第六十三話 静かなバレンタイン
また今日も、オフィスにはタイピングの音が響く。
アキラの傍を通る女性社員が、通るたびにアキラをじっと見て通り過ぎていく。だがアキラ自体、髪を切ったり服装を変えたり、何か特別変わった様子もない。
給湯室に入る女性たちがじっと陰からアキラを見つめる。ふと、その熱い視線にアキラが気づき、顔を上げると、女性たちは何事も無かったようにそっぽを向く。
「何なんだ……」
アキラは唸り声の混ざったため息を溢す。するとチタがやって来て、
「どうしたー色男、今日はやけに女性に見られてますね」
「色……っ」
「お?」
チタは何かに気付き、アキラに鼻を近づける。
「いい匂いしてんじゃん」
「え、臭くありませんか?」
「臭くないですよ~。何の香水ですか?」
「わかりませんが……友人がクリスマスにくれました」
「へぇ、なかなか良い趣味の友人ですね。おい、チコ」
チタが手招きするとチコが飛んでやって来る。
「なぁにお兄ちゃん!」
「この香水知ってるか?」
チコは椅子に掛けられたアキラのジャケットに鼻を押し付ける。
「あ、知ってる! 最近巷で流行のだよ。おっしゃれー」
「そう、なんですか」
「宮崎さん、一段とカッコよくなりましたね」
「あ、あぁ、ありがとう」
アキラが照れていると、チコがそっと微笑んで見せた。それを見たチタがチコに抱き着き、
「宮崎さんみたいな怪しい人にうちの妹はやりませんからね……」
「な、何なんですか」
「チコは俺のもんです! 絶対誰にも渡しませんからね!」
「福田兄弟、仲がいいのはいいんだが、さっき頼んだのはまだか?」
「はいっ只今!」
チタは急いでデスクに戻り、チコは急いで部屋を出て行った。
クリスマスから幾分か経ち、早くもバレンタインが近づいていた。
「もうそんな時期かー!」
「早いよな」
「今年もチタが一番だろうな」
男性社員が話しているところにアキラがやって来る。
「なぁ宮崎さん、ターゲットとかいますか?」
「え、ターゲット?」
「ほら、バレンタインですよ! 誰からもらいたいとかあるんでしょう?」
「僕は……」
頭にあぐりの顔が浮かぶ。
「い、いえ、ありませんよそんなの。第一、もうこんな年ですし……」
男性らはアキラの赤くなった耳を見てニヤニヤと笑いだす。
「何なんですか……」
「ま、年齢関係なくアタックするだけするのも大事だぜ!」
「そう言う皆さんはどうなんですか」
「そりゃもちろん」
「なぁ?」
そう言い、一同はアキラを引っ張って廊下の角から顔を出す。その先には女性社員と楽しそうに会話するチコがいた。
「愛らしい笑顔! 優しくて思いやりのある性格! 背は低いけど何よりあの柔らかそうなCカップ! 大きなたれ目!」
「可愛いなぁ」
男性らはそう言って鼻の下を伸ばした。
「まぁたお前らは。毎年言ってるけど、チコの作るもんは俺も作ってるんだからな」
そう言ってチタがアキラの尻を叩いた。
「ヒェッ!?」
「チタさんまた作るのか」
「毎年世話んなります~」
「お前らモテないからな、可愛そうだから俺が作って撒いてやってんだ」
チタは自慢げな顔をする。
「しかもこれが、どの女性社員よりも美味いんだよな」
「去年のケーキ、美味かったっすよね~!」
「今年は何になるんだ?」
「あ? 内緒に決まってんだろうが」
そう言い、手を振ってチタはその場を離れた。
「チタさんも結構人気なんですよ。背はあの通り150㎝ですけど、チコちゃんと同じ童顔で大きなたれ目、見た目は女っぽいけど男より男らしい兄貴肌、しかも器用で何でも作れる!」
「ただ字が物凄く汚いんだよな」
「それなー」
「なあ、朝チタさんからメモを貰ったんだけど、これ読める奴いる?」
一同でメモを覗き込む。
「……11時……ちちの……t……え?」
「ダメだ、読めねぇ」
「直接聞いたら?」
「無理だって! 怒らせちまう!」
するとアキラはメモを手に持ち、
「11時、たちの木社にすそ依頼、でしょうか」
「読めるの!?」
「癖が知り合いに似てるので……」
「すそって、あの依頼か!」
社員は手を叩いてオフィスへ戻って行った。
バレンタイン当日。
「おらモテない奴ら~、はっぴーばれんたいん」
チタはデスク一つ一つに紙袋を置いていく。
「メシア様!」
「ありがとうございます!」
「それ食って仕事がんばれよ~」
そしてアキラにも手渡す。
「あ、ありがとうございます……」
「一応グループチャットで確認したけど、アレルギーとかありませんよね?」
「ハイ、大丈夫です」
「今年はトリュフとヌガーバーとプディングです。プディングの方は一度レンチンして。30秒くらいな」
そう言い、チタはアキラの頭を撫でて行った。
アキラは仕事を始めようとデスクの前に立った時、その上に盛られたものに目を見張った。
「お、すごい数ですね~」
隣の席の男性が声をかけた。
「あの、これは……」
「宮崎さんがモテてる証拠ですよ!」
「え……」
「食べきれないなら貰いましょうか?」
横から手が伸びてくるが、すぐに華奢な手に叩かれた。見上げると、女性社員が怖い顔で男性を睨みつけていた。男性は身を小さくしてデスクに顔を伏せる。
「宮崎さんっ」
「は、はい!」
「これ、バレンタインです」
また一つ増える。
アキラは苦汁でも飲んだ顔で紙袋いっぱいのチョコを見つめる。
「食べきれますかー?」
チコが覗き込んだ。
「うわっ、あ、大丈夫です……」
「あんまり無理しないでくださいね」
チコは肩を叩いて去っていく。
定時になり、一斉に社員が帰っていく。アキラもチョコの入った紙袋を持って速足で進む。
「あっ、おじさん!」
その声に足が止まる。顔を上げて辺りを見回すと、
「アキラおじさーん!」
あぐりが走って来て抱き着いた。
「ちょ、ダメだよ外で」
「えー、親戚のおじさんって言えば問題ないよ」
「君は俳優なんだからさ……!」
アキラは辺りを見回し、急いで近くのカフェに入った。
「小ぢんまりしてていいね」
あぐりは嬉しそうに店内を見渡す。
「急にどうしたんだい」
「ん、今日は何の日か知ってる?」
「あー、バレンタインか……」
「そ!」
あぐりは小さい箱を1つ渡す。アキラは少し苦笑いをしつつ、
「ありがとう。お礼、どうしようかな」
そっと微笑んだ。するとあぐりは足元に置かれたアキラの紙袋を引っ張り出し、
「モテモテだね」
「あ……なんか、いっぱいデスクに置いてあって」
「じゃあさ、お礼にこれ貰うね」
「えっ、でも」
「いいじゃん、私だってチョコ食べたいもん。じゃあこれ全部食べきれる?」
アキラは首を横に振った。
「女の子は砂糖に強いから! じゃ、おじさんは私のチョコをしっかり味わってね」
あぐりは時計を見ると荷物を持ち、
「それじゃ、私戻らないと。またね!」
急いで店を出て行った。
チコはチタと手を繋いで会社を出る。
「しばらくデザートはチョコだな」
「そうだねー、飽きちゃいそう」
二人の手にはチョコの入った紙袋があった。ふと、チコが通りがかったカフェでアキラを見つける。
「あれ、宮崎さん?」
「どれ?」
二人で木の陰に隠れて見る。アキラの向かいには可愛らしいお洒落な女の子が座っていて、楽しそうに会話していた。
「ほー、隅に置けない奴め」
「宮崎さん、彼女いたんだね……」
「ん、チコ、失恋したか?」
「んー、ちょっと」
「期待しない方がいいって言ったのに……」
「ちょっとだけね。いいなぁって思ったくらい。いいよ、別に」
「やっぱり許婚にするのか?」
「うん。何だかんだ、旦那様は優しいから」
「ごめんな、守ってやれなくて……」
「いいよ、気にしないで。チタも良い人見つかるといいね」
「ゲイを受け入れてくれる人は少ないよ~」
二人は大きなため息をつく。
「今日は飲みますかい?」
「飲みますか~!」
二人は肩を組んで繁華街の方に向かった。
自宅に帰り、部屋の明かりをつける。
『おっ、おかえりおっさん!』
懐かしい声がして顔を上げるが、六畳一間のアパートの部屋が目の前に広がるだけだった。
「あぁ、そうか……ただいま」
ため息を溢しながら靴を脱いで上がる。
紙袋を冷蔵庫に突っ込んで、上着をクローゼットにかけ、ネクタイを緩めて床に座る。パタン、と音がして顔を上げた。背後の本棚を見上げると、一番上に置かれた写真たてが倒れていた。立ち上がって写真を立て直す。そこには笑顔の矛盾らと、マーリンや円香と健良、マネージャーたち、御代家の人、そしてあぐりとその横で微笑む自分。
「……静かだなぁ」
目を瞑ってあの頃を思い出す。
『おっさん、どれ飲む? ビール? 日本酒?』
『おまんは細いからなぁ、たくさん食べて太れ!』
『そうそう、お上手です。そしたら鰓を取って――』
『アキラ! それ終わったら洗濯物畳んどいてくれ!』
『お前、本当は足が速いんだな!』
『え、一緒にお昼? 僕お昼食べに行くから』
『アキラ、恥ずかしがるな。検査なんだから我慢しろ』
『寒かったっすね。よくわかるっす』
『ね、この歌いいでしょ! 正直に感想を言いなさいよ』
『私のお部屋見ますか? とってもかわいいんですよ!』
『おじさん、姐さんの事本当に好きだね』
『君は呆れるほど臆病だね。生きて罪を償うんだよ』
『アキラ、詩を詠もう。ほら、桜が綺麗じゃ』
『どうですか、直りましたか? ダメそうでしたらこちらの機械を――』
『禊さんは僕のですからね、絶対渡しませんからね!』
『おいオッサン、しみったれてんじゃねぇよ。そこの棚の菓子を取れ』
『アキラ、こうすれば駒が取れますよ。頑張って』
『あきゃー、うい。ん!』
『こうする事で保湿が保たれるんです。ね、簡単でしょう?』
『宮崎さんはとても優しいですね。尊敬します』
『貴方に言葉が通じているか不安だけど……大丈夫、貴方は強いもの』
『アキラー、タピオカ買ってきてー。森林公園にワゴンが来てると思うから』
『アキラさん、バスケしませんか?』
写真の上に雫が垂れる。ハッとして急いで袖で拭った。そこへチャイムが鳴る。アキラは涙を拭って玄関を開けた。
「……あぁ、常森さん」
「すいません、おやすみでしたか?」
「いや、大丈夫ですよ」
「これ、お店の余りで申し訳ないんですけど、チャーシューと煮卵です」
「あぁ、ありがとうございます。あっ、ちょっとお茶でも飲みますか?」
「いいんですか? ありがとうございます」
常森は頭を下げながら中に上がった。
緑茶がまだ寒い夜に冷えた身体を温めていく。
「意外です、宮崎さんがお茶を淹れるの」
「え、そうですか?」
「だって、とても上手なもんですから。僕もこんなに上手に淹れられませんもん」
「えっと……前に勤めていた職場で厳しく教わったもので」
「いい職場ですね」
「はい、色んな人がいて貴重な体験ができましたよ」
二人の会話は弾んでいく。そして一時間ほどして、
「あっ、僕、そろそろ帰りますね。長々とすいません」
「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそありがとうございました」
「また来ますね。今度はチャーハン持ってきます」
「わざわざどうも、おやすみなさい」
常森は笑顔で頭を下げて、速足で帰って行った。
「風呂入ろ……」
アキラは風呂に入りに向かった。
風呂から上がり、そのまま布団にもぐる。夜中まで聞こえてくる笑い声も、それを叱る声も、夜中に誰かが起き出す物音も、夜食を漁る音もしない。静かな夜。
ふと、目の奥が熱くなるのが分かった。じんと痛んで、枕を湿らせていく。
「情けないなぁ……」
自分をあざ笑うかのように鼻で笑った。
「え、何ですかそれ!?」
ぷっくりと腫れたアキラの目を見て、チタは驚きの声を上げた。
「す、すみません……」
「泣いてたの? 何か嫌な事でもありました?」
「いえ、えっと……」
アキラは急いで言い訳を探し、
「ふ、フランダースの犬を読んでまして!」
するとチタは笑い出し、
「今更フランダースでそんなになるほど泣きます!?」
「あ……ハハ、僕もこうなるとは思ってなくて……」
「仕事は出来そうですか?」
「えぇ、大丈夫です」
するとチコがやって来て、
「これ、宮崎さんの取引先からです」
そう言ってドライフラワーの入った小瓶を机に置いた。
「枯れ花の……」
「可愛いですね。取引先は手芸店だったんですか?」
「そ、そうです」
「へー、いいですね。私も今度作ってみようかな」
すると隣の席の男が話に入り、
「チコちゃん、手芸とかするの?」
「えぇ、少し。お兄ちゃんの方が良くするんですけど」
「へー、すごいね! ね、宮崎さん」
「えっ……あ、あぁ、そうですね……」
とりあえず返事をしておいたが、アキラの頭にはその小瓶に入ったドライフラワーの事しかなかった。




