第八話 あぐり
関東の小さな田舎町の、住宅街の小さな一軒家。そこから赤子の泣き声がひっきりなしに響いていた。
「ハイハイ、ハイハイ、ばあばだよ。おーよしよし」
一人の中年の女が、顔を真っ赤にして泣きじゃくる赤子を抱き上げる。それでも赤子は拒むように踏ん張って女の腕から逃れようとしていた。
「あぁ、こらこら。危ないよ」
女が困った様子でいると、
「ただいまー」
若い声が下の玄関から聞こえて来た。
「千歳! 遅いよ!」
女が怒鳴ると、
「ごめんごめん、教授がなかなか離してくれなかったんだ」
「ハァ~? あのハゲ?」
「ハゲとか言わないの! あれでも巨匠なんだから」
「知るかボケ」
千歳がカバンを置いて赤子を抱き上げると、何事も無かったように赤子はピタッと泣き止んでしまった。
「やっぱりパパがいちばんでしゅか~」
「パパって……」
千歳がその言葉にくすぐったそうにしていると、
「アンタが引き取ったんだから」
「そうだけど、なんか、まだしっくりこなくて……」
千歳は頬を染めて緩み切った顔を見せた。女は千歳の頬を思いっきりつねる。
「痛い痛い! お母さん痛いって!」
「そろそろおばあちゃんって言わないと、この子が私をお母さんって呼んじゃうでしょ、ばあばって呼びな」
「ばあちゃんが二人かよ、やだなー」
千歳はため息を尽きつつも、腕の中の赤子の顔を見るなり頬を緩ませ、
「あぐりちゃんは家族いっぱいだね。よかったね~」
あぐりはきょとんとした顔で千歳の顔を見ていた。
「あ、お兄ちゃん帰り」
そこに千歳の妹がやって来る。
「あぐりちゃんどうだった?」
千歳が留守の間の事を尋ねると、
「うん、一日中泣いてたよ」
「えぇ~」
「お母さんが恋しいのかな。でもお兄ちゃんが来ると泣き止むね」
「他に泣き止んでくれる家族はいない?」
「おじいちゃんが抱っこすると一番ぐずる。その次はおばあちゃん。あ、たまにお父さんが抱っこすると泣き止むよ。新造があやすと結構笑う」
新造は千歳の弟で、妹・茜祢の兄。
茜祢は思い出したように手を叩き、
「そうだ、昨日の夜ね、お父さんがあぐりちゃんがなかなか泣き止まないからって、自分のおっぱい吸わせようとしてたよ!」
「えっ嘘! あれまたやったの!?」
「私らの時もやられたやつ」
「も~、あぐりちゃんにだけはそう言う事しないでって言ったのに~」
千歳はあぐりをベッドに置くと、父親の部屋に向かった。
「あぐりちゃ~ん」
茜祢があぐりにおもちゃを渡す。
玄関の横の父親の部屋から千歳の怒鳴り声が聞こえて来た。
「お父さんやめてって言うたがな!」
「なんや、なにがじゃ」
「あぐりちゃんはウチの子じゃないんぞ!」
「なんや、引き取ったんお前やん」
「あれでも他所のこなんやから汚いことせんとってや! 病気なったらどないすんえや! 聞いとんのかぼげぇ!」
茜祢は少しいやそうな顔をし、
「お兄ちゃんまた訛り出とる。あ、ダメだね、私も出ちゃった」
舌を出してあぐりにむかって笑いかけると、あぐりは不思議そうに舌に手を伸ばした。
夜になり、家族全員が集まって食卓を囲む。千歳はあぐりをおんぶ紐で背中に背負って食事をしていた。
「兄ちゃん、ご飯の時くらい降ろしたらええやん」
新造があぐりの顔を覗き込みながら言った。
「独りでベッドに置いといて何かあったら嫌やろ」
「何かって何が」
「お前があぐりくらいだった時に、顔の上にぬいぐるみが来てて窒息するかと思ったんだからな」
「ふ~ん」
新造は他人事のように流してしまった。
食事が終わり、千歳はミルクを創るために台所に立って作業をする。
「あぁほら、分量間違えてる。ほらお湯の温度が高すぎる。違う、こっちが先」
母親が横から口を出すため、
「もう、分かってる! 一々言うなや!」
千歳は顔を目前に持って来て威嚇で追い払う。
「ハイハイ、年寄りはいなくなりますー。けっ!」
母親は虫の居所が悪かったようにそそくさとその場からいなくなってしまった。
千歳が座椅子に座ってあぐりにミルクを飲ませる。するとあぐりは哺乳瓶を自ら両手でつかんで、力強く吸い始めた。
「わぁ、すげぇ飲む!」
新造が興味津々にあぐりの顔を見た。
「お兄ちゃんは全然飲まない子でねー」
そう言いながらまた母親がやって来た。
「また来た」
「お前に用はない、あぐりちゃんに用があるの」
母親は口臭を千歳の顔に向かって吐き出した。千歳は咳き込んで、
「何すんねやもぉ!」
それでもあぐりは一心にミルクを飲んでいた。
飲み終えてげっぷをさせている時、妹が保健体育の教科書を持ってやって来て、
「あぐりちゃんさ、うちに来てからほとんどずっと粉ミルクだけど大丈夫なの?」
「そうだね、ちゃんと母親の母乳飲ませないと」
千歳は首をかしげて、母親と同じポーズで考える仕草をする。
「ねえ、ゆいねえちゃんの子ってそろそろ乳離れ?」
千歳が訪ねた。ゆいねえちゃんは千歳の従姉妹で、あぐりがこの家に来る前に子供が生まれた。
「多分それくらいだと思うよ」
母親は指を折り数えながら答えた。
「ゆいねえちゃんに一年ほどうちにいてもらえないかな」
「えーどうだろう」
母親はスマホに手を伸ばしてゆいねえちゃんに電話を掛ける。
『はいはーい。トコちゃんどうしたの?』
「ゆいさんごめんねーこんな夜に」
『ううん、別に大丈夫だよ』
「ちょっと相談なんだけどね、その……千歳の子がさ、母親がいないってのは知ってるでしょ?」
『うん、おじいちゃんから聞いた』
「それでね、ゆいさんの母乳を分けてもらえないかなって今考えてたんだよ。もううちに来てからずっと粉ミルクだけだったからさ……」
母親は断られるかと思い不安そうにしていたが、
『あっ、じゃあ私そっちに泊まるよ』
「いいの? ありが……え、泊まる?」
『うん、別に一年くらいでしょ? 夫は単身赴任で一年帰ってこれないから、どうせだし』
「でもそっちのおうちは」
『うちのお母さんにでも頼むわ』
「はあ」
母親は驚きの余り少し唖然としていた。
「ゆいねえちゃん、うちに来てくれるって」
「よかったねーあぐりちゃん。ママのおっぱいが飲めるよ」
茜祢がそう言うと、
「ママじゃなくてパパの従姉妹の、な」
千歳が修正を加えた。
それから次の日にはゆいねえちゃんが来て、あぐりは初めて母乳にありつけた。
「粉ミルクだけじゃ、母乳から得られる栄養が得られないからね」
ゆいねえちゃんはあぐりを抱っこしておっぱいを吸わせる。あぐりがいつもの通りに強く吸うため、
「いってぇ! この子吸う力強っ!」
ゆいねえちゃんは笑いながら痛がった。
そしてもう片方のおっぱいを自分の息子に吸わせ、両手に赤子を抱えた。
「双子か兄弟みたいだね」
千歳がそう言ってじっと見ていると、
「ヤダあんまり見ないでよ~」
ゆいねえちゃんは少し恥ずかしがって背中を向けた。
「乳母ってこんな感じかぁ」
ゆいねえちゃんは少し興味ありげに頷いた。
母乳をあげ終え、二人でげっぷをさせていると、
「ありがとう、ゆいねえちゃん」
千歳が少し照れ臭そうに話しかけた。
「いいよいいよ、うちの息子のついでみたいなもんだし、そろそろ乳離れさせようと思って、搾乳したとき捨てちゃうこともあったからさ、もったいないなって思ってたし」
「旦那さんは大丈夫なの?」
「仕事で家を出てから何もしてやれる事は特になかったし、問題無いよ」
ゆいねえちゃんは眩しいほどの笑顔を見せた。
赤子が同時にげっぷをする。
それから幾年か経ち――。
「あぐりちゃん、こっちむいてー」
保育園の門の前で、スモックと黄色い帽子をかぶったあぐりが母親と手を繋いで立っていた。千歳がカメラを向ける。
「わざわざ一眼レフにしなくても」
ゆいねえちゃんが少し呆れたようにつぶやく。
千歳がカメラのシャッターを押そうとした時、
「や!」
あぐりが母親の手を振り払って千歳の元に駆け出した。そして千歳の首に抱き着く。
「どうしたのあぐりちゃん」
「ばあば、や! おとしゃん~」
「でも、あぐりちゃん」
千歳が困っていると、
「私が撮るから、あぐりちゃんと写ってあげな」
母親がカメラを受け取る。
「壊さないでよ?」
「壊さないよ」
千歳はあぐりの横にしゃがんで、カメラににこやかな顔を向ける。
「ハイあぐりちゃん、笑って~」
カメラのシャッターが切られる。
千歳が確認すると、
「ヤダ、ピント合ってないじゃん」
「えぇ~?」
撮り直そうとしていると、入園式が開始するアナウンスが入った。千歳らは急いで保育園の建物に向かって走り出す。
入園式が終わり、家に帰ると、あぐりはまっすぐ子供部屋に走っていく。
「おぉっと~待て待て」
千歳はあぐりを捕まえ、
「お手て洗おうね」
「や!」
「や、じゃない。風邪ひいちゃうよ」
「や!」
嫌がるあぐりを押さえて洗面所に連れて行く。手を洗わせ終わり、あぐりはまた子供部屋に入って行った。そして無言でおもちゃ箱を次々とひっくり返していく。
「あぁあぁ、お店開いて……これじゃ市場じゃないか」
千歳が青い顔であぐりの様子を眺める。
次の日。
「やだ!」
「やだじゃない、保育園行くよ」
「やだ!」
「お父さん、学校行かなきゃいけないの」
「や!」
「もぉ~」
千歳は大きなため息をつきながらあぐりをかかえる。
「やぁ~!」
あぐりは千歳を叩いて抵抗する。
「ヤダじゃないの! お父さんは学校に行かなきゃいけないの!」
「がっこだめ!」
「ダメじゃない」
「やだ~! おとしゃんがいい~!」
千歳はため息をつきながら保育士にあぐりを渡す。
「五時くらいに祖母が迎えに着ますので」
千歳は頭を下げて離れていく。
「やだ~! おとしゃ~ああぁぁぁ!」
あぐりは泣きながら追いかけるが、すぐに保育士に捕まって部屋に連れて行かれる。
「ホラあぐりちゃん、先生と遊ぼ!」
保育士がおもちゃを持って見せるが、
「おと~しゃ~ああああああ」
なかなか泣き止まない。
「あぐりちゃんって何が好きなんですか?」
保育士が別の保育士に尋ねると、あぐりの手帖をめくり、
「え~……茹でたタコの脚、カツオの刺身、柿の種……つまみばっかじゃん!」
「ほ、他には無いんですか!?」
「えぇと……空のペットボトルと、父親のパンツ、バケツ。バケツ?」
「変わった子ですね……」
保育士二人があぐりを見る。するとあぐりはカバンを漁り始め、中から男性もの下着と思われるボロ布を出して頭にかぶり始めた。
「あぐりちゃん、それなぁに?」
保育士が訪ねると、
「おとしゃん」
鼻をすすりながら答えた。
「パパが好きなの?」
「ううん」
保育士は驚いた様子だったが、
「ぱぱじゃない、おとしゃん」
「お父さんなのね……」
保育士はあぐりの手帖にメモをかきこむ。
お昼になり、子供たちが席に着き、持参したご飯の入った弁当を机に置き、その横に保育園の給食が並べられる。
「みなさんごいっしょに、いただきます」
保育士の合図とともに、一同がいただきますを言って食事を始める。あぐりはすぐさまスプーンを握りしめると、ものすごい勢いで口にご飯とスープを流し込み始めた。
「あ、あぐりちゃん、落ち着いて」
保育士がなだめるも、あぐりは全く無視して夢中で食事をする。
「食べる事が好きな子なんでしょうか」
「ものすごい勢いね……」
保育士が感心した様子で見ていると、
「おかわり!」
あぐりがお椀を持ってやって来た。
千歳が大学の講義を受けていると、隣に男子生徒がニヤニヤしながらやって来た。千歳は真顔でノートを差し出す。
「へへっ、いつも悪ぃな」
男子生徒は会釈してノートを書き写し始める。
「お前、いい加減遅刻しないようにしろよ」
「いや~親父に店番やれって言われちまって」
「嘘おっしゃい」
「本当だって!」
いいからさっさと書け、というように千歳がノートを指さす。
昼休み。
「子供の方はどうだ?」
昼食をとりながら友人が聞いてきた
「んー、反抗期真っ盛りだよ」
「あれ、反抗期はもっと後だろ?」
「第一次反抗期。小さい子のヤダヤダ期だよ。もー何もかも嫌だって言う」
「子育て大変だな。生まれたのがお前が高3だって?」
「そう」
「やること速いと、大変だよな~。いいねぇ」
友人が遠い目でいると、
「ねぇ、俺の子じゃないからね。血は繋がってないからね?」
「あれ、そうだっけ?」
「そうだよ! やめてよホント」
「でも、それあんまり言わない方が良いんじゃない? 子供がかわいそうだろ、血のつながった家族が誰一人としていないの」
千歳は少し驚いた顔で友人の顔を見た。
「俺だったら孤独の余り死にそうだなー。家族が実は誰一人として血が繋がってないの」
「そう……なのか」
「子育てしたことないからわからんけど」
友人は昼食の残りを口に入れ、
「俺、講義あるから」
さっさとその場を去ってしまった。
「本当のパパだって、偽ってた方がいいのかな……。ねぇ、こういう時どうしたらいいと思う、宵彦、禊さん?」
千歳はくたびれた一枚の写真を手帖から取り出し、眺めていた。
夕方。
あぐりは保育園にすっかりなじみ、子供たちと一緒に遊んでいた。
「あぐりちゃん、お兄ちゃんが迎えに来たよ」
若い保育士が声をかけるも、あぐりは全く反応しなかった。
「あぐりちゃん? お迎え来たよ。ほら、お兄ちゃんだよ」
保育士が何度もお兄ちゃんと言うので、千歳は後ろから、
「あの、父親です!」
修正を加えた。
「す、すみません!」
「おとしゃん!」
千歳に気付いたあぐりが走って千歳に抱き着いた。
「祖母が迎えに行くって言ったんですけど、来れそうだったので」
「わかりました」
保育士は手帖を見ながら今日のあぐりの様子を伝えた。
「大人しかったようでよかったです。何かあったら電話してください、すぐに来れるようにしておきますので」
「分かりました。それじゃあ、あぐりちゃん、またね」
保育士が手を振ると、あぐりはそっぽを向いて千歳にだっこをせがんだ。
「ありがとうございましたー」
千歳はあぐりを自転車の後ろのチャイルドシートに座らせて帰路を向かう。
家に帰り弁当箱を開けると、中から蛙が飛び出した。千歳は驚いて尻もちを着く。
「何でこんなところに蛙が入ってるの!?」
「あら、懐かしいね」
それを見た母親が蛙を持って外に逃がした。
「懐かしい?」
「アンタの時もよくあったよ。蛙なだけマシじゃないか、アンタなんか虫の頭ばっかりの時があったんだから」
「エグ……」
あぐりが5歳になった頃。
「海外!?」
千歳の家族一同が驚きの声をあげた。
「教授から、卒業してそのまま海外に行かないかって言われて。クリエイトチームに入って勉強しつつ、職を見つけないかって」
家族は急な出来事に口をパクパクさせていたが、
「良いんじゃない?」
新造が手を叩いて言い、
「芸術家って言ったら海外行ってなんぼでしょ。そしたら毎日向こうのお菓子とか食えるし」
舌を覗かせて笑う。
「でも、あぐりちゃんはどうするの?」
茜祢の一言に、家族があぐりを見た。
「あぐちゃんにご用?」
あぐりはすました顔で首を傾げた。
千歳はあぐりの前まで行くとしゃがみ込み、両手を取って、
「お父さん、海の向こうの国にお勉強とお仕事をしに行くんだ」
「保育園のお迎え来る?」
「ううん、来れないよ。あぐりちゃんが小学校卒業するまで帰ってこれないかな」
「ばあばも行っちゃうの?」
「ううん、ばあばとみんなはお家にいるよ」
「おとしゃんお家にいないの?」
「うん」
「やだ! おとしゃんといっしょがいい!」
「それだと、お父さんと一緒に外国行かなきゃいけないけど、一緒に来る?」
「やだ」
あぐりは頬を膨らませてうつむいていたが、
「外国な、日本にはない物がいっぱいあるよ」
新造が見下ろして言うと、
「にほんにないもの?」
「うん、あぐりちゃんの知らないお料理とか食べられるよ」
「テレビに出てくるケーキとか?」
「うん」
あぐりは少し考えて、
「行く! ケーキ食べたい!」
目を輝かせて答えた。
「でも、外国は言葉が通じないよ」
母親の答えにあぐりは少し躊躇したが、
「でも行く。おとしゃんいるから平気」
千歳の脚に抱き着いた。
「それじゃあ仕方ないか」
家族は納得した様子で顔を見合わせた。
あぐりがトイレの前を通った時、中から何かを剥がすベリベリという音がした。恐る恐るドアを開けると、
「こらあぐりちゃん、ダメだよ」
茜祢が急いでドアを押さえた。あぐりはわずかに見えた茜祢の足元の下着を見て、
「血が出てる」
と指をさした。
「ケガしたの?」
あぐりが心配して膝を撫でると、
「ありがとう、でもケガじゃないよ」
「じゃあ病気?」
「ううん。女の子は大きくなると一か月に一度血が出るの」
「痛い?」
「んー、私はそんなに痛くないけど、友達は痛そうだったね」
「あぐりなりたくない……」
「でも良い事なんだよ。これが出たら子供が産めるようになるんだよ」
「ふーん」
あぐりは不思議そうに、生理用ナプキンを取り換える茜祢の様子を見ていた。
トイレから出た茜祢を追いかけ、あぐりはスカートを引っ張り、
「あぐりも制服着たい」
「でも、私が着ているのは大きいよ」
茜祢は少し考え、
「私の中学の時の制服なら着れるかも」
あぐりを手招きしてクローゼットの前に行く。
「あぐり、高校の制服がいい」
「えー?」
茜祢は中学の時着ていた制服を取り出し、高校の制服のリボンのスペアを取り出し、あぐりに着せてやると、
「あぐり、大人みたい!」
姿見に映った自分を見て嬉しそうにジャンプした。
「ちょっとまだ大きいね」
「あぐり学校行きたい」
「もうちょっとしたら小学校に行けるよ」
「これ着ていく!」
「これは大きいよ。お父さんに頼んで丁度良いサイズを買ってもらお?」
「うん」
茜祢はあぐりを強く抱きしめた。
空港にて。
「バイバイあぐりちゃん」
「茜祢ちゃんバイバイ」
あぐりは目を擦りながら手を振った。
「美味しいものたくさん食べろよー!」
新造が手を大きく振る。
あぐりは飛行機に乗ってもずっと手を振っていた。
「あぐりちゃん、やっぱり帰る?」
千歳が心配そうに声をかけると、
「おとしゃんと一緒がいい」
千歳の腕に抱き着いた。千歳は優しく頭を撫でた。
しばらくすると飛行機に慣れてきたあぐりは、千歳が寝ている隙にシートベルトを外し、機内をうろうろし始めた。機内には白人とアジア人が多かったが、つるりとしたこげ茶色の頭を見つけ、あぐりは興味津々で見つめた。気づいた黒人男性はじっとあぐりを見つめ返した。あぐりは男性の隣の空席に座り、背負っていた小さいリュックから絵本を取り出して見せた。絵本には人間と同じように行動する虎の親子が描かれていたが、どの親子も耳に黒く塗りつぶされた丸が描いてあった。
「これね、虎なんだけどね、あぐりカエルが好きだからカエルにした」
黒人男性はただ黙ってじっと絵本を見た。
あぐりは今度は空の絵の具のチューブを取り出し、
「これ好きな色。おとしゃんからもらった。オペラピンクとね、うんこ色。あと臙脂色。あ、これはカエルの色」
男声の膝上に出されたテーブルの上に並べていく。
今度はスポンジ製のウンコのおもちゃを取り出し、男性の膝の上に乗せた。男性は驚いてそっとウンコを手に持ち、
「Wow,Number two」
と低く呟いた。
「ウンコ!」
あぐりは男性の頭を指さして言うが、今度はリュックからチョコボールのお菓子を取り出し、
「おじさんチョコボールだ」
男性の手の上にチョコボールをざらざらと乗せ、一つづつ口に運び、男性には一つも上げずに全部自分で食べてしまった。
あぐりは男性のテーブルの上のグミを見つけ、手を伸ばして一つつまんだ。そして男性の顔を見ると、男性は頷いてどうぞ、と言う仕草をした。するとあぐりはグミの袋ごと掴んでグミを食べ始めた。そしておもちゃをリュックにしまって、グミを持って席を降りた時、
「あぐりちゃん!」
千歳が急いで飛んできた。
「Sorry!」
千歳は何度も頭を下げてあぐりを抱えて去っていった。だがあぐりは千歳の手から逃れてまた男性の元に戻り、リュックからプラスチックの宝石を取り出して一つ渡すと、
「おじさん宇宙人だから、これあげるから地球人と仲良くしてね」
そう言い残し、自分の席に戻っていった。
男性は手の上に転がる温かいプラスチックのおもちゃの宝石を眺め、少し微笑ましそうな顔をした。
10時間のフライトを終え、バスに乗った時、
「おとしゃん、ウンコ」
あぐりがお腹を抱えて袖を引いた。
「あと30分だから、我慢できる?」
千歳が訪ねると、あぐりはすぐに首を横に振った。
「だから空港着いた時トイレ行くか聞いたのに~!」
「漏れちゃう」
「あと20分だから!」
だがそうこうしているうちに、あぐりはいつの間にかすっきりした顔になっていた。千歳が青い顔であぐりのズボンの中を覗く。
バスを降りて、近くの公衆トイレに入る。が、紙が備え付けてなかった。仕方がないので持っていたウェットシートを渡す。
それから電車に乗り換え、ようやく目的に到着。あぐりは長距離の移動に疲れ、千歳の背中ですやすやと眠っていた。
少し古いアパートの中に入り、ドアの番号を一つづつ見ていく。そしてあるドアの前に来ると、千歳はインターフォンを押した。
ドアの向こうからガタガタと大きな音を立て、静かになった直後、ドアの鍵の開く音がした。それと同時にあぐりは目を覚まして千歳の背中から降りた。
ドアが開いて千歳がにこやかに英語を話し始める。あぐりは眠い目を擦りながら見上げ、千歳と話す人間を見つめた。その人はあぐりに気付き、しゃがんであぐりの顔を覗き込んだ。
「やぁ、可愛いプリンセス。この子が君の子?」
あぐりはその人の言葉が一切理解できない様子で、高い鼻をつまむと、
「女の人? でもおっぱい無いよ」
胸に手を伸ばした。
「チトセ……」
その人は千歳を睨む。
「あぐりちゃん、失礼でしょ!」
千歳に手を叩かれ、あぐりの機嫌は途端に斜めに傾いた。
「やぁ!」
あぐりは怒って荷物を放り投げて床に座り込んだ。鼻の高いその人はあぐりを抱き上げ、
「プリンセスが地べたに座っちゃいけないよ。さ、中に入って」
家の中へ連れて行った。後から千歳が荷物を持って追いかける。
あぐりをソファーに座らせる。鼻の高い人はお茶を淹れに台所に行こうとすると、あぐりは追いかけ、
「ねぇ、名前なんて言うの」
足を叩いてあぐりが訪ねると、
「エンジェルだよ」
千歳が後ろから答えた。エンジェルは肩にかかる髪をなびかせ、
「よろしく、プリンセス」
ウインクをした。あぐりはポカンとしていたが、
「あぐりね、あぐりっていうの」
「agree?」
エンジェルが千歳の顔を見ると、
「日本の古い名前なんだ」
「アハ」
エンジェルは納得した様子で頷いた。
「プリンセス・アグリ―、好きなお茶はある?」
「あぐりだよ」
「アグリー、私はお茶の好みを聞いているんだ」
「おとしゃん、てーって何」
「アグリは何のお茶が飲みたい?」
「牛乳!」
「牛乳だってよ」
「ミルク……あったかな」
エンジェルは冷蔵庫を開けて中を探る。中は無造作にタッパや食品の入ったビニールが入っており、蠅集ったものもあった。
「エンジェル……何だいこの冷蔵庫は」
「冷蔵庫だよ。見てわからない?」
「そうじゃなくて……」
「おとしゃん、冷蔵庫がすごい大きい」
「ハイハイ、そうだね」
荷物をある程度片付け、三人はテーブルを囲んで、デリバリーしたピザを食べ始める。
「ピザ大きい!」
「日本のに比べたら大きいね」
「チトセ、アグリーはよく食べる子だね。アメリカの子もこんなに食べないよ」
「昔から大食いで」
あぐりはエンジェルを見つめながらピザを頬張り、満足すると、
「エンジェルはおとしゃんの友達?」
「うん、大学で知り合ったんだ。モデルを目指していて、これからお世話になるクリエイトチームに所属しているんだ」
あぐりは興味津々でエンジェルを見つめた。
それからあぐりと千歳はお風呂に入った。
「おとしゃん、お湯に浸からないと怒られるよ」
「うんでも、海外ではお湯には入らないよ」
「じいじに怒られる」
「今はじいじいないよ」
風呂から上がると、エンジェルがドライヤーをかけてくれた。
「随分髪が傷んでいるね。普段手入れはしないの?」
「そう言うのは大人になってからで十分だろ」
千歳がコーラのペットボトルを開けながら言うと、
「プリンセスになんて態度だ!」
エンジェルは怒りながらあぐりの髪に専用のクリームを塗り始めた。
「クリームは顔に塗るんだよ」
あぐりがクリームを顔に塗ろうとすると、
「アグリー、これは髪用のだよ」
エンジェルは手を掴んだ。
それから三人はスナックを食べながらテレビを見た。あぐりはテレビの内容が全く分からずつまらなかったため、エンジェルの髪を触り始めた。
「すごい、サラサラ!」
「アグリー、スナックを食べた手で触らないで」
エンジェルはあぐりを膝の上に乗せて抑え込んだ。
そしていつの間に寝てしまっていたのか、あぐりは気づいたらソファーで朝を迎えていた。
「おとしゃん……」
あぐりは部屋を探し回る。なかなか見つからず、目に涙が浮いてき始めた時、何かを踏んづけてあぐりは顔から転んでしまった。
「あ゛ぁ~!」
鼻から血を流して泣き出す。
そこへジョギングから帰って来たエンジェルが声を聞きつけて飛んでやって来た。
「どうしたんだいプリンセス」
急いで側にあったタオルであぐりの鼻を押さえる。
「チトセ、チトセはどこへ行ったんだ!?」
辺りを見回すが、千歳の気配がない。が、あぐりの足元からうめき声が聞こえ、
「チトセ、そんなところで何をやっているんだ」
足を抱えてうずくまる千歳が床に転がっていた。
スーパーに買い物に行った三人。
「時差ボケで起きられなくて……」
千歳はボサボサの髪に曲がったままの眼鏡で、あぐりの手をつないで歩く。
「チトセでもそんなことあるんだ」
エンジェルは野菜を選びながらカートに商品を入れていく。あぐりは気になるお菓子を見つけ手を伸ばすが、千歳にしっかりつかまれて手が届きそうになかった。するとエンジェルがそのお菓子をカートの中にポイと放り入れた。
その帰り。
「おとしゃん、お尻がかゆい」
あぐりがあまりに痒がるのでパンツの中を覗くと、お尻が真っ赤にかぶれていた。急いで病院に行くと、ウェットシートでお尻を拭いたのが原因でかぶれていた。塗り薬を塗ればすぐ直る事だったので、千歳とエンジェルは胸を撫で下ろした。
ある日、千歳とエンジェルはクリエイトチームの所に行くため、あぐりをつれて出かけた。職場では若い人らが髭のおじさんを囲んで話し合いをしていた。
あぐりがつまらなさそうに椅子に座っていると、一人の女性がリコリスキャンディーをあぐりに渡した。あぐりはお菓子だと喜んで口に入れたが、慣れていない外国の味に驚き、半泣きで千歳のズボンを引っ張り、
「まじゅい……」
かじりかけのキャンディーを口に押し付けた。千歳も不味そうな顔をして口を動かす。
それから一年経ち、
「あぐりちゃん、そろそろ小学校に行くから、一緒に英語の勉強しようか」
遊んでいるあぐりの元に千歳とエンジェルがやって来る。
「楽しい?」
「楽しいと思うよ」
「じゃあやる」
エンジェルは子供用の教育おもちゃを取り出し、アルファベットの描かれたカードをあぐりに見せ、
「A」
「これなぁに」
「あぐりちゃん、エンジェルの後に同じように言って」
「A」
「えぃ」
「B」
「びー」
「そうそう、その調子」
千歳はエンジェルの顔を見て頷くと、急いでカバンを持って家を出ていった。
「おとしゃんは」
「仕事。さ、アグリー、続けるよ」
アルファベットの読みが一通り終わり、今度は数字の書かれたカードを取り出す。
「one」
「いち」
「two」
「に」
「アグリー、英語で」
「何言ってるかわかんない」
「アグリー……」
それでもどうにか、アメリカの6歳児ほどの英語力ではないが、簡単な英語が喋れるほどにはなった。
「皆さん、日本から来た新しいお友達です。仲良くしてくださいね」
教師があぐりの肩を叩くと、
「My name is Aguri」
とあぐりは英語で自己紹介した。
「ハイ、よくできました」
生徒たちは物珍しそうな顔であぐりを見つめ、
「agree?」
「同意?」
「変な名前ー」
口々に思った事を言っていたが、あぐりには一切理解できなかった。
休み時間になり、一人のアジア人の女の子が話しかけて来た。
「私、ズーハン。このクラスにはアジア人は私しかいなくて心細かったの。よろしくね、アグリー」
だが女の子はあぐりを中国人と勘違いして中国語で話しかけたため、
「何言ってるかわかんない」
あぐりはその場を立ち去ってしまった。
なかなか英語が覚えられないため、担任の教師も心配して、放課後特別に英語を教えてくれた。
「あぐり、これは、水筒です。This is――」
ある日。エンジェルが泥酔した状態で家に運ばれた。
「一体どうしたんだ」
千歳は一度も見た事の無いエンジェルの様子にひどく驚いた。
エンジェルを運んできた男性は、
「俺はコイツの仕事の知り合いだ。急に電話がかかって来たから何かと思ったら、家に送れって言われてよ。それじゃ、俺は帰るから」
男はエンジェルを玄関に置くと、さっさと帰っていった。
「エンジェル、どうしたんだ。君らしくないじゃないか」
千歳はエンジェルを部屋に運び込む。物音で起きたあぐりは目を擦りながら、
「お父さん、エンジェルどうしたの……」
心配そうに遠くから見ていた。
「酔っぱらってるだけだよ。ほら、ベッドに戻りな」
千歳はエンジェルを背負って部屋に消えていった。
朝。いつもならジョギングに出かけるエンジェルだが、この日は全然起きてこなかった。
「エンジェル、一体どうしたんだ」
千歳が気にかけて朝食を持って声をかけると、
「また、審査に落ちた……」
ベッドの中からすすり泣く声がした。千歳はテーブルに朝食を置いて、ベッドに腰掛けると、丸く膨らんだ布団を覆いかぶさるように抱きしめた。
「また挑戦しよう。今まで以上に努力すればいいじゃないか」
「もう無理だよ……! もう何度目だよ! もう私には無理だ! もう、疲れたんだ……」
千歳は泣きじゃくるエンジェルを撫で、仕事の時間までずっと抱きしめていた。
エンジェルは部屋に引きこもり、食事もまともに取らず、数日が経っていた。
ふと、ドアの隙間からキラキラと輝く何かがあぐりの目を捉えた。エンジェルの部屋には勝手に入るなと言われていたが、好奇心に負けてドアをそっと押し開けた。すると目の前に、宝石を散りばめたような煌びやかなドレスが目の前に立ちはだかった。あぐりはあまりの美しさに見とれ、思わず手を伸ばして触れようとしたその瞬間、
「何をしている!」
エンジェルの怒鳴り声があぐりを叩いた。そして部屋から追い出され、
「私の部屋に勝手に入るな! 出て行け!」
ドアを勢いよく閉められた。あぐりは怖さの余り泣き出し、家を飛び出した。走って走って走って、気づけば知らない街にいた。繁華街だろうか、中華風な看板やネオンサインが眩しかった。家に帰ろうにもここがどこだかわからず、とぼとぼ歩いていると、
「プリンセス!」
後ろから聞き覚えのある声がした。振り返ると、エンジェルが息を切らせて膝に手をついていた。
「ごめんね、プリンセス。君にひどい事を言ってしまった」
「ううん、私も勝手に入ってごめんね」
あぐりがそっとエンジェルの頭を撫でると、エンジェルはあぐりを強く抱きしめた。
「痛いよ、エンジェル」
「ごめんねアグリー」
「いいって。ほら、家に帰ろう」
エンジェルは頷くと、あぐりと手を繋いで家に帰った。後で千歳から、エンジェルの部屋にあったドレスはエンジェルの母親がモデルとして大活躍していた時のもので、エンジェルがまだ幼い頃に病死してしまった、と説明された。
「エンジェル、お母さんいなかったんだね」
あぐりが声をかけると、エンジェルは遠い目で景色を眺めながら煙草を吸い始めた。
「結構小さい頃だったからそんなに覚えていないけどね。でも、あのドレスを着てランウェイを歩いたら、きっと母さんについて何かわかる気がするんだ。だから私はモデルを目指してる」
その言葉に、あぐりはふと、自分の母親が思い出せないことにようやく気付いた。
「ねえお父さん、私のお母さんはどこ?」
千歳とレストランで食事をとっていた時、あぐりがそっと訪ねた。千歳のフォークを動かす手が止まる。そしてフォークを置いて一呼吸すると、
「ここで問題です!」
千歳がクイズ番組の司会者のように話すから、あぐりは思わず、
「はぁ? バカにしないで。私は真面目なの」
「君のお母さんはどこにいるでしょうか!?」
「ふざけないでよ」
あぐりが怒って匙を投げると、
「父さんの口からは言えないんだ」
千歳の真面目な顔に、あぐりは怒りを鎮めて視線を落とした。
「自分で考えて、探して、答えを見つけてごらん。自分なりの答えを教えてくれたら、真実を話すから」
千歳のその力強い微笑みを見て、あぐりは彼なりに何か考えがあると気づき、
「わかった。調べるよ」
ぶっきらぼうに答えた。
家に帰り、早速エンジェルのパソコンを借りて調べ始める。
「ねー、私のトリートメント知らない?」
シャワーを浴びていたエンジェルが探し物をしにリビングにやって来た。
「そこの赤いやつは?」
あぐりが指をさすと、エンジェルは見つけた様子でボトルを手に取った。その時、前を隠していたバスタオルが落ちてしまった。だがエンジェルは慌てる様子もなく、口笛を吹きながらバスタオルを拾ってバスルームに戻っていった。
あぐりはただ唖然とするばかりだった。
小学校も卒業まであとわずかとなった頃。
「チトセ!」
千歳とあぐりが風呂に入っているところにエンジェルが飛び込んできた。滑りそうになり、千歳は石鹸の付いた手でエンジェルを支える。だがエンジェルはそんなものお構いなく、パソコンの画面を二人に見せた。そこには英語で「合格」と書かれていた。
「モデルオーディション……受かったよ~!」
三人は歓声を上げて、濡れている事も忘れて抱き合った。それからすぐにちょっとおしゃれで高いレストランに行き、三人でパーティーをした。
「それじゃあ、エンジェルはクリエイトチームを卒業するの?」
千歳が訪ねると、エンジェルは少し悲しい顔で頷いた。
「でも、良かったね。これでエンジェルの夢が叶うよ」
あぐりがそう言って微笑むと、
「プリンセス~!」
エンジェルは強く抱きしめた。
それからすぐにエンジェルはヨーロッパにいかなくてはならなくなった。
「チトセ、ごめんね、最後まで一緒にいられなくて……」
「いいよ、気にしないで。それに、俺たちもそろそろ日本に戻ろうと思うよ」
「そっか」
「あぐりの卒業と共にここを出るよ。だからそれまでもうしばらくここにいてもいいかな」
「全然、構わないよ」
空港にアナウンスが入る。
「あぐりちゃん、行くよ」
千歳に呼ばれ、エンジェルとおしゃべりをしていたあぐりは少し物悲しそうな顔で立ち上がった。
「またね、プリンセス」
エンジェルがそう言うと、あぐりは自らエンジェルに抱き着き、
「エンジェルも、元気でね。頑張ってね」
二人は名残惜しそうに手を繋いでいたが、あぐりから手を離して背を向けて歩き出した。
飛行機に乗り座席に座り、二人は離れていくアメリカを見ていた。ふと、あぐりが、
「お母さん、調べたよ」
千歳は姿勢を正してあぐりの顔を見た。
「お父さんは、お父さんじゃないんだね。私に家族はいない。お母さんは死亡、お父さんはどこの誰かわからない。私、ずっと一人だったんだ」
あまりに悲しそうなあぐりの横顔に、千歳が何か言葉をかけようと悩んでいると、
「でもね、独りじゃなかったよ。お父さんがいて、ばあばとじいじ、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃん、新造と茜祢、それにエンジェル。わたし、こんなにも家族がいたんだね。大家族だね」
千歳は溢れそうな涙をこらえ、
「うん、そうだね。それにね、君には本当はもっとたくさん家族がいるんだよ。強くて美しい、絶対誇りたくなるような家族が」
あぐりを強く抱きしめた。
日本に戻った千歳の元に、御代家から一通の手紙が手渡しされた。それはアークィヴンシャラ国からの手紙であった。