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第六十四話 静かな海

 電話の向こうのあぐりは大きなため息を溢していた。

「ねぇおじさん、どうしてもダメ?」

「うん、ちょっと最近忙しくて……ほら、あぐりちゃんも撮影忙しいんだって? 同僚に頼んでSNSを見せてもらったよ」

「あ、やっと見てくれたの!? そ、投稿の通り、結構本格的になって来たよ。でもね、この役すごい難しくてさ。監督も実力ある人だから要望に応えたいけど、難しくて……。今、ラストの重要なシーンを撮ってるんだけど、もう20テイクくらい……」

 あぐりのため息は重そうだった。

「どんなシーンなの? って、聞いちゃダメだよね……」

「うーん、少しくらいなら大丈夫だけど。主人公の私が、片思いしていた人からの遺書を読んで、泣きながら家を飛び出すシーン。でも、誰かが死ぬってのが実感わかなくて……」

「曾祖父母のお葬式のときとか思い出せる?」

「うん。でも、年齢が年齢だったってのもあったから、特別悲しいとも思えないんだよね……」

「難しいね……」

「でもありがとう! おかげでちょっとすっきりしたよ」

「うん、よかった。それじゃ、撮影頑張って」

「うん! おじさんも、健康に気を付けろよ~。もう中年に入ったんだから」

「そうだね。それじゃ、おやすみ」

「はいおやすみ~」

 通話が切れる。

 あぐりは嬉しそうにスマホを抱きしめた。

「おじさん大好き……」

 ベッドにダイブして足をバタバタさせた。

「次、いつ会えるかな。撮影が終わったら会えるかな」


 アキラが常森の働く中華料理店で昼食を食べていた時だった。

「どうもー!」

「おう、福田の双子か! 今日はレバニラ定食だぞ」

「マジ!?」

「ニラマシマシできます?」

「おうよ」

 福田双子は嬉しそうにハイタッチして席に着いた。

「あ、宮崎さん!」

「おつかれです、宮崎さん」

「お疲れ様です。いつも仲良しですね」

 するとチコが手を横に振り、

「いやいや、昨晩喧嘩したばかりですよ」

 すると今度は反対側に座るチタが声を潜め、

「実はコイツ、生理前で機嫌が悪いんですよ。だからあれ買って来いだのアレ取れだのうるさくて……」

「チタ、聞こえてる」

「ちぇっ!」

 すると二人の前にレバニラ定食が置かれる。

「いただきまーす!」

 二人は同時に言うと、嬉しそうにレバニラに食いついた。ふと、アキラはチタの生え際が灰色なのに気づく。

「ん、宮崎さん、なんすか?」

「えっ、あ、いえ……何でもないです」

 するとチコが気づき、

「チタ! やばいよ、帰りに染めて戻りな!」

「えっ!? あっ!」

 チタがチコを指さし、2人は急いで口を押える。するとチコはアキラに向かって声を潜め、

「あの、内緒ですからね。実は私たち、昔から髪が灰色なんです……」

「えっ……」

「感染者なんです。生まれた時は黒かったんですけど、高校くらいから一気に灰色になって……感染が原因だと言われたんですけど、特に異能の症状は無くて」

 するとアキラは少し考え、

「では、矛盾を恨んでたりしますか?」

「矛盾って、感染源と言われてる……?」

 チタとチコは顔を合わせ、

「いえ、全然」

「特に困ったことありませんし、むしろこれは気に入ってますし」

「一時期よく聞きましたね。不老不死の国民。なんかいろいろ言われてましたけど、俗世に疎い子供でしたから、今でもよくわかりませんね。宮崎さんも何か興味がおありで?」

「いえ。ただ、感染と言うと矛盾とよく聞くので。それに、あまり良い印象が無いようにも聞いていたもので……」

「私は悪く聞いたことは無いですね……」

 するとチタはアキラの顔を見て、

「宮崎さん、疲れてます?」

「え、そう見えますか?」

「最近忙しいですもんね。無理そうだったらこっちに流してもらって構いませんよ」

「今年の夏は何もしないで過ごす予定ですし」

 チタとチトはそっと微笑んで見せた。

「えぇ、ありがとうございます」

 アキラはそっと微笑むと、会計を済まして店を出た。


 夏になり、社員旅行が行われた。

「意外です、宮崎さんこういうの苦手かと思ってましたよ」

 チタはそう言ってアキラの背中を叩いた。

「いえ、嫌いではありませんが……」

「お兄ちゃん、宮崎さん、行きますよー」

 チコに呼ばれ、2人はバスに乗る。ツアーガイドに連れられて観光を楽しみ、夕方には宿泊する旅館に到着した。アキラはチトと隣の席の男性と同室だった。

「見てください宮崎さん、ここ海が見えますよ!」

 男性がそう言うと、2人は窓に近づいて外を見る。

「ホントだ! 綺麗だな~」

「温泉からも見えるそうですよ」

「そりゃいいな!」

 チタは鼻歌を歌いながら宿のパンフレットを見る。

「お、ここの旅館は花京院家が投資してるんだってよ」

「はー、だからこんなに豪華なんですね」

「花京院?」

 アキラはその言葉に聞き覚えがあった。

『本当は花京院の息子だったんですよ。今の家長が双子の兄です』

 宵彦の声が耳に聞こえてくる。

 夕食を済ませ、アキラはさっさと布団に入った。

「宮崎さん、お疲れですか?」

 そう言ってチタが布団の中に手を入れてきた。

「うひょぁっ!?」

「なんっちゅー声を出してるんだ40歳」

「び、びっくりした……」

「また考えごとですか?」

 チタは足をマッサージしてくれた。

「あ、あぁ、すいません……ありがとうございます。またって、いつも考えごとしてますか、僕?」

「してますねー。よく喫煙室で火のついてない煙草とライターを手に持って固まってます」

「うぅ……」

「何か悩み事ですか?」

「いえ、考え事をするのが性分でして……」

「あまり考え込みすぎるのも悪いですよ。時々吹っ切れるのも大事です」

「そう言ってるチタさんは、いっつも何でもかんでも吹っ切れてますけどね」

「何だよ~」

 チタが思いっきり指に力を籠めると、

「あぅっ、ひっ……あっ、くうぅ……!」

 アキラがシーツを掴んでもがきだした。

「ほー、ここが悪いのか」

「ちょ、福田さん、痛っ」

「そこは何ですか?」

「性器」

「せっ……」

「ここは肝臓」

「あー、最近飲みが多いですもんね」

「福田さん、福田さん、いっ……あぁっ!」

「それじゃあどっちの福田かわからんでしょう~?」

「チ、チタさん……っ、もう、やら……」

 チタは満足そうな笑みを浮かべる。それを見た男性社員は、

「チタさん、嬉しそうですね……」

「まぁね! こういう声を聞くのが趣味だからな」

「か、変わった趣味ですね……」

 そしてチタも男性も布団に入り、眠り始めた。

 チタが寝ぼけて隣で眠るアキラの布団に入って来る。そして浴衣の中に手を入れてきた。思わずアキラは目を覚まして起き上がる。

「……なんだ、チタさんか……」

 起こさないように手をどかして布団から出る。トイレに行ったついでに、煙草を吸おうと部屋を出た。喫煙ルームを探して廊下を歩いていくが、どうにも見当たらない。廊下に設置された地図を見て、階を間違えていたと気づく。上の階に上がり、奥の喫煙ルームを目指していた時だった。見覚えのある畳の大広間が隣にやって来た。そして吸い込まれていくように大広間に入る。縁側が一段高くなって海側にあり、そこに座って煙草を吹かせる。目下で波がちゃぷちゃぷと音を立てていて、遠くで波の引きずる音が聞こえた。

「聖女の衣が風になびく音……か」

 あぐりか千歳が言っていた話を思い出した。

『やぁ、こんな所で独り晩酌かい?』

 そんな声が聞こえてきて、急いで振り返った。だがそこには何もなく、廊下の小さい明かりが見えるだけだった。

「真尋……さ……」

『君、いつも最後の“ん”が掻き消えるね』

 そう、声が聞こえて来そうだった。けど聞こえるのは波の音だけだった。

「もう、会えないのか……」

 そう呟き、縁に手をついた。真下の海を見下ろす。このまま飛び込んだら会えるだろうか。これ以上考える必要もないんだろうか。悩んだり苛まれたりせずに済むんだろうか。楽になるんだろうか。

 右手が滑って落ちた途端、我に返った。急いで起き上がって後ろに倒れた。

 自分は今、何を考えた。

 その事を考えてぞっとした。アキラはフラフラと立ち上がり、静かに大広間を出た。

 ぼんやりと揺れる満月は、縁側に置かれた煙草とライターを冷たく照らしていた。

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