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第四十八話 試験

 試験前日の夜。あぐりがエナメルバッグを持って千歳とやって来た。自宅から試験会場の都内までかなりの距離があるため、都内にある矛盾らの家にお邪魔することになった。

「お母さ~ん!」

 家に入るなりすぐさま真尋の部屋へ駆けこんだ。

「もう試験ですか……早いですね」

 アキラはエプロンで手を拭きながら二階を見上げた。

「だってもう2月ですから。この日のためにたくさん勉強しましたからね」

「お疲れ様です」

「いえいえ、親として当たり前の務めですよ。まぁ、塾代で一体どれだけ諭吉が飛んで行ったかと考えると、胃が痛くなりますが……」

 千歳はお腹をさする。

 夕食を終え、各々時間を過ごしていた時。あぐりが真尋をお風呂に誘おうとして、真尋に近づく。テレビに夢中の真尋を驚かせてやろうと思いつき、そっと足を忍ばせて背後に立つ。そして片口から顔を勢いよく出した。だが反応が無かった。あぐりは肩眉を下げて、もう一度満面の笑みで顔を出すが、やはり反応が無い。今度は反対の肩口から顔を出そうとした。

「わ、あぐりちゃんか。どうしたの?」

「うん、お風呂に誘おうと思って」

「そうだね、そろそろ入らないと」

「お母さん、ちょっと」

 あぐりはまっすぐ真尋の顔を見て、顔の左側に手を置いて、

「私の手、見える?」

「うん? 見えるよ」

「じゃあこれは?」

 反対側に手を置くと、

「んー、そこまで奥だと見えないな」

 真尋は困った顔で微笑んだ。あぐりは驚いた顔でアキラを見つめる。

「あの、真尋さん、もしかして……」

 真尋はアキラが言いたい事に気付き、右目に手を置くと、

「うん、見えないよ」

 特に隠す様子もなく、まっすぐ顔を見て言った。

「な、何で……誰かにやられたんですか? それとも、矛盾だから……」

「どっちも。殴られ過ぎて見えなくなった。けど、矛盾の目は無事だったんだ」

「矛盾の目?」

「矛盾はみんな、右目が人間の目で、左目が矛盾の目になってるんだ。ほら、瞳孔の形が違うでしょ? 右は円形だけど、左はひし形、猫と同じ形。知らなかった?」

 アキラは何も言えずにいた。

「人間の名残、みたいなものですよ」

 千歳はそう言い、

「矛盾がなぜ完全に化け物と言われないか。DNAに確かに人間である証拠があるのですが、それだけじゃなくて、右目だけ完全に人間なんですよ」

 忍を指さした。

「忍が眼鏡をかけているのは、人間の目の視力が弱いから。その両目の視力を合わせるために眼鏡で調整してるんです」

「それじゃ、矛盾は左側が弱点になっちゃうね」

「そういうこと。だから過去の戦闘でも、矛盾の左側が大きく損傷しているのを見た事がある。禊さんに聞いてごらん、よく左腕を怪我してるから」

 禊が反応して顔を上げると、早く風呂に入れと催促するように手を振った。

「お母さん、入ろ」

「そうだね、今日は早く寝ないと」

 二人は手を繋いで風呂場に向かった。

「初めて知りました……」

「目の事は矛盾にとって当たり前だから、だれも気にしなかったみたいでして。人間が足の小指を良くぶつけるのと同じくらいなんでしょうね」

 アキラは足の小指の痛みを思い出し、苦笑いをする。

「お父さんって……」

「俺は君の父になった覚えはない」

「えっと……千歳さんって、僕より一つ上でしたよね」

「あー、そうでしたっけ?」

「あぐりちゃんから聞きました」

「アキラさんの方が上かと思いましたよ。その……大人っぽいですし」

「う……よく言われます」

「でも年がそんなに近いとは思いませんでしたよ」

「僕も少し驚きです。始めて見た時は姉弟かと……」

「えぇ、よく言われます」

 千歳が諦めきった顔をする。

「あの、僕の方が下ですから、敬語じゃなくてもかまいませんよ」

「え、いいんですか? 俺、言葉がよく刺さるので敬語の方がオブラートに包まれてマシかと思ってるんですけど……大丈夫ですか?」

「えぇ、大丈夫ですよ。会社でよく罵倒されてましたから」

「あぁ、社畜だったんだね」

「ホントだ、刺さりますね」

 するとそこへレオの声が飛んでくる。

「なぁおっさん! 来てくれ! 早く!」

「えぇ? はーい、今行きます」

 アキラは急いでレオの部屋に向かった。


 朝になり、あぐりは参考書を見ながら朝ごはんを食べていた。

「1980年代に起きた……政権の……」

「あぐちゃん、ジャム垂れてるよ」

 千歳が手を伸ばして机に垂れたジャムを拭く。

「ご飯の時くらいご飯に集中しなさい。中途半端なながらだと頭に入らないよ」

「うん、わかってる」

 すると隣に真尋がやって来て、あぐりのスープを手に取り、スプーンで口に運んでやった。

「フフ、赤ちゃんみたい」

「真尋さん、ダメですよ」

「いいじゃん、今くらいは。私、子供にあーんさせた事無いもん」

 千歳は何も言わず、黙ってトーストにかじりついた。

 家を出る時、

「あぐりちゃん、お弁当」

 アキラが弁当を差し出した。

「その、言葉さんや禊さんに比べたら下手だけど。嫌いなの入ってたら残していいからね。頑張って……」

 あぐりは嬉しそうに微笑むと、弁当を受け取り、

「うん、がんばる」

 千歳と一緒に家を出た。

 アキラはしばらく玄関を見つめていた。


 会場最寄り駅まで千歳に送ってもらい、そこから大学のバスで独りで向かう。

「お水飲み過ぎないようにね。名前の描き忘れの無いように。番号よく確認してね。何かあったら試験官に言うんだよ。お腹痛くなったらお薬飲むんだよ。背中痒くない? ブラはきつくないのにした? ストッキング履いてる? 寒くない? お昼足りなかったら電話してね、何か買って来るから。それからそれから……」

「もう、おとうさんしつこい。今日はブラトップだから苦しくありません!」

「声が大きいよあぐちゃん……!」

「聞いてきたのそっちじゃん」

 あぐりは頬を膨らませてバスに乗った。千歳はいつまでも小さくなっていくバスを見つめていた。

 会場に着き、張り紙の示す通りに部屋に向かう。指定の部屋に入り、受験番号を確認して席に座る。周りに知らない制服が沢山座っていた。

「あの制服可愛いな、どこの学校だろう……」

 あぐりはキョロキョロと辺りを見回す。

「受かったら、ここで授業受けるんだろうな……」

 目の前の大きな黒板を見つめた。

 そして時間は進み、試験開始時刻が迫る。身の回りの準備と、心の準備をして目の前の問題用紙を睨みつける。

「絶対ぶっ倒してやるからな……」

 あぐりはそう心の中で呟いた。

「試験開始!」


 お昼休みに入り、弁当を取り出す。自分のものではないが、誰かのピンクの弁当箱を使ったようだった。よくみると、側面に「早乙女優」と書かれていた。蓋を外すと、数種類のおかずが目の前に広がる。その一つ一つを箸でつまみ上げる。卵焼きは焦げていて形も崩れていたが、いくつかはとても整っていた。

「おじさん、下手すぎ。たぶんこれは言葉さんだな」

 食べてみて味で確かに分かった。

「おじさんの卵焼き、超甘い。言葉さんのは出汁が効いてて優しい。あ、このコロッケは禊さんだな」

 そう思いコロッケを取り上げると、その下にやけに色の濃いコロッケが出てきた。

「これ絶対おじさんでしょ」

 あぐりは1人笑いながら弁当を食べていく。

 空っぽになった弁当に向かって手を合わせ、

「ごちそうさまでした」

 少し寒い室内に冷えた身体が、弁当のおかげでゆっくり温められていく。まだ口の周りから弁当の温かい匂いが漂っていた。

「次は……小論文か。はー、小論ダルッ。森林伐採がどうのこうのって、みんな同じ事しか言わないじゃん。言うだけ楽だよね。だったら自分で植えろっつーの。ま、そういう私もその一人か。帰ったら苗木探すか」

 あぐりは次の準備を始める。

 小論文の試験が開始され、問題冊子を開く。すると一番最初に「矛盾」と言う文字が出てきた。まさかと思い読み進めていると、物事が一致していないという方の矛盾と言う趣旨の文が現れてきた。

「なんだ、日本語についての論文か」

 そう思い読み進めていくが、内容が一気に変わった。語学についてではなく、急に目の前に生物が並べられていく。細胞の役割、進化、遺伝、180度異なる内容だった。そして最後に著者を確認すると「結城奏」と書かれていた。

 あぐりの口角が上がった。自分だけが知っているという独占欲のような優越感に、この会場の誰よりも自分が優秀に感じられた。むしろ誰も敵ではないようにも感じられた。

 鉛筆が走る。殴るように原稿用紙に文字を書き込む。むしろ頭の方が先を行き、手が追い付かなかった。

 そして何事もなく英語の試験も終わり、全試験が終了される。

 会場の外に出ると、もう十分に真っ暗だった。だが時刻は6時過ぎ。あぐりにとってまだ夜とは言い切れない時間だった。

 バスに乗って駅に戻る。千歳に電話を掛けると、五分で向かうと言った。

 すると約五分後、誰かが肩を叩いた。

「おとうさん、あのね……」

 振り返ると、目の前に目を大きく開けたアキラがいた。

「ぎゃあああ!!」

 あぐりは声を上げて尻もちを着いた。するとアキラの後ろから手を叩いて大笑いする千歳が現れた。

「おとうさん!」

「ごめんごめん」

「何で! もう!」

 あぐりは顔を真っ赤にして千歳を叩く。アキラは口を手で隠して肩を震わせていた。

「おじさん笑わないでよ!」

「ごめん、ごめんね……」

「もう、帰るの!」

 あぐりは怒って駅に向かう。千歳とアキラも笑いながら後を追った。

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