第五十六話 アキラと花
ある朝。
玄関の音がして目を覚ましたあぐりは、カーテンを開けて外を見た。下に見える道をジャージ姿の尊が走っていくのが見えた。
「なんだ……日課のランニングか……」
そう思い、もう一度ベッドに入ろうとした時、もう一人走っていくのが見えた。もう一度見ると、尊から少し離れて誰かが追いかけていくのが見えた。よく目を凝らすと、ジャージを着たアキラだった。
「おじさん!?」
珍しい事にあぐりは思わず眠気が飛ぶ。
「おじさん、運動とかしない人なのにね。いっつもソファーに座ってカピバラみたいにボケーっとしてるのに」
朝食を食べながらあぐりが言うと、禊が飲んでいたプロテインを吹きだした。
「やだー、何?」
「ごめっ……あれを、カピバラってのは……少し亀とすっぽんのような……」
「どっちも亀じゃない」
「なんか、似てるけど違うというか……フヒヒッ」
あぐりは冷たい視線を向ける。玄関の音がして尊とアキラが帰って来た。
「もーすこしフォームを気を付けようか。そのままだときついぞ」
「精進します……」
二人の手には竹刀が持たれていた。
「何で竹刀……?」
「あぁ、尊は武術専門だから、毎朝ランニングの後に振り回してるんだ」
「へー」
「あと週一でアーサーの部屋にあるサンドバッグ借りてたりする」
「結構鍛えてるんだねー」
「アイツの本分というか、な」
「え、アーサーさんってそのサンドバッグ使うの?」
「使うよ」
「意外~! あんなおっとりしてて優しい人なのに、サンドバッグ使うんだ~!」
「じゃああの筋肉はどこから来るんだよ」
「そっか。矛盾だから勝手につくのかと思った」
「運動しないと矛盾でも太るよ。嫌好の腹つまんでみ」
そういわれ、あぐりはさっさと朝食を終わらせて嫌好の部屋に向かった。
「入るよー?」
「んー」
ドアの向こうから生返事が聞こえてくる。部屋の中に入り、部屋を見渡す。散らかっているが、ゴミが落ちているわけではなかった。
「整理整頓苦手?」
「嫌い。どこに何があるかわからなくなる」
「整理した方がならないと思うんだけど」
あぐりは嫌好の寝転がるベッドに腰掛ける。嫌好は口を開けて雑誌を見ていた。
「何読んでるの?」
「んー色々」
あぐりに興味はない様子だった。
あぐりは嫌好の腹を見る。めくれたシャツから腹が覗いていた。指で軽くつつく。硬いわけではないが、少し皮下脂肪を感じた。思い切って指でつまんでみると、確かに脂肪らしきものがつまめた。
「デブ……」
「はぁ!? デブじゃねぇし!」
嫌好は飛び起きた。
「そういうところは反応するんだ」
「デブじゃない!」
「これはデブだって」
「じゃあお前はどうなんだよっ」
嫌好の両手があぐりの脇腹を掴んだ。
「やだっ、くすぐったいよ!」
「デブって言ったお返しだ~!」
「アハハハ! くすぐった……きゃー!」
「なんだよお前もつまめるじゃん」
「女の子と男の子では異なるんですー」
「んだよ、俺はデブじゃない」
「デブー」
「こいつ……!」
嫌好が飛びかかってベッドに倒れる。2人でそうやってはしゃいでいると、
「何してるの」
真尋の冷たい声が飛んできて、2人は急いで振り返る。
「あぐりちゃんから離れろこの……っ!」
真尋は手に持っていた自身の宝器を高く掲げると、嫌好に向かって走って来た。
「ウソウソウソウソごめんなさい冗談よして真尋さ――」
大きめの瓶の中に血まみれのタコが詰められ、ダイニングテーブルに置かれていた。そして瓶には張り紙がされ『俺は真尋様の愛娘にやましい事をしました』と書かれていた。それを見たハッシュは苦笑いをし、
「懐かしいですね~、非情に面目ない……」
台所に立っている禊が、
「そうか、それはドイツ人が戦時中よくやってたアレだな」
「そうです……。実際は板を首から下げてたんですけどね……いやぁこれを見ると、毎度罪悪感に苛まれます……何せその時代を生きてたもんですから」
「片付けようか?」
「いえ、大丈夫です。彼がやったこともまぁ、そう言う事ですし」
「今晩はおでんにでもするか」
そう言い、禊は包丁を持って瓶に手をかけた。
あぐりは庭でアーサーから何やら指導を受けるアキラをリビングから見ていた。
「ねぇ忍、おじさんどうしたの?」
傍にいた忍に尋ねた。
「そっか、あぐりちゃん知らないもんね」
そう言って忍は隣に座ると、ニヤニヤと笑いながら、
「あぐりちゃんが大怪我をした次の日ね、自身も結構怪我しててあまり動けないのに、禊さんや尊、アーサーなんかの古参の矛盾を呼んでね、急に土下座したんだよ」
「えっ、何してんの」
「まぁまぁ、ここからなんだよ。急に頭を下げたから謝罪でもするのかと思ったら、そうでは無くて、僕らに教えを乞うたんだ。この先、矛盾がいなくなってあぐりちゃんが大学で独り暮らしするにあたって、守ってやれる人が自分しかいないから、自分にあぐりちゃんを守る術を教えてくれって」
「あのおじさんが?」
「うん。禊さんは『復讐のためなら教えない。だが守るためであるのなら、人を殺さない守る術を教えてやろう』って言ったんだ」
「禊さんかっこいー!」
「それで、今ああやってみんなでアキラさんに色々教えてるんだ。禊さんと尊さん、小町さん、アーサーさんで体作りや護身術、道具を使った武器の交わし方を教えてる。言葉さんと禊さんで料理や裁縫、百足さんからは休憩がてらに和歌や生け花、お茶の入れ方とか。李冴ちゃんからは神社のお参りの仕方だったり、ハッシュさんと宵彦さんからテーブルマナーだったり、社交ダンス習ってたりするよ」
「えっ、そこまで!?」
「でも困ったのが、宵彦さん張り切り過ぎて、化粧とかならまだしも、金庫の開け方とかハッキングの仕方だとか、挙句先週はハワイに連れてって銃を教えてたんだ……」
「ねぇ、最初の禊さんが言ってた『人を殺さない』云々はどこへ行ったの」
「あぐりちゃん、ツッコミがいいね」
「あ、ありがとう」
ふとアキラに目を向ける。アーサーに軽々と放り投げられ、床技に固められ苦しんでいた。
「痛い痛い痛い! アーサーさんそこ関節……!」
「関節しめんと逃げてまうやろ。ほれ、さっさと逃げんと、血管潰されてっから意識飛んじまうで」
「はっ!?」
「あー、懐かしいね。僕も記憶が戻った時に禊さんにやられたよ」
「あれってどんな技?」
「体を押さえつけると同時に、関節攻めをして、さらに動脈を潰して意識を飛ばさせるんだ。結構逃れるにもコツが必要でね、時間かけすぎると筋肉動かなくなってくるし、意識飛ぶから難しい技なんだ。アーサーさん相手ならどうにか逃げられるけど、禊さん相手じゃまだ無理だなー」
「へー、随分訓練されてるんだね」
「アークィヴンシャラは宝庫だからね、資源だけでなく、生物や矛盾の事でも。地球にいた頃も矛盾を狙った奴に散々襲われたけど、それを狙って国に来る奴もいないとも限らないからね。いつかの未来に向けてみんな訓練してるんだ。禊さんや小町さんは戦時中の日本を生きた人で、一時的にだけど軍隊にいた頃もあったんだ。だからそういう訓練は慣れてるし、尊さんは紛争地域で長年生きてきたから、それこそ戦場を知ってるんだ。実際、生前も戦争する側の人だったみたいだし」
「皆強いね」
「うん。でもみんな口をそろえて言うのが、『こういう術を必要としなくなっただけ、この世界は十分平和になった』って。まだ戦争している国とかあって、それを止めるためのUPOでもあったんだけど」
「戦争とか動画でしか見た事無いから、全然わかんないや」
「それでいい……いや、知ってた方がいいんだろうけど。でも、戦争が起きてしまう理由だとか、起こさないための交渉方法とかは知っておいた方がいいよ」
「忍は戦争知ってるの?」
「知ってるも何も、丁度その頃あぐりちゃんくらいだったから。死因もそれだし」
あぐりは何か聞いてはいけないものを聞いてしまったかと思い、急いで小声で謝った。だが忍は気にしないでと言うように手を軽く振った。
夕方、休憩にベランダでタバコを吸うアキラを見つけ、あぐりがベランダにやって来た。
「珍しいね、煙草。一年ぶり?」
「そう……だね。ちょっと今日は吸いたくなった」
「すごい失敗して、禊さんに怒られまくってたもんね」
「思い出させないで……」
アキラは肩を落とす。
「大丈夫、おじさんは私を守れるよ」
「えっ?」
「期待してるぞ」
あぐりは拳をアキラの肩に当てた。
「誰から聞いた……?」
「忍」
「何で言っちゃうんだよ……!」
アキラは腕の中に顔を隠した。あぐりはクスクスと笑いながら、
「ねぇ、どうして私を守りたいって思ったの?」
「そりゃ、君を守れる人がいなくなるから……」
「だから、それが何で?」
アキラは口ごもると、煙草を吸殻に入れて火を消した。まだそんなに短くなかった。そして小さくため息をつくと、自分の手の平を見つめ、
「真尋さんを傷つけたから」
「お母さんを?」
「彼女がその……暴行にあっているとき、僕は怖くて助けに行けなかった。それどころか、それを遠くから眺め、彼女に暴行を加える奴らと同じように……」
アキラの両手が顔を隠す。
「僕はあれらと同じだ。彼女を助けられたであろうに、臆病な余り何もできず、挙句ただ見ているだけで、自分を慰めて……」
あぐりにはよくわからなかった。アキラがただ臆病な余り助けられなかった、そう捉えた。
「彼女の事を忘れようと、彼女に贈るために作ったドライフラワーを潰した。けどまた作って、壊して、作って、壊して……それの繰り返しで、気づけば30になっていた。忘れようとしたけど、ダメだった。どうしても彼女が忘れられなかった。何もかも死んじゃえ、そして最低な自分はもっと死んじゃえ……彼女はあの時そう叫んだんだ。自分に、世界に、僕に……」
アキラは顔を反らし、深いため息をついた。
「ここに来たばかりの夜、夢を見たんだ。よく覚えていないけど、これだけは覚えているんだ。彼女が言ったんだ、『助けられたのに、臆病さに負けて君は私を傷つけた。だから生きて苦しんで罪を償え』って。死のうとしていた僕に、罰として生きるよう言ったんだ。まあ、あくまで夢だから、僕が僕自身に言っただけなんだろうけどね。彼女を助けられなかったことを、今もずっと後悔しているんだ。助けたら、彼女はもう少しましな人生を送れたかもしれなかったのにって」
鼻をすする音が聞こえた。アキラは袖で顔を拭くと、
「なんてことを、20年くらい考えてた。ただ僕は自分に自信が無さ過ぎるだけだよ。それを肯定すると同時に否定するために、彼女にあやかって、君を守りたいだとかふざけたことをほざいているだけ。こうでもしないと、まともに生きていける気がしないからさ。またストーカーに戻っちゃうけど、許してくれるかな」
あぐりは濡れた目を向け、首を横に振りながらアキラの腕をつかむと、
「悪くない。おじさんはちっとも悪くない。許すも何も、おじさんに特に何かしたわけでもない私を守ってくれる、見守ってくれるだけで十分だよ! それを許すも何もない……私はおじさんを受け入れるよ!」
「あぐりちゃん……」
「私は許さないよ」
その声にアキラとあぐりはドアの方を見た。カーテンに真尋の影が映っていた。
「君は私を助けなかった。私の数少ない救いの手だったのに。それを君は私から奪った。あの時救ってくれれば、君はそうやって20年も苦しまずに済んだのかもしれないのに」
「お母さん……!」
「子供は黙ってなさい!」
真尋の鋭い声に、あぐりは目に溜まっていた涙をこぼした。
「君にはわからないよ……私がどれだけ苦しかったなんて。そりゃそうさ、君はそう言った事を経験してないもの。経験しなくていい。しない方がいい。知らない方がいい。知らずにのうのうと平和に幸せに生きてなさい。その間抜け面を拝むのが私の趣味なんだから。私は許さないよ。許すも許さないもあるもんか。だって君は生きて苦しまなければならないようなことをしたんだから。私を苦しめた癖に、先に死んで楽になろうだなんて、おこがましいね。甚だしいよ。安らかに死ぬ君を想像したら虫唾が走る。でも……君には幸せになってもらいたい。生きて苦しんで、死を願って、日々に幸せを感じればいい。これは君の刑罰だよ」
真尋は背を向けると、
「せいぜい、私がいなくなっても苦しむんだね」
静かに家の中に入って行った。
「おじさん……」
あぐりが心配そうに目を向けると、アキラは口元に手を置いて肩を震わせた。あぐりが手を伸ばして頭をなでてやると、
「あぁ、君らしいな……人のことを何とも思っちゃいない」
その横顔は笑っていて、涙の垂れた指にはシルバーのリングが夕焼けに輝いていた。




