを使っているにしては安かったので、違うでしょうけれど」
「あ! そういえばなんかの深海魚が材料に使われるって聞いたことあるけど……言われてみると実際はよく分かんない」
「なるほど、昨今の庶民は得体の知れぬ魚でこしらえた食事をするのだな」
「やめなさいその言い方」
「た、大変面目次第もございません! 下々の生活に長らく馴染んでいたこともあり完全に失念しておりました! 陛下にそのような不躾な物をお口にさせたこと、平にご容赦を!」
「構わぬ。これも後学だ。なんなりと余の前に出すがよい」
穀潰しでこの態度なんだよなぁ、というリゼの葛藤は内に秘めた。
「ところでニーナよ。住居の手配についてはどうなっている。余はまだ此処に滞在してもよいのか?」
「それが、中々手頃な物件がいまいち見つからず、もう少々お時間を頂きたいのです。ごめんねリゼちゃん」
「……もうしばらくは目を瞑るけど、身元を証明できないとこの先色々と不便じゃない?」
「確かに、余が魔王であるという事実が正しく認知されようものなら、混乱が起きるであろうな。実に不都合な話だ」
「なんでそこが他人事なの」リゼがツッコミを入れた。
「ご心配なく。実はなんと、知り合いの伝手でその問題はなんとかなりまして……本日付けで陛下も社会で認可される存在となりました!」
一枚の用紙を掲げてニーナは宣誓した。どんなコネ……とリゼは思ったが成し遂げた以上文句は言えない。
超が付く程の長命である彼女であればそういった口添えのできる知己がいるというのも納得がいく話である。
「さ、是非ご覧ください」
とにかくエルフによって見せられたそれに魔王と少女は目を凝らす。
「『森野ウィド』?」
「これはまさか、余の偽名か?」
「左様にございます。僭越ながら私の方で決めさせていただきました。これより公の場ではこちらの名義でお願い申し上げます」
「ふむ、気に入った。いいだろう」
「ええっ、即決しちゃうの!?」
「当然だ。配下がこしらえた名であるぞ? これより余は身元を偽るが為に森野ウィドを名乗ろう。褒めて遣わす」
「身に余るお言葉です」
満更でもなさそうなウィズウッドに対し、ニーナも仰々しく頭を垂れた。
この何度目になるか分からない芝居がかったやり取りにリゼは辟易した様子で息を吐いた。
「そして陛下、早速ご相談がございます。ご進言よろしいでしょうか?」
「申してみよ」
「貴方様が今後この街で活動するにあたって如何に目立たずにいられるかを考えた末、一つの結論にたどり着きました」
「して、その結論とは?」
「木を隠すなら森の中、陛下を隠すなら社会の中、といったところです。明日は図書館とは別の場所を御案内したく存じますが、如何でしょう」
「ふぅむ」
少々勿体ぶったエルフの言い回しに、魔族の少女は疑問符を浮かべ、彼も意図を図りかねて唸った。
翌朝。市街を徒歩で移動を行う。しかも今回は制服姿のリゼと同伴だった。
「どうして先生とウィズウッドが一緒なわけ?」
「リゼよ、もう忘れたか? 昨夜に余が冠した仮初の名を」
「はいはい分かったウィドね。ついでに何処へ行くか教えて欲しいんだけど」
「それは着いてのお楽しみ」
はぐらかすニーナの表情は悪戯を企てるように微笑を浮かべている。
嫌な予感を覚えてか、先頭に歩くリゼは肩を竦ませた。
校門に辿り着いた所で彼女は振り返った。
「……じゃあ、あたしは此処で」
「そうね。リゼちゃんも練習頑張って。では我々も参りましょう」
「うむ。此処が学徒の園か」
「はい。こちらが私立プレアデス学園になります」
「まったく、どこもかしこも余の城に勝る規模を誇りおって」
校舎を見上げた魔王はおもむろに頷き、その敷居を跨ぎ始めた。
当然リゼも反応する。
「ちょっとやだ待ってなんで二人とも普通に入ってくんの!? 魔王は部外者でしょ! 此処にどんな用があるって言うの!?」
「言ってなかったかしら。春休み明けには部外者じゃなくなるのよ? これから生徒としてこちらに通っていただくのだから」
「ハァぁあ!?」
「よろしいですか。お話しした通り、これから貴方様には『森野ウィド』として活動して貰いたく存じます。私は心からの臣下にございますが、人前では態度を変えて接しさせていただきます故」
「分かっている。寛容な態度を努めよう」
リゼの素っ頓狂な様子を余所に二人は打ち合わせを行っている。
言われてみればウィズウッドの恰好も半袖シャツと黒のズボンという、如何にも面談を行う為の装いをしていた。出発する際にもっと訝しく思うべきだった。
「そういうことなので、よろしくねリゼちゃん」
「よ、よろしくねと言われても……」
「こちらが入り口になりますよへい……いえ、森野くん」
「うむ」
「え、えぇー。本当に通うの……?」
躊躇わずに校内へ入っていくその姿をリゼは不安そうに見送った。
ニーナの後ろを歩きながら昇降口や廊下といった未知の空間を物珍しく彼は見た。
此処が普段は大勢の生徒達でごった返す光景を想像できないだろう。
そして、校長室という場所へウィズウッドは通される。
中にいたのは黒縁眼鏡にブラウンスーツを着た壮年の男だった。
パッチリとした瞳に丸く窪んだ瞼が特徴的な目元が、何処となくフクロウを彷彿させる人物である。
そんな理知的な印象を持った彼は、教壇の向こうでこちらを出迎えた。
「やぁ清水先生、この前の講演会はご苦労様。彼が話していた魔族の少年だね?」
「そうです。早速お連れしました」
「初めましてだね。僕は海老沼アレスター。この学校の校長先生だよ」
「お初にかかるアレスター殿。余は森野ウィドと申す、突然の来訪失礼した」
「へぇ、面白い言い回しをする子だ、まるで歳上みたいだね……まぁ清水先生が既にそうなんだけど。それで質問をいくつかするよ? 学歴がない子だと小耳に挟んだんだが、君は何処から来たんだい?」
「……何処から?」
「そう、それなりに訳アリなんだろう?」
追求にウィズウッドはニルヴァーナに目配せした。なんと答えればよい? という意志を込めて。
すかさず彼女が仲介するように説明を始めた。
「森野ウィドくんは普通の人と一線を画す境遇を経験しています。ただ、事情が事情だけにあまり公には口にし辛いもので……それで校長先生にご相談したというわけです」
「詳しく聞かせて貰えるね?」
「はい……今からお話しすることはどうかご内密に」
「分かっているさ。清水先生がこの学校に編入させたいと言わしめる訳ありの少年なんて興味があるからね」
意を決して、ニーナは至極真面目な表情で口を開いた。
「実を言うと、こちらはかの魔王ウィズウッド・リベリオンその人なのです」
「……え?」