第四十二話 食事
「はい、カットー!」
撮影現場に声が一声響き、静寂が閉じられる。禊は台本を見ながら役者と会話をしていた。
「随分様になったね」
七穂が七富に話しかけた。
「そうですね。最初の頃は少し初心者なぎこちなさがありましたけど、今ではすっかり馴染んで、他の役者と肩を並べるほどですね」
「次、宵彦さんの出番だね」
「確か、ムードのあるシーンですよね。ヒロインと夜の橋の上で会話する」
「楽しみだねー」
「七穂さん、宵彦さんのファンですか?」
「そう言うのじゃないけど、イケメンのそういうシーンって見てて美味しいんだよ」
「美味しい……?」
七富はその不思議な表現に首を傾げた。
「髪の長い禊さんって懐かしいな」
「長かった時があったんですか?」
「私が大学生の頃だったかな、あの頃の禊さんは可愛かったよ。少年のような凛々しさがあってね……もちろん、今の禊さんもカッコよくて素敵だよ」
「何で伸ばしてたんですか?」
「さあ?」
撮影が再開される。台詞を一語一句落とさず、完璧に演じる。宵彦の指先がヒロインの顎を持ち上げ、
「私が誠実なのは、貴女だけですよ。この意味が解りますか?」
七穂は頬を染め、ニヤニヤしながら眺めていた。七富は少し冷ややかな目を向ける。
場所を少し移動し、今度は戦闘シーンを撮影する。監督が宵彦と禊の側にやって来て、
「お二人は仕事で実戦の経験があると聞いています。ですので、生の戦闘を楽しみにしていますよ」
「あ、あぁ、そうですね。楽しみにしてください」
禊は少し困った顔で答えた。
「是非、私のこの汚れ仕事がお役に立てられれば」
宵彦は自信気だった。
小道具のナイフを握り、軽く振り回す。
「ちょっと軽いな……宵彦、そっちの銃はどうだ?」
「モデルガンですので、重さが足りなくて振り回しにくいですね……」
「すいません、もう少し重いものってありませんか?」
小道具係が小道具の山を漁る。
「ここら辺はどうですか?」
「うん……まあ大丈夫だと思います」
宵彦は小道具の中からパチンコ玉を見つけ、それを銃の中に入れて重りにした。
二人でニヤニヤしながら武器を構え、軽く振り回して動きを確認する。
「専攻は俺か?」
「そうです。しばらく私が押され、不意の一撃を食らわせたところで、私が押します」
「ルートは橋を渡って、建物の方に入って、駐車場で一撃、か」
「間違えても、スタッフが指示してくれますから大丈夫ですよ」
「橋の柵の上とか乗って大丈夫かな」
「わかりませんけど……落ちないでくださいね」
「大丈夫」
二人はそれぞれ最初の位置にスタンバイする。
「あー、またですよ……」
ふと、七富の声が禊の耳に入った。
「匿名システム、荒れてますね……。このメッセージは削除しますか?」
「どうだろう……禊さんに確認してもらった方がいいね」
その会話を聞き、禊の体に冷気が流れ込んできた。秋の夜は冷えるから、そのせいだとも考えるが、骨の髄をブライニクルが凍らせていくような感覚を覚えた。今まで見た言葉が頭に蘇る。誰もが矛盾に優しい言葉を投げかけ、想いやってくれるはずなど、そんな甘い事が社会に起こるほど、社会とは生易しい存在ではない。いつでも自分の事しか考えず、少しでも都合が悪ければ抹消しにかかる。過去の怨念に捕らわれ、目の前の一点だけを見ようとはしない。それができたら、今の今まで起きた過ちは何だったというのか。それが社会だ。そう、自分に言い聞かせるように考えるも、矛盾が今までしてきた影響を考えると、やはり地球には害悪な存在でしかない。世界で未だ多発する感染者による犯罪も、大元は矛盾による感染が原因である。だが矛盾が生まれた原因の一部は人類でもある。一体何が原因で、誰の責任なのか。だれが責任を取るべきなのか。どう責任を取ればいいのか。果たして許されなければならない事なのだろうか。
考えれば考えるほど堂々巡りなままであった。それ以上に、キリキリと凍り痛むこの胸の奥は何なのか、禊には疑問でならなかった。さして気にする事でもないのに、どこか後ろめたさのあるものを突かれたような気分だった。いくら自分に気にするなと言い聞かせても、体は正直でそれを嫌がっていた。
「カメラスタンバイ、撮影始めます」
監督の声と共に、急いで頭を切り替える。だがすぐに頭はまたあの堂々巡りの方へ向いてしまう。
撮影が始まってすぐに禊が襲い掛かる計画になっている。だが、じっと宵彦を睨みつけるばかりで、一向に動き出さなかった。宵彦は焦って禊に向かってエスパーを送る。
『禊、どうした。事はもう始まっている』
ハッとした禊は急いで役の顔になる。そしてニヤリと笑うと、ナイフを懐から構え、まっすぐに宵彦に向かって襲い掛かった。
ナイフが切る風の音がよく聞こえた。
「これが本物の音か……」
監督は感心した様子で頷いた。
禊は得意の体を回転させて遠心力で切り付ける戦法で攻めていく。宵彦はそれを寸前で避けていく。
よろけた宵彦は真後ろの地面に手をついて後転した。
「オラ逃げんな!」
禊はナイフを振り下ろして突き刺す。宵彦は起き上がる際に禊の顔面を蹴飛ばした。
「あっ!」
一同誰もが声を漏らしそうになった。
「七穂さん……!」
「大丈夫」
禊は鼻を押さえると、高揚したようにニヤリと口角を上げ、宵彦の服につかみかかった。宵彦も突き放そうと禊の胸を押した。
目的の建物の方に入る。駐車場の方に走って行き、今度は宵彦が攻める番。禊のナイフを持つ手を蹴り上げ、ナイフを吹き飛ばす。禊がナイフに気を取られている隙に銃を撃つ。禊はそれをかわし、今度は拳を構えて宵彦に振りかざした。宵彦も交わしながら撃つが、弾切れの音が銃から聞こえた。
「クソッ!」
銃を投げ捨て、宵彦も手を構えた。禊の拳を滑るように受け流していく。そして距離を少し開け、くるりと華麗に回り、得意の回し蹴りをお見舞いする。
監督はあっと驚いた顔で見つめる。
宵彦の蹴りを脇腹に直撃し、禊は少しよろめく。
「七穂さん、あれって加減とかしてるんですか?」
「してるけど、大怪我にはならない程度だから普通に痛いと思うよ」
七富は青い顔で宵彦を見た。
追い詰められた禊はフェンスに背をもたれる。
「観念しろ、殺人鬼。自分がやっていることをわかっているのか!?」
宵彦はそう怒鳴ると、隠し持っていた小型の銃を構えた。
「知るか……お前なんぞにわかってたまるものか!」
禊が突進してくる。宵彦は急いで引き金を引くが、すぐに禊は身をかがめて弾を避け、宵彦の腹に頭突きした。そしてナイフを取り出し、背中の柔らかい部分に突き刺した。宵彦は後ろによろめく。禊は宵彦の耳元で何かささやくと、そのまま手を離して後ろに下がった。そして宵彦に向かって突進する。拳を振り下ろし、顔を思いっきり殴った。
「カーット!」
声とカチンコの音が響く。
だが禊は膝を宵彦の鳩尾に打ち付けた。宵彦は目を見張り、
「み、禊さ……!?」
急いで止めようと立ち上がり、拳を受け止めるが、演出は違う、本気の頭突きを鼻の付け根に喰らった。
宵彦はチカチカする視界の中で手を伸ばし、
「禊さん、終わりましたよ!」
手探りで禊を掴むと、目を光らせ、唸り声をあげて脇腹から3対目の腕を出し、禊を押さえつけた。そして顔を掴み、目をじっと見つめ返した。
「私の目を見てください」
禊はハッとした様子で宵彦の目を見て、ゆっくり頷いた。
「大丈夫ですか?」
「ごめん、夢中になってた……」
宵彦は禊の上からどいて手を差し出した。だが禊はその手を受け取らず、地面に横たわってぐったりしていた。
「大丈夫ですか」
七穂と七富が駆け寄る。
「えぇ、大丈夫です。ちょっと鼻の骨にヒビが入ったかもしれませんが……」
宵彦はそう言いながら垂れる鼻血を舐め、衣装係の方に向かった。
「ごめんなさい、スーツを破いてしまって……弁償します」
「いいよいいよ、うちにストックしてある安いやつですから。それに、華宮さんの役は毎度違うスーツを着るから、一着くらいダメにしても大丈夫っすよ」
「本当に、すいません……」
宵彦はジャケットを脱いで渡し、脇に開いたシャツの大穴を眺めていた。
「副腕、気をつけないとな……」
「着替え使いますか?」
七富が持って来ていた着替えのシャツを渡す。
「ありがとう」
七穂は禊の側に座って顔を覗き込む。
「禊さん、どうかされましたか? なんかいつも通りじゃありませんよ」
「そう?」
「思い詰めてる感じです。最後の、加減しませんでしたよね」
「あー、悪い、つい本気出しちまった」
禊は笑って見せた。
「……あんまり思い詰めないでくださいね。小町さんから聞きました、矛盾はストレスに敏感だと……あんまりストレスを溜めると、発作の原因になるそうですよ」
「わぁってるよ! 気を付ける」
禊はそう言って起き上がり、スタッフからウェットティッシュを貰って顔に着いた血を拭いた。
尊はパソコンの画面を見ながら大きなため息をついた。
「最近、どんどん過激になっていくよなぁ」
「何がだ?」
小町がコーヒーを飲みながら近づく。
「いやな、矛盾に対して批判的な意見はまぁ、増えたわけではないし、前から一定数あったんだけどよ、最近その内容がどんどん過激になってよぉ……」
「『感染源である矛盾は永久凍土の下か溶岩の中に封じ込めておけ』『地球から出て行け害獣ども』『能があるからって偉そうにしていて目障り』『UPO崩壊の原因』『戦争責任取れ』『感染するから出歩かないでください』……ほう、ずいぶんな生意気を言うようになった」
「戦争責任って、俺らは各国の指示に従って戦争を阻止しに向かってただけだろ。何も知らない癖に何でも矛盾のせいにしやがる」
頭の後ろで手を組む。
「話題になれば多くの目につきやすくなる。賞賛的な言葉も勿論多くなるが、同時に批判的な言葉も多くなる。割合としては今までとそう変わってないのだから、気にするな」
それでも尊は納得いかない様子で唸り声を漏らして腕を組んだ。
「それじゃ、行ってくる」
小町はカップを置いて玄関に向かった。
「どこ行くんだ?」
「会合だ、矛盾研究についての。奏がサンプルとして参加してくれってうるさいんだ」
「先生も大変ですね」
「何が先生だ」
小町はフンッと鼻を鳴らし、玄関を出た。
尊は何か飲もうと立ち上がり、ふと床に座ってチェスをするココロとアキラに目を向けた。
「ここ、空いてるよ」
「え!? あー、また負けた」
アキラは苦笑いをして肩を落とす。
「いつも見落としがある。それと、この駒はこっちだ」
「あ、あぁ、そうだったね……」
「同じ過ちを繰り返すと、それが癖になる。癖になる前に改善せよ」
「肝に免じておきます……」
「もう一戦やろう」
ココロは駒を最初の位置に戻していく。
尊はお湯を沸かしながら、
「ココロは将棋できるか?」
「私にできない頭脳戦はない」
「そうか。今度俺と将棋やらないか?」
「わかった」
「アキラは?」
「ルールを知らないので、ちょっと……」
アキラは胸の前で両手を横に振る。
「教えてやるから」
「わ、わかりました」
そっと手を膝上に戻した。
二回から禊が降りてきた。
「禊、お前も何か飲むか?」
尊が声をかけたが、一切反応が無かった。
「無視かよ」
尊は口をとがらせるが、すぐに鼻歌を歌いながらカップにお湯を注ぐ。
禊はゆらりゆらりと左右に揺れながらリビングを横断する。
「禊さん、どうかされましたか?」
アキラが声をかけると、禊は立ち止まった。不審に思い、そっと近づいてみる。恐る恐る手を伸ばし、肩を叩く。だが禊はうつむいたまま突っ立っているだけだった。
「あ、あの……」
尊の方を見る。尊もなんだかおかしいと思いながらカップに口をつけて禊を眺めた。
「大丈夫ですか? 気分がすぐれないのでしたら、お部屋に……」
アキラがかがんで顔を覗き込んだ。ふと、顎に垂れる透明な液体に気付く。
「あの、尊さん」
アキラがそれを指さして言おうとした時、
「人間ノ匂イガスル……」
禊から低く唸るようにそう声がした。アキラは急いで振り返る。その途端、禊の両手が向かってきた。急いで払いのけて後ろに下がるも、服と髪を掴まれて身動き取れなかった。光る禊の両目が髪の奥から覗いた。口の端が切れていき、耳まで大きく裂けた口が目の前に広がる。獣のような鋭い牙が光り、赤黒く長い舌がだらりと垂れた。
アキラは急いで下から顎を殴ると、掴んだ手が緩んで解放された。そして側のココロをかばうように抱きしめて背を向けた。
カップの割れる音がして、生々しい肉の音がした。
「ヴウゥゥ……」
唸り声が頭上から聞こえる。恐る恐る顔を上げて振り返ると、何かの腕に噛みつく禊が見えた。
「どうした、発情期はまだ先だろ? ったく、仕方ねぇなぁ、部屋行くぞ」
尊はそう言ってもう一方の手で禊の目を覆い、禊の部屋へ引きずり込む。去り際に尊はそっと笑って見せた。だがアキラは床に落ちたものを見て、震える脚をどうにか立たせて禊の部屋に向かった。
ドアノブに手をかけて回そうとしたが、すぐに手を離した。そして塗装された金属のドアに耳をつける。かなり厳重な防音がなされている建物であるが、わずかに奥の音が聞こえた。
動物が何かを食らう音と、声を殺した苦痛の声だった。
アキラは急いで扉から離れる。この奥で起きていることを想像してはいけない、考えてはいけないと自分に言い聞かせて唾を飲む。だがそれ以上に、この奥にいる、生き物とは違う何かから漏れる黒い靄が、見えないが感じられる黒い靄が恐怖を掻き立てる。本能が、恐ろしいと嘆き喚いて体を引っ張る。急いで階段を下りてココロの元に行く。そっと肩に手を置くと、手で覆った顔を上げ、指の隙間から紫色の目を覗かせた。チェスをしていた時の真面目で冷静な目とは異なり、涙にぬれ、恐怖に震えていた。
「これ、なぁに……いやだ。とてもいやだ……」
アキラはココロを抱きしめ、
「それは恐怖です……死を恐れる、生き物の本能です……」
ココロは穴の中に引きこもる小動物のように、アキラの腹の下に入って小さくなる。まだ幼い両手を伸ばし、必死に腕にしがみつく。襲われるわけではないが、あの扉の向こうの得体の知れない恐怖の存在から守らねばと、考えたわけではないが体がそう判断し、必死にココロを抱きしめて包んだ。
どれだけ時間が経ったかわからなかったが、ふと何もなくなっていることに気付いて顔を上げた。リビングは空気清浄機の静かに鳴る音と、時計の秒を刻む音と、腹の下から微かに聞こえるココロの呼吸だけだった。寒さを感じ体が震えた。今日は暖かい方だったはず。ふと自分に触れて、酷く汗をかいていたことに気付く。首の周りや濡れた服は冷たくなっている。腹の下のココロは寝息を立てていた。ソファーにかけてあった誰かの上着をかけてやり、そっと膝から下して立ち上がる。床に垂れた赤いものを見て、その先に続く禊の部屋に目を向けた。もう黒い靄だの恐怖などは一切なく、午後の日差しの差し込む白く温かい空間があるだけだった。階段に垂れる血液を避けて上に上がる。そして禊の部屋の前に来て、恐る恐るノックした。応答はなかった。だが何かあっては心配だと考え、そっとドアノブを回してドアを開けた。
「み、尊さん、大丈夫で――」
目の前に広がった赤一色。赤だけが目に飛び込んできた。そして生臭い鉄の匂いと、その中にわずかに獣の臭いがした。獣の臭いなど嗅いだことも無かったが、これがそうなのだと、今わかった。
アキラは腰を抜かし、廊下に倒れ込む。そして急いで起き上がり、息を荒げて後ろに下がった。首を横に振り、目を開ける。目の前に何か小さいものが落ちているのが見えた。肌色の指ほどのサイズのものが。
「……ゆっ、指……。ゆび!?」
確かにそれには関節もあり、シワもあって、血に塗れた骨が剥き出し、肉がめくれあがって、綺麗に整えられた爪がついていた。
これが動物のものなら、あぁ可哀想に、とでも思うのだろうが、人のものとなると、どうしてこう吐き気が込み上げてくるのか。自分がそうなってしまったらという恐怖に対する嫌悪から来るのだろうか。等と考えを巡らせようとするが、吐き気がそれを押し避けて喉の入り口までやって来た。急いで口を両手で押さえる。胃の奥にしまい込むように必死に何度も飲み込むことを繰り返す。
「……き、……きら……あ……」
か細い声がわずかに聞こえた。急いで四つん這いになって赤い部屋に入る。熱いが血の気の引いたくらくらする頭で目の前の状況を飲み込む。
四肢がもげて、右腕と頭と、胴体が半分ほど残った尊が、真っ赤に染まった顔を向けて何かを発しようと口を開けていた。アキラは赤い池の中にバシャバシャと入って急いで耳を近づける。最初はヒューヒューと風が漏れる音がしていたが、そのうちに声が出せるようになってきた。
「わ……わるいな。かたるけ……てふなって……」
「かっ、片づけ、ですか?」
尊は弱々しく笑って頷いた。
「ごめん。いつも、ふろばでやるから、後処理も、楽なんだけど……」
尊は手の平を顔に垂直に置き、謝る様子を見せた。アキラは急いで立ち上がり、掃除用具を倉庫から取り出し、水をバケツに汲んで走って来た。濡らした雑巾を床に置き、急いで床を拭く。
「ホントごめん。足、取ってくれないか?」
尊が指さす方を見ると、破けたズボンの付いた足が転がっていた。アキラはそれを割れ物を持つようにそっと両手で持って渡すと、尊は物のように持ち上げて足のあった所に置いて体に押し付けた。
「いやー、今回も派手にやっちまったな。大丈夫、もう喋れるよ」
そう言って耳を近づけるアキラの肩を押すと、アキラは急いで距離を取った。
「だ、大丈夫……なんですか」
「大丈夫。俺は四肢が戻るのが早いから。あーっと、どうしような……今更だけど、手袋付けてくれねぇか? ちょっと手足洗って来いよ。あ、ついでに俺を風呂場に連れてってくれ」
アキラは指示された通り尊を抱きかかえて風呂場に向かった。
「ちょっとぬるま湯張ってくれねぇか? あと塩持って来てくれ」
湯船にぬるま湯を入れ、塩を持って来る。尊は潮のケースに手を突っ込み、いくつか握って湯船に溶かした。
「ちゃんと石鹸で洗えよ。それと、倉庫に消毒薬があったはずだ。黄色いボトル、英語のラベルが貼ってある。血を全部拭き終わったら、薄く石鹸の塗った雑巾で拭いて、それからその消毒剤を撒いて拭いてくれ。全部終わったら窓開けて換気も」
「は、はい!」
「ごめんな、俺のゲロ処理させちまって」
「いや、別にそういうものじゃ……」
「あともう一つ。落ちてる肉片は拾ってビニールに入れて持って来てくれ。捨てることも出来ないから、俺が食っとく」
「え、食う?」
「食ってウンコにした方が安全だ。あぁあと忘れてた! 雑巾をすすいだ水は庭に捨ててくれ。なるべく草木の成っていない所。雑巾も終わったら燃やしてくれ。いや、道具は俺の部屋に置いといてくれ。後で処理するから……」
「わかりました」
アキラはしかと頷いて手足を洗い、風呂場を出た。尊はその間笑顔を向けていたが、アキラの背中を見届けると、ぐったりした様子で浴槽の縁に頭を置いた。
「つらかったよなぁ……お前は何に苦しんでいるんだ? お兄ちゃんが聞いてやるから、話してくれよ……馬鹿野郎……」
アキラは風呂用のブーツを履きゴム手袋をつけて、まず落ちている肉片を拾い上げてビニールに入れた。キッチン用のゴミ袋に半分ほどしかなく、失われた部分に対して少なすぎるように感じた。次にモップで床の血を拭いていく。一通り拭き終わり、バケツの水を変えようと立ち上がった時、
「おい、人間」
聞き覚えのない声が呼び止めた。振り返ると、ベッドの下から見覚えのない人物が仰向けになってこちらを見ていた。
「俺を忘れたのか? 人間は記憶力が悪い」
「あの……」
「千早だ。風呂場で会っただろう、童貞?」
アキラは思い出して指をさした。
「指をさすな、失礼な奴。それ、捨てるのか?」
「そうだけど……」
「よこせ」
「いや、ダメだ。外に捨てるよう言われたんだ」
「だったらよこせ」
アキラはためらったが、急かすように招く手を見て仕方なくバケツを渡した。千早はうつぶせになると顔を上げ、バケツに口をつけると斜めに持ち上げた。そしてゴクゴクと音を立てて飲み始めた。
「ちょ……っ!?」
アキラは止めに入ろうと腕をつかむが、一切動かすことができなかった。そして空になったバケツが放り投げられる。
「あ~、うま。水っぽいがデザートには満足だ」
「デザート? なぁ、尊さんは何をされたんだ? 禊さんはどこ行った? 何が起きたんだ?」
千早は頬杖をついて満足気な顔をすると、
「覗いてみ」
親指をベッドの下に向けた。アキラは床に頭を置いて覗く。ベッド下の暗闇の奥に、わずかに動く何かを捉えた。暗くてよく見えないが、翡翠色に光るものと目が合った。急いで顔を上げる。
「そんなに怯えなくとも、もう何もしない。疲れてじっとしてるだけだ。まぁ指を失いたくなければ構わない事だな」
アキラは青い顔でバケツを持って水を汲みに出た。
雑巾に石鹸を薄く塗り、床をもう一度拭く。ふと、禊の部屋の床に何も敷かれていない事に気付いた。要やアーサーなど、男子全員の部屋は見た事があり、どこも絨毯が敷かれていたりした。自分の部屋も敷いてある。その理由がこれだとしたら、禊はしょっちゅうこうなるのか、と考え付き、アキラはベッドの陰に目をやる。
矛盾は人ではない。だが人だった。半分人である。
消毒剤を撒き、雑巾で拭きとる。窓を開けて換気する。外の景色は夕日に染まり始めていた。
使った雑巾やバケツ、モップ、手袋も風呂用ブーツもバケツに入れて尊の部屋の前に置いた。そして風呂場を覗きに行った。
浴槽のぬるま湯は冷えており、薄く赤く染まっていた。側にしゃがみこみ、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
眠っていた尊は口から垂れる涎を拭いながら、
「んむ、大丈夫、大丈夫……」
眠そうな目を擦って顔を上げる。
「掃除終わった?」
「はい。あの、これ、肉片です」
「悪いな」
尊は受け取ると、ビニールの中に手を入れて肉を口に運んだ。
「お、美味しいんですか?」
「まだ豚肉の方が美味いよ」
「ですよね……」
「ごめん、ガムシロップちょうだい。10個くらい」
アキラは台所に向かい、ガムシロップの入ったケースを持って戻って来た。差し出した時、右腕しか使えないと気づき、ガムシロップの蓋を開けてやった。
「ありがとう」
尊はガムシロップを持ち、口から近づけてすすり飲んだ。
「くぁ~! うめぇ。染みるわぁ」
そして浴槽の水を飲み、
「あー、ミネラル補給できるわ」
いつものように笑って見せた。そして真面目な顔でアキラの顔を見つめ、
「誰にも言うなよ。内緒だ」
「で、ですが……」
尊が手を掴んできた。強く握ってくる手は生き物とは思えないほど熱かった。
「お願いだ」
尊の強い眼差しに負け、アキラは目を伏せて頷いた。
「ありがとう」
「ですが、訳を話してください。何が起きたんですか?」
尊は小さくため息をつくと、
「禊を、責めないでやってくれ、アレは本能的なもんだ。それから、恐れないでやってくれ。あれは呪いなんだ。……原因はわからないが、時々発作のように起こる。獣のように自我を忘れ、肉を食いたがる。それも生きた肉を、人間の肉を。でも、俺がいる時で良かった。じゃなかったら、他の奴を食っちまったら、アイツはますます恐れられる」
「禊さんが? みなさん、あんなに慕っているのに、恐れられているんですか?」
「アイツの右目、見た事あるか?」
「一度だけ……」
「あれが怖いんだ。俺も、みんな。右目に現れたアイツの中にいる何かを俺らは恐れている。矛盾にとって唯一の敵でもある存在なんだ」
「倒せない……んですか」
「あぁ。まず奴に死は無いだろうな。だって、死そのものなんだから」
尊は困った様子で笑った。
「死って……会話できるんですね」
「それな! 俺も初めて知った時は驚いたよ。ただの聖霊か何かかと思っていたから」
「幽霊のようなものだと聞かされていたので……」
「お前はそう考えていた方がいい。知ってしまってからじゃ遅いだろうけど、アレの事は考えない方がいい。気に入られたら終わりだ。お前もまだ真尋の側にいたいだろ?」
アキラは静かに頷いた。
「じゃあこの話はお終い。今日は特に何もありませんでした。はいっ」
「な、何もありませんでしたね……」
尊は元気よく笑顔を見せると、またガムシロップを手に取ってアキラに開けるよう渡した。
夜になり、矛盾らが次々と仕事から帰って来る。
「珍し! え、今日はアキラが飯当番だっけ?」
工が驚いた顔で台所にやって来た。アキラは言葉にエプロンを着せてもらい、
「うん、そろそろ料理くらいできる様にならないといけないと思い……」
「明日は雪だろうなー。あ、知ってるか? 矛盾が明日は雨だろうとか雪だろうとか言うと、本当になるときがあるんだぜ。な、忍?」
工が傍にいる忍に声をかけると、
「たまたまだと思うけど。でも確かに、何度か当たったことはあるよ。でも、アレはケイが当てたから、聖霊だし……」
そこに小町がやって来て、
「矛盾は勘が当たることが多い。本能的に雨が近いだの、自然現象を感じ取ることができる。それは生物全般に備わっている能力だ。人間にもあるはずだ。田舎の方の者ならわかると思うが、雨が近いと雨の匂いがするだろう?」
「あっ、ありました。実家が青森だったので、雪の日は、今日雪が降るって感じ取れました。雪の匂いっていうんですかね」
話しているうちに、言葉が準備ができた合図として背中を軽く叩いた。
「それじゃあ、今日の献立を考えましょうか」
「はい」
「冷蔵庫の中には……牛肉がありますね。あぁでも、お魚の賞味期限が近いですわ」
「なら、煮つけとか……」
「そうですね、そうしましょうか。じゃあ今日は和食です! じゃあまず、お魚の下処理から始めましょ」
そう言って言葉は魚のお腹を捌き、手本を見せた。
そうして言葉の指導の下、ようやく夕飯が完成する。
「遅いわ~! はよはよ、お腹と背中がくっついてまう」
アーサーが足踏みをしながらよそられていく煮魚を見つめる。
アキラが茶碗にご飯をよそっていると、
「何だ、美味そうな匂いがするな」
禊が起きてきた。
「禊さん! おはようございます……?」
「うん、おはよ」
まだ眠そうな顔で柔らかく微笑んで答えた。
「今日はどのくらい食べますか?」
「んー、醤油皿に一盛りくらい。今日は煮魚?」
「そうなんですのよ! 禊ちゃん聞いて、今日はアキラさんが作ったの!」
「へぇ、アキラが?」
「でも、味付けとか言葉さんの指示通りで、僕はその通り動いただけですし、実質作ったのは言葉さんで……」
「あら、自分好みの味付けにしてごらんなさいって私は言いましたわよ? ほら、是非味わって。アキラさんの家庭の味なんですってよ」
「いや、でも」
「さっきもう少し甘い方がいいと言って砂糖を加えたのはどなた?」
「……僕です」
「ほら、貴方が作った。自身を持って」
言葉は微笑んで背中を両手で軽く叩いた。
席に座って食事を始める。
「うん、美味しいね。上出来だよアキラ」
「あ、ありがとうございます」
「真尋姉さんも何か言ってあげなよー!」
優が肘で真尋をつついた。真尋は優を冷たい目で見るが、煮魚を少しつまみ、
「甘すぎる」
「すいません……」
「でも、美味しいよ。私は好きだよ、こういう味」
そっと微笑んで見せた。アキラは顔を伏せ、隣に座る工の肩に頭を置いた。
「おっさん照れてんのか~?」
工はニヤニヤしながら頭を撫でた。
尊は煮物のおかわりを言葉に頼む。
「いや美味いな~。言葉のより美味いかもな」
「そうですか」
言葉は少し嫌味っぽく言うと、音を立てて皿を目の前に置いた。
「何だよ、すねんなよ。嫉妬か?」
ニヤニヤしながら訪ねると、
「明日のお昼は蟹チャーハンにしようかしら~」
「や、やめてくれよ……ついさっきも食われたばっかりなのに」
「え、食われた? 何に?」
「えっいや……蚊に! 蟹だけに。なんちゃって~えへ……」
その場が静まり返る。
「兄さん滑ってるザマァ」
要が黒い顔で指さして笑った。
「う、うるせぇ!」
「何やねんもう、寒いな。みそ汁おかわりしよ」
アーサーがそう言いながら席を立った。
また騒然が戻っていく。
食後、尊は裏庭の焼却炉の中の火を見つめていた。
「ごめん」
背後から飛んできた声に、尊はフッと笑う。
「別に、本能なんだからいいよ。俺らの発情期と同じだって。早めに薬ができるといいな」
背中を向けたままそう言い、焼却炉の中に雑巾を放り込んだ。
「今回は半日で回復できたんだな」
「調子のいい周期だったみたいでよ」
「今度、何か驕るよ。何でもいい、欲しいものも買うから……」
「いいって、そういうの」
「でも、お前にばかりつらい事させられねぇだろ。俺の自分の管理ができてないせいで起こってるんだ。俺に責任が……」
「だから、お前のせいじゃないって!」
尊は振り返って睨みつけた。そしてズカズカと目の前まで来ると、胸倉をつかみ、
「何でもかんでも一人で背負うな……! 俺らは家族だ、許し合ってこそだろ! 俺は別に嫌じゃない。苦しくても痛くても、嫌ではない! お前だって十分苦しいだろうが……!」
禊はうつむいて小さく頷く。尊は小さくため息をついて手を離すと、
「お互い様だ。ほら……夜は冷える。撮影で疲れてるだろうし、今日は免疫力落ちてるだろ? もう中入れ」
禊を追い払おうと手を伸ばした時、
「あ、いた。尊さん、禊さん。女の子たちが簡単なデザートを作ってくれましたので、食べませんか?」
アキラが窓から顔を出して言った。
「おう、今行く。ほら、しょげんなって! 甘いもん食って元気出せ」
尊が左手を肩に置いて通り過ぎて行った。その時見えた左手に、わずかに傷跡が残っていた。
「……ごめん」
禊は小さく呟くと、心臓の上で爪を立てた。




