第九話 雪解け
雪と氷に覆われた下に潜む、温かな土の中、巨木の根の中。
あちこちから聞こえる、老若男女の寝息の中から、遠くの方にかすかに聞こえる吹雪の音。
ふと、白く長いまつ毛が持ち上げられ、藤色の瞳が露になる。目を覚ました要は、ゆっくり深呼吸をして寝返りを打ち仰向けになる。右手を頭の近くに置いた時、硬いものが当たった。その方に顔を向けると、禊の寝癖まみれの頭が置かれていた。その下の方の細い肩がゆっくりと呼吸に合わせて上下する。禊の紙に手を伸ばし、指を入れて梳く。硬い黒髪はスルリと指の間を抜けていく。
重い体を持ち上げ、立ち上がる。両腕を頭上に持ち上げ、体をうんと引き延ばす。クシャクシャになったシーツから降り、少し辺りを見回す。眠り始めた時のような明るさはないが、わずかに差し込む明りや、光るキノコが空間を照らしていた。他の者は全く起きる様子もなく、ぐっすりと深い眠りに捕まったままだった。ふと、視界の隅にいる黒い靄に気付いた。黒い靄は禊の枕元に猫のように丸くなって座っていた。靄の先を伸ばし、禊の顔にかかる髪を耳にかけてやっていた。
「見せもんじゃねぇぞ」
靄はそう低く唸った。あまり見ているとまた痛い目を見る事になるだろうと思い、要はその場を離れた。出入口はぶら下がる蔓で覆われており、蔓をくぐって空間を出る。木の根の蔓延る、天井の高い廊下を歩いていき、地上への階段を上っていく。
地上は吹雪に打たれているのかと思いきや、丁度雲が切れたようで、深い青の夜空が覗いていた。思わずため息を漏らすと、ため息は白く形を残して空中を泳いで消える。薄着で出たため、少し身震いをしながら雪の上を歩いていく。
森の中に入ると、黒い木々の上に白い雪が重々しく乗っかり、動物らしき姿は見かけられなかった。木々の先に湖を見つける。近づくと、ほとりに服が脱ぎ捨てられてあった。まだそんなに雪は積もっていなかった。服を拾い上げ、雪を振り落とす。ピンクのカーディガンと白いワンピースだった。
「小町のか」
要は辺りを見回して人影を探す。灯台下暗し、人影は足元に横たわっていた。小町は胸から下を水に漬けて雪の上に仰向けになっていた。要はため息を漏らしながら、全開にされた小町の身体を眺めた。ふくよかな四肢と胸、柔らかそうな腹。ふと、首元で輝く小さなネックレスに目が留まった。金属はずいぶん古くくすんでいるが、胸元の十字架に埋め込まれた石は強く輝いていた。要が矛盾となってから小町と出会った時も、彼女がこれを身に着けていたのを思い出す。もう100年以上身に着けているこのネックレスには、何か思い出でも詰まっているんだろうか。
ふと、要はまだ小町の記憶だけ読み取っていなかったことに気付く。矛盾の務めとしてもそうだが、矛盾全員の記憶を読み取り、記憶しているが、小町のだけはずべ手読み取れているわけではない。要はそっと手を伸ばし、小町の額に触れようとした。
が、小町の手が飛んできて、
「この記憶だけは絶対に触れさせない……絶対に穢させないからな!」
小町の手に腕を掴まれ、爪がギリギリと食い込んでいく。緑青色の目が鋭く光った。
「ハハ、何の記憶の事? もしかして僕に何か隠してるの?」
「隠してなどいない、見せないよう大事にしているだけだ」
小町はそう言いながら、要の腕を離し、ゆっくりと体を持ち上げた。
「どうしてこんなところに? 何してるの?」
「見ての通りだ、本能が水を求めていた」
「寝床にも水はあったろう」
「あれはアルカリ成分が多い。まだ雪解け水の方が寝起きの身体には丁度良い」
小町は水から上がり、体の水分を手で払い落として服を着る。要は感心無さそうに遠くを見つめた。
「そろそろ氷河期も終わりが近いだろう、私は先に家に戻って準備をしてくる」
「何かし始めるの?」
「地球からの連絡があったと宝器に聞いてな、確認と返信をしなければならない。寂赤金、聞こえるか」
宝器を呼ぶと、銅鏡が一つ水の中から出てきた。
「ハイ、小町様」
銅鏡から若い男の声がした。
「道が雪で埋まっているだろうから、家まで案内してくれ」
「分かりました」
小町が銅鏡と歩き始めた時、
「ねぇ、その声は誰なの?」
要が訪ねると、小町は足を止め、
「さぁ、誰だろうな。私ももう、幾人か見当がつくから誰だかわからん」
そう背中で言い、さっさとその場を離れてしまった。
薄暗い中、翡翠色の光る点が一つ現れる。
「起きたか、翡翠の」
黒い靄は糸の姿に変わり話しかけた。
「おはよう、千早」
「お早う。もっと寝るもんかと思っていた」
「いや、十分寝たよ」
「他のは起こすか?」
「いや、まだいいよ。それより、起こしてくれないか? ずっと寝ていたから体が固まって動かしにくい」
禊は仰向けになったまま腕を持ち上げて見せた。千早は特に嫌な顔はせず、禊の身体を抱えて起き上がらせた。
「肩も借りていいか?」
「はいよ」
千早の肩につかまって空間を出ていく。
空を厚く覆っていた雲は今はもう姿を消し、朝日が昇り始めた薄青い空が広がっていた。朝日に照らされ、大地を覆う雪と、雪解け水が流れ始めた小川が輝き始める。
「どんな夢を見た?」
千早がそう訊ねると、禊は少し驚いた顔で、
「意外だ、お前もそう言う事に興味があるのか」
「俺も時々、お前らの真似事をして、眠るような行為はする。が、実際に眠っているわけじゃない。ただ目を瞑っているだけだから、夢を見ない。なぁ、夢はどんなだった?」
禊は少し考えて、
「今はもう会えない人たちと過ごした時間を、もう一度過ごした感じかな」
「過去を振り返ったのか」
「いや、過去と同じではないよ。確かにメンツや場所はあの頃と同じだが、時間軸が異なっていた。マーリンや健良と共に、組織を立ち上げたばかりの頃の仲間もいた」
「楽しかったのか?」
「あぁ、もちろん。仕事をして、戦場を駆けまわり、宴もして……孤児院の子供らもいたな。今はもう年寄りになっているんだろうな。あぁ、彼らはどんどん変わっていくのに、俺は一向に変わらない、昔の姿のままだ」
禊は軽く笑って見せたが、どこか表情は曇っていた。
「悲しいのか?」
「いや、そうではないが……少し、悔しいというかね」
そうこうしているうちに、家に到着。雪の重みで屋根が少し潰されていた。家の中に大した問題はない様子だった。
暖炉に薪をくべて火をつける。
「何か飲むか?」
戸棚を開けながら千早に訊ねると、
「俺は人間の血肉しか受け付けてないぞー」
「そうだったな」
コンロに鍋を置き、勝手口を出て、地面に埋め込まれたガスの栓をひねる。コンロのコックを回し、マッチで火をつける。水差しで水を注ぎ、お湯を沸かし、ポットに移して茶葉をセットする。蜂蜜の瓶を残った湯の中に入れ、固まった蜂蜜を溶かす。そして出来上がった紅茶をカップに注ぎ、蜂蜜を垂らす。カップを持ってソファーに座り、
「太刀斬鋏」
宝器を呼ぶと、大きな鋏が飛んできた。
「おはようございます、旦那様!」
「お早う御座います」
「おはよう、白銀姫、黒鉄彦」
禊がそっと鋏の指輪を撫でると、
「わ、冷たい」
「ご、ごめんなさい! 今温めますね!」
白銀姫が慌てて辺りを見回す。
「いや、温めちゃダメだろ。そうだ、七罪は?」
「お呼びでしょうか」
まるでさっきまでそこにいたかのように、怨がぬっと現れた。
「寝ている間に問題は無かったか?」
「多少地殻変動が起きたくらいで、特にこれといった問題は無いかと」
「そうか、ありがとう」
禊はにこやかに微笑んだ。怨は千早を見るなり、鋭い目を向け、
「ふん」
小さく息をついて姿を消した。
「屋根が穴空きそうだな」
禊は軋む音を立てる天井を見つめて呟いた。
矛盾らが眠る巨木の下の空間に行く。涎を垂らして眠る尊の側に立つと、腕を掴んで持ち上げた。
「ふがっ、あぇ? え? 何?」
寝ぼけ眼のまま尊は外に連れ出される。そして意識もまだはっきりしないうちに家に連れ込まれた。
「尊、お前にしか頼めない事なんだよ」
「え~?」
尊はまだ状況が分かっていない様子で、目を擦りながら何度も禊の目を見る。
「まって……あの、これ夢ですか?」
「現実だ」
「あの……寝起きなんでもう少し時間くれますか」
「そうだな、とりあえず何か食うか」
禊は台所に立って調理を始めた。乾物や保存食しか置いてないため、ある物で簡単に済ませる。
「はいよ、しばらく空っぽだった胃にはこれくらいがいいだろ」
乾燥ワカメと麩の入ったお吸い物が出された。
「三つ葉は?」
「乾物とかしかないから無いよ」
「ん~」
尊は頭の台風をかき回しながらお椀を持って汁をすする。
「あ~、あったけぇ」
「それ飲んだら仕事を頼みたいんだけど」
禊もお吸い物をすする。
「なぁに?」
「屋根が雪の重みで歪んじまってよ、一人で直すのも大変そうだから手伝ってもらいたいんだけど」
「えー、何で俺?」
「他の奴を起こすのはかわいそうだろ、一番頼みやすいお前に頼んだんだよ」
「俺、頼みやすい?」
「うん」
「そうかぁ」
尊は嬉しそうに体をくねらせながらニヤニヤする。
「気持ち悪い奴だな、やってくれるか? てかやれ」
「わかった。……え、なにが?」
「屋根の修理だよ」
「しゅうり? へ?」
「食い終わったな、よし。じゃ裏の倉庫に道具あるから、取りに行くぞ」
「え? まって今何日? 何年? え、他の奴は?」
「そんなもん後で。他のは寝てる」
「え、何で俺起きてるの?」
ようやく意識がはっきりして、状況が呑み込めていない尊を引っ張っていく。
道具を持って、一番上の階の部屋から窓に足をかけ、屋根の上に上がる。
「起きてすぐに屋根の上に上がらされるとか……」
「朝に強いお前なら朝飯前だろ」
「本当に朝飯前だけどよ……」
禊は地平線に顔を出した太陽を見て、尊の肩を叩いて指さした。
「ほら、良い朝だ」
尊の目に、溶け始めた朝日が映る。白く輝く朝日の中を鳥が飛んで行く。森も野原も山もまだまだ白いが、微かに目を覚まし始める音がしていた。
「雪解け水で川が溢れるかもな、忍に言っておこう」
「なぁ、禊」
尊は地平線に目を奪われたまま呼びかけ、
「こんなにも綺麗だったんだな」
白い朝を見つめていた。
「あぁ、綺麗だよ」
まだ冷たいが、瑞々しい風が尊の前髪を撫でた。
「おい、見惚れるのもいいが、こっちを早くやらないと雪が解けて水漏れする」
二人は作業に取り掛かり始めた。