第42話「巨大猪」
ルトナの街の近くにいる猪は体長百センチほど。俺たちがいつも狩りをしている猪は体長百五十センチほどだ。しかし、今俺たちの視線の先にいる猪はどうだろう? ここからだとまだ距離はあるけど、体長三百センチ……そう、三メートルくらいはあるように見える。シシノ平原の巨大猪。作り話のような現実がそこにはあった。
「ボオォォォォオオオオオオ!」
巨大猪が再び吠えた。
もしかしたら、俺たちを敵だと認識したのかもしれない。とにかく、今すぐにでも行動しないといけない。そう思った。
「みんな、戦闘準備!」
「待ってよ! あんなのと戦うつもり!?」
「今からじゃ間に合わない! 逃げるにしても何とか隙を作らないと!」
「やるしかねーな! おめえら、死ぬんじゃねーぞ!!」
みんなの顔は強張っている。俺も例外ではないだろう。そりゃあ怖いよ。でも、背中を向けて逃げ出すよりも向かい合っている方がいくらかはマシだ。それに、ただ逃げるだけならさっきの男と同じ。つまり、仲間を失うことになるかもしれない。
「ブレン、あれって止められる?」
「む、無理だよ。さすがにあれは……荷が重すぎるよ」
だよな。ブレンの体格が良いとはいっても相手はそれ以上だ。あれだけの巨体で突進されたらひとたまりもない。
「マキアはブレンに護盾を! ルミルは襲撃であいつの……目。目は狙える?」
「そこまでピンポイントは難しいわよ!」
「ごめん。でも、やってもらうしかない! ブレンが抱えられないんだ、それ以外に隙を作る方法は思いつかない!」
「やるだけはやる、でも簡単じゃないわよ!」
俺は頷いて返事をした。あと……ジェニオはどうする。何ができる? 巨大猪の皮膚もやはり硬いだろうし、我流閃技を狙わせる? でも、あれは無警戒の相手でも失敗することがあるし、あんなの相手に失敗したらそれこそ死んでしまう。
「ココハは俺の後ろに!」
「…はい!」
「ジェニオはマキアを守って!」
「ああ!? あんなの相手にどうやって守んだよ!?」
「分かんないよ! でも、やってくれ!」
「無茶苦茶だぞ、おい!!」
俺たちの狩りは安定してきたはずだった。もう猪には負けないと思っていたし、今日だって過去最高に稼げたと喜んでいたのに。まだ戦闘が始まってもいないのに、勝ち目がないと分かる相手がそこにはいる。
「ボオォォォォオオオオオオ!」
三度目の遠吠え。巨大猪は前脚で地面を数回ほど蹴る動作をする。
「来るぞ! ブレンは挑発で引き付けつつ回避して!」
「わ、分かった……!」
囮みたいで申し訳ないけど、仮に避けられなかったとしても、無事でいられるのは護盾を張ってあるブレンだけだろう。他の誰も受けたら即死だ。間違いなく。もう考えている時間はない。巨大猪がとうとう駆け出した。体が重いせいか最初はゆっくりと、そして徐々に速度が増していく。
「うおぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」
ブレンの叫び声と共にルミルの放った矢が巨大猪へと向かって飛んでいく。それは額を掠めて外れてしまう。いくらルミルとはいえ、動いている相手の目だけを狙うのはさすがに無理なのか。巨大猪がブレンの方へと突進していく。俺はココハを、ジェニオはマキアを誘導して安全圏まで退避する。
「ぐうぅぅぅうわぁぁあああ!」
ブレンはギリギリまで引き付けてから避けようとしたが、巨大猪は想像以上の速さで迫り、巨体のせいもあって突進を許してしまった。ガラスが砕けるような音をさせて、護盾は消滅した。ブレンは何とか盾で防いだのか無事みたいだ。一回目でこれだ。もう一度護盾を張る余裕なんてないだろう。次は避けられるのか?
巨大猪が方向転換してこちらを向く。通常の猪よりも距離を空けてしまうから射程外なのか、ルミルは射てずにいるみたいだ。再び駆け出してくる。矢が飛んでいき、やつの額に直撃したように見えたが、向きを変えて失速し地面へと落下した。どうやら弾かれたようだ。
「ぐうぅぅわぁっ!」
ブレンが横に転がるように飛んだ。
今度はちゃんと避けられたみたいだ。でも、もう息が切れている。たった二回の突進で既に満身創痍だ。巨大猪は方向転換し、更に追い詰めようと駆け出してくる。ルミルの矢が飛んでいく。それはやつの左目へと吸い寄せられるように突き刺さった。
「ボギャァァァアアアアアア!」
巨大猪は失速して苦しそうに頭を振りだした。
逃げるなら今しかない。しかし、ブレンは走れるのか? ココハだってそんなに体力はない。ここから街まで全力で走っても十五分以上はかかるだろう。難しいか。
「マキア、ブレンを! 急いで!」
「ええ!」
ジェニオとマキアがブレンの方へと駆け寄っていく。
ルミルは動きを止めた巨大猪に次の矢を射とうと狙いを定めている。
「我は唄う、光よ、かの者に癒しを……治癒」
よし、これでブレンは動けるようになった。逃げられるかもしれない!
「みんな、逃げ……」
最悪だ。なんでだ。どうしてここに現れた。全員が巨大猪に気を取られていて気がつかなかった。猪がもう一頭……すぐそばにいた。既に駆け出す前の地面を蹴る動作をしている。標的は……挑発を使っていたブレンか?
「ブレン! 横から来る! 避けろ!」
そう叫ぶと全員がハッとして視線を向ける。
その時だ。巨大猪が先に動き出した。ブレンに向かって駆け出そうとしている。しかし、ブレンは俺の声で視線を右側に向けており、まだそれに気がついてはいない。終わった。そう思った。前から巨大猪、横からは別の猪が突進して来るんだ。どっちに避けても助からない……ジェニオとマキアも巻き込まれるかもしれない。そうなったらどうする? ココハとルミルを連れて三人で逃げるか? それでも逃げ切れるかは怪しい。もう一人、囮が必要になるかもしれない。その場合は……俺が。
「…前! 避けて!」
叫んだのはココハだった。
ブレンたち三人は慌てて逃げようとするが間に合いそうにない。巨大猪の方が危ないと判断したんだろう、三人とも左側に飛んだ。しかし、それはもう一頭の猪の進行方向でしかない。どちらにしても、もう……。
「…空気弾!」
俺の後ろから高速で撃ち出されたそれは、右から迫る猪に直撃して動きを鈍らせた。しかし、止まるまでには至らず三人に迫っていく。ドォォン! と鈍い音がした。肉の塊が吹っ飛んでいく。地面に落下したそれは見るも無惨な状態だろう。それは誰のものなのか。俺はそれを確認できない。
……でも、おかしくないか? どうしてそれは俺たちの方へと飛んできた? 猪の進行方向から考えたら俺たちとは反対の方角に飛ぶはずだ。いったい何が起きたのか、それを確認するためにも俺は肉の塊を見ることにした。体長百五十センチほどで全身には毛皮があり、顔には鋭い牙が生えている。それは猪だった。どうして突進しようとしていたやつがここにいるのか。答えは簡単だ。突進していたのはこいつだけではなかったからだ。
お互いに標的はブレンだった。彼がいた地点を交差点にして突進していた。僅かにこの猪の方が速く通過するはずだったのだが、ココハの魔法によって妨害された結果、交差点で衝突してしまったんだ。衝突した相手はもちろん巨大猪。やつはそのまま駆けていく。また方向転換をして突進してくるだろう。
とにかく、これで振り出しに戻った。しかし、逃げる機会も失ってしまった。もう一度チャンスを作ろうにもルミルの矢だって無限じゃない。予備の矢は手荷物と一緒にさっきまで狩りをしていた場所に置いてある。補給をしに行く余裕すら無さそうだ。
「レイト! これもう逃げられねーぞ! やるしかねえ!!」
やるって何をだよ。まさか、あの巨大猪を狩ろうっていうのか? 無茶にも程があるだろ。でも、それ以外に助かる方法も……ないか。逃げることばかり考えていた。それは仕方のないことだと思う。相手が相手だし。ブレンは必死に囮役をやってくれた。ルミルも果敢に攻めて隙を作ろうとしてくれた。マキアはブレンを治療するために一番危険な場所まで行ってくれた。仲間のピンチをココハは機転を利かせて救ってくれた。そして、ジェニオは逃げずに戦おうと言っている。
……俺だけが何もしていない。指示を出していた? そんなのはリーダーとして当たり前だ。リーダーじゃなかったら? 俺は一人で逃げ出していたかもしれない。俺は無力なんだ。このパーティーで唯一、技能も魔法も使えない。役立たずのパーティーリーダー。
「…レイトくん!」
ココハの呼ぶ声で我に返る。
「ココハ、俺は……」
「…大丈夫。みんなと一緒なら、レイトくんと一緒なら……私は戦える!」
「ココハ……」
地平線の向こうで太陽が沈もうとしている。もうしばらくしたら夜になるだろう。今夜は月も出ていないし、ここには灯りもない、街の灯りもここまでは届かないだろう。そうなったらもう戦えない。そして、無事に帰ることもできないだろう。みんなを見る。全員がこちらを向いて指示を待っている。そうだ、俺はリーダーなんだ。無力で逃げ腰で役立たずだとしても、みんなにしてあげられることはあるはずだ。迷っている時間はない。
「みんな……戦おう! あいつを倒して、全員で街へ帰るんだ!」
「そうこなくちゃな!!」
とにかくまずは動きを止める。そして、急所である首元の血管を攻撃するチャンスを作るんだ。そのためにどうするべきかを考える。
「ルミル! 悪いけどもう一度頼む!」
「分かったわ、やってみる!」
「ブレンはそのまま引き付けて!」
「わ、分かった……!」
「マキアはジェニオに護盾を!」
「え? ブレンじゃなくて?」
「ああ……ジェニオ! アタッカーのお前にしかできないことだ! 我流閃技を使ってやつの脚を攻撃してくれ!」
「ああ!? そんなもん当たるわけねーだろ! もう見つかってんだぞ!?」
そうだ。いつもは戦闘開始と同時に無警戒のところを狙うから、攻撃を当てることができていた。しかし今は、既に戦闘中だし警戒もされている。その状態で突っ込んで行っても逃げられてしまうだろう。
「やつの突進を避けて、方向転換している隙を狙う! それしかない!」
「それはダメ! 危険すぎる!」
マキアの心配は最もだ。でも、他に手はないんだ。
「ジェニオ! やれるのか! やれないのか! 答えろ!」
「おめえ、誰に言ってやがる!!」
「最強の槍使いに頼んでんだよ!」
「がはは! 悪かねえ……いいぜ! やってやるよ!!」
「よし……マキア!」
「……我は唄う、光よ、かの者に救いを……護盾」
巨大猪は左目に刺さった矢を気にしてなかなか突進しては来ないが、逃げる隙を与えないようにずっとこちらを睨んでいる。
「ココハ、ジェニオを援護する。怖いかもしれないけど、やつに接近しよう」
「…うん!」
巨大猪が前脚で地面を数回ほど蹴る動作をしてから駆け出した。
「うおぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」
ブレンの挑発はまだ有効なようだ。巨大猪はまっすぐにブレンを目指していく。ルミルが襲撃で矢を射ったが弾かれてしまう。ジェニオが長槍を地面に刺して待機している。ブレンが回避して巨大猪を後ろへと流した。
「ジェニオ!」
「いくぜ! 急速前進!!」
巨大猪の後ろを全速力で追いかけていく。止まった瞬間に脚を狙う。ジェニオの攻撃力ならば傷を負わせることぐらいはできるはずだ。脚を狙うのはやつの突進力を弱めるため。
「おらぁぁぁぁああああああ!」
そろそろだ、やつは動きを止めるだろう。俺とココハも追いかけていく。もしも反撃された場合に助けてやる必要があるからだ。巨大猪が動きを……止めない!?
「おいおいおいおい!!」
ジェニオがブレーキをかけるように長槍を地面に刺して減速する。
巨大猪は弧を描くように旋回し、そのまま突進を再開してくる。ヤバい! ブレンは準備してないぞ。
「ブレン! 避けろ!」
近くにはマキアもいた。咄嗟の判断だろう。ブレンはマキアの肩を押して自分から離れさせる。マキアは尻餅をついてしまうが進路外だ。巨大猪は加速してくる。もう避ける暇もない。ブレンは防御の体勢を取った。
ドォォン! と激しい衝突音がして、盾は宙を舞って飛んでいく。弾かれたブレンは地面に倒れ込んでしまってはいるが……生きてはいるようだ。でも、生きているだけで次はない。確実に殺られる。マキアは急いで立ち上がるとブレンに駆け寄っていく。治療をするつもりだろう。やつは? 巨大猪は遠くで動きを止めて方向転換をしようとしている。
「やばい、助けないと! 巨大猪の動きをせめて鈍らせるだけでも。何か、何かできることはないのか!?」
「…鈍らせる」
「ルミル! 振り向いたらすぐに射って!」
「無理よ! ここからじゃ届かない!」
「…届かない」
「あんな動きされたらどうしようもねーぞ! ヤツより速く走って追いつきさえできればな……くそっ!!」
「…速く」
どうする。やつはまた突進してくる。おそらく挑発の効力もまだ生きてる。狙われるのはブレンと治療をしているマキアだ。くそ! ナナトさん、助けてくれよ! マキアがピンチなんだ。あなたがいてくれたらこんな状況でも何とかしてくれるんだろ!?
「…空気弾!」
ココハの魔法が巨大猪に向かって飛んでいく。届くのか? いや、届かせるんだ。ココハの魔法はイメージさえできれば発動する。でも、行動を阻害するようなダメージも与えられない。何の意味があるんだ?
「ココハ! そんなことしたらこっちに向かってくるって!」
「…それで、いい! ブレンくんとマキアさんを……助けないと!」
「一回だけ助けられても意味はないんだ! ブレンは動けない! 挑発も使えない! その後はココハが何度も狙われるんだぞ!?」
「…それでも、やらないと! 空気弾!」
巨大猪は遂に視線をこちらへと向けてしまった。やばいって……狙われているのが分かる。
「あたしが!」
「…ルミル待って!」
「え?」
「…射たないで!」
「何を言ってるの!?」
「…折り返して戻ってきたら、そこを狙って!」
「でも、そんな距離は届かない!」
「…大丈夫! 私が! ジェニオくんも、折り返した後を狙って!」
「ああ!?」
「ココハ! 何をするつもりなんだよ!」
「…ごめんなさい、説明してる時間はなくて。でも……信じて?」
ココハが俺の目をじっと見る。
今は巨大猪から一瞬も目を離せないというのに何を考えているんだ。迷っている時間はない。
「分かった、ココハを信じるよ」
「…ありがとう」
「来るわよ!」
巨大猪がゆっくりと駆け出す。徐々に速度が増していく。狙いはやはりココハだろう。俺が絶対に守ってみせる。ギリギリまで引き付けるんだ。あの巨体が迫ってくる。もう目の前にいるのではないかという錯覚すら覚える。恐怖だ。ブレンには何度もこの恐怖を受けるように指示を出した。こんなに怖いのに拒絶はされなかった。すごいよ、本当に。
「ココハ!」
俺は彼女を抱え込むようにして横へ飛んで避けた。
巨大猪は構わず駆け抜けていく。何とか無事だ。でも、ここからいったいどうする? ココハは急いで立ち上がると両手を前に突き出してこう言った。
「…精霊さん、お願い……力を貸して!」




