第四十九話 禊と嫌好
ある日の朝。
洗面所から水の音がし始める。顔を洗い、歯を磨き、髪をある程度整え、台所に向かう。そして壁にかけてあるエプロンを着て、腰の後ろで紐を結び、袖をまくる。フライパンをコンロに置き、火を点け、バターを少し落とす。冷蔵庫から卵のパックを二つ取り出し、フライパンの縁で割って次々に卵をフライパンに投入する。そして菜箸でかき混ぜながら熱を加え、また卵を入れる。塩の瓶み手を伸ばした時、階段を下りてくる足音がした。
「おはようございます、禊さん」
「おはよ。早いな」
「今日は皆さん、収録で早いと聞いてたので」
「気が利く。ありがとう」
禊も顔を洗って口をゆすぎ、台所に立って野菜を切り始める。
「夕飯の煮物は残ってるか?」
「はい、少し」
「小鉢に盛って出すか」
「野菜類が減って来たので、今日、買いに行ってきます」
「あー、じゃあ子供らを連れてってくれ。お菓子ももう無いだろうから」
「わかりました」
3つ並んだ炊飯器がバラバラに焚き終わった知らせの音を鳴らす。禊は中の米を混ぜながら、
「それ終わったら嫌好起こしに行ってくれ。多分今日は起きない。カギ閉めないから、勝手に入って」
「わかりました」
アキラは残りの卵をフライパンに割って入れ、おおよそ火が通ったところで火を止めて上の階へ上がっていく。廊下でハッシュと遭遇。
「グ、グーテンモルゲン」
「GutenMorgen.今日の献立は?」
「スクランブルエッグとみそ汁です。買い出し前なので、バランス悪いですが……」
「いや、構わないよ。パンは残ってる?」
「あると思います」
「ありがとう」
ハッシュは玄関を出て新聞を取りに向かった。
嫌好の部屋をノックしようとしていると、隣の要の部屋から尊の声が聞こえてきた。開いてるドアを覗いてみる。
「おい要、もう自分で歩けって」
「んー、やだー」
「嫌じゃねぇよ、ったく毎朝毎朝俺に起こさせやがっ……おっとと! ほら立てって!」
「う~、お兄ちゃんが歩いて……」
「何でこういうときだけ弟面すっかな……」
「尊さん、要さん、おはようございます」
アキラが声をかけると、尊はいつも通り笑顔で挨拶を返してくれた。だが要は尊の肩から目を覗かせ、
「見せもんじゃねぇぞ……」
睨みつけて中指を立てた。アキラは急いで顔を引っ込める。
嫌好の部屋をノックしてドアを開ける。確かに鍵がかかってなかった。中は少し散らかっていて、開けっ放しのクローゼットから服が流れ出ていた。
ベッドに近寄り、
「おはようございます、ご飯ですよ」
「んー、まだ寝る」
「今日は朝からお仕事でしょう? ほら起きないと、禊さんに怒られますよ」
「やだ」
アキラが困っていると、禊がやって来て、
「やっぱり、まだ起きないか」
「すいません」
「何で謝るんだよ。そうだ、見てろ」
禊は悪戯な笑みを浮かべてベッドに乗り、嫌好の上に覆いかぶさった。アキラが心配そうに見つめる。
「こういう時はな、こうするといいんだよ」
手をモゾモゾと布団の中に入れる。すると、
「ギャイッ!?!?」
嫌好が布団の中から飛び出た。そしてのけ反り、
「痛い痛い痛い痛い!! 取れるっっ! 乳首取れるって!!」
禊が手を離してやると、嫌好は目に涙をいっぱい溜めて肩で息をし、
「いったぁ……何なの、乳首取る気……?」
「おはよう! 朝だぞ! 仕事行くぞ!」
「えぇ……朝ごはんまだだよ」
「じゃあさっさと起きろよ。ほら飯だぞ」
禊が嫌好の腕を引っ張る。
「いった……絶対乳首黒くなる……折角ピンクなのに」
「お前ピンクだったのかよ」
禊は笑いながら嫌好をダイニングへ引っ張っていく。
「この起こし方、男には効果デカいんだぜ」
「そう、なんですか……」
「やめてよ朝から……せめて夜にして」
「じゃあ朝にやってやる」
席に座り、食事を始める。アキラも一緒に食事をとる。ふと禊の手元を見ると、相変わらず茶碗一杯のみそ汁の汁だけだった。
「あの……足りますか?」
「うん、大丈夫だよ。卵もちょっと食べたから」
「でも……」
「ダメだったらコンビニでオリーブオイル買って飲んでるし」
アキラは青い顔で口元に手を置く。
「お前、またカロリーだけ取るようなことしてんのか。だったら栄養ドリンク飲めって言ってるだろうが」
小町が念を押すように言うと、
「だって高いだろ」
「栄養を取れ阿呆! 油だけじゃ倒れるぞ!」
「じゃあ胃袋分けてくれよ」
「それは無理だ。適合者がいないし矛盾の特性に合わない」
「ほらそれ」
「お前はもう少し努力をな……!」
「小町さん、おちついて。ほら、たくあんありますよ、いります?」
「いる」
小町はたくあんを数切れ取り、ゴリゴリと音を立てて頬張る。
「くそっ、今日も美味いな。言葉が漬けると美味い」
「いえ、私ではありませんよ。アキラさんですよ」
言葉と小町がアキラを見る。
「いえ、言葉さんの言われた通りやっただけで……」
「でも塩加減はお好きにさせましたわよ」
「恐縮です……」
「お前、今度から毎年たくあんを漬けて送ってくれないか? アークィヴンシャラで物を作るのは大変なんだ」
「え、あ、わかりました」
「真に受けないで。大丈夫よ、私一人でもできるもの」
「わかりました……」
食事が終わり、禊たちは玄関に並ぶ。
「それでは、行ってきます」
七富がそう言って頭を下げ、一同は家を出た。
「行ってらっしゃいませ」
アキラは手を振って見送った。
そして小さくため息をつき、
「子供らを起こして、ご飯食べさせて、その間に片づけ掃除……で、買い物。よしっ」
アキラは袖をまくり直して家の奥に入って行った。
禊らは楽屋に入るなり、すぐに衣装に着替えていた。
「これ、今日の台本」
「バラエティー出るの誰だっけー」
「生放送は禊と宵彦だっけ?」
「どうしようボタンが閉まらない!」
それぞれ忙しそうにしていた。
そしてスタジオに入る。
「よろしくお願いします」
「おねがいしまーす」
一同が声を揃えて頭を下げる。
撮影が始まり、楽しいトークが続く。都内で流行のスイーツが出されたり、クイズに答えたりする。
「美友ちゃん、残念ながら外れデース!」
「あーん、残念! 先生、難しすぎますよー」
美友が猫なで声で言うと、
「何でそんな事も知らないんだよ……」
工がぼそりと呟いた。すると美友は笑顔のまま声を潜め、
「うるさいわね、こうすると好感度上がるのよ」
後ろにある工の腿をつねった。
そしてまたいくつかのグループに分かれ、それぞれの撮影に移動する。
「それじゃ、俺らはスポーツの収録だから」
尊と要が手を振って楽屋を出る。
「俺らはラジオの方だから、それじゃ。昼休みに聞いてくれよな!」
工は忍を連れて出て行った。
「それじゃ私たちも、歌番組の方行くから」
美友たちチームLは同じ建物内のスタジオに向かった。
残った禊と嫌好と宵彦は荷物を持って外の撮影に出る。
「すいません、暇なばかりに付いて来てしまって」
「いや、連れてきたのは俺だから」
禊はそう言ってADに宵彦が着いてくることを伝えると、ADは快く承諾した。
禊と嫌好はサウスタウンの松崎と元吉と共に都内の街を歩く。そしてその先々で流行のグルメやスイーツを食べて回った。宵彦もスタッフの中に入って食べていた。
馴染んだ宵彦はスタッフと一緒に料理を運んだり、機材を持ったり、禊にカンペを出したりしていた。その様子に松崎は耐え切れなくなり、
「あの、あのね。何でいるの?」
カメラの外に出てスタッフの方に向かう。カメラも急いで追うと、カメラに宵彦が映り込んだ。松崎は笑いながら、
「呼んでませんでしたよね? 何すんなり馴染んでるの」
宵彦は口に入れていたドーナツをどうにかしようと口をもごもごさせ、
「あの、す、すいまふぇん。とっと……」
「え、何?」
「みそいふぁんい」
「いいからはよ飲み込め!」
松崎に頭を叩かれる。急いで飲み込み、
「次の収録が禊さんと一緒で、暇なもんでしたから付いて来てしまって。い、一応ADさんに許可得ましたよ」
「え!? ちょっと、AD! AD!」
ADがカメラの外から返事をする。
「甘やかしちゃダメ!」
「だって、宵彦さん……」
「ダメったらダメなの!」
それでもADは笑いながら、次に出す予定のスイーツを宵彦の口に入れた。
「こら!」
松崎は笑いながら叱った。
そしてまたいくつか店を回り、
「ハイ、OKでーす」
撮影が終了する。禊は一通りスタッフに頭を下げ、すぐに近くのトイレに駆け込んだ。宵彦が悟って後を追う。
「禊さん無事ですか?」
トイレの個室に向かって声をかけると、咳き込む声が聞こえた。
「だ、大丈夫……すぐ戻るから」
宵彦は心配そうにしばらくその場にいたが、すぐに嫌好の所に戻って行った。
禊は便器の中に顔を突っ込んで咳き込んでいた。すると足元の影が伸び、横に千早がしゃがみ込んだ。
「無理に入れるからだ」
「勿体ないけど、ちょっと今回のは……」
禊は青い顔で笑って見せた。千早は肩眉を上げて顔を見つめると、おもむろに後頭部の髪を掴んできた。何かと思いうつろな目で千早を見ていると、口の中に指が突っ込まれた。驚いて手を引き抜こうと掴むが、千早の手がどんどん喉の奥に入り、喉の奥で指がごそごそとかき回すように動き回った。途端に吐き気が込み上げ、胃の中の物が吐き出された。
「……もう平気か?」
千早が顔を覗き込むと、禊はさらに青い顔で、
「お前、やり方ってもんがさァ……」
「この方が早いだろ。次あるんだろ?」
「はいはい、どうも……」
うがいをして何事も無かったようにトイレを出る。すると嫌好が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「禊、大丈夫? 嫌いなものでもあったの?」
「いや、えっと……うんこしてた」
「そっか! でっかいの出た?」
「出た」
「よかったね。ほら、次に行かなきゃ」
嫌好が手を引いて車に乗せる。
次はバラエティー番組の撮影が始まる。楽しくトークから始まり、
「次のコーナー! 芸能人料理抜き打ちテスト~!」
司会者がそう言うと、拍手が起こり、キッチンのセットされた隣のスタジオに移動する。
「それでは禊さん、宵彦さん、嫌好さん。皆さんにこれから、料理の抜き打ちテストを行っていただきます」
「おっ、余裕だぜ」
「私も全然余裕ですね。何を作りましょうか」
「え、料理とか無理なんだけど」
「今日は難易度は低めです。用意されている食材を自由に使って、一品以上作ってください。制限時間は30分」
まず禊が調理台に立つ。並べられている食材を見て、親子丼を作ることにした。必要な食材を並べ、手際よく切っていく。そして15分ほどで完成される。審査員の出演者の一人に親子丼が渡される。一口口をつけ、審査員は合格のボタンを押した。
「合格です!」
拍手が起こる。審査員はまた何口か手をつけ、
「すごい速さですね。厨房に立ったこととかあるんですか?」
「まぁ、結構昔に洋食店で働いたことがあるくらいで。普段から矛盾全員の食事を作っていますし、昔から大人数の食事を作ることが多かったので」
そして次に嫌好の番が来る。何をすればいいかわからず、とりあえず禊の料理を思い出し、野菜スープを作ることにした。ニンジン、セロリ、鶏肉、玉ねぎを切り、鍋に水を貼ってその中に入れる。火をつけ沸騰し始めたらコンソメの素をいくつか入れ、完成する。
審査員の前にスープが出される。そして数口食べ、合格のボタンが押された。
「普段は料理はされますか?」
「いや、全然」
「ギリギリ合格ですけど、先にお肉を炒めてからの方がお肉のうまみがよく出て――」
長々と審査員の説教が続く。するとカンペが出され、司会者が急いで宵彦の番に回す。
宵彦はカツオを一匹見つけ、カツオを捌いて見せた。華麗な包丁さばきに拍手が起こる。
ふと禊は嫌好が見当たらない事に気付いた。カメラを気にしつつ、スタッフに声をかけた。
「袖の方にいます。そろそろ戻ってもらわないと、次のコーナーが……」
スタッフは困った様子で禊を案内する。スタジオの端の陰に座り込む嫌好が見えた。禊は少し時間をくれと頼み、スタッフを追いやった。
嫌好は壁を覆うカーテンの後ろに隠れて膝を抱えていた。禊はため息をつきながら座り込み、
「な~にすねてんだよ。何が気にくわなかった?」
嫌好は黙ったままだった。
「ほら、もう時間無いんだから、大人しく出て来いって。あと30分くらい座ってるだけなんだから」
嫌好は首を横に振った。
「お願いだからよぉ」
そこへスタッフがやって来て、真面目に時間がヤバイ、と伝えた。禊はすぐに行くと言ってスタッフを追い払う。ため息をつきながら髪をかき回して立ち上がり、辺りを見回す。どこにも人の気配はなかった。
禊は唸り声を漏らし、また嫌好の前にしゃがみこんだ。そしてカーテンの中に入ると、嫌好の顔を掴んだ。何事かと嫌好が顔を上げた途端、禊の顔が目の前に迫った。
「な、何……!?」
驚いて手を出そうとすると、壁に押さえつけられた。そして唇が重なる。
カーテンの下から出た嫌好の足が、何かをこらえるように床を蹴って、ジタバタと暴れ出す。そして大人しくなると、禊は口を離した。二人の唇の間に透明な糸が通る。
「続き、欲しかったら仕事して。ちゃんとやったらご褒美あげるから」
禊はそう言って立ち上がり、カーテンを持ち上げた。嫌好は唖然とした顔で見つめるばかりだった。
「何してんだよ、早くいくぞ」
腕を掴んで引っ張り上げようとするが、立ち上がろうとしなかった。
「おい、ご褒美無しだぞ」
すると嫌好はうつむいて、
「腰、立たない……」
「はぁ?」
禊は大きくため息をついて、嫌好の腰を強く叩き、無理やり立ち上がらせた。そしてスタジオに戻る。
嫌好はこの日ずっと惚けているばかりだった。




