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第六話 甘美な死

 いつの間にか意識が戻っていて、意識が戻ったことにさえすぐには気づかなかった。何もないただ真っ暗な場所にいただけで、自我を思い返さなかったら永遠に気づかなかったかもしれない。

 朝なのか昼なのか夜なのか。とにかく今は目を開けて現実を見なければならない。最後に見た景色は何だったかな。思い出さなければ。

 フッと目を開けた。何の苦楽も無く目は開いた。最初に見えたのは石だった。いや、平石を敷き詰めた床だった。固く冷たい床は黙って動かずこちらを見ていた。

 起き上がらないと。だが体は一切動かなかった。指先から順位動かしていけば動くはず、そう思って指先に意識を集中させるが、どうにもあったはずのものがない。じゃあ足はどうかと思えば、こちらも無い。動かそうにも全く、動いているのかさえもわからない。

 どうにか首が動かせることは分かったから、首を動かして周りを見た。だが光が一切見当たらず、ただただ暗闇が永遠と続くのみだった。

 誰かを呼ばないと。声を出したが、声が出ているのかさえもわからなかった。何も聞こえない。

 だが真っ暗闇に薄ら明かりが見えて来た。白い輪郭が浮かび上がる。人の形に見えた。徐々に明かりが強くなっていき、そこに誰かがいるのが分かった。助けを求め何度か声をかけると、それは何らかの反応を示したように見えた。そして立ち上がり、耳に触れた途端全ての音が流れ込んできた。風の音も、虫の動く音も、目の前の誰かの動作の音も、全て。あまりの情報量に耳が壊れそうだった。だがおかしい。目の前の誰かは目の前で動いているのだから、呼吸をしているはずなのに、呼吸の音が一切聞こえない。それどころか、心音すらも聞こえない。聞こえるのは自分の心音一つだけだった。

 ふと、視界の隅から温かい明かりがやって来るのが見えた。心音が聞こえた。助けが来た! 胸を躍らせて明かりを目で追った。

 明かりが目の前まで来たとき、その顔を拝もうと見上げるも、足元は見えているのに顔だけは闇の中に隠れていた。早く、早く見せてくれ! 解放してくれ! 光の中に行かせてくれ!

 強く髪を掴まれた。思ってもいなかった出来事に頭が追い付かず、ただされたことを認識する事しかできなかった。

 今度は額に激痛が走った。そして顔に冷たい感覚と、土と石の匂いがした。

 また髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。

 暖かい明かりとは別の、冷たい明かりが遠くを照らし始める。ようやく頭が追い付いてきた。格子の付いた覗き窓ほどの穴から月明かりが差し込んでいた。天井も壁も床も石でできており、広さは10畳か。まるで鎖国時代の日本の牢屋にも見えた。

 また頭を床に叩きつけられた。鼻の骨が折れた。床に血が滴る。

「おはよう」

 低く枯れたような声が耳にまとわりついて来た。

「あぁ、聞こえてる? もう鼓膜は治ってるはずだけど」

「いいからさっさとやるぞ」

 似た声だが、少し力強かった。

「随分腹ペコなんだねぇ……まぁそう簡単に逃げられやしないさ」

 誰かの手が首を掴んだ。

「ねぇ、要くん」

 ランプが近づけられ、要の顔が浮かび上がる。

「死……し、死……!」

 要は飢えた笑顔で千早を見つめた。

「あーやだ、可愛くない」

 千早はそう言うと、要の頭を投げるように手を離し、離れたところに置かれた椅子に座った。

 すると誰かが金属をいじる音が響き始める。カチャリ、という音と共に要は床に倒れた。

「なぁ、ここはどこだ。そうだ、君は誰だ? 僕は何も、何を」

 要が音を頼りに心音のする方にすがる。するとその人物は要の髪を掴むと、月明かりの照らす下に放り投げた。急いで顔を上げると、微かに月明かりの残りカスがその人物の顔を照らした。見覚えのある翡翠色の目だった。

「禊……禊じゃないか! ねぇ、ここはどこ? あれ……ほら、手枷がついてる。ねぇ、外しておくれ」

 要が手枷のついた手を差し出すと、禊はゆっくり手を伸ばした。禊の痩せた指が要の大きな手の上を滑る。くすぐったい皮膚の擦れの感覚が、今は新鮮に感じた。

 が、そんなものすぐにかき消されてしまった。手首をくるりと捻られ、関節からゴリゴリと音が聞こえた。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」

 激痛に苦しんでいる間もなく、禊が要を押し倒し、腕を引っ張り上げて二の腕に噛みついた。

「禊、やめて! やめてよ!」

 だが禊は聞き入れる様子など一切なく、皮を引き千切り、肉に噛みついた。大量の血液が床に零れる。それを勿体ないというように、禊は腕から垂れる血をすすり始めた。

「何してんだよ……何してんだよ!」

 禊を蹴飛ばそうと足を延ばした要だが、足首を掴まれ、腰を押さえつけられ、足を外側に勢いよく持っていかれた。股関節に激痛が走る。服を引き裂き、腹に噛みつく。

「痛い!」

 まだ動く足で禊を蹴り飛ばす。解放された要は息を荒げ、顔から出る汁全部流して禊を睨みつけた。

「痛いんだよ……本当に痛いんだよ! ねぇ見てよ、どうするんだよ。君がやっているのは食人だぞ!」

 だが要の声は一切聞こえていないようで、禊はまた要の脚を掴み、腿に噛みついた。

「謝るから、いくらでも謝るから! だからねぇ、もう!」

 食い荒らされていく要を、千早はただ真っ黒い目で見つめるだけだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

 だがそのうち、要は言葉を発しなくなり、ただただ苦痛に喘ぐだけになった。その様子を見て千早は小さくため息をつき、

「わかった?」

 ただそれだけ聞いた。要はまだわかっていないようで、白目を向けて千早を見つめた。

「じゃもう一回」

 千早が立ち上がり、要に歩み寄る。要は動く限りで首を横に振り、必死に抵抗した。千早は要の頭の側にしゃがみこむと、そっと目を手で覆った。

 要は息をする事も心臓を動かすこともしなくなった。ただハイエナに食い荒らされる死体のように動かなかった。

 それから、しばらく骨までむさぼっていた禊が顔を上げた。顔から足元まで前身を血まみれにし、血の池の中に座っていた。

「満足した?」

 千早が近寄り、禊の顔に着いた血を舐めた。

「わかんない……」

 禊は手を伸ばし、求めるように千早の首に腕を絡めた。

「ん、何が御所望だい?」

 禊は特に何も言わず、千早の肩に顔を置いてじっとするだけだった。千早はただ禊の身体を舐めるだけだった。

 だが急に、禊が口を押えてうずくまり始めた。

「どうしたの?」

 千早が首をかしげて顔を覗き込むと、禊が急に嘔吐し始めた。胃に入れた肉や骨など、赤いものが溢れ出て来る。

「あ~ぁ、もったいない」

 千早はそれを手でつかむと、自らの口に運んだ。

「よく、そんなものが食えるな」

 禊が息を荒げて言うと、

「人間由来のものであれば、体液だろうが何だろうが食べるよ。それが俺の唯一食べられる主食だから」

 千早の黒い目から色など見えないが、その目は微かに悲しみを持っていた。


 また目が覚めた。

 最後に見た床と天井と壁。だがこの時は雨の音がした。酷く寒いのは、服を着ていないからだ。

「おはよう」

 そのかれた声にハッと我に返り、急いで身を起こそうとした。だが立ち上がることはできなかった。手枷は床に打ち付けられた杭と鎖で繋がっていて、四つん這いになるのが限界だった。

「さぁ、今日はお話してからにしようか。昨日は待ちきれなくてさっさと食べてしまったからね」

「なぁ、僕の何が悪かったんだよ。教えてくれよ。分かればきちんと謝るし謝罪するから」

 千早は色のない顔を見せていたが、口角をわずかに上げ、

「君は記憶を司るんだろう?」

「あぁそうだ、見知ったことはすべて覚えている」

「でもおかしいね、自分の罪が分からないだなんて」

「なぁお願いだから」

「聖女に関する文献全部見て来たならわかるはずなのになぁ~!」

 千早は椅子の上で反り返った。

「まあいいか。また今度次の時、君の本音を聞くから」

 千早はそう言って手を振り、床に寝そべって頬杖をついて要を見つめた。

「待ってくれ! 言う、言うから!」

 背中に生暖かいものが這う。

「嫌だ! お願いだから!」

 禊が舌を這わせる。

「ねぇっ……もう、言う事聞くから、だから……」

 そして牙を剥き出すと、肩に思いっきり噛みついた。

 要の絶叫が響く。

「本音は答えてくれそうにないから、今回は一つ最悪な方法を取ろうと思ってね。人類がやって来た拷問の中でも一番質の悪いものだよ、知ってる? 記憶を司るなら知ってるよね?」

「何をし――」

 味わった事も無い感覚が頸椎を走った。

「あ、あぁ、あ、は、あぁぁあ」

 何もしゃべれなくなる。ずっと求めていた快楽がこんな形でやって来るとは思ってもいなかった。こんな快楽を望んだはずではなかった。

「まって、まって。怖い、こわいよ」

 肉体が激痛に苦しみ、快楽に神経が喜んでいた。

「こわい。こわい。お願い、動かさないで。もう、もうこれ以上は――」

 禊が動かし始める。

「何で、何で。僕はそんなんじゃ、ちが……」

「男ってのは女だった頃があってね。その退化した部分が身体に残っているんだ」

「いやだ、僕は、違う」

「否定していいのか? 過去の君はこれを望んでいただろう?」

「あ、ちが、やだ、ア、はなして、いたい、こわい、あッ、ハ」

 千早は飽きた様子で小窓の方に目をやる。

 禊は息を荒げ、ただ獣のように体を揺らして貪り食うだけだった。両手を伸ばし、要の手を握る。耳に唇を押し付け、微かに漏れる声を耳に流し込む。

 快楽、苦痛、快楽、苦痛、快楽、苦痛、快楽苦痛快楽苦痛快楽苦痛――ただその相反する感覚が神経と肉体に襲い掛かり、どんどん自分が堕ちていくのが分かった。

「さぁて、あの小娘はどうしようねぇ……」

 千早は要の事なんか忘れて考え事をしていた。

 それからもうどれだけの時間が経ったかなどわからない。何度繰り返したかもわからない。考えるだけ苦痛だった。何も考えず、ただ心のままに、何にもならずされるがままだった。

「随分堕ちる所まで堕ちたもんだよ」

 千早は喉を鳴らすように笑って要を見下ろした。手を伸ばして要のあごを持ち上げ、顔を近づけた。すると要は犬のように舌を伸ばして来た。

「ほら、本音を言ってごらん。そしたらご褒美をあげるよ」

 要は唇を噛んで答えようとしなかったが、望みに臨み、追いかけに追いかけたソレが目の前にある、欲望に耐え切れず、

「死を! 甘美な死を僕にちょうだい!! この世で最も甘い快楽を!!!!」

 涙も血も涎も垂らして、黒くなった目で見つめる要を見て、千早は残酷に邪悪に微笑んだ。

 死がほほ笑んだ。

「よくやったね、いいこだ。ご褒美をあげないとね。甘い甘い死をあげよう。ただし一度だけ。そしてその味を知って狂え……!」

 千早は要の唇に吸い付いた。舌が口を割って入って来る。長い舌が口の中を舐めまわし、舌に絡みつく。どんな甘い菓子よりも甘く、激痛で、この世で最たる快楽。

 千早は口を耳まで裂き、大口を開け、牙を向けた。そして要の心臓に深く噛みついた。

「どこぞの誰かみたいだ。愚かで愚かでどうしようもない奴」

 舌なめずりをし、魂をひと舐めした。

 甘美な死がどれほど甘美であるかは、誰にも知り得られず、口伝する前に口は朽ちる。

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