第六十六話 静かな空
関東では珍しく、この日はよく雪が降り積もった。雪になれない人たちは雪にはしゃぎ、怒り、困惑していた。灰色の無機質な町が白一色に染まる。雪は枯葉も、草木も、コンクリートも、サビた金属も、猫の死体も、全てを優しく包んだ。
懐かしい匂いだった。小さい頃からよく嗅いだ雪の匂い。この匂いがしてくると、誰かの母親の声が聞こえてきた。「早く帰ってらっしゃい、凍えちまうよ」って。母は一度もそんな事言わなかった。ただ祖母だけは、もっと幼いころによく言ってくれていた。
しばらく会社を無断で休んでいる、もうクビだろうなぁ。明日は電車が動かないだろうから、早めに家を出ないと。夕飯の買い出しも行かないと。そんな明日の心配をしながら、川の上を渡す橋の下、粗大ごみや廃車の置かれた中から車を適当に選び、七輪を中に置く。こんな事をしながら、これから捨てる明日の心配をしている。バカみたいだ。いや、捨てるゴミがどこへ行きつくのかを考えているのと同じか。それならおかしな話ではない。死んだらどこへ行くんだろう。果たして先はあるのか? ぷっつり途絶えた意識の先はどこに繋がる? 無へ帰るとはどういうことだ?
まぁ、そんな哲学を考えたところで、この状況は変わらない。変えられない。もう、どうにもならないんだ。
あの時からずっと来ていた紺色のミリタリーコート。そのポケットからスマホを取り出す。そしてあぐりちゃんに電話をかけた。なんて話始めようか。何を話そうか。でも今はあの子と話したい。
『あっ、おじさん!』
いつもの元気な彼女の声が耳を通る。
『珍しいね、おじさんから電話するなんて』
『あぐり、彼氏~?』
彼女は騒がしい場所にいるのか、電話の向こうで一緒にいる女性と何か話していた。
『ごめん、仕事の飲みの席で』
「ううん、こっちこそごめんね、こんな時間に」
『大丈夫、少人数だし。それで、どうしたの?』
「いや、少し話したいなって思っただけ」
『なにそれ、らしくないじゃん』
あぐりちゃんは楽しそうに笑った。
『そうだ、私ね、連ドラの主役になるかもしれないんだ』
「おっ、すごいね!」
『そしたらおじさん、毎日私が拝められるよ』
「それは困るなぁ」
『なんでよ!』
二人でクスクスと笑う。
『それからね――』
あぐりちゃんは仕事でどんな状況かを話してくれた。父親の千歳さんの絵がイギリスの王室に買われた事、湯屋を営んでいた円香さんが二件目の旅館を立てた事、花京院の薫子さんがお茶会に呼んでくれた事、またその弟で花京院の家長の明彦さんに子供が生まれた事、マネージャーを務めた七穂さんは御代家で働いていて、七富くんが結婚した事。みんなそれぞれの人生を歩んでいた。
『ねえおじさん、おじさんは夢とかある?』
「夢……ねぇ」
まともに持ったことは無かった。ならせめて最後くらい、バカみたいな夢でも誰も笑わないよな?
「真尋さんの足元に骨を埋めてもらう事……かな」
するとあぐりちゃんは少し黙って、
『うん、おじさんらしいね。いつもの真尋大好きアキラおじさんだ』
「なんだい、それ?」
あぐりちゃんは嬉しそうに笑っていた。
『あっ……ごめんね、そろそろ切る』
「うん、ありがとう」
『こちらこそ、ありがとう』
「そうだ。しばらく仕事で電話できないから、今のうちに言っておくね」
『なぁに?』
「……メリークリスマス、よいお年を。それから、あけましておめでとうございます」
するとあぐりちゃんは元気よく笑い出し、
『なにそれ! 年明けまで忙しいの?』
「うん、まぁ……そうだね」
『そっか。私も多分、映画が公開されたらもっと忙しくなると思う』
「お互い大変だね」
『ね。頑張ろ』
「うん。それじゃ、おやすみ、あぐり」
『うん、おやすみ、アキラおじさん』
通話が切れ、静けさが戻る。
車の助手席に座り、ダッシュボードの上にスマホを置く。そして運転席と助手席の間に置いた七輪の中の練炭に火をつける。
死は常に隣にいる。永遠と言われる矛盾の隣にも死はいつでもいる。ただその時が来ないだけで、それがずっと先なだけで、いつかは訪れる。その時が来ないなら、自分で呼べばいい。
禊さんは幽霊だと言った。だがもうアレが何なのか、今なら、いやもしかしたらもうずっとわかっていたかもしれない。臆病な余り、その答えに行きつくのを恐れていただけだ。
死だ。
人の形をしているだけで、アレは人ではない。死だ。僕がずっと求めて恐れてきたもの。だがもう恐れる必要はない。ただその時を待つより、自分で呼んで迎えに行った方がいい。
もう十分に泳いだ。僕はもう泳ぎ疲れた。楽しかったさ。この雪を見るとあの疲れを思い出すけども、雪の後は楽しかった。歩きやすく、温かかった。けど花が消えて、また雪が降った。
もういいだろう? 行く当てもないんだ、ただ待つよりこのまま終わらせたい。彼女の足元に埋まっているのが老骨より、もう少し若く頑丈な骨の方がマシだろう?
せめて最後に、福田さんに何か言いたかった。隣の席の彼にも何か言えばよかったかな。まあ、もう今更だ。
ダッシュボードの上のスマホが震え、画面に着信を知らせる。今更呼び立てて、泳げとでも言うのか。全く持って理不尽でしかない。
けど、そこに表示されていた「福田チタ」と言う文字に、何故か体が出ようとしていた。あぁ、そうか。いくら頭で理解して諦めていても、体は生きたいと叫ぶんだ。
手を伸ばそうと考えて手を伸ばすが、一向に手が届かない。そんなに遠かったか? いや、よく見れば手は全く動いていなかった。
苦しい。ようやく考えが感覚に繋がった。苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて――。
ドアノブに手をかけ、外に出ようと引っ張るが、作り物のように一切動く気配はなかった。おかしい。
すると白い手がドアノブに指をかけた僕の手に重ねられた。目で追っていくと、その腕には花が咲いていた。そして細い首に、薄い唇、臙脂色の大きな目がこちらをじっと見ていた。
あぁ、ようやく会えた。また会えた。やっと触れてくれた。
「君、何してるの?」
君の元に行こうとしているんだ。こうすれば、ずっと君の傍にいられるだろう?
「そうなんだ」
これでやっと、やっと君の傍にいられる。君の花を拝める。
「よかったね」
もう泳がないで済むんだ。これで自由になれる。楽になれる。
「頑張ったね」
そう言って、真尋さんは僕の首に抱き着いた。無機質な洗剤の匂いがした。細い体は片腕だけで抱きしめられた。
僕は、君が好きなんだ――。




